今回も某ぬいぐるみが関係しております
太陽が空高く輝いている昼下がり。
グラウンドの状態もバッチリで、トレーニングにはもってこい……と言いたいところだが。
生憎、今日はオフだ。キタサンブラックもトレーナー室にはいない……はずなんだけど。
「むぅ〜……」
今、俺の目の前には、こっちをジッと睨んでいるキタサンの姿がある。
いや、本当になんでここにいるんだ? ここに来るなんて言ってなかったよな?
机越しに彼女を見ながら、俺は首を傾げるしかない。
それを見たキタサンは風船のように頬を膨らませ、机に手をついてこちらに身を乗り出してきた。
「ズルいです!」
ずっと唸っていたキタサンの口から、ついにそんな言葉が飛び出した。
ピンと逆立つ尻尾と、左右にパタパタと激しく揺れる耳。どうやら本気でご立腹らしい。
「な、何が……?」
心当たりなんて全くない。
いや、忘れているだけで無意識に彼女を傷つけてしまったのだろうか?
………………駄目だ、何も思い浮かばない。俺は一体何をやらかしたんだ……?
額に滲んだ嫌な汗を感じながら、俺は目の前のキタサンを見つめ返すことしかできなかった。
「むぅ~……あの子のことですよ! ズルいです!」
「あ、あの子……?」
そんな俺にしびれを切らしたのか、キタサンは無言で部屋の一角を指差した。
困惑しつつも、その指の先へと目を向けてみる。
そこにあったのはソファーと――
「キタサンのぬいぐるみ?」
その横でちょこんと座っていたのは、1メートルほどはあるキタサン特大ぬいぐるみだった。
少しデフォルメされたその姿は、本物とはまた違う愛嬌に溢れている……と俺は勝手に思っているのだが。
そんな『彼女』をビシッと指をさしているキタサン。まさか、そのぬいぐるみに怒っているのか?
「そうです、ぬいぐるみのあたしです! あの子はズルいです!」
キタサンは両手を握りしめながら力強く頷いた。
なるほど、ぬいぐるみに嫉妬しているのか。そういうことか。……いやどういうことだ?
さらに頭を抱えそうになる俺を前に、キタサンの抗議はまだまだ続く。
「ダイヤちゃんもあの子を持ってるんですけど、ダイヤちゃんに抱きしめられてました!」
サトノダイヤモンドも持っているのか。いや、あの子なら確実に持っているだろうし、存分に可愛がっているはずだ。
彼女のことを大切に思っているキタサンからすれば、自分を差し置いてぬいぐるみが抱きしめられている状況は、確かに『ズルい』のかもしれない。
……と、そう納得しかけたものの、俺の中にある疑問が浮かんだ──
「ダイヤちゃんはあたしを抱きしめながら、『ぬいぐるみって、無性に抱きしめたくなる衝動に駆られる』って言ってました。正直ちょっと思うところはあったけど……ちゃんとあたし自身のことも抱きしめてくれたから、そこまでズルいとは思いませんでした」
──が、俺の抱いた疑問の答えは、キタサン自身が口にしていた。
サトノダイヤモンドからのフォローはすでに入っていて、彼女自身も納得している。
……それなら、一体何に対して『ズルい』と言っているのだろうか?
「だけど気づいたんです。あの子はダイヤちゃんだけじゃなく、色んなヒト達のところに届いてる。……それに、トレーナーさんのところにもあるってことに!」
なるほど……なるほど?
何か変なところに着地しそうだな、この話。
「絶対、トレーナーさんもあの子を抱きしめてるに決まってます! ズルいです!」
うん、思ったよりも変な方向に行ってるなこれ。
ふるふると震えるキタサンを前に、俺は思わず脱力してしまう。
だが、その心配は全くの杞憂だ。
「キタサン、安心してくれ。俺はそんなことしてないよ」
「えっ?」
「確かに、無性に抱きしめたくなる気持ちは否定しない。小さい頃の俺ならそうしていただろうな」
「えっ……えっ?」
「だけど、さすがにこの歳になってそんなことはしないさ! しかも担当ウマ娘のぬいぐるみなんてもっての外だ。心配無用だよ!」
「…………」
自信をもってそう言い放ち、キタサンを見る。
きっと『な~んだ、それなら安心です!』と笑ってくれるに違いない。
……そう思っていたのだが。
「そう……ですか……」
……あれ、おかしいな?
