自分が初めて書いた話とその後日談をくっつけました
「キタちゃんが甘えるための一歩」がキタちゃん視点と「甘えるために一歩進んだ先」がトレーナー視点になります
キタちゃんが甘えるための一歩
トレーナーさんと一緒に行った温泉旅行。その数日間だけは「お助けキタちゃん」をお休みすることにした。
時間を忘れてお湯に浸かり、美味しい食事に笑い合い、部屋に戻ってからも遅くまで騒いで。
あんなに羽目を外して、解き放たれた気分になったのは初めてだったけれど――同時に、一度外れた羽目の戻し方が、自分でもわからなくなってしまった。
「キタサンはあまり人に甘えず、自分を律してきたからね。きっと、羽目の外し方がわからないんだろう」
トレーナーさんはそう言ってくれたけど、こんなことを繰り返していては申し訳ない。
どうすればいいかなんて考えるよりも、行動あるのみ。こういう時、一番の「甘え上手」と言えば――。
「キタちゃん、頭を撫でてもらうのが一番だよ!」
開口一番、ダイヤちゃんはそう言い切った。その瞳は、なぜだかキラキラと輝いている。
「頭を? そういうのって甘えるっていうのかな?」
「頭を撫でてもらうのは基本だよ! キタちゃんだって、信頼してる人以外にはされたくないでしょ? そういう特別なことだから『甘える』なんだよ!」
ぐいぐいと身を乗り出してくるダイヤちゃんの熱量に、あたしは思わず少しだけ上体を反らしてしまった。
「そ……そんなものなのかなぁ……?」
「悩むより、まずは実践あるのみだよ! キタちゃん頑張って!」
勢いよく背中を押してくれたダイヤちゃんには悪いけれど、本当にこれでいいのだろうか。
半ば疑心暗鬼のまま、あたしは仕事中のトレーナーさんがいる、トレーナー室まで辿り着いた。
ドアをノックして返事を待ち、ゆっくりと扉を開く。
「失礼します。トレーナーさん、お仕事中にすみません……」
いつものようにパソコンに向かっている彼の姿を見ると、あたしは無意識に、ぎゅっとドアノブを握り直していた。
「どうしたんだキタサン。まだトレーニングには早いけど、何かあったのか?」
「えっと……その……」
何かを言おうとして、結局言葉を飲み込んでしまう。
どう切り出せばいいか分からず瞳を泳がせていると、トレーナーさんは優しく微笑んだ。
「ゆっくりでいいよ。キタサンが困っているなら、いつでも力になるからね」
ここまでトレーナーさんに言わせておいて、何も言えないのは女が廃る。
「トレーナーさん! あたしの頭を撫でてください!!」
トレーナーさんは目を丸くして驚いていたが、すぐにふっと表情を和らげてた。
「俺の言葉、ずっと気にしてたんだね。悩ませてごめん」
「いえ、全然大丈夫です! だから……その、いいですか……?」
上目遣いで様子をうかがうあたしに、トレーナーさんは優しく微笑んで頷いた。
「大丈夫だよ」
いざ撫でてもらうとなると、どうしても肩が強張ってしまう。
けれど、あたしの頭にそっと置かれた手のひらは、ただただ温かかった。
その体温からじんわりと伝わってくる心地よさに、こわばっていた肩から、ふっ……と力が抜けていく。もっとこの温もりに触れていたくて、思わず――。
「もっとしてください……」
無意識のうちに、声がこぼれていた。
こんな温かさを知ってしまったら、あたしはどうなってしまうんだろう。ふと浮かんだ疑問すら、じんわりと広がる心地よさに溶けていく。
あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
ずっとこのままでいたい。そんなまどろみの中にいたあたしを呼び戻したのは、上から降ってきたトレーナーさんの声だった。
「キタサン。悪いんだけど、そろそろトレーニングの時間だ」
