「失礼します!トレーナーさん!キタサンブラックですっ!」
トントントンと扉を叩き、部屋にいるはずのトレーナーさんに呼びかける。……けど、返答はない。
「おかしいな……?ここにいるはずなのになぁ……?」
首を傾げ、「う〜ん……」と呟く
今日は休日でトレーニングはないけれど、何となく会いたくてトレーナー室までやって来た。手ぶらってわけにもいかないし、砂糖菓子も持ってきたんだけどね。
明かり、ついてるのになぁ……。外に出てるのかな?
少し肩を落としつつ、ダメ元で扉に手をかけてみる。
「あれ、開いてる……」
鍵、かけ忘れたのかな。……それなら、中で帰りを待っていてもいいよね。
そっと忍び足で踏み込みながら、心の中で「お邪魔します」と謝った。
「し……失礼しま〜す……」
入ってから言うのも変だよね……。
キョロキョロと見渡すけれど、いつも通りのトレーナー室だ。
とりあえずソファーで待っていようと視線を向ける。
「あ……寝てる……」
そこには、グッスリと横向きに眠っているトレーナーさんがいた。
あんなに見渡したのに、何で気づかなかったんだろう。
……まあいっか。見つかったんだし。
あたしは持ってきた砂糖菓子をとりあえず机に置くと、弾む心のまま、音を立てないようにゆっくりとソファーに近づいた。
覗き込んだ寝顔は穏やかで、驚くほど無防備だ。
いつものあたしなら、お菓子だけ置いて帰るのに。今日に限って、その顔から目が離せなかった。
「…………」
ツンツンとほっぺたをつついてみる。
……うん、起きない。今日は休日だし、誰か来ることもないはずだ。
――今なら、何をしてもバレないかも。
「ごめんなさい……トレーナーさん……」
小さく呟きながら、寝ているトレーナーさんの隣にそっと身を沈める。
一人用のソファーはふたりで寝るには狭くて、落ちないように身を縮めると、自然と肩や腕が触れ合ってしまう。
服越しに伝わってくる熱に、心臓が大きく跳ねた。逃げ出さなきゃと思うのに、体は少しも動こうとしてくれない。
聞こえてくる穏やかな息遣いに、こちらまでとろけてしまいそうだ。
「……なんか、眠くなってきちゃった……」
ゆっくりと頭を下げて、大きな胸に耳をピトッとつけてみる。
ドク……ドク……ドク……
一定のリズムで波打つ心音を聞いていると、自然と肩の力が抜け、ほうっと甘い息が漏れた。
「あっ……」
すぐ鼻先を掠める匂いに、このまま時間が止まればいいのにと願ってしまう。
えへへ……これ、いいな。胸に何度か顔を擦りつけた。
ふと、ドラマのワンシーンを思い出して、ゆっくりと頭を上げる。そのまま、そっとトレーナーさんのほっぺたに手を置いてみた。
あっ……少しカサカサしてるや。
寝顔を見つめながら指先で撫でていると、手のひらからじんわりと体温が伝わってきて、全身がカッと熱くなった。
――って、あたし何やってるの!?
急に湧き上がった羞恥心で、さっきまでの好奇心は一瞬で吹き飛んでしまった。
「は、早く離れないと……」
これ以上一緒にいたら、全身の熱で溶けて消えてしまいそうだ。
震える手を離し、体をもぞりと動かす。
「うぅん……?」
あっ、起きちゃう……!
急いで離れようとするのに、手足がうまく動いてくれない。どうしよう、このままじゃ……!
「う〜ん……」
突然、背中に何かがギュッと巻き付き、思わず息を呑んだ。
慌てて振り返っても、後ろには誰もいない。なのに、背中をホールドする力はさらに強くなる。
ま、まさか、お化け……!?
震える体を預けるように目の前のトレーナーさんにしがみつくと、それに呼応するように、背中の力がさらに強くなった。
……あれ?
