親しき仲にも礼儀あり。他人が今の俺たちを見たら、果たしてどう思うだろうか。
うつ伏せの背中でリズミカルに弾むキタサンの手を感じながら、俺はふと、トレーナーとしての威厳について考えていた。
「気持ちいいですかトレーナーさんっ!」
「うん……すごくいい……」
気の抜けた返事しかできないが、こればかりは仕方がない。それくらい彼女の手が心地いいのだから。
呆れられるかと思ったが、降ってきたのは、小さく弾むような笑い声だった。
「えへへ……気持ちが良いみたいですね! このまま続けていきますから、痛かったら言ってくださいねっ!」
「ん……わかった……」
痛みなどあるはずもない。力任せではない丁寧な手つきに、ただひたすら心地よさが広がっていく。
なるほど、本人が胸を張るだけあって、その腕前は確かに『スペシャル』だ。
グッ……グッ……グッ……。
腰に掛かる、一定のリズムと心地よい重み。
グッ……グッ……グッ……。
抗いようもなく重くなっていく瞼。
グッ……グッ……グッ……。
やがて、意識はゆっくりと暗がりへ落ちていった……。
「……眠っても大丈夫ですからね」
背中越しに降ってきた、優しい声。
いや、そうはいかない。君に申し訳ない。
そう返したかったはずなのに、心地よい睡魔が思考にモヤをかけ、口を開くことすら億劫にさせていく。
暖かな闇に包み込まれるような幸福感に身を委ね、俺は静かに意識を手放した。
始まりは、ほんの少し前のこと。
慌ただしい一日を終えてデスクに向かっていた俺の前に、別れたはずのキタサンが現れたのだ。
担当にマッサージなどさせられないと断る俺に、彼女は真剣な表情で食い下がった。
「……あたしが、そうしたいからじゃ……ダメですか?」
日頃の恩返しだとか、感謝の気持ちだとか。
俺が用意しようとしていた理屈や建前は、彼女のその真っ直ぐな一言の前では、完全に意味を失ってしまった。
『マッサージなら本当に得意なんです! だから……それでも、ダメですか?』
必死な様子で、それでも気遣うように見つめてくる瞳。そのいじらしい願いに、俺はついに白旗を上げた。
「……んっ」
ゆっくりと目を開けると、すぐ隣からキタサンがこちらを覗き込んでいた。
その綺麗な赤色の瞳を、ぼんやりと見つめ返すこと数秒。自分が完全に熟睡していた事実に気づき、俺は思わず跳ね起きた。
『おはようございます、トレーナーさん。ふふっ、よく眠ってましたね』
『す、すまない……。あまりにも気持ちよくて、つい……』
穏やかに笑うキタサン。その無邪気な笑顔を直視できず、俺はいたたまれなくなって少しだけ目線を逸らした。
『これがキタちゃんのスペシャルマッサージですっ! 満足してもらえたみたいで何よりですよ』
ガッツポーズを見せる彼女の笑顔は、まるで太陽のように眩しかった。
情けない姿を見せてしまった気恥ずかしさはあるものの、ほぐれた身体とじんわりと温かい心は、彼女の『スペシャル』な効果を確かに物語っていた。
『ありがとうキタサン。お陰で楽になったよ』
『えへへっ、その言葉が一番のご褒美です!』
花が咲いたような彼女の笑顔に、もう少しだけこの暖かな時間を共有していたいと思ってしまう。
けれど、ふと窓の外へ視線を向ければ、空はすでに薄暗くなっていた。名残惜しいが、門限前に彼女を寮へ帰さなくてはならない。
『もう少し話をしたいけど、もう帰る時間みたいだな……。キタサン、今日は本当にありがとう。また明日な』
『そうですね……はいっ! また明日です!』
――それからというもの。不定期に彼女のマッサージを受けるようになった俺は、微睡みの中で、あることに気がついた。
心地よさに意識が沈む直前、あるいはふと目を覚ましたとき。キタサンは決まって、あの穏やかな顔で自分の右手を見つめているのだ。
きっと、無意識の癖なのだろう。けれど、そのひたむきな優しさに包まれるこの時間が、俺はたまらなく好きだった。
頭の中の霧が晴れ、ゆっくりと意識が浮上する。どうやら、初めてマッサージをしてもらった日の夢を見ていたらしい。
心地よい重さの残る身体で、うっすらと目を開ける。見慣れたトレーナー室。そしてすぐ横には、キタサンの姿があった。
彼女は俺の顔の少し上を見つめていて、俺が目を覚ましたことには気づいていない様子だ。
声をかけようとして、やめた。理由は自分でもよく分からない。ただ、この穏やかな静寂を壊すのがもったいなくて、俺はそのまま彼女の様子を見守ることにした。
チク……タク……。
時計の針の音だけが響く静寂の中、再び重くなる瞼に意識が沈みかけた、そのときだった。
ふわりと、頭の上に何かが乗った。