笑ってはいるものの、その顔にはあきらかに落胆の色が滲み出ている。
あんなに元気に揺れていた尻尾はシナシナに垂れ下がり、耳もペタンと力なく伏せられてしまっていて……。
「き、キタサン?」
「ふぇ? と、トレーナーさん、な、何ですか? そ、そうですか! 抱きしめてないですか……そっか……」
尻すぼみになっていく声と共に、キタサンの表情に暗い影が落ちる。
背筋が凍るのを感じながら、俺の頭はフル回転で解決策を探していた。
ど、どうする? 『抱きしめてるよ』と嘘をつくか? 駄目だ、軽蔑の眼差しを向けられるに決まってる。
ならいっそキタサンを抱きしめる? いやいや意味不明だ。そんなことをして彼女が喜ぶわけがない。
付け焼き刃の思考で答えなど出るはずもなく、俺はただただ項垂れるしかなかった。
「……本当に、何もしてないんですか?」
「えっ?」
「トレーナーさんは……あの子に……何もしてないんですか……?」
あまり聞いたことのないか細い声に、思わず顔を上げる。
そこには、さっきよりも弱々しい目つきでこちらを見つめるキタサンがいた。
胸元で強く握りしめられた両手と、力なく揺れる尻尾。その潤んだ瞳は、まるで何かを必死に求めているようで。
とはいえ……だ。
それが分かったところで、俺に言えることなんてあるだろうか。俺はあのぬいぐるみを抱きしめてなんていないし、何か特別なことをしているわけでも……いや、待てよ?
一つだけある。抱きしめてこそいないが、キタサン本人にも時折やっていることが。
だけど、それを自ら白状するのは……少し……。
「やっぱり……何も……」
なんて躊躇している場合じゃない! 目の前のキタサンから、目に見えてどんよりとした負のオーラが溢れ出している!
ちょっと恥ずかしいが……覚悟を決めろ……!
「い、いや! キタサン! あのぬいぐるみにしてることがあったぞ!」
「……」
ぐっ……キタサンの赤い瞳は、不安げに揺れたままだ……。きっと、その場しのぎの嘘をついていると思われているのだろうな……。
だが、それでも!
俺は小さく拳を握りしめ、そして。
「君にやるみたいに、あのぬいぐるみの頭を撫でることがあるんだ!」
「……!」
俺はたまらずキタサンから目を背けた。握りしめた拳には嫌な汗が滲んでいる。分かってくれ、それくらい恥ずかしいのだ……。
大の大人がぬいぐるみの頭を撫でるなんて……しかもそれが教え子を模したものなら尚更だ。抱きしめていないだけで、大概アレな行動としか言えないぞ……。
頼む……何か起きてくれ……!
「……っぱり」
来た、何かしらの反応! だけど……あれ?
聞こえてきた声色は、俺が想像していたものとは全く違っていて。
怒り……とも違うそれは、何というか……。
「やっぱりズルいです!」
――瞬間、キタサンの姿が視界から消え、声が届く頃には、目と鼻の先にまで彼女の顔が迫っていた。
「……? !?」
あまりの速さに、俺はただ口をパクパクと動かすしかなかった。
だが、そんな俺などお構いなしだ。さっきまで萎んでいたのが嘘のように、キタサンは頬を膨らませてこちらを見上げている。その姿は。
「あの子はあたしじゃないのに、あたしみたいに撫でるのはズルいです! あたしも撫でてください!」
言葉では怒っているはずなのに、その表情は太陽みたいに輝く満面の笑みだった。
な、なんだそのギャップは。言っていることと表情が全然噛み合っていないじゃないか。
色々と言いたいことはあったが……ここで野暮なツッコミを入れて、せっかくの笑顔を曇らせるわけにはいかない。
「……分かったよ」
「……!」
野暮な思考を飲み込み、そっと手を伸ばす。
それに合わせるかのように、キタサンは嬉しそうに頭を下げてきた。
左右に揺れる耳が手のひらに当たるくすぐったさを感じながら。
そして、そのまま。
「…………これでいいかな?」
ふわり、かつサラサラとした髪の心地よさを味わいながら、ゆっくりと頭を撫でていく。
先程よりも耳の動きが激しくなり、俺の手をペチペチと叩く音が鳴っているけれど、あえて気にしないでおいた。
「……えへへ〜……♪」
頬の風船は完全に萎み、そこにはすっかり蕩けたような笑顔があった。
よし、とりあえずこれで正解だったらしい。彼女が満足するまで、このまま続けてみるか。
ご機嫌に揺れる尻尾に目を細めながら、少しだけ赤くなった手で、俺はゆっくりと撫で続けた。
………………
…………
……
「はふぅ……」
しばらく撫で続けていると、キタサンはすっかりとろけたような顔になっていた。
なんというか……リラックスしきった大型犬のようで、気を抜けばペットに対するような可愛がり方をしてしまいそうだ。
いかんいかん、彼女は担当ウマ娘だ。これ以上甘やかす前に、今日はこの辺でやめておかないと。
「……よし」
指先に残る心地よい感触に後ろ髪を引かれつつも、俺は未練を断ち切るようにそっと手を離した。
「あ……」
手が離れた瞬間、キタサンはまるで捨てられた子犬のような顔でこちらを見つめてきた。
ぐっ……その目はやめてくれ……俺の良心が激しく痛む……!
