休日明けのトレセン学園。
あたしはカバンを持ったまま、トレーナー室へと急いでいた。
なんてことはない。授業が終わったから、これからトレーニングに向かうと伝えるためだ。
……なんて、嘘。本当はトレーニングが始まる前に、少しでもトレーナーさんとお話をしたかったから。
「何を話そうかな……♪」
昨日あった、あんなことやこんなこと。
きっと全部は話せない。だけど少しでも多く話したい。そんな想いが、朝起きてからずっと渦巻いていた。
ようやく辿り着いたトレーナー室の扉。大きく掲げた手をゆっくりと振り落とす。
トントントン……。
「トレーナーさん! キタサンブラックです!」
「キタサン? トレーニングまではまだ時間があるぞ?」
「えへへ……少しだけお話したくて、早く来ちゃいました!」
「そういうことか。入っておいで」
やった、それなら遠慮なく入りますね!
ゆっくりと扉を開けると、いつもの優しい微笑みを浮かべたトレーナーさんがそこにいた。
「お邪魔します! トレーナーさん!」
「いらっしゃい、キタサン」
ゆっくりと扉を閉め、弾む気持ちで足を踏み入れる。
早くお話がしたい! 色んなことを!
足早に前へ進んでいくと、トレーナーさんの机に見慣れないものが置いてあった。
「……あれ? これって……?」
机の上にちょこんと置かれていたのは、見るからにモフっとしている、あたしの顔をしたぬいぐるみ。
クレーンゲームで見かける「ぱかプチ」……の、少しレアな特大サイズだ。
マイクを握ってニッコリ笑っていて、今にも歌い出しそう。ただ、自分自身とまじまじ見つめ合う形になるのは、なんだか気恥ずかしい。
「ああ、これ? 昨日手に入れたんだ」
トレーナーさんがぱかプチをヒョイっと持ち上げ、あたしの前に差し出してくれた。
……近くで見ると、やっぱりすごく大きい。こんな大物を取るのは結構大変だったはずだ。凄いなぁ……。
感心しながらそっと手を伸ばして撫でてみる。……うん、ふわふわで凄くいい手触り。
「こんな大きいのを取れるなんて、トレーナーさんってクレーンゲーム得意なんですね!」
「あー……うん、まあ……」
「あっ……」
そっと視線を外したトレーナーさんを見て、あたしはぱかプチを撫でる手を止めた。
なるほど……お金、結構使っちゃったんですね……。難しいですよね、クレーンゲーム……。
下手っぴなあたしには痛いほどよくわかるからこそ、かける言葉が見つからない。
二人の間に、ほんの少しだけ静寂が落ちた。
「で、でもゲットできて良かったですね! よっ、流石トレーナーさん!」
「はは……ありがとう。ちょっと救われたよ」
必死のフォローを聞いたトレーナーさんは、こちらに視線を戻し、照れくさそうにぱかプチを撫で始めた。
少しでも気が晴れてくれたならいいな。その様子を見ながら、あたしは密かにホッと胸を撫で下ろした。
「……コホン。それはそうと、キタサンはどんな話をしたかったんだ?」
「あ、そうでした! 実は昨日――」
それからあたしは、昨日あったことを夢中で話し始めた。
「昨日は迷子探ししたり、道案内したりして……」
「キタサンらしいな」
「ちょっと大変でしたけど、見上げた夕焼けがキレイでした!」
「確かに昨日は一段とキレイだったよな」
「帰ってからも、お手伝いたくさんしました!」
「……しっかりと休めたの?」
「? バッチリ眠れましたよ?」
「それならいいか……いいのか?」
話を聞いている間、トレーナーさんはずっと笑顔だった。
昨日あったことを余すことなく伝えられて、あたしの胸もポカポカと温かくなる。
……ただ、その間もずっと撫でられているぱかプチが、ちょっぴり羨ましかった。
「聞いてくれてありがとうございます、トレーナーさん!」
「いや、こっちも聞いていて楽しかったよ。ありがとう」
話し終えて一息つく。チラリと時計を見ると、トレーニングまではまだ少し時間があるみたいだ。
それなら……。
あたしの視線は、トレーナーさんが未だに撫で続けているぱかプチへと向かった。
せっかくだから、この子について聞かせてもらおうかな?
「トレーナーさん。その子、昨日手に入れたんですよね?」
「そうだよ」
「……なんで、あたしだったんですか? 他の子だっていたのに」
「……笑わない?」
「? 笑いませんよ」
トレーナーさんはぱかプチを撫でる手を止め、ゆっくりと机に置いた。
どんな理由が飛び出すんだろう。ワクワクと、妙なドキドキが混ざり合って胸が鳴る。
どうか、他愛のない話でありますように!
