「まさかこんなに降るとはなぁ……」
隣から聞こえてきた呟きにチラリと視線を向けると、トレーナーさんが空を見上げて頭をかいていた。
ザァーザァーと屋根を打つ雨は、ついさっき降り出したばかりだ。
天気予報では一日中晴れだったのに。雲の切れ間に隠れる太陽が、少しだけ憎らしい。
折角のお出かけだったのになぁ……とガクリと肩を落とし、諦め半分でカバンを探って──
「あっ」
──指先に当たった、覚えのある布の感触。
もしかして!
あたしは期待に胸を跳ねさせながら、勢いよくカバンの中を覗き込んだ。
「やっぱり……!」
そこにあったのは、赤と黒の折りたたみ傘。そうだ、少し前にあたし買ったんだった。
ダイヤちゃんが「似合ってるし、念のため持っておいた方がいいよ」って勧めてくれたおかげだ。
頼りになる親友の言葉に感謝しながら、あたしはジワリと温かくなった胸を張る。
「トレーナーさん!」
善は急げ、だ。
あたしは、横で途方に暮れる彼に向かって勢いよく振り返る。
胸を張り、尻尾をパタパタと振り、とびっきりの笑顔を作って。
隠れている太陽が思わず顔を出してしまうくらい、大きな声で呼びかけた。
「き、キタサン?」
トレーナーさんはビクリと肩を震わせ、目を丸くしてこちらを見ている。
あ、あはは……いきなりあんな大声を出したら、そりゃ驚いちゃうよね……。
さっきまでの勢いはどこへやら。すっかり気まずくなって、あたしはシュンと耳を伏せた。
「お、大きな声を出してごめんなさい……」
「びっくりしたけど、大丈夫だよ。それより、どうしたんだ?」
「えっとですね……!」
優しい言葉に甘えて、あたしは気を取り直す。
まだ少し気まずいけれど、いつまでもシュンとしてはいられない。
「たまたまなんですけど、あたし傘を持っていたんですよ!」
さっきまでの気まずさを誤魔化すように、カバンから勢いよく傘を取り出す。
あたしの勝負服のような配色の折りたたみ傘は、どこか誇らしげな佇まいであたしの両手に収まっていた。
「だからほら! これで帰ることが出来ますよ!」
その傘を素早く開き、屋根の外へと歩みを進める。
あたしの頭上に出来た赤と黒のカーテン。その上をザァーザァーと音を立てて雨が打ち付けるけど、それだけだ。濡れることなんてない。
パタパタとご機嫌に揺れる尻尾とともに、あたしはくるりと振り返って胸を張ってみせた。
きっとトレーナーさんも、笑顔になってくれるに違いない!
「う~ん……」
てっきり喜んでくれると思ったのに、トレーナーさんは眉を寄せて腕を組んでしまった。
あれ? どうしたのかな? もしかして何かマズいことでもあった?
パタパタとご機嫌に揺れていた尻尾は徐々に勢いをなくし、耳も不安げにペタリと倒れてしまう。
「折角の申し出だけどな、その傘だとふたりが入るには少し小さいような気がするんだ」
「えっ」
言われてみればと、あたしはバッと自分が差している傘を見上げた。
た、確かに……あたしひとりなら十分だけど、ふたりで入るにはどう見ても小さい。
ど、どうしよう! このままだとトレーナーさんが濡れちゃう! かといって、どうすればいいの!?
完全にキャパオーバーになり、あたしは傘を持ったままワタワタと視線を彷徨わせた。
「だからな、キタサン。気持ちはありがたいんだけど──」
ま、不味い! このままだと断られてしまう!
折角傘があるのに、濡れたまま雨宿りするなんて『お助けキタちゃん』として絶対にダメだ。
あれこれ考えている暇はない。……よし、こうなったら!
「――ま、待ってくださいトレーナーさん!」
「キタサン?」
「確かに小さいかもしれません。しれませんけど! くっつけば大丈夫です!」
「……キタサン?」
うっ……トレーナーさん、完全にポカンとしてる……。
だけど、ここで諦めるわけにはいかない! あたしは更に言葉を畳み掛ける!
