一寸先も分からないほどの暗闇の中、ひんやりとした空気が肌を撫でる。そんな空間で唯一輪郭を保っているのは、隣に立つトレーナーさんだけだった。私はすがるような思いで、いつも導いてくれるその横顔を見上げた。
「だ、大丈夫か……キタサン……」
暗闇の中でかすかに見える顔は真っ青で、ぎゅっと握ってくれた手は小刻みに震えている。いつも背中を押してくれる大きくて頼もしい姿は、今ここにはない。
だけど、そんな姿を見ても情けないだなんてちっとも思わなかった。いつも助けてもらってばかりだから。今度は、あたしがトレーナーさんを支える番だ。
「だ、だ、大丈夫ですよ! こ、怖くなんてないですからねっ!」
「俺が言うのもなんだが、めちゃくちゃ震えてるぞキタサン……」
頼もしいことを言いたかったのに、出たのは情けなく震えた声。そのうえ、あたしの両手はちゃっかりトレーナーさんの腕を強くホールドしてしまっている。
うう……これじゃあ、ただの怖がりな女の子だよぉ……。
「俺が先頭を歩こうか。それなら少しは――」
「う、ううう……前に行かれるのは、それはそれで怖いです……。隣にいてください……」
「……だよな。分かった、一緒に行こう」
トレーナーさんが隣にいてくれて、すごく安心する。温かくて心強くてそれだけで大丈夫だって……大丈夫……大……。うわーん、全然大丈夫じゃないよぉ! お化け屋敷怖いよぉ!
そう、ここはと~っても怖いって噂のお化け屋敷。お化けが苦手なはずのあたし達が、どうしてふたりして震えているのか。その理由は……他でもない、あたしのせいなのだ。
――すべての始まりは、ひと月前のトレーナー室でのこと。
ミーティング自体はいつも通り、スムーズに終わったはずだったのに。そのあとの雑談で、うっかりあんな話になっちゃうなんて……。
「――そういえばあのときのお化け屋敷怖かったよなぁ」
その一言を聞いた瞬間、あたしの心臓は大きく跳ねた。
急に指先が冷たくなって、頭の血がすぅ~っと引いていく。あ、不味い。気づいた時にはもう、あのときの暗闇の光景が、あたしの目の前を覆い尽くそうとしていた。
「キタサン……? 急に顔が青くなってるぞ、大丈夫か?」
ひっ……追っかけてくるよ……。あわわわわ……。は、早く逃げないと……。
「キタサン!」
突然、トレーナーさんに両手をぎゅっと握りしめられた!
は、早く逃げないと追いつかれ……って、あれ?
「あ、あれ……? 追いかけてきた、髪の長い女のヒトは……?」
「ふぅ……よかった。どうやら正気に戻ったみたいだな」
こわごわと周りを見渡す。さっきまでの不気味な暗闇も、後ろから追いかけてくるゆ……幽霊……もいない。
明るい蛍光灯の光に、見慣れた壁紙。そうだ、ここはトレーナー室で、目の前にはトレーナーさんがいるんだ。あのお化け屋敷は、もうずっと前の話だった。
ほっと安堵の息を吐き出した、その時だった。右手に、じんわりとした温かいものを感じる。
あれっ……? そういえば、何でトレーナーさん……あたしの手を握ってるの……?
「あ、あの……トレーナーさん。な、なんで……手、繋いでるんですか……?」
さっきまでの恐怖とは全く別の理由で、胸の奥が苦しい。
心臓の音がドキドキを通り越して、完全にバクバクしちゃってる……! 繋がれた手から、頭のてっぺんまで一気に熱が広がっていく。
「あっ……すまない。君が少し正気を失ってたから、つい」
「し、正気……! あ、そ、そうですか、なるほど……っ」
暫くの間、二人の間に少しぎこちない沈黙が落ちていた。
やがて、あたしの顔色が戻ってきたのを見てホッとしたのか、繋がれていた手がそっと離れていく。
……手のひらに残っていた温もりが消えて、少しだけ寂しくなったのは、今は気づかなかったことにしよう。
「う~ん……やっぱり、あの時のお化け屋敷、相当怖かったみたいだな……」
「そうですね……。たまに夢に出るくらいにはトラウマです……」
「あはは……奇遇だな、俺もだ……」
あの時のことを思い出して、再び顔が青くなっているトレーナーさん。
……あんなにふたりして絶叫してたら、脅かしたお化け役のヒトたちは、さぞかし楽しかっただろうなぁ。
「うーん……。やっぱりここは、リベンジしないといけませんよね!」
「別に、無理に克服しなくてもいいとは思うけどな」
苦笑いしているトレーナーさんの言うことも、確かに分かる。無理に克服する必要なんてないのかもしれない。
けど……あたしは、お祭り娘だから。怖がって終わるより、やっぱり隣で一緒に笑って、思いっきり楽しみたいんだ!
