「うぎゃあ!?」
練習終わりの夕暮れ時。人気の消えた廊下に、聞き覚えのある悲鳴が響き渡った。
あの子の声だ。でも、どうして今ここに?
思考よりも先に、声のした方へと足が動く。響き方からしてそう距離はないはずだ。俺は床を蹴る力を強くした。
聞こえたのは……ここだよな?
早鐘を打つ胸を抑えつつ、扉に手を掛ける。あれきり、先程のような声は聞こえない。
額を伝った一雫の汗が、ポタリと床に落ちた。
立てた物音を気にする余裕もなく、俺は力を込めて扉を開け放つ。
「大丈夫か、キタサン!」
勢いよく開けた扉の先。キタサンは人差し指を口に咥えたまま、丸くした瞳をこちらに向けていた。ピンと跳ね上がった尻尾が、彼女の驚きを物語っている。
ぱちくりと何度か瞬きをしてから、彼女が口から指を離す。その先端には、滲んだ赤が少しだけ広がっていた。
「と、トレーナーさん? ど、どうしましたか?」
「どうしたも何も……君の悲鳴が聞こえたから飛んできたんだよ」
周りを見渡しても、何かが倒れたりした様子はない。キタサンの机周りが少しごちゃついているくらいだ。
良かった……どうやら大きな怪我ではないらしい。強張っていた肩からスッと力が抜け、密かに安堵の息をついた。
「あ、あはは……そんなに大きな声が出てたんですね……。心配かけちゃってごめんなさいです……」
「いいよ。いや、何も無い……ってわけでもないか。人差し指から血が滲んでるし。えっと、絆創膏は……」
「それなら机にあります! こんなこともあろうかと沢山用意したので!」
視線を向ければ、彼女の言う通り、机の上には新品の絆創膏が小さな山を作っていた。
試しに一つ手に取ってみると、デフォルメされたウサギが描かれた可愛らしいデザインだった。
「えへへ……スイープさんに貰ったんです! ちょっと余ってたからあたしにって。スイープさんって優しいですよね〜」
指から血を滲ませたまま、彼女は緩んだ笑顔を見せていた。
スイープとは、キタサンがいつも嬉しそうに後ろを付いて歩いている友人のことだ。不器用なところがあるキタサンのために、怪我をすることを見越して絆創膏を持たせてくれたのだろう。
本当に、良い友人を持ったものだ。今度、俺からもお礼をしておかなくてはな。
そんなことを考えつつ、絆創膏の包装を剥がしてキタサンの指に巻いていく。白ウサギから赤ウサギに変わっていく様子は、少し可哀想に思えた。
「これでよし……と」
「ありがとうございます、トレーナーさん! よ~し、気合も入ったところで再開しなきゃ!」
「そういえば、何を作ってるんだ?」
絆創膏を貼り終えて手持ち無沙汰になった俺は、ふと彼女の手元を覗き込んだ。少し厚めの布に針を通していることから、何かの縫い物らしい。
声を聞いたキタサンは、手元の作業を進めながら、ピクッと耳だけをこちらへ向けた。
「今あたしが作っているのは、お守りです!」
「お守り?」
「はい! キタちゃん特製お守りです! ふふん、こう見えてもお守りは何回も作ったことがあるんですよ♪」
「へぇ~……。でも、怪我はするんだな」
「そ、そう簡単には上手くなりません! こういうのは積み重ねなんですからね!」
「ははは……! それもそうだよな、いじってゴメンな」
「意地悪……」
自分で言っておきながら、ぷくっと頬を膨らませてむくれる様子が、あまりにも彼女らしくて思わず笑みが溢れた。
しかし、お守りか……。作る理由にはなんとなく見当がついた。それは恐らく――。
「……お守りを作ってるのって、やっぱりあの子達のためか?」
「……はい。あたしはもうレースを引退しましたし、来年には卒業ですから。だからせめて、今のあたしに出来ることをと思いまして」
キタサンは針を進めながら、少し寂しげな顔をした。
『あの子達』というのは、俺が現在担当しているウマ娘たちのことだ。実を言うと、彼女たちは引退したキタサンが次世代の原石として見出してくれた子たちだった。
今はサトノダイヤモンドと共に人材発掘に奔走する彼女のスカウト基準は、いつだって「一目惚れ」らしい。
「顔を見れば分かりますから」と笑う彼女の言葉を聞いた時、俺は何だかひどく照れくさかった。
何故なら、かつて俺がキタサンをスカウトした理由も、結局のところ『一目惚れ』に違いなかったからだ。
彼女は卒業後、人材発掘に本腰を入れるらしく、そのために様々な勉強に励んでいる。時折こっちへ顔を出した際には「大変です」と愚痴をこぼすものの、その表情は疲れ以上に、充実感に満ちていた。
「ほら! あたし、とにかく体が頑丈ですから! そんなあたしが願いを込めたお守りなら、皆もきっと怪我とは無縁になりますよね!」