「それに、いつ雨が止むかも分からないのに、このまま待ってると帰りが遅くなっちゃうかもしれません! ですので!」
「お、おう……た、確かにそれもそうだな。うん……」
困った時は言葉を畳み掛ける! ダイヤちゃんの教えは正しかった!
圧倒されたトレーナーさんは、なんとか首を縦に振ってくれた。
……少し引かれている気もするけど、そこは甘んじて受け入れよう。うん。
「……わかった。お言葉に甘えようかな」
「本当ですか!」
「まあ、あそこまで言われたらなぁ」
あたしの言葉の猛攻に、トレーナーさんは降参したように肩をすくめる。
……あからさまに苦笑しているのは、見なかったことにしよう。
彼はあたしの方へと近づいてきて、ゆっくりと手を伸ばした。
「……トレーナーさん?」
「傘は俺が持つよ」
「えっ?」
意外な一言に、あたしは耳をピクリと立てた。
傘をトレーナーさんが?
一瞬だけ首を傾げたものの、目の前の彼を見上げて「あっ」と気がついた。
十センチ以上は背の高い彼を傘に入れるなら、あたしはずっと背伸びをして腕を上げ続けなきゃいけない。
どうしてこんな単純なことに気づかなかったんだろう。勢いだけで突っ走ってしまった。
うう……こんなことも分からないなんて、お助け大将失格だ……。
「……トレーナーさん、どうぞ!」
ガクッと肩を落としそうになるのをグッと堪え、あたしは精一杯の笑顔を作って傘を渡す。
そして、宣言通りトレーナーさんの隣にぴたりとくっついた。
いざ近づいてみると想像以上に距離が近くて、少しだけほっぺたが熱くなる。だけど、離れたら雨に濡れてしまうからと、あたしはギュッと肩を寄せて誤魔化した。
「……ありがとう、キタサン」
「では、よろしくお願いします!」
急にくっついたあたしに、トレーナーさんは一瞬だけ驚いたように目を丸くしたけれど。
すぐに優しく微笑んで、何も言わずに受け入れてくれた。
そのままふたり、一緒に雨の中を歩き出す。
ザァーザァー、ザァーザァー、ザァーザァー。
雨は勢いを弱めることなく、ずっと降り続けている。赤と黒の天井に何度も何度も打ち付けている。
一歩進むごとに水たまりで水しぶきが跳ねる。気づけば足元が少しだけ濡れていた。
だけど、そんなことよりも。
今はこの距離が、どうにも落ち着かない。
聞こえてくる心音。
湿った服越しに伝わる体温。
近すぎる彼の存在に当てられて、自分の鼓動までどんどん早くなっていくのがわかる。
「キタサン?」
ふいに上から声が降ってきて、見ればトレーナーさんが心配そうに顔を覗き込んでいた。
大丈夫ですよ! 何でもないですから!
そう元気よく言いたかったけど。
「ど、どうしましたかトレーナーさん?」
なんでもない、と笑うつもりが、情けないほど声が上ずってしまう。
だったら離れたらいいのに。自分でもそう思うんだけど。
なんでかな? 離れようと思えば思うほど、無意識に彼との距離を縮めてしまう。
そしてその度に、胸の奥で何かが甘く満たされていくのを感じていた。
「…………いや、何でもないよ」
「そ、そうですか!」
何か言いたげに視線を逸らした彼に、あたしは裏返った声で返事をしてしまう。
「……急に声をかけたりして、驚かせてごめんな」
「い、いえ! そんなに驚いていないので!」
にこりと笑うトレーナーさんが何を思っているのか、想像する余裕すらない。
これは彼の肩が濡れてるから。体を温めるためだから。
口にすれば絶対に誤魔化しきれない言い訳を胸の中で唱えながら、あたしは無意識に、さらにギュッと彼へとすり寄ってしまった。
ドクドク、ドクドク、ドクドク。
至って規則正しい、トレーナーさんの心音。
それが心地良くて、だけど何だか胸の奥がくすぐったくて。
名前のつかないこの気持ちから目を逸らすように、あたしは彼へとすり寄る。
気づけば彼の腰に尻尾が巻き付いていたのを、見ないふりしながら。