「どうやって克服すればいいかな……」
「まぁ、前向きなのはいいことだな。よし、俺も手伝うよ」
「ありがとうございます! トレーナーさんがいれば絶対大丈夫です!」
頼もしい言葉に胸が温かくなるのを感じながら、早速、顎に手を当てて作戦会議だ。
ええと、いきなり怖いところに行っても、また叫んで終わっちゃうだけだよね。それなら、まずは……。
「まずは、怖くない場所から慣らしていくのはどうですか?」
「確かに、それが一番確実かもな」
「そうですよね! よし、そうと決まれば色々調べなくちゃ!」
「俺の方でも調べてみるよ」
それからというもの、あたし達は色々調べては、ふたりきりでお化け屋敷に通う日々を送った。(あたしの怖がりを他のヒトに見られたくないから……というのはここだけの秘密だ)。
最初は入って数歩でしゃがみ込んでいたあたしも、回数を重ねるごとに、少しずつ震えながらでも前を向いて歩けるようになっていた。
何回目かの挑戦を終えた帰り道。あたしとトレーナーさんはふたり並んで、今日の反省会をしながら笑い合っていた。
茜色に染まる夕焼けが、あたし達の影を長く伸ばしている。この真っ赤で綺麗な景色の中にいるあたし達は、他のヒトから見たら、青春の一コマみたいに見えたりするのかな。
「うん、今回も大丈夫でしたね! これならハードルを上げても良さそうかも!」
「確かにな! 今の俺達なら、どんなところでもいける気がしてきたぞ!」
思えば今日は、一度もトレーナーさんの腕にしがみつかなかった。トレーナーさんも、変にビクビクせずに歩けていたし、あたし自身も、出口を探すより隣の横顔を気にするくらいには落ち着いていた。
練習や勉強以外でも、成長を実感できることってあるんだなぁ。
「あたし達に怖いものなしです! いざリベンジ!」
「ああ! 今の俺達なら絶対にいける、最高のリベンジにしよう!」
ふたりで握手を交わしながら、次のステップアップのことばかり考えていた。これを乗り越えられたら、父さんのようにカッコいいヒトに近づけるかも……! ふふふ、早く次が来ないかなぁ。
――そして、トレーナーさんの腕にしがみついて震えている、今に至るというわけだ。
……だって、聞いてない! 最初は余裕だったのに、いきなり後ろから髪の長い女のヒトが猛ダッシュで追いかけてきたのだ。お化けが走るなんて反則だよ……! パニックになりすぎて、思わずトレーナーさんを担いで逃げちゃったし……。
おまけに横からは知らない声が聞こえてくるし、もう無理だよぉ……!
「前みたいに、いっそ走り抜けてもいいんじゃないか……?」
「ダメですっ! そ、それじゃ弱点の克服にはならないじゃないですか!」
気遣ってくれるトレーナーさんには悪いけど、ここで逃げたらお祭り娘の名が泣いてしまう。
……あたしの心はとっくに大泣きしてるけど、お祭り娘の看板を泣かせるわけにはいかないんだっ!
「あ、あたしはお祭り娘!ここで逃げるわけにはいかないんです!」
「ソウダネ、ニゲチャダメダネ」
よし、トレーナーさんも同意してくれた! さぁ、気合を入れて進まなくちゃ。
……あれ? トレーナーさんって、こんな声だっけ?
ふと背筋に冷たいものが走り、恐る恐る声のした方へ振り向くと――そこには、全く知らないヒトが立っていた。
「オネエチャンキレイダネ、ソノカラダホシイナァ」
「「うわああああ!?!?!!!」」
脇目も振らずに逃げた。逃げて逃げて逃げて逃げて逃げまくった。片手に残る手の感覚と一緒に走った。どこがゴールかなんてわからない。だけど今のあたしには走ることしかできなかった。
気づけば、もう出口の光が見えていた。
「ごめんなさい……トレーナーさん……。結局苦手の克服が出来ませんでした……」
「だ……大……丈夫……だ……。また……チャ……ンス……は……ある……だろう……から……」
「トレーナーさん?」
トレーナーさんの声がおかしい。か細くて弱々しくて……まるで、このまま倒れてしまいそうなくらい。
恐る恐る声の方を見て、あたしは息を呑んだ。
そこには、今度こそ本当に限界を迎えて、憔悴しきっているトレーナーさんがいた。
「と、トレーナーさんっ! な、なんで……っ」
「き、君の……スピードに……ついていったら……こうなった……」
そっか……あまりに驚きすぎて、トレーナーさんの手を引いたまま、あたしの全力で走っちゃったから……。
普通のヒトが、ウマ娘の全速力についてこられるわけがない。これならいっそ、最初から担いで逃げればここまでボロボロにならなかったのに……。
申し訳なさすぎて、あたしはしゅんと肩を落とした。
「本当にごめんなさい……」
「ふぅ……ようやく、少し息が整ってきた……。俺なら大丈夫だから……キタサンは、気にしないでくれ」
ゆっくりと息を整えたトレーナーさんは、まだ少し肩で息をしながらも、優しい表情であたしを見てくれていた。
「それに前だったら、出口までそのまま走り抜けてたのに、今回はそうじゃない。大きな一歩だよ」
「トレーナーさん……」
そうやっていつも気遣ってくれるトレーナーさんのためにも、次こそは絶対に、こんな情けない姿は見せない。心配させないくらい、あたしがもっと強くなってみせる!
――うんっ! そう決心したら、一気に心の中が熱く燃えてきた!
「そうですね……。一歩ずつですよね! また頑張ります!」
「俺も協力するからな!」
「ありがとうございます、トレーナーさん! 今度はトレーナーさんを守れるくらい強くなります!」
「ははは、すごく頼もしいよ。もう少しでゴールだから頑張ろう」
決意を新たにして、出口に向かって歩き出したあたし達。
――と、背後から『ドドドドドドッ!』とものすごい足音が聞こえてきた。
え……お化け! よく見たら結構な速度でこっちに来てる!? というかなんで一体だけじゃなくて沢山いるの!?
いい感じの雰囲気でお化け屋敷終われそうだったのに〜!
「ここ、追いかけてくるお化け多くないですか!?」
「今日だけで何回走ってるんだろうな俺達……」
理不尽なお化けに文句を言いつつ、また全力で駆け出すあたし達。
弱点克服への道のりは、まだまだ遠そうだな。……でも不思議と怖くはなくて。
ふたりして顔を見合わせ、自然と笑みをこぼしながら、あたし達は出口に向かって走り続けた。