夏が徐々に近づいてきてますね
「はぁ……ふぅ……」
両膝に手をつくと、嫌でも肩で息をしてしまう。
ポタリと落ちた汗が視界の端をかすめ、焼けつくような石段で弾けて一瞬で消えていった。
なんとか体に力を込めて見上げた先、遥か上方に小さく映る鳥居の姿。
くそぉ……まだ先は長いのか……。体力はあると思っていたのになぁ……。
ジリジリと肌を刺す日差しと、下からの強烈な照り返し。ただ立っているだけでも、無情に体力が奪われていく。
「トレーナーさぁん!」
見上げた先の小さな鳥居のそばに、見慣れた人影が姿を現した。
大きく両手を振りながら俺を呼ぶ彼女の前で、これ以上カッコ悪いところは見せられない。
もう一度足に力を込め、一段一段を踏みしめるように上っていく。
滴り落ちる汗も、肌を刺す日差しも、鉛のように重い体すら、今の俺には関係ない。
——ただ確実に、彼女の待つ場所へ足を進めるだけだ。
「……っ、よし!」
最後の石段を力強く踏みしめ、大きく息を吐き出して天を仰ぐ。
下からはあんなに小さく見えていた鳥居は、今は俺よりも高くそびえ立ち、痛いほどだった日差しを遮るように大きな影を落としていた。
吹き抜ける風が火照った体をすっと冷やしていく。過酷だった先程までの暑さが、まるで嘘のように引いていった。
「おつかれ様です、トレーナーさん!」
待ち構えていたかのようにパタパタと駆け寄ってくる彼女の笑顔に、自然と口角が上がる。
「……キタサン、お待たせ」
ハツラツとした声とともに駆け寄ってきたのは、担当ウマ娘のキタサンブラック。
俺と一緒に下から上ってきたはずなのに、彼女は全く息を切らしていない。さすがはウマ娘と感心してしまう。
あっという間のスピードで俺を置いて階段を上っていってしまった……と言うと聞こえが悪いか。俺のペースに合わせようと申し訳なさそうにしていた彼女を、笑って送り出したのは俺の方なのだから。
「肩、貸しますよ?」
「いや、もう大丈夫。先に進もうか」
「……はい」
「ごめんごめん」と口を尖らせる彼女に手を合わせつつ、今度こそ二人で一緒に歩き出した。
拗ねたような態度を見せつつも、その歩幅はずっと俺の遅いペースに合わせてくれている。
やっぱりキタサンは、根っからのお助け大将なんだな。
隣を歩く彼女を見ているだけで、愛おしさに自然と笑みがこぼれてしまう。
「むむ、何を笑ってるんですか?」
「いや、なんでもないよ」
「むぅ~……教えてくれてもいいじゃないですか」
「まあ、悪いことじゃないから」
「口に出してくれてもいいのになぁ」
ツンとしたことを言ってはいるが、パタパタと揺れる尻尾と緩んでいる頬は何も隠せてはいなかった。
俺も同じように頬を緩ませたまま進んでいくと——
チリーン……チリーン……
「わぁ……」
吹き抜けていく風とともに、一斉に鳴り響く音。眼前に広がった景色に、俺は息を呑んで目を大きく見開いた。
木々に覆われた薄暗がりの中に広がる、色とりどりの風鈴たち。ところ狭しと揺れるたびに、涼やかな音色が辺り一面を優しく包み込んでいく。奥にひっそりと佇む神社の姿も相まって、まるで異世界に迷い込んでしまったみたいだった。
「きれい……」
揺れ動く無数の短冊は、まるでこちらを手招きしているかのようだ。
その涼やかな音色に誘われるように、キタサンはゆっくりと、その世界へ足を踏み入れていく。
「あはは♪」
無数の風鈴が奏でる音色に合わせるように、キタサンはくるくると回る。
ダンスというには拙くて、盆踊りというには型から外れていて。ただ跳ねるように、ただ揺れるように。
彼女が初めからこの世界の住人だったのだと錯覚するほどに、自然とその景色に溶け込んでいた。
「トレーナーさん、早く早く!」
大きく手を振る無邪気な姿は、さっきまでとは別人みたいだ。俺を気遣ってくれていた『お助け大将』なんて、ここにはいないのかもな。
