「トレーナーさんの耳って、あたしと全然違うんですね……」
「どうした急に」
ソファーからぼんやりと呟くと、キーボードを叩く音が止んだ。トレーナーさんがモニターからこちらへ視線を向ける。
二人きりのトレーナー室。最初は楽しくお話ししていたけれど、いつしか仕事に集中しはじめた彼を邪魔したくなくて。ぽつんと取り残されて出来た胸の隙間を見ないふりをして、ただその横顔を眺めていた。
短めの髪から覗く、小さくて動かない耳。あたしたちウマ娘とは違うそれを不思議に思っていたら、つい言葉がこぼれ出てしまったのだ。
「あっ……ごめんなさい……。お仕事中なのに……」
「今日の分は今片付いたから大丈夫だよ」
「そうですか……。よかった……」
目を細めたトレーナーさんの言葉に、強張っていた肩の力が抜ける。
邪魔にならないと分かった途端、見ないふりをしていた胸の隙間が、スースーと冷たく感じはじめた。今なら、触れ合ってこの隙間を埋められるかもしれない。
すぅ……はぁ……、と密かに深呼吸をする。姿勢を正してトレーナーさんに向き直り、そのまま勢いに身を任せた。
「トレーナーさん、耳を触ってもいいですか……!」
「えっ……なんで……?」
目を丸くして返された当然の疑問に、スッと我に返る。
なんで……と言われると、答えに詰まる。「かまってほしかったからです」なんて言ったら、きっとトレーナーさんを困らせてしまう。
それ以外の理由を探そうと、視線が宙を泳いでしまう。
「そう……ですねぇ……。えっと……」
「理由は出てこない?」
本当はある。でも、言えない。言葉を飲み込むたびに、胸の奥がキュッと締め付けられる。
それなら、「ただ触りたいからです」って言ったほうが困らせずに済んだのかな?
ふとトレーナーさんへ視線を戻すと、少し眉尻を下げてこちらを見ていた。……どうしてそんな顔をしているんだろう?
「困らせちゃったみたいだね……ごめんな。触っても大丈夫だよ」
「えっ、いいんですか……?」
「今のはこっちが意地悪だったしね……。それにキタサンなら変なことはしないと思うから大丈夫かなって。でも、痛くはしないでほしいかな」
その好意に感謝してソファーから立ち上がると、トレーナーさんの後ろに回り、おずおずと手を伸ばした。
不思議な感覚だ。あたしたちみたいにふさふさの毛に覆われていなくて、むき出しの肌からはトレーナーさんの体温が直に伝わってくる。指先でなぞると、薄い皮膚の下に不思議な弾力が隠れていて……特別柔らかいわけでもない。でも、硬すぎることもない。
同じ名前でも全然違う、小さくて静かな耳。だからこそ、自分のことばかり考えていてはいけないよね。
「痛くはないですか?」
「あ、あぁ……大丈夫……」
あたしと形が違うとしても、耳は大切な場所だ。何かがあっては大変。
痛くないかと聞いてみると、トレーナーさんは肩をびくっとさせ、何かを必死に堪えているように見えた。それがすごく心配で、たまらず口に出してしまう。
「えっと……本当のこと、言ってほしいです」
「いや、痛くはないよ……」
「本当に?」
「ほ、本当だよ……」
小刻みに震えている背中に釈然としないものを感じるけれど、大丈夫だという言葉を信じたい。傷つけないように、より一層そっと指先を這わせる。
耳の後ろ側をサワサワ。耳の前をサワサワ。その度にトレーナーさんの肩がピクッと跳ねた。
何度か触っている時、トレーナーさんがスッと手を出して制止した。えっと……どういう意味かな? よく分からず戸惑ってしまう。
「す、すまない……。もう限界だ……」
「や、やっぱり何かダメでしたか!? ごめんなさい……」
手を出したのは、やめてほしいの合図だったみたい。やっぱり良くなかったんだ……。慌てて手を引っ込めて頭を下げる。
「駄目……というか……。痛いとかではないんだけど……くすぐったくてさ……。このままじゃ笑っちゃいそうだから……その、恥ずかしくて……」
振り返ったトレーナーさんは、耳まで真っ赤にして視線を逸らしていた。
良かった……嫌われたわけじゃないんだ……。胸をなでおろす。それに、照れているトレーナーさんが少し可愛く見えて、自然と口元が緩んでしまった。
「えへへ……貴重な体験ができました! ありがとうございます!」
「君が満足してくれたなら良かったよ」
まだ頬を赤くしている彼を見て、指先に少しだけ名残惜しさを覚えるけれど、これでおしまい。
ソファーに戻り、トレーナーさんに触れた手で自分の耳を撫でていると、ふと想像してしまった。もしも今度は、トレーナーさんがあたしの耳を触ってくれたら……。
頭の中を占めはじめたその思いは、気づけば自然と口を突いて出ていた。
「えっと……トレーナーさん……。今度はあたしの耳を……トレーナーさんが……触ってみませんか……?」
「えっ……? えっ!?」
トレーナーさんは驚いたように目を瞬かせている。それでも、一度こぼれた思いは引っ込んでくれない。真っ直ぐにトレーナーさんを見つめる。
「駄目……ですか……?」
「そう……だなぁ……」