それはゆっくりと動き出し――まるで、とても大切なものを愛しむように、優しくて、何よりも温かかった。
「…………………」
ふと、微かな声が落ちてきた。
頭上で動く温もりに溶かされそうになる意識を必死に繋ぎ止め、俺はその音の輪郭を探るように、じっと耳を澄ませた。
「いつもありがとうございます……トレーナーさん……」
いつもの元気な響きとは違う、ひどく穏やかな声。
頭上の優しい温もりに動揺し、声を出すこともできずに息を潜めていると――ふいに、髪を撫でていた手のひらがピタリと止まった。
「これで本当に、トレーナーさんは休めてるのかな……。もっともっと出来ることがあるんじゃないかなって、思うけど。……でも、あたしにはこれくらいしか出来ないから」
頭に触れている彼女の手のひらが、微かに震えているのが伝わってくる。
その痛いほどの健気さに、たまらず何か言葉を返そうと口を開きかけた――その時。止まっていた手が、再びゆっくりと動き出した。
「だけど……ううん、だからせめて。……トレーナーさんがゆっくり休めるように。この想いが届くって、信じて」
祈るように髪を梳くその手のひらは、ひどく優しくて温かい。
ふと、『手当て』という言葉を思い出した。傷ついた場所に手を当てることで、人は安らぎを得るからそう呼ぶのだという。
今の俺の心を満たしているこの途方もない安心感を思えば、あの話はきっと本当なのだと、心から頷けた。
「今だけは……ゆっくりと休んでくださいね……」
包み込むような優しい声。子供をあやすような一定のリズムが、心地よく頭を撫で続けている。
その温もりに抗えず、再び意識が沈みかけたとき。無性に彼女の顔が見たくなって、俺はほんの少しだけ薄く目を開けた。
視界の端に滲んだのは、何もかもを許して包み込んでくれるような、深い慈愛の微笑み。
そうか。あの時、自分の右手を見つめていた彼女は――。
その甘い確信とともに、俺の意識は今度こそ、暖かな微睡みの底へと沈んでいった。
――――心地よい微睡みから、ゆっくりと意識が浮上する。
ここはトレーナー室で、俺は確か机に突っ伏して……。寝ぼけた頭のまま、ふと窓の外へ視線を向けて、思考がピタリと止まった。
空が、すっかり茜色に染まっている。
慌てて飛び起きて時計を見ると、信じられないほどの時間が経過していた。
「あははっ、おはようです、トレーナーさん! ……あ、でも外はもう夕方だから『こんばんは』かな?」
振り返ると、すぐ傍でキタサンがニコニコと満面の笑みを浮かべていた。
あまりにも真っ直ぐな笑顔に、思わず気恥ずかしくなって視線を彷徨わせる。……いや、照れている場合ではない。
どうして彼女が、こんな時間までここに残っているんだ?
「こんばんは……って、いやそうじゃなくて。キタサン、なんでこんな時間まで残ってるんだ?」
問いかけると、キタサンは目を閉じて顎に手を当て、「うーん……」とわざとらしく唸った。
「何でって……寝たままのトレーナーさんが、心配だったから……です」
必死にひねり出したようなその言い訳が、あまりにも彼女らしくてクスリと笑みがこぼれる。
胸の奥にじんわりと広がる温かさを感じながら、俺は茜色から夜へと変わりつつある窓の外へ視線を向けた。
「本当にありがとう、キタサン。こんな時間まで待たせてすまなかったな。……遠慮せずに起こしてくれれば良かったのに」
「あんなにグッスリ寝ているのを起こすなんて、あたしには出来ません! 自然に起きるのが一番なんですよ!」
「まったく、キタサンはお人好しだな……。ほら、もう暗いし寮まで送るよ」
「ありがとうございます! えへへ……実は結構暗くなっちゃったから、ゆ……幽霊とか出たらどうしようって、一人で帰るの怖くて……」
えへへと笑うその姿は、いつも通りの明るい彼女だった。
微睡みの中で見たあの穏やかな微笑みは、もしかしたらただの幻だったのかもしれない。
それでも――今の俺には、どうしても彼女に伝えなければならない言葉があった。
「キタサン」
「どうしましたか?」
「届いてるよ」
「えっ?」
「いつもありがとう」
「……あはは、どうしたんですか本当に? 何のことか分からないですよ」
「いいんだ、言いたかっただけだから」
「変なトレーナーさん……。でも、そう言われて喜ばないヒトはいないですもんね。嬉しいですっ。……本当に、本当に嬉しいです……」
キタサンの目の下に浮かんだ、キラリと光る何かを見ないふりをして、真っ直ぐに彼女を見つめ返す。
夜闇の中に浮かぶその表情は、何もかもを優しく包み込んでくれるような、ひどく穏やかな微笑みだった。