「キタサン、ちょっと頼みがあるんだ。後でトレーナー室に来てくれないか」
トレーナーさんにあんなふうに言われたのは、ほんの数分前のことだ。
もうひと言二言話してくれるのかと思ったけれど。彼はその一言だけ言い残すと、あっという間に人波の中へと遠ざかっていった。
(むむ、これはただ事ではないのでは?)
その後ろ姿を見送りながら、あごに手を当てる。
いや、ここで考え込んでもいけない。そろそろ授業も始まっちゃうもんね!
ぴこりと耳を立ててからくるりと回り、教室に向かって歩き出す。歩き出してからも、彼の背中がずっと頭から離れなかった。
「トレーナーさん、いますか?」
あれからそれなりに時間が過ぎ、今はお昼休み。授業が終わってすぐに、トレーナー室までやって来た。
いろんなヒト達の話を上の空で聞き流して怒られたけれど、そんな犠牲を払ってでもここへ来たんだ。何がなんでもやり通してみせる――。
決意の分だけ、扉を叩く手には自然と力が入ってしまった。
「キタサン、入っても大丈夫だよ」
声はすぐに返ってきた。
言葉こそ穏やかだけど、いつもより低いトーン。無意識に、つばを飲み込んでしまう。
――しかし、すぐに頭を振った。
じっと見つめていた扉を、勢いよく開け放つ。
「お助けキタちゃん、ただいま参上です! トレーナーさん、ご要件は!」
不自然に口角が持ち上がって、声も震えてしまった。
こんな調子だと、トレーナーさんの期待には沿えないかも……。萎れた花のように、耳をペタンと伏せてしまう。
「……」
そんなあたしの様子を気にすることもなく、トレーナーさんはゆっくりと立ち上がる。そして、真っ直ぐにこちらを見据えたまま、徐々に近づいてきた。
あたしは尻尾をピンと立てたまま、近づいてくる彼を、ただ見つめ続けることしかできなかった。
「……キタサン」
先程と同じような低い声に、尻尾の先まで痺れてしまう。
トレーナーさんはあたしを見据えたまま、しゃがみ出し……しゃがみ?
張り詰めていた尻尾が、ふにゃりと緩む。
目をパチパチさせながら首を傾げる。そうしている間に、彼は綺麗な正座になっていた。
「いや、キタサンブラックさん!」
「!?」
ピシッと背筋を伸ばしながら、トレーナーさんはあたしをさん付けで呼んだ。そして――
「俺に、貴方のマッサージ術を教えてください!」
綺麗な土下座を披露しながら、トレーナーさんはそう言った。
あたしは目を丸くして、その様子をただただ見つめ続けることしかできなかった。
しばらく土下座したままだったトレーナーさんをなんとか起こし、詳しい話を聞こうとしたのだが……。
「そ、そこまで凄いんですか?」
「ああ。だから教えてほしいんだ――君のマッサージ術を」
先程までとは違うキリリッとした目で、トレーナーさんはあたしを見つめている。
まるで敬うかのようなその視線に、ちょっと胸がドキリとして……じゃなくて。母さん直伝のマッサージ術って本当に凄いんだ、えへへ……でもなく。
ああ、もう。頭の中がくるくる回って集中できそうにないよぉ。
「そ、そんなふうに言われるのはありがたいのですが――」
「君を長く走らせるために、これからのウマ娘を指導していくためにも! 君の技術が欲しいんだ!」
パタパタと、嬉しそうに尻尾が揺れる。
「嬉しっ……じゃない! トレーナーさん、そんな急に言われても――」
「この件に関しては師匠と呼ばせてほしい――いや、呼ばせてください!」
ぴくりと、耳が立つ。
「……あたしの教えは厳しいです。それでもいいですか?」
「っ! はい!」
勢いのある返事に、あたしは誇らしげに指で鼻先をこすった。
そこまで言われて無下にするのは、お助け大将の名が泣くというもの。
「……分かりました。では教えてあげましょう、母さん直伝のキタちゃんマッサージを!」
「よろしくお願いします!」
綺麗な角度でお辞儀をする彼を見ながら、フォッフォッフォッと笑う。
これから始まるは、鍛錬の日々。耐えられるかどうかは、目の前にいるただひとりの弟子次第だ。きっと大変なんだろうな……。
温かなまなざしを向けながら、あたしは自分の手を差し出した。
「うむ、ではトレーナーさん。まずはあたしの手のひらを触ってくれまいか?」
「手のひら、ですか?」
「『手当て』という言葉を知っておりますかな?」
