誕生日に書いたものの一つです
「キタサン、何か欲しいものはないかい?」
「えっ? どうしたんですか、急に?」
ミーティングも終わり、後は帰るだけの夕暮れ時。俺は朝から考えていたことを口に出した。
唐突すぎたのか、キタサンは小さく首を傾げる。
──しまった、脈絡がなさすぎたか。
思わず泳ぎそうになる視線をぐっと堪え、俺は真っ直ぐに前を見据えた。
「ほら、もう少しで君の誕生日だろ?」
「あっ、そっか! だから……」
言葉を足すと、キタサンはポンと手を叩いた。
その様子に思わず口元を緩め、俺はカレンダーへと目を向ける。
寒さが和らぐ来月の3月10日──キタサンの誕生日だ。
いつも誰かのために奔走している彼女に、何かしてやりたい。
俺に出来ることは限られているから、期待に沿える自信はあまりないが。
「欲しいもの……欲しいもの……」
キタサンは顎に手を当てて考え込み始めた。
ぴょこぴょこと忙しなく動く耳や尻尾とは裏腹に、その表情は真剣そのものだ。
俺は口を挟むことなく、ただ静かに彼女を待ち続けた。
「…………!」
耳と尻尾がピンと跳ね上がった。
顎に添えていた手を下ろし、パァッと明るい笑顔を咲かせる。
……あれ? だけど、あの笑顔は確か──
「え、えへへ……決めましたよ、トレーナーさん!」
「……あ、ああ。それで、どんなものなんだ?」
慌てて取り繕った言葉は、自分でも不自然に聞こえた。
しかしキタサンは気にする様子もなく、満面の笑みでこちらを見つめている。
……いや、そもそも俺の動揺に気づいていないのか?
「そ、それはですね……今は内緒です!」
「内緒? それってどういう……」
「ち、ちゃんと言いますから! それじゃあまた!」
「おい、キタサン? キタサン!?」
そう言い残し、キタサンはカバンを手に取るとすぐさまトレーナー室から飛び出していった。
先程の不自然な笑顔を、全く崩さないまま。
何を隠しているんだ? いや、そもそも『俺に渡せるもの』なのか?
一人残された俺は、ただポツンと立ち尽くすしかなかった。
『ちゃんと言いますから!』
そう残したキタサンだったが、結局その内容が語られることはなかった。
初めは何度か聞いてみたものの、彼女は笑って誤魔化すばかり。
はぐらかされてしまえば、無理に聞き出すのも気が引ける。
そのうち教えてくれるだろう。そんな俺の期待をよそに、キタサンの『内緒』を知らされないまま日々だけが過ぎていった。
………………
…………
……
「わぁっ! えへへ、ありがとうございます、トレーナーさん!」
「あ、ああ……うん」
そして、キタサンの誕生日がやってきてしまう。
俺はキタサンに、金平糖の袋を手渡した。
何も用意しないわけにはいかず、彼女の好きなセットを見繕ったのだ。……いわば、保険のようなものである。
キタサンは赤い瞳を輝かせ、ゆっくりと両手で袋を包み込んだ。そのまま胸元へと寄せ、太陽のように眩しい笑顔でお礼を言う。
対する俺は、曖昧な返事をするのが精一杯だった。
「えへへ……本命の前に、こんな素敵なものがもらえるなんて。あたし、すっごく嬉しいです!」
「本命……」
やはり、どうしても欲しいものがあるらしい。だが、それは一体何なのか。
俺の手元にはもう何も残っていない。それなのに、彼女は『本命』があると呟いた。
思考を巡らせても、答えが出るはずもなかった。
「そう、本命です。あたし、それが欲しくて……今日までずっと、言わないように我慢してたんです」
「キタサン?」
ひどく緊張を孕んだ声色に、思わず名前を呼んだ。
尻尾はピンと強張り、俯いた肩が微かに震えている。
何かに怯えているようにも、切実に求めているようにも見えた。
「トレーナーさん」
「ああ、どうした?」
俺は動揺せず、しっかりと受け止めなければ。
そう覚悟を決めると、先程までの不安は不思議と消え去っていた。
大丈夫、何でも話してほしい。
声なき祈りを込めて、俯く彼女を真っ直ぐに見つめ続けた。
「……あの、ですね……」
震えは徐々に収まり、俯いていた顔が少しずつこちらを向く。
耳と尻尾は強張ったままだ。だけど、それでも。