「えっ?」
「ご、ごめんなさい! 気持ちよかったというか……いえそうじゃなくて……あぁ……」
その変わらない優しい響きに、あたしの口から、ぽろりと本音がこぼれ落ちていた。
「えっと……すごく良かったです……。またお願いしても……いいですか……?」
顔は、きっと自分でも分かるくらい真っ赤になっている。
頭の中はぐちゃぐちゃで何も考えられないのに、ドクン、ドクンと高鳴る自分の鼓動と、頭の上に残る優しい体温だけが、やけに鮮明に響いていた。
甘えるために一歩進んだ先
「えっと……そろそろお願いしてもいいですか……?」
飛び込んできたのは、そんな言葉だった。少し怯えているようで、どこか熱が籠もっているように聞こえる。
艶やかな黒髪を揺らすキタサンブラック。普段は皆のお助け大将として走り回っている彼女が、今はひどく小さく見えた。
「ああ。だけど、本当に大丈夫か?」
「だ、大丈夫です……あ、あたしだって覚悟は出来てますから……」
「そうは言っても、震えが俺の方にも伝わってくるんだけど」
「こ、これは……その、武者震いですっ!」
そう言いながら、耳の先まで震わせているキタサン。そのガチガチに強張った姿が、どこか微笑ましい。
彼女がそこまで言うのなら……俺も腹をくくるしかないよな。
「そっか……それじゃあ、いくよ」
「……っ! おねがい、しますっ……」
その言葉を最後に、キタサンは口を閉ざした。
だけど、先程よりも強い震えがこちらに伝わってくる。俺はゆっくりと、彼女の頭へ手を伸ばした。
「よしよし……」
そっと髪を撫でる。
トレーナー室のソファ。ただ並んで座っているわけではない。俺は今、膝の上に彼女を乗せているのだ。
……何をしてるんだろうな、俺は。
どうしてこうなったのか。手の中の柔らかな髪を感じながら、俺は事の始まりを思い返した。
………………
…………
……
始まりは一年前。このトレーナー室で、キタサンから「頭を撫でてほしい」と言われたのがきっかけだった。
当時の彼女は甘えるのがあまり得意ではなく、ひどくたどたどしい様子でお願いしてきた記憶がある。
なぜそんなことを言い出したのか。理由はすぐに思い当たった。少し前に行った温泉旅行だ。
あの時彼女は、「お助け大将」ではなく「ただのキタサンブラック」として過ごしていた。
食べすぎたり、長湯して目を回したり、部屋で盆踊りを踊ったり……。最初はらしからぬ行動に面食らったが、すぐに理解した。
日頃どれだけ自分を抑え込み、無理をしてブレーキをかけていたのかを。
「キタサンはあまり人に甘えず、自分を律してきたからね。きっと、羽目の外し方がわからないんだろう」
彼女には、そんな言葉を伝えた気がする。
根が真面目なキタサンのことだ。きっと自分なりに思い詰め、彼女なりの答えを出したのだろう。
それが「頭を撫でてもらうこと」だとは思いもしなかったし、誰かの入れ知恵があったのかもしれない。
だが、その時の俺は深く考えていなかった。不器用に甘えてくれた事実がただ嬉しくて、その願いをすんなりと受け入れたのだ。
初めのうちは、それこそミーティングやトレーニングの区切りに、軽く撫でるだけでよかった。
だけど、甘える心地よさを知ってしまえば、少しずつ欲張ってしまうのは当然のことだ。それは、キタサンも例外ではなかった。
「その……トレーニングの前にも、撫でてもらっていいですか……?」
撫でるのがすっかり習慣になった頃、キタサンは緊張した面持ちでそう切り出した。
回数が増えるくらい、なんてことはない。俺は深く考えずに頷いた。
――この些細な甘やかしが、後のさらなる要求を招くとも知らずに。
「トレーナーさん……もっと強く、撫でてくれませんか?」
