「あたし、花菖蒲にあこがれてるんです!」
「どうした、急に」
明るい声がトレーナー室内に響き渡る。
のんびりと見ていた資料から視線を外して振り向くと、キタサンが太陽のような笑顔でこちらを見つめていた。
「ふっふっふっ……トレーナーさん、花菖蒲の花言葉を知ってますか?」
「いや、知らないな」
「ならば教えてあげましょう!」
瞳を輝かせながら尻尾を大きく揺らし、腰に手を置いている彼女の姿に自然と頬が緩んでしまう。
誰かから聞いたであろう自信満々な言葉を聞き逃さないよう、俺は姿勢を正した。
さてさて、どんな情報が飛び込んでくるのだろうか?
「花菖蒲には『心意気』って意味があるんです!」
「『心意気』か。……なるほど」
誇らしげに語る彼女を見つめながら、俺は深く頷いた。
確かにお祭り娘のキタサンにピッタリな言葉だ。指標にするのも分かる気がするな。
「それに! お祭り娘は水も滴るイイ女ですから!」
ビシッとピースを決めて朗らかに笑うキタサンに、俺は思わず首を傾げた。
水も滴る……キタサンが良い子なのは間違いないが、『イイ女』とは?
つい顎に手を当てて、真剣に考え込んでしまう。
「むむ、納得してないですね?」
ほんの少しだけ低い声に、ハッと我に返る。
慌てて視線を戻すと、キタサンは頬を膨らませ、ジトッとした目つきで俺を見ていた。
「いや、君が良い子なのはその通りだから!」
「……なるほど、『水も滴る』に問題があるんですね?」
「あ、いや、問題という意味でもなくて……」
ああ、キタサンの目がさらに鋭くなっている。頬だって風船みたいに膨らんでいるぞ。
額を冷たい汗が伝っていく。
カラカラに乾いた口内から、同じように乾いた笑いがこぼれてしまう。
穴が空くほどの視線に耐えきれず目をそらしていると――フッと、その空気が緩んだ。
「――なんて、びっくりさせちゃいましたね!」
「……キタサン?」
「おちゃめなことをしてしまうのもお祭り娘ということで、ここは一つ!」
ペロッと小さく舌を出して笑う彼女に、俺は完全に毒気を抜かれてしまった。
「そ、そうか……」
俺は頬を掻きながら、困ったように笑う。
つまり、からかわれたってことか。
ふうっと小さく息を吐き出すと、いつの間にか硬くなっていた肩の力が抜けていった。
「ちなみにさっきのは、梅雨に咲くから『水も滴る』とかけてみました!」
「ああ、なるほど」
「上手く……はないですね。意味が通じないんじゃ意味ないですもん」
シュン……と音が聞こえてきそうなくらいに、キタサンは耳をペタンと伏せて肩を落とす。
喜怒哀楽が分かりやすい、いつも通りの彼女だ。
改めてからかわれていただけなのだと分かり、胸がすっとするのと同時に自然と笑みがこぼれた。
「そんなに気にしなくても……。いや、いい例えだと思うよ」
「でも、分からなかったんですよね……」
「ぐっ……そこを言われると痛いんだよなぁ」
「こ、この話はやめましょう! お互いに良くないです!」
「そうだな、そうしようか!」
キタサンは勢いよく手を伸ばしてストップをかけた。
自分からこの話をしたのでは? なんて思わなくもないけど、キタサンの言うことは間違っていない。
お互いに苦笑いを浮かべていると、少しずつ心が落ち着いていく。
「……ということで、あたしは花菖蒲らしい生き方をしていきたいんです!」
グッと拳を握りしめて高らかに声をあげるキタサンに、思わず笑みがこぼれた。
彼女のこういうところこそ、確かに『心意気』ってやつなのかもな。
「十分できてると思うけどな」
「まだまだです! 目指すは父さんなんですから!」
あの演歌歌手が目標か。確かにハードルは高い。
彼女の握りしめた拳の強さが、その覚悟を物語っている。
だけど――
俺はゆっくりと立ち上がり、彼女の方に歩みを進めた。
「トレーナーさん?」
一瞬だけ尻尾をピンと立ち上げ、目を丸くしながら俺の方を見ている。
近づけば近づく程に分かる彼女と俺の身長差。いくら彼女が平均身長より大きいといっても、俺と比べたらまだ小さい。
――それでも。