だが。
「すまないキタサン。……またいつでも撫でてやるから、今日はこれで勘弁してくれ」
心を鬼にして紡いだ、少しズルい妥協案。
だが、キタサンならきっと、こう言えば。
「……はい、分かり……ました……」
その言葉と共に、キタサンは少しだけうつむいてしまった。
表情は窺えないが、色々な言葉を必死に飲み込んでいることだけは伝わってくる。
やがて、しばらくの痛いような沈黙のあと。彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……またしてくださいね?」
そう呟いたキタサンの瞳は、少しだけ潤んでいるように見えた。
返す言葉なんて、一つしかない。悩む必要すら、なかった。
「ああ、勿論だよ」
「……絶対ですよ?」
ソファーの方を何度かチラチラと見やりながら、すがるように上目遣いを向けてくる。
それならば俺はもう一度、何度でも答え続けるだけだ。
「ああ、絶対だ」
「……」
キタサンの瞳を真っ直ぐに見据えて答える。
彼女はもう一度だけソファーへ視線をやったが――すぐに、俺の方へと瞳を戻した。
「……分かりました。信じます!」
キタサンの表情は安心に満ちていた。……だけど、何故だか少し勝ち誇っているようにも見える。
いや、きっと気のせいだろう。
この部屋には俺と彼女しかいないのだから、勝ち誇る相手なんてどこにもいないはずだ。
「トレーナーさん、ありがとうございます! あたし、すっごく大満足です!」
「……あ、ああ。それなら良かったよ」
「えへへ……♪」
変なことを考えていたせいで、気の利いた返答が少し遅れてしまった。
だが、いつの間にか立ち上がっていた彼女の表情は晴れやかだ。
ぽっと頬を染めて嬉しそうに笑うと、キタサンはそのままくるりと背を向けて──
「あっ、そうだ」
──と思っていたのだが。
不意に声を上げ、彼女はくるりとこちらへ向き直った。
そしてそのまま、なぜか再び、ゆっくりと俺の方へ近づいてくる。
「キタサン?」
呼びかけには応えず、彼女はじりじりと距離を詰めてくる。
一歩、また一歩。妙な圧を放つその姿に、思わず身構えてしまった。
――あれ? よく見ると彼女の顔、なんであんなに赤くなって……?
「トレーナーさん。……お願いですから、立ってあたしの方を向いてくれませんか?」
なぜそんなことを要求するのか、疑問に思う気持ちはあった。
だが、有無を言わさぬような彼女の真剣な瞳と熱量に押され、俺は大人しく立ち上がった。
「……分かったよ」
りんごのように真っ赤になっている頬と、先ほどの妙な圧が気になりつつも、俺はゆっくりと立ち上がった。
真正面から向き合ってみても、今の彼女が何を考えているのかは全く読めない。
キタサンはそわそわと視線を彷徨わせながら、胸元で手をぎゅっと握り込んでは、また開く。そんな落ち着かない仕草を繰り返していた。
「すぅ……はぁ……よし!」
ギュッと強く目を瞑って深呼吸をした後、自分を鼓舞するように小さく呟き――。
「えい!」
ドンッ、と。
考える隙など与えられないまま、俺の胸に勢いよくキタサンが飛び込んできた。
腰にギュッと腕が巻き付けられ、胸元には柔らかな感触と、彼女の温かい体温が押し当てられる。
驚いて視線を落とすと、そこには俺の胸にすっぽりと顔を埋めているキタサンの姿があって――。
「……っ!」
──いたはずなのだが。
パッと温もりが離れたかと思うと、彼女はあっという間に扉の前まで駆け退いていた。
「で、ではあたしはこれで帰ります! ま、また明日会いましょうね! それでは!!」
「き、キタサン、待っ──」
そんな俺の静止の声が、届くはずもなく。
バタン! と勢いよく扉が閉まる音だけを残して、彼女はあっという間に走り去ってしまった。
「──てくれって、言いたかったのにな……」
呟いた言葉は、静まり返った室内に虚しく溶けていく。
ゆっくりと椅子に腰を下ろし、ふとソファーの方へと目を向けた。
そこには、何事もなかったかのようにちょこんと座っているキタサンのぬいぐるみ。
いつもの満面の笑みが、今日ばかりはなんだか、俺たちに呆れているように見えた。