「ええ、まあ。治療とかそういう意味ですよね?」
「左様。全てのことは手に通じる、そう言っても過言ではないくらいに手は大切なものですじゃ」
「確かにいろんな神経がありますからね」
「……左様」
スッと目をそらしながら、あたしは小さく頷いた。
「手を極めるものにこそマッサージの真髄がある。だからこそ、あたしの手を触ってほしいんですっ――のじゃ!」
「分かりました!」
まるで絹でも扱うように、あたしの手に優しく触れる。
そのまま、手のひらの中心から外へと押し広げるように指を滑らせていく。
――なるほど、確かに筋は良い。
「うむ、及第点以上ですじゃ」
「あ、ありがとうご――」
「だからこそ! あたしの技術を叩き込めば、もっと凄い手になる。この意味、もちろん分かりますじゃよね?」
「……!」
ギョロリと彼の目を覗き込む。
ビクリと体を震わせたが、すぐに力強くこちらの目を見つめ返してくれた。
「――よろしい。あたしについてきてくだされ!」
「はい!」
優しく触れていた手が、力強く握りしめられた。
あたしも同じくらいの力で握り返す。
この契りは固く結ばれ――解けることはないと、そう信じて。
そしてあの誓いの後、いろんなことがあった。
「また腕を上げましたな、トレーナーさん」
「はい!」
「フォッフォッフォッ……。これは免許皆伝も目の前ですな」
「ありがとうございます!」
本当に。
「な、なんで……なんでトレーナーさんっ……! ハンドマッサージャーなんか使ってるんですかぁ……!」
「すまない師匠……今は忙しいから手ごろなもの使いたくてつい……」
「うわぁん! 裏切り者ぉ!」
「し、師匠……キタサン!」
本当にいろんなことがあった。
「本当にすまなかった。もう寝返ったりなんてしないから」
「トレーナーさん! じゃあ、もう二度とあたし以外のマッサージを受けないんですね!」
「えっ、重い……」
「ちょっと、トレーナーさんっ!」
春を越え、夏を過ぎ、秋を見送り、冬を耐え。
あたし達の絆はより固く結ばれていった。
「トレーナーさん、お願いしますじゃ」
「はい」
もうお馴染みになった日々。
窓から差す夕日を目印にして、ソファに寝転がるあたしと、その背中を見下ろすトレーナーさん。
「……」
あたしの背中に添えられた、温かな手。押さえすぎず、かといって弱くもない。時を重ねて手に入れた彼の技術。
筋肉に沿うように動くその様は、まさしくあたし譲りのものだ。
「……っ」
脚に手が触れた瞬間、尻尾がピクリと揺れる。
それと同時に、優しく、しかし深部に届くように彼の指が滑っていく。
張り詰めていた筋肉が徐々に緩んでいく心地よさ。あたしが教えた通りの技術が、そこには確かに活きていた。
やがて彼の手が全身を巡り終えると、静かにその温もりが離れていく。
「……どうかな?」
彼の言葉が部屋の空気に静かに溶け、薄くなっていた茜色とともに消えていった。
あたしはゆっくりと立ち上がって、彼の方に体を向ける。
静寂が広がっていく。気づけば、あれだけ輝いていた窓の外はすっかり闇に覆い尽くされていた。
「……もう、あたしが教えられることはないです」
「!」
そのまま、あたしはトレーナーさんへと微笑みかける。
彼は一瞬だけ目を見開き、すぐに何かを噛みしめるように俯いた。
胸の高鳴りを抑えられないまま、あたしは彼のもとへと一歩、足を踏み出す。
「よく、頑張りましたね」
ちょっぴり背伸びをしながら彼の肩に手を置いた。
「……ありがとう、ございました」
そのあたしの手に、彼がそっと自分の手を重ねる。
温かく、包み込むようなその手のひらに、あたしの耳はパタリと動いた。
「これからはこの技術を、しっかりと活かしていきます」
背伸びをやめて、元の姿勢に戻る。
一瞬だけ同じ高さに感じたけれど、見上げた彼は、やっぱりあたしよりもずっと背が高かった。
「あたしが卒業して、あたし以外の子達を担当することになったら、役立ててください! それまでは、あたしだけにお願いしますね!」
「ふふ、分かりましたよ『お師匠さん』」
「よろしいですじゃ、『お弟子さん』!」
どちらからともなく、顔を見合わせて小さく笑い合う。
その穏やかな声が夜の静寂に溶けていくと、あとは部屋を照らすオレンジ色の柔らかな光だけが、並んで立つあたし達を優しく映し出していた。