時期はかなりズレておりますがお許しください
「ハッピーバレンタインです、トレーナーさん!」
昼下がりのトレーナー室。書類仕事が一段落して伸びをしていた俺の視界に、赤と黒の小箱がすっと差し出された。
見上げれば、担当ウマ娘であるキタサンブラックが、太陽のように眩しい笑顔を向けている。
瞳を輝かせ、期待に耳をせわしなく動かす彼女を見て……俺はようやく合点がいった。
忙しさにかまけてすっかり忘れていたが、そうか、今日はバレンタインか。
目の前の弾けるような喜びとは対照的に、かつてならあんなに胸を躍らせていたはずの行事を、完全に失念していた己が少しだけやるせなかった。
「……トレーナーさん? どうしたんですか、そんな遠い目をして……」
差し出した手はそのままに首を傾げるキタサンを見て、俺はハッと我に返った。
いけない。こんな顔をしていては、彼女の贈り物が迷惑だと勘違いさせてしまう。
「……いや、何でもないよ。ありがとうキタサン、嬉しいよ」
俺は心に蓋をしながら小さく首を振り、両手に収まるほどの小箱を大切に受け取った。
手のひらに丁度いい重みを感じながらそれを一旦机に置き、もう一度彼女へと視線を向ける。
「えへへ……♪」
視線を戻すと、そこには先程と変わらない、キタサンの無邪気な笑みがあった。
……本当に眩しいな、君は。
つられるように、いつの間にか俺の口角もゆっくりと上がっていく。
無理に蓋をしていた小さな悲しみは、その陽だまりのような温かさに少しずつ溶けていくようだった。
「それなら良かったです♪ もしかしたら、嬉しくなかったかなって思っちゃいましたので……」
「それだけは絶対にないよ。……なんて、あんな反応じゃ信じてもらえないかもしれないな」
「今のトレーナーさんは、嘘をつくような顔じゃありませんっ。だから信じますよ!」
ぽんと胸を叩いて言い放った一言が、今の俺には何よりも心強かった。
こんな風に真っ直ぐ言葉をぶつけ合える今の関係性が、たまらなく愛おしい。
「……君みたいな子を担当出来るなんて、俺は本当に幸せものだな……」
「えへへ、ありがとうございます! でも、そう言うのは中身を見てからにしてくださいね? そこに……あたしの気持ち、入ってますから!」
何故か赤くなった頬を掻くキタサン。
確かに、箱を受け取っただけで満足してしまっては申し訳ない。彼女の言う通り、大切なのは中身だ。
「それもそうだな。早速開けてみるけどいいかな?」
「はい!」
机の上の箱に手を伸ばし、緩めに巻かれた赤いリボンを解いてゆっくりと蓋を開ける。
ふわりと、甘い匂いが漂ってきた。
中に入っていたのは、ほんのりきつね色をした四角いお菓子。
見覚えはあるが……俺の知っている『それ』とは、一見しただけでも柔らかさが違うように思えた。
「……これってキャラメルだよな?」
「はい! ただのキャラメルじゃなくて、生キャラメルです!」
なるほど、これが生キャラメルか。聞いたことはあったが、実物はこんな感じなのか。
試しに一つ指で摘まんでみる。……うん、想像以上に柔らかい。これなら確かに、口に入れた途端にとろけてしまいそうだ。
「うん。見た目通り柔らかいなこれ」
「ふふふ……生クリームをたっぷり入れましたから! 柔らかさはバッチリですよ!」
「えっ……もしかしてこれ、キタサンの手作りなのか!?」
自信に満ち溢れたキタサンとは対照的に、俺の方は驚きで固まってしまった。
そんな……こういう繊細なお菓子を作るのは、かなり大変なはずだけど……。
指先で摘まんだ生キャラメルが、小刻みに震えていた。
「えへへ……頑張りました! ……って、言いたいところですけど、そんなに難しくはないんですよ? 煮詰める火加減さえ間違えなければ、意外と簡単ですから」