そう言ってキタサンは、照れ隠しのように笑った。
そのまま、心なしか針を進めるペースが速くなる。また指を刺すんじゃないかとヒヤヒヤしたが、今のところ手元に狂いはない。
ホッと小さく息を吐き、その手つきを見守っていると、どうやらお守り作りは最後の仕上げに入ったらしい。
「うん、キタサンが作ったなら絶対に届くよ。だって、あの子達のためにあんなに想いを込めてるんだから」
「トレーナーさんがそう言ってくれたなら大丈夫ですね! これで……よし!」
よほど言葉が嬉しかったのか、キタサンは声のトーンを一段階上げ、耳と尻尾をパタパタと大きく揺らした。
そして掛け声とともに針を置き、ゆっくりと両腕を伸ばす。どうやら一つ目が完成したようだ。
出来上がったお守りは、布がズレていたり紐が少し長かったりして、決して綺麗とは言い難い。だけど、これには彼女の『祈り』が詰まっている。それだけで何よりも心強いのだ。
「完成したんだなキタサン。お疲れ様」
「いえいえ、まだ一つ目です。これからもっと作らなきゃですよ!」
「そ、そうか……お疲れ様にはまだ早かったな」
まだまだ完成には程遠いみたいだ。
見ているこちらが肩を落としそうになるが、キタサンは疲れを微塵も見せていない。それどころか、さっきよりも気合が入っているようにすら見える。
本当に、元担当ながら天晴なやつだ。
感心しつつお守りに視線を落とすと、その真ん中には文字が刺繍されていた。少し歪んだひらがなで『あんぜん』と縫われたそれは、いかにも手作りらしくてなんとも微笑ましい。
「あんぜん……か。キタサンらしいな」
「勝ち負けも勿論大切ですけど、やっぱり無事に走り切るのが一番ですからね! ……とはいえ、文字を縫うのって大変ですね。ある意味、ここが一番躓いたかも。あはは、ちょっと歪んじゃった……」
「手作りって感じでいいんじゃないか? あの子達なら泣いて喜ぶよ、きっとね」
「……ですかね? そうだといいな……」
お守りを手にとってゆっくりと撫でるキタサン。その横顔は、まるで我が子を慈しむ親の様に見えた。
ただひたむきに走り続けた無邪気な少女は、そこにはもういない。
変わっていく彼女を少しだけ寂しく思いつつも、それ以上に俺は――。
「……なんかキタサンを見てたら、俺もお守りを作りたくなってきたな」
「トレーナーさんも? う~ん……でもなぁ……」
俺の提案に、キタサンはあまり乗り気ではないようだ。
恩人とトレーナーからのお守りって結構良いと思うのだが、良くなかっただろうか?
「あれ? 何か不味かったか?」
「だってお守りが二つですよ? お守り同士が喧嘩しちゃうんじゃ……」
俺の疑問に、キタサンは思いもよらない答えを返してきた。
お守り同士が喧嘩。
なるほど、確かに考えたこともなかった。キタサンの言う通りだな。喧嘩するかもしれないぞ。
予想外の理由に内心でクスッと笑いつつ、俺は思い浮かんだ言葉を返す。
「ふふっ、喧嘩か。でも、お守りを何個も持つ人だっているし、大丈夫だろ。きっと」
「そんなこと! ……あるかも。確かに何個か持ってる人もいるような……? う~ん……」
「それに作るのは俺達なんだから、中で喧嘩なんてしないんじゃないか?」
「……あ、それもそうですよね!」
「だろ? だから大丈夫だ! これで俺も作っていいよな?」
そう言ってキタサンは、俺に真新しい布と裁縫道具を渡してくれた。俺はゆっくりとそれを受け取る。
「ありがとう、キタサン」
「いえいえ! 絆創膏と同じで、こっちもいっぱい用意してありますから!」
先ほどまでの輝くような笑顔が不意に消え、キタサンの顔つきがスッと真剣なものに変わる。
言葉なく告げられたその空気に、俺も黙って彼女の瞳を見つめ返した。
「トレーナーさん。あたしが一目惚れした子達のこと、頼みましたからね」
「ああ。俺が一目惚れした君みたいに、輝く子にしてみせるよ」
「……えへへ。期待、してますからね?」
そう言って、彼女はまた笑ってくれた。
それはすべてを包み込むような、柔らかく穏やかな微笑みだった。
「ああ。俺はキタサンブラックの担当トレーナーだったんだ、その期待には必ず応えるよ」
俺も彼女につられるように、ゆっくりと笑ってみせた。
そこに、一切の迷いはなかった。
「なら……大丈夫ですね」
「ああ、大丈夫だよ」
お互いに笑い合いながら布に針を刺す。
ゆったりとした温かい時間。だけど、決して止まってはくれない。
いつか訪れる別れ。違う道を歩む未来。
それでも、きっとどこかでまた交わるはずだ。そしてその時には――
「「うぎゃあ!?」」
きっとこの針の痛みだって、今よりも笑える話に出来る筈だから。