「あたし、トレーナーさんに、ですね……」
たどたどしく、口元を震わせ、視線は泳いだままでも。
彼女は決して、言葉を止めなかった。
「俺に?」
急かすことはせず、静かに問い返す。
ただ、彼女から紡がれる次の言葉を待った。
「…………っこ、して、ほしい……です」
確かに声は聞こえた。
しかし、最初の肝心な部分が聞き取れない。
もう一度聞き返そうと口を開きかけた、その時。
「ご、ごめんなさい。上手く言えなくて……っ。ちゃんと言います」
キタサンは顔の前にピタリと両手を合わせ、深く頭を下げた。
「すぅ~……ふぅ~……すぅ~……ふぅ~……」
瞳を閉じたまま、深呼吸が繰り返される。
強張っていた尻尾と耳が、少しずついつもの状態に戻っていく。
やがてゆっくりと開かれた赤い瞳が、ようやくこちらを向いた。
赤らんだ頬は、そのままに。
「トレーナーさん、あたしはあなたに」
もう迷いのない瞳が、真っ直ぐに俺を捉えていた。
「お、お姫様……抱っこ……して欲しいです」
予想外すぎる言葉に、俺の思考は完全に停止した。
「…………えっ?」
あれだけ受け止めると誓ったのに、出たのはその一言だけだった。
目を丸くして、さぞ間抜けな面を晒していることだろう。
俺のそんな反応に、真っ直ぐだった彼女の視線がせわしなく彷徨い始める。
ほんのり赤かった頬は、瞬く間に林檎のように染まっていった。
「ち、ちがっ! あたしがやってもらいたいとかじゃなくて、王子様になるためにっ、あの、その!」
ぶんぶんと両手と尻尾を振り回しながら、しどろもどろにまくし立てている。
…………いや、フリーズしている場合じゃない!
とにかく彼女を落ち着かせないと!
「だ、大丈夫だからキタサン! ちゃんと受け止めるから、一回落ち着いて!」
無意識のうちに、両手を前に突き出して彼女をなだめようとしていた。
だが、俺の声も完全に上ずっていては──
「……本当に受け止めてくれますか?」
キタサンはピタリと動きを止め、潤んだ赤い瞳でこちらを見つめていた。
迷う必要はない。俺の覚悟は、とうに決まっている。
「ああ!」
「……っ! やったぁ!」
半ばヤケクソになりながら、力強く頷く。
するとキタサンはパッと顔を輝かせ、思い切りバンザイをした。
中等部の子にやるのはどうなんだ? それ以前に、俺は彼女を持ち上げられるのか?
次々と湧き上がる疑問を頭の隅に追いやり、俺は彼女の前に腰を落とした。
「だ、大丈夫ですか……トレーナーさん?」
「だ、大丈夫……」
プルプルと生まれたての子鹿のように震える両腕が、俺の言葉を全力で否定していた。
アスリートとして鍛え抜かれた筋肉の、ずっしりとした重み。
それに加えて、密着したことで伝わってくる、絶賛成長中の色々と柔らかい感触……。
心身ともに、色んな意味で限界が近い。もっと筋トレをしておくべきだったか。
「…………えへへ」
不意にこぼれた無邪気な声に、ハッとして視線を落とす。
腕の中では、キタサンが頬を真っ赤にして嬉しそうに微笑んでいた。
「…………そんなにやってみたかったのか?」
聞くのは野暮だと分かっている。
だが、いつもと違う無邪気な微笑みに当てられ、つい言葉が口を突いて出た。
「……!」
ピクリ、と耳が揺れた。
しばらく腕の中で硬直した後、彼女は恐る恐る上目遣いでこちらを見て――
「……笑いませんか?」
バツの悪そうな顔で、ポツリと呟く。
頬の赤みは先程よりさらに濃くなり、俺の肩に回された彼女の腕に、きゅっと力が入った。
「ああ、笑わないよ」
そう返すと、俺の肩に回された彼女の腕から、ふっと力が抜けるのを感じた。
「……前にですね」
ゆっくりと紡がれる言葉。
その口調は、いつもよりほんの少しだけ硬く上ずっていた。
「ダイヤちゃんから聞いたんです。誕生日にお姫様抱っこをしてもらったって」
「……それで羨ましくなって?」
どこか寂しげに見えた表情に、つい言葉を重ねてしまった直後だった。
図星だったのか、キタサンはビクッと体を震わせ、俺の肩からパッと両手を離してしまう。
っ、ば、バランスが……!