困らせると分かっているのに、どうしても期待してしまう。
黙り込んでしまった彼を見つめていると、不意に視線が交差した。トレーナーさんはハッとしたように、あたしの頭上を見ている。
つられて意識を向けると、自分の耳がペタンと力なく倒れているのが分かった。……これじゃあ、落ち込んでいるのが丸わかりだ。
「……そっか」
「トレーナーさん……?」
「実は俺も、少し気になってはいたんだ。……こっちからお願いしてもいいかな?」
「! ……ありがとうございます。トレーナーさん……」
そう言って微かに微笑んだトレーナーさんの表情はとても優しくて、冷えていた胸の奥をふわりと温めてくれるみたいだった。……本当にありがとうございます。あたしのことを考えてくれて……。
そ、そうだ。触ってもらう準備はできていたかな? 耳は……多分大丈夫。触り心地も悪くないはず。さっきまで力なく倒れていた耳は、もう自分でもわかるくらいにピンと立ち上がっていた。
「そっちに行っても大丈夫かな?」
「は、はいっ! お願いします!」
その言葉通り、トレーナーさんがゆっくりとこちらへ歩いてくる。
カツカツ……という足音が、何となく耳に残る。ここまで来るのにそんなに遠くはないけれど、何故かその時間がひどく長く感じてしまう。まだかな……まだかな……。尻尾が勝手にパタパタと揺れてしまう。
ついに、背もたれ越しにトレーナーさんの気配を感じる。いよいよ始まるのかと思うと、心臓の音がうるさくなってきた。
「その……お願い……しますね……?」
「ああ……」
耳をピョコピョコ動かして、トレーナーさんの手を誘う。視界の端で、手がゆっくりと近づいてくるのが見えた。ぎゅっと目を瞑って待っていると、耳の後ろ側にそっと何かが触れる感覚が伝わってきた。
どうやら指先みたいで、耳の先から下に向かって静かに滑り降りていく。まるでガラス細工を扱うかのように繊細な手つきに、背筋がゾクゾクとくすぐったくなる。
「痛くないか?」
頭上から降ってきた心配そうな声。それがまた心地よかった。
トクトクと激しく鳴る心臓の音。そのうるささを、耳に触れる優しい手がなだめてくれているみたい。
「トレーナーさん……すごく気持ちいいです……」
「それなら良かったよ」
顔は見えないけれど、声色から優しい表情が伝わってくる。さっきよりもさらに胸の鼓動が早くなる。それなのに……。
「…………」
「キタサン?」
撫でてもらうほどに、耳の温かさと背中の冷たさの対比が浮き彫りになっていく。
どうしてソファーなんて選んだんだろう。この背もたれさえなければ、そのまま背中を預けて、全身で温もりを感じられたのに。
すぐ後ろにいるのに触れられないもどかしさから、あたしは無意識に耳を動かしていた。撫でてくれる掌にすり寄るように押し付けると、トレーナーさんの手がピタッと止まる。
「あ……ごめんなさい……」
「痛くないから大丈夫だよ。だけど、どうして?」
問いかけに、あたしは言葉に詰まる。「かまってほしいから」なんて、さっきまで触ってもらっていたことを考えたらワガママすぎる。そんなこと、口にできるはずがない。
「その……」
「うん」
だから、違う言い方でごまかそうと思った。何でもないようなふりをして、無理やり言葉を紡ぐ。
「耳でトレーナーさんとタッチしたかった……なんて、おかしいですよね……」
「耳で……?」
「変なこと言っていますよね……! 忘れてくれて大丈夫です……!」
「……」
ごまかすつもりが、結局甘えたことを言ってしまった。
きっとあたしは、背中の冷たさを紛らわすために、握手をするみたいに耳を通して手を繋ぎたかったんだ。
それなのに耳でタッチだなんて、おかしな言い訳だ。呆れられてしまっただろうか。無言の時間が続くほど、尻尾が力なく下がっていく。
縮こまって待っていると、ふいに耳を包み込むような温かい感触がした。これは……手のひら……?
「こんな感じかな?」
「トレーナーさん……? 何で……?」
包み込んでいた手が優しく離れると、衣擦れの音がして、トレーナーさんがソファーの横を回ってあたしの目の前まで来てくれた。しゃがみ込んでくれているから、目線も同じになっている。真っ直ぐに見つめ合う。
「俺もタッチしたかったから……なんて、おかしいよな」
「トレーナーさん……」
その眼差しはいつも通り優しくて、不格好な言い訳ごとあたしを包み込んでくれるものだった。
「おかしくないです……。すごく嬉しいです……!」
「そうか……それなら良かったよ」
お互い見つめ合ったタイミングで、自然と笑みがこぼれる。静かだった空間が、ぽかぽかとした温かい空気に満たされていく。
「トレーナーさん……また耳を触ってもらってもいいですか……?」
「大丈夫だよ」
そう言うと、今度は正面から両耳に優しく触れてくれた。さっきまでの背中の冷たさは、もう綺麗に消え去っていた。あたしはたまらず、トレーナーさんに抱きついた。
顔を埋めた胸は、やっぱり優しくて温かい……。耳を包んでくれた手のひらと同じ温もりを全身で受け止めながら、あたしは安心しきって目を閉じた。