照れたように頬を掻く彼女だが、決して簡単なはずがない。
少しでも火加減を間違えれば、こんなに綺麗な形にはまとまらなかったはずだ。
この小さな一粒に、彼女がどれだけの時間と想いを込めてくれたのか。それは口にするまでもなく、痛いほどに伝わってきた。
「それよりも早く食べてみてください! 絶対にとろける味ですから!」
「……分かったよ。それじゃあ、有り難く頂くよ」
彼女に急かされるまま、生キャラメルを口へと放り込む。
舌の上でとろけたキャラメルが、ふんわりと優しい甘さを広げていく。体の奥まで染み渡るようなその温かさを、俺はゆっくりと飲み込んだ。
ふと視線を戻すと、キタサンが不安げな上目遣いでこちらを窺っていた。
俺は姿勢を正し、その真っ直ぐな瞳をしっかりと見つめ返す。
「うん……凄く美味しいよ」
「! ……えへへ♪」
こわばっていた表情がふわりと解け、太陽のような眩しい笑顔が戻る。
それを見たせいだろうか。飲み込んだはずのキャラメルの甘さが、胸の奥でまたじんわりと広がっていくのを感じた。
「何て言うのかな……変な話かもしれないけど、なんだか安心する味がしたよ」
「えっ……安心……ですか?」
「ああ。甘いはずなのに、それ以上に安心するというか……。ごめん、変なこと言ってるよな」
「…………っ」
上手く言葉にできない自分がもどかしい。
だが、本当にそうなのだ。この不器用で真っ直ぐな甘さは、キタサンと一緒にいる時と同じくらい心地よかった。
……なんて、何を考えてるんだろう俺は。
「いや、今の言葉は忘れてくれ。自分でもよく分からないことを……って、キタサン?」
まとまらない思考を横に追いやり、キタサンへと意識を戻す。
すると彼女は、何かを噛みしめるように小さく体を震わせていた。
傷つけたかと思ったが、どうやら違うらしい。
倒れるどころか左右にパタパタと動く耳も、来た時以上に光を宿した瞳も。
目の前にいるのは間違いなく、込み上げる喜びを隠しきれない一人の少女の姿だった。
「……嬉しいな」
「えっ?」
「トレーナーさん、あたし凄く嬉しいんです。……キャラメルに込めた気持ちに、気づいてくれて」
「気持ち……?」
ポツリとこぼれた声が心底からのものだとは分かるのに、その真意だけがどうしても掴めない。
情けない問い返しをしてしまった俺を見て、キタサンは困ったように眉を下げた。
けれど、その瞳はどこかホッとしたように柔らかく細められ、真っ直ぐにこちらを見つめ返してくる。
「……えへへ、何でもないです! ……はい、今はまだ、内緒なんです」
「でも、あたしの込めた気持ちに、トレーナーさんがちゃんと気づいてくれた。今はそれだけで十分ですから!」
「キタサン、何を――」
言ってるんだ。そう続けたかった言葉は、彼女の唇にそっと立てられた人差し指によって遮られる。
今は、何も言わないで。
その真っ直ぐな瞳にそう願われてしまえば、俺はもう、何も言えなくなってしまった。
「ごめんなさい。次はちゃんと、あたしの言葉にして伝えます。だから今はまだ、分からないで下さい。……こうして渡すのが、今のあたしの精一杯だから」
キタサンらしからぬあやふやな言葉。それを聞きながら、空いていた俺の手を温かい何かが優しく包み込んだ。
……いや、見なくても分かる。
彼女が何を伝えたいのか、本当のところはまだ分からない。でも、なんとなくは伝わってくる気がした。
だから俺は何も言わず、不器用に重ねられたその手のひらに、ただ身を委ねることにする。
指先から伝わってくるこの心地よい熱だけは、きっとこれからも変わることはないのだから。