心の中でそう祈りながら、あたしは息を整えるトレーナーさんを見守った。
「このぱかプチがいると、君が応援してくれてるみたいに感じるから……かな」
「応援、ですか?」
「歌っている時の君は、走っている時とはまた違う魅力があるんだ。力強くて一生懸命で、心を熱くしてくれる」
「あたしの歌を、そんな風に思ってくれてたんですね……」
父さんみたいに、皆を笑顔にしたい。そう思ってずっと歌ってきた想いが、目の前の人にしっかりと届いていた。
じわじわと胸の奥が熱くなり、どうしようもなくほっぺたが緩んでいく。今のあたしは、きっとすごく締まりのない顔をしているはずだ。
さすがにそれを見られるのは気まずくて、あたしは両手で自分の顔をムニムニと挟み込み、必死に平常心を装った。
「君がいない時でも、その熱を感じていたくてね。それで、マイクを持ったこのぱかプチを見つけて、何としても手に入れたいと思ったら……」
「あはは、なかなか取れなかったんですね?」
「……はい。そういうことです」
そっぽを向くトレーナーさんを見て、あたしはようやく熱の引いた頬から手を離し、小さく息を吐いた。
『心で感じる』ための役目。机の上にちょこんと座るぱかプチを見つめると、自分とは違う形で頼られているのがなんだかもどかしくて、あたしはこっそり、その丸い鼻先を指でつついた。
「それが、この子の役目なんですね」
「おかしいかな?」
「全然そんなことないです! あたしにできないことができるこの子が、羨ましいくらいですから!」
「そっか……。ありがとう、キタサン」
「……? どういたしまして?」
言葉の意味はわからなくても、胸の奥がじんわりと熱くなる。
あたしは照れ隠しのように視線を机に落とし、マイク片手に満面の笑みを浮かべるぱかプチをまじまじと見つめた。その憎らしいほど眩しい笑顔に、思わず唇が尖ってしまう。
……そうだ。
ポンッ、と小さく手を打つ。もしかしたら余計なお世話かもしれないけれど、この子にはできなくて、あたしだからできる「やり方」を見つけた。
「そのぱかプチ、ちょっと貸してもらえますか?」
「いいけど……何をするんだ?」
「えへへ、それは内緒です!」
不思議そうな顔のトレーナーさんからぱかプチを受け取ると、あたしはそれを、ゆっくりと胸に抱き寄せた。
目を閉じて、そのふっくらとした体が少し沈み込むくらい、ギュッと抱きしめる。
それから変わらない笑顔をゆっくりと撫でると、手のひらを伝うふわふわとした感触に、自然と心が解けていった。
「ありがとうございます、トレーナーさん! はい、お返ししますね!」
「あ、ああ、ありがとう……。で、キタサン。今のは一体……?」
そりゃそうだ。説明もなしにいきなりぬいぐるみを抱きしめたら、誰だって驚くに決まっている。
きょとんとしているトレーナーさんが少し可笑しくて、あたしはえへへと笑いながら種明かしをした。
「さっき、あたしがいない時でも応援してるみたいだって、言ってくれましたよね?」
「ああ、そう思ってるよ」
「だから、この子にあたしの想いもギュッと込めておきました! トレーナーさんには、いつまでも元気でいてほしいですから!」
言葉にした途端、顔が熱くなるのを感じた。
だけど、この想いだけはちゃんと届いてほしい。あたしは照れ隠しをグッと堪えて、祈るようにトレーナーさんの瞳をジッと見つめる。
少しの間を置いて、彼も優しく視線を合わせてくれた。
「本当にありがとう、キタサン」
「えへへ……想い、ちゃんと届きましたか?」
「ああ。これ以上ないくらいにね」
「良かったです! ……あ、でも! 頑張りすぎは絶対ダメですよ! もし無理したら、この子はすぐにあたしが預かりますからね!」
「わ、分かったよ。没収されるのは困るから、ちゃんと気を付ける」
本気で慌てるトレーナーさんの姿に、あたしは思わず吹き出してしまった。
昨日お迎えされたばかりなのに、あんなに大事にされるなんて。ぱかプチめ、やっぱりちょっと妬けちゃうな。
でも、あたしだって負けていられない。
よしっ、と小さく気合いを入れ直し、ふと時計に目をやると、もうトレーニングの時間がすぐそこまで迫っていた。
「……おっと、そろそろトレーニングの時間だ」
「ですね! 今日もビシバシいきますよー!」
「ははっ、お手柔らかに頼むよ」
「あ、そうだ! トレーナーさん、先に行く前にちょっとだけその子貸してくださいっ」
「いいけど……? じゃあ、俺は先に行って準備しておくよ」
トレーナーさんからぱかプチを再び受け取る。
指先に伝わるふわふわとした感触は、いつまでも撫でていたくなるほど心地いい。
その愛らしい笑顔をじっと見つめていると、やがて背後からパタンと扉の閉まる音が聞こえた。
「ふたりきりになっちゃったね」
話しかけても、もちろん返事は返ってこない。
しんと静まり返った部屋の空気にほんの少しだけ胸がチクリとしたけれど、あたしは気を取り直してふわりと微笑んだ。
さっきよりもう少しだけ深く。もう一度、たっぷりの想いを託すようにその子を胸元へ抱き寄せる。
「……ちょっとだけ妬けちゃうけど、あたしの代わりができるのはあなただけだから。あたしがいない時のトレーナーさん、しっかりお願いね」
祈りを込めるように目を閉じて、さっきよりも少しだけ長く、ギュッと抱きしめる。
ありったけの想いを詰め込んだこの小さな背中が、どうか、あたしの代わりにあの人をずっと温めてくれますように。
「任せたからね、キタサンブラック!」
両手で抱えたぱかプチの頭を、何度も優しく撫でる。
――任された!
ふいにそんな元気な返事が聞こえた気がして、あたしは思わずほっぺたを緩ませた。気のせいかもしれないけれど、胸の奥がぽかぽかと温かい。
あたしはこの子を元の特等席へとそっと戻し、満足感とともに手を離した。
「行ってくるね」
見えない想いをしっかりと胸にしまい、あたしは扉へ向かって歩き出す。
最後にそっと振り返ったあの子の笑顔は、今にも歌い出しそうなほど明るくて、あたしの心を照らす太陽みたいに煌めいていた。