「大丈夫、君ならきっと辿り着けるよ」
その小さな拳を包むように、俺は両手を重ねる。
確かにまだ、俺の手に収まるくらい小さな拳かもしれない。けれど、初めて会った時よりも確実に成長している彼女は、いずれ俺と並ぶくらいに――いや、誰よりも大きな存在になっていくはずだ。
「俺が信じているキタサンブラックは、いつだって頼もしくて、誰もが憧れる存在なんだから」
重ねた両手に、さらにグッと力を込める。
俺の熱を移すように、ただ強く握りしめた。
「なんて、ちょっとカッコつけすぎだよな――」
少しだけ熱くなっていく頬に耐えきれず、両手を離そうとした。けれど――上から重ねられた彼女のもう片方の手によって、ギュッと引き留められてしまう。
今度は俺の方が目を丸くする番だ。瞬き一つした後に、思わず彼女の顔を見つめ返した。
「いいえ、あなたの想いは届いてますよ」
目に映る彼女の表情は、いつもの太陽のような笑顔ではない。
決意や熱意――いや、『心意気』を瞳に宿した女性の姿だった。
離そうとしていた手にもう一度力が入る。もう離そうという気持ちはとっくに消えていた。
「あなたから貰った想いがあれば、もう絶対に、誰にもあたしを止めることなんてできない。……父さんみたいになれるって、確信しました」
キタサンの握る手に、さらにギュッと力が込められる。ともすれば痛みを伴うような強さのはずなのに、不思議と痛みはない。
それどころか彼女の熱が俺に伝わり、心臓の奥底まで燃やしてしまいそうだ。
「だから――これからも、あたしに期待してくださいね!」
そしていつも通りの晴れ渡るような笑顔に変わる。
何よりも信じられる、俺が思う彼女の一番の魅力だ。
「ふふ、それは今さらだろ?」
「あはは、それもそうですね!」
強く握りしめていた彼女の力が緩み、ゆっくりと手が離れていく。それに合わせて、俺もそっと指をほどいた。
こんなことを言い合う方が照れるはずなのになぁ。
頬の熱は、俺の両手に宿る熱に比べたら大したものではなかった。
「この勢いのまま走り出したい! ……のは、山々なんですけどね」
「流石にこの天気だとなぁ」
燃えるような瞳でこちらを見ていたキタサンだが、困ったように笑いながら窓の方に視線を移した。
つられて俺も外を見てみたが、状況が変わることはない。
今朝から降り続く雨は、勢いこそ落ち着いてきたものの、まだまだ止む気配はなかった。
今日はトレーニングこそ休みだが、雨が上がるまでもう少しだけここに居たいというのが、彼女の希望だ。
「……今のうちに寮に帰った方がいいかもな」
「……ですね」
重なり合うため息をこぼしながら、彼女はくるりと俺に背を向けてカバンの方へ歩き出した。
さて、俺の方ももうひと頑張りしなくちゃな。
熱の冷めない手を握りしめながら、仕事机に向か――
「あっ、そうだ! トレーナーさん、もう少しだけあたしに付き合ってください!」
――おうとした動きを、雨を吹き飛ばすような声につられて止めた。
振り返ると、キタサンがこちらを手招きしていた。
「すぐに終わるので!」
そんなこと言わなくても大丈夫なのにな。
笑みがこぼれるのを隠そうともせず、彼女の方に歩き出した。
「こっちです、こっち!」
タッタッタと小走りで、キタサンは前を向いて進み出す。
廊下も越え、玄関も越え。
傘を受け取ろうともせず、雨に濡れるのを気にする様子もなく駆け出していく。
俺は傘を持ちながら追いかけるので精一杯だ。
「はぁっ……はあっ……」
これと決めたキタサンには絶対に勝てない。
息を切らしながら必死に足を動かし、雨の降りしきる中、ようやく立ち止まった彼女の背中に追いついた。
「花菖蒲、学園にもあるって聞いたことあるんですよ!」
彼女が称えるように手を伸ばし、花菖蒲を指差す。
確かに雨に打たれることで輝きを増したその花は、梅雨にふさわしい風情がある。
――そして。
「水も滴る良い花、ですよね!」
「……ああ。本当に、君の言う通りだ」
雨に打たれながらも輝きを失わない彼女の笑顔も、間違いなく『水も滴るイイ女』だった。