ゆっくりと視線を落とす。
「よかったぁ……」
お化けじゃなくて、トレーナーさんの腕だったんだ。
ホッとして、しがみついていた自分の腕をそっと解く。このままゆっくり離れようと、後ろへ体を引いた。
――ぐんっ。
背中に回された腕が、ピクリとも動かない。
…………………………あっ。これ、抜け出せないやつだ。
「ど、どうしよう……!」
グッと引き寄せられ、トレーナーさんの胸に顔が埋まる。
耳元で響く心音はあんなに穏やかなのに、あたしの心臓はバクバクして止まらない。
……だめだ、逃げなきゃ。そう思うのに、包み込まれるような匂いと体温に、体の力がふにゃふにゃと抜けていく。
「悪い子でごめんなさい……っ」
心の中で必死に唱えながら、もがくように後ろへ体をよじった。
「抜け出せない〜……」
いつもなら簡単に振り払えるはずの腕が、今はとてつもなく重く感じる。
鼻をくすぐる匂いと、ドクドクと暴れる自分の鼓動のせいで、足に力が入らない。
……もう、どうにでもなれ。
真っ赤な顔のままギュッと目を閉じて、訪れるはずの「終わり」を待った。その時。
「うぅん……」
ふっと、背中に回されていた腕の力が緩んだ。
チャンスだ。
震える手でそっと腕を押し上げ、音を立てないよう慎重に隙間から抜け出す。後ろに下がる時、大きな尻尾をぶつけて起こさないよう、細心の注意を払って。
「ゆっくり、ゆっくり……」
後ろへ伸ばした尻尾の先が、いち早く床の感触を捉えた。
そこにぐっと力を込め、自分の体重を預けながら、音もなく床へと降り立つ。
(ふぅ……鍛えててよかった……!)
自分の筋肉に感謝しながら立ち上がり、おそるおそるソファーを振り返る。
……ほうっ。
肺に溜まっていた空気をすべて吐き出し、強張っていた肩の力を抜く。
けれど、安堵したのも束の間。
――もぞり、と毛布が動いた。
まどろみの中にいた瞳が、潤んだままゆっくりとこちらを捉える。
トレーナーさんはそのまま、大きな欠伸と一緒に、重たそうに体を起こした。
「あれ……キタサン……?」
まだ声は眠気混じりだけど、意識はハッキリしてきたみたいだ。
良かった。ギリギリのタイミングだった。
心臓はバクバクして止まらないけれど、今は挨拶を返さなきゃ……!
「おはようございますトレーナーさん!」
焦りを感じさせないよう、最高の笑顔で挨拶した。
「ああ……おはよう……?いや……何でキタサンがここに……?」
うう……意識がハッキリしてきたから誤魔化せないよね。ええと……それなら……!
「あ、あのっ、これ差し入れです! 机の上に置いてあるので!」
照れを誤魔化すように、ビシッと机の上の砂糖菓子を指差して早口でまくしたてる。
嘘はついていない。これも目的の一つだから。うん。
「本当だ……ありがとう、キタサン」
「あ、あはは……」
ふわりと笑うトレーナーさんに目を合わせることが出来ず、視線を横に向けながら笑うしかない。
ごめんなさいトレーナーさん……貴方が寝てる時に悪いことしてました……。
心の中で謝って、ゆっくりと部屋から去ろうとする。
「あれ?もう行くのか?」
「はい……お菓子持ってきただけなので……また……明日……」
「ああ……また明日……」
そう言い残し、不思議そうな顔をするトレーナーさんに背を向けて、逃げるように廊下へ出た。
パタン、と扉を閉める。
――だめだ。まだ、あの腕に包まれた感触が背中に張り付いている。
服の上から胸元をぎゅっと掴み、早足で校舎を抜け、靴を履き替えて外へと飛び出した。
冷たい風を吸い込んだ瞬間、限界まで抑え込んでいた熱が一気に爆発した。
「うわぁぁぁっ……!」
叫び声とともに、足が勝手に弾ける。あたしはそのまま、寮へ向かって全速力で駆け出した。
走ればきっと忘れられる。そう信じて走り続ける。
だけど走れば走るほど、胸の中のドキドキは消えてくれなくて。あの時のことが鮮明に思い浮かぶ。
「消えてくれないよぉ……」
空が何色かなんて考える余裕もない。
今日は……眠れそうにないな……。
何となくそんなことが、ひっそりと頭に浮かんで消えた。