しばらくすると、そんなことまで口にするようになった。
たどたどしい中に、どこか期待を滲ませた声。
これが彼女の『ただのキタサンブラック』でいられる時間になるならと、俺はすべてを受け入れ続けた。
――その甘やかしが、今回のような一線を超える我儘に繋がってしまったのだろう
「トレーナーさん……膝の上に座って、頭を撫でてもらえませんか……?」
今回の我儘ばかりは、さすがに頷くわけにはいかなかった。
期待に満ちた目を見るのは心苦しかったが、心を鬼にして「それは駄目だ」と首を横に振る。
――分かっていたはずだ。ずっと甘やかしてきたのに、急に突き放せば彼女がどんな顔をするかなんて。
「そう……ですよね。流石に、駄目ですよね……」
分かっていたはずなのに。突き放せば彼女は悲しみを隠し、俺のために無理な笑顔を作る。
俺がそれに耐えられるはずもなく、結局はその表情を見ただけで陥落してしまった。
初めから、俺に断るという選択肢など持ち合わせていなかったのだ。
………………
…………
……
……いつの間にか、少し時間が経っていたようだ。
あんなに強張っていた背中は、今やすっかりと俺に預けられている。ゆらゆらと動く尻尾が腹部に当たって、少しくすぐったい。耳も俺の手の動きに合わせて、ゆっくりと左右に揺れていた。
「はふぅ……」
「ふふっ」
気の抜けた可愛らしい声に、思わず笑みがこぼれてしまう。
ここから表情は見えないが、きっと声と同じようにとろけた顔をしているのだろう。
「…………」
ふと、撫でる手を止めて考える。
このまま甘やかし続ければ、彼女の望みは際限なく膨らんでしまうのではないか。
今回の膝枕だってすぐに慣れ、いずれはこれ以上のことを求めてくるかもしれない。
「だけど……」
元はと言えば、その枷を外したのは俺だ。
自分が蒔いた種だという事実が、重くのしかかってくる。思考が暗く沈み、どこまでも深い底へ落ちていくような感覚――。
「……いてて。……?」
突如、手に小さな痛みを感じて視線を落とす。
すると、キタサンの耳が器用に動いて、俺の手をペシペシと叩いていた。
「キタサン?」
「むぅ……」
頬を膨らませて振り返った彼女の表情は、どこか悲しげで。
その顔を見た途端、またしても心がちくりと痛んだ。
「手が止まっています……」
「えっ? あっ……」
言われてハッとする。無意識のうちに、彼女を撫でる手をすっかり止めてしまっていた。
「ごめんごめん、ちょっと考え事しててさ」
「いえ、あたしが我儘を言ってるのに……ごめんなさい」
膨らませていた頬を萎ませて、しゅんと俯いてしまうキタサン。
早くあの笑顔を取り戻さなくては。俺は焦るようにして、もう一度彼女の頭を撫で始めた。
手の中に、いつも通りの柔らかく艶やかな感触が戻ってくる。
「あっ……えへへ♪」
一瞬驚いたように肩を揺らした後、すぐに嬉しそうに頬を緩ませるキタサン。振り返ったその表情は、とろけるように幸せそうだった。
ああ、そうか。
俺はきっとこの笑顔を見るために、ずっと彼女の我儘を受け入れてきたのだ。
「……今更だよな」
そう、今更だ。
彼女の我儘がエスカレートしていくのも、俺がそれを喜んで受け入れてしまうのも。全部、今更のことだった。
「なら……もう、迷うのはやめだ」
言葉にすると、不思議と心の霧が晴れていく気がした。
難しく考えるのは、もうやめだ。たとえこれが間違っていたとしても、俺は彼女のすべてを受け止める。
腹をくくり、撫でる手にほんの少しだけ力を込める。そんな俺の決意などつゆ知らず、キタサンは幸せそうな顔のまま、何度も俺の手へ耳を擦り寄せてきた。
「ありがとう……ございます……♪」
甘い吐息のような声とともに、彼女の温かな重みが、ゆっくりと俺の腕の中へ落ちていった。