「い、いえっ! 羨ましいとかじゃなくて! お助け王子として、お姫様の気持ちを——」
「き、キタサン! 落ちるから一回落ち着いて!」
「……へっ?」
腕の中でバタバタと暴れる彼女を落とすまいと、必死に腕へ力を込める。
先程よりもさらに密着してしまったが、意識する余裕などない。
しっかりと腰を落とし、地面に根を張るように両足を踏ん張った。
「…………よし」
どうにか持ち堪え、深く息を吐き出す。これなら大丈夫だ。……しばらくは、だが。
そう安堵した、その時。
「ひぅ……」
耳元で、可愛らしい悲鳴が漏れた。……って、あれ?
あまりの距離の近さにハッとして、思わずそちらへ顔を向けようとし──
「あっ……」
視界の全てを、キタサンの顔が埋め尽くした。
少しでも動けば鼻先が触れてしまいそうな距離で、激しく揺れ動く赤い瞳と、熱を持った真っ赤な頬がそこにあった。
「「…………」」
時が止まったように、見つめ合ったまま動けない。
密着した体から、彼女の熱が直に伝わってくる。ドクドクと高鳴る心音までもが、はっきりと重なって聞こえた。
俺の肩には、いつの間にか再び彼女の両手がギュッと回されている。
「……え、えっと……」
心音だけが支配する空間に、消え入りそうな声がこぼれ落ちた。
俺は返す言葉を見つけられず、ただ彼女を見つめ返すことしかできない。
「あ、ありがとう……ございます」
「いや……俺が変なことを言ったせいだから。気にしないでくれ」
「そ、そうですか。あはは……」
これ以上見つめ合うことに耐えきれず、俺たちは同時にパッと視線を逸らした。
これ以上見つめ合うことに耐えきれず、俺たちは同時にパッと視線を逸らした。
しかし、視線を逸らしたところで彼女が腕の中にいるという事実は変わらない。
……どうしよう。どうやって自然に下ろせばいいんだ?
「キタサ──」
たまらず名前を呼んだ、その瞬間だった。
「…………っ!」
「──ン?」
キタサンがゆっくりと顔を寄せ、俺の鼻先に、そっと自分の鼻先を押し当ててきた。
触れ合った皮膚から、火傷しそうなほどの熱が伝わってくる。
「……その、ですねっ」
強く鳴り響くお互いの心音を感じながら、俺はそのままの姿勢で彼女の言葉を待った。
「ダイヤちゃん……その話をする時、凄く幸せそうで」
潤んだ瞳が、ふいと伏せられる。
「あたし、なんだか羨ましくて……。でも、自分の柄じゃない気がして……だから」
言葉を濁した彼女の瞳を、俺はただ真っ直ぐに見つめ返す。
そこで途切れた、一番肝心な言葉の続きを待つように。
「……下ろしてもらっても、いいですか?」
そっと鼻先を離し、彼女がぽつりと呟く。
俺は腕の力を抜き、近くのソファーへ彼女をゆっくりと下ろした。
腕の中から、確かな熱が離れていく。
ソファーに腰を下ろしたキタサンは、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「…………」
俯いてしまった彼女の表情は窺えない。
だけど、今なら。
「…………どうだった、キタサン」
ゆっくりと、だけどしっかりと紡いだ声。
その問いかけに、キタサンの尻尾がピンと跳ねた。
「…………やっぱり、あたしの柄じゃないみたいです」
「……そっか」
俯いたつむじに向かって、ただそれだけをこぼす。
こんな時、気の利いた返しは一つも思い浮かばなかった。
「だけど……」
「うん?」
俯いたまま紡がれた声は、恥ずかしそうだが妙に弾んでいて。
その後ろでは、楽しげな尻尾がパタパタと揺れ続けていた。
「──ダイヤちゃんが幸せそうにしてた理由、よく分かりました!」
ゆっくりと顔を上げた彼女と、視線が交差する。
「だから……トレーナーさんさえ良ければ、またお願いしても良いですか?」
頬を赤らめ、はにかむような笑顔。
お姫様抱っこの大変さ。俺の腰が砕けるリスク。
……そんなことはもう、どうでもよかった。
「ああ、いいよ。だけど……回数は期待しないでくれよ?」
この笑顔が見られるなら、安いものだ。
小さく息を吐いて頷くと、彼女はいつも通りの、太陽のような笑顔を咲かせた。
「っ! えへへ……はいっ、分かりました!」