ほんの少しだけ残る足の重さを見ないふりをして、俺は吸い寄せられるように彼女の元へと歩き出した。
「すぐ行くよ」
自然と顔が綻ぶのも気にせず歩みを進めるたびに、涼やかな風と鈴の音が体を優しく包み込んでいく。
さっきまでいた過酷な世界とはまるで別物だ。あんなにかいていた汗もすっと引き、火照っていた体はすっかり涼しくなっていた。
「トレーナーさん!」
スッと俺のもとに伸ばされる手。沢山の人々に愛され、その想いを背負い、夢を与えてきた手のひら。
だけどその手は、俺がそっと重ねるだけで隠れてしまうほどに、小さい。
「一緒に踊りましょう!」
それでも、俺の体くらい簡単に引っ張ってしまえるほど、力強くて、ひだまりのように温かい手のひらだ。
だから——
「……仕方ないな」
引かれた手を強く握り返し、自然と口角を上げながら、彼女に引かれるまま足を踏み出した。
無理に合わせようとした重たい足は、何度ももつれて転びそうになる。
ははっ。これじゃあ、キタサンのダンスを拙いなんて笑う資格、俺にはないじゃないか。
「ほらほら、もっともっと!」
それでも。
俺の手を引く彼女が、ずっと笑っていたから。
転ばないように必死に足を踏ん張って、無我夢中で彼女のステップに合わせて踊り続けた。
チリーン……チリーン……
再びその音がハッキリと耳に届いたのは、あれからどれくらい経った後だっただろう。
二人同時にピタリと足を止め、激しく肩で息をしながら頭上を仰ぐ。無数の風鈴達は、まるで俺達を見守るように、変わらず涼しげに揺れていた。
「あははっ……付き合ってくれて、ありがとうございます」
「いや……楽しかったよ」
「……ふふっ、それなら良かったです!」
お互いに顔を見合わせて笑い合う。
そういえば、あれだけもつれそうだったのに、結局一度も転ぶことはなかったな。
俺が倒れないように、彼女がずっと力強く支えてくれていたからだ。
今も変わらずに俺を引いてくれている、その小さな手をギュッと握りしめる。
「……えへへ」
彼女の微笑みとともに、その小さな手は優しく握り返してくれた。
チリーン……
あれほど吹いていた風がふっと止む。最後に一度だけ涼やかな音を残して、辺りはしんと静まり返った。
まるで、奥にひっそりと佇む神社が俺達を呼んでいるかのようだ。
「行こうか」
「はい!」
歩幅を合わせて、神社へと歩き出したその時——
チリーン……
もう一度だけ優しく風が通り抜け、俺達を見送るように風鈴の音が鳴った。
◆◆◆
木陰の涼しいベンチに腰を下ろすと、少しだけ遠くでセミの鳴き声が聞こえる。
「ふぅ〜……」
大きく息を吐きながら、隣に座っている彼女は両足をゆらゆらと動かしている。
あの後、神社で俺と一緒にお参りをしたキタサンは、掃除をしている住職さんの手伝いをした。俺の何倍も率先して働いたためか、さすがの彼女も珍しく疲れてしまっているようだ。
「キタサン、お茶持ってきたよ」
「ありがとうございます!」
何度も頭を下げて感謝してくれた住職さんから頂いたお茶を、彼女に手渡す。
顔を上げた彼女は、冷たいお茶をグイッと喉に流し込んだ。
その様子を見守ってから、俺も彼女の隣に腰を下ろしてお茶を飲む。うん、ひんやりとしていて美味しいな。
ふと顔を上げ、元来た道の方へ視線を向けると、遠くからかすかに風鈴の鳴る音が聞こえてきた。
「トレーナーさん」
「うん?」
「どうしてここに連れてきてくれたんですか?」
「どうして、か」
じっと待つキタサンの視線を受けながら、俺は半分ほど残ったお茶を見つめた。
そして、考えをまとめるようにもう一口だけ喉を潤してから、ゆっくりと彼女の瞳を見つめ返す。
「気分転換になるかなって」
「えっ?」
「今年はずっと走り続けてたからさ、たまにはこういうところがいいと思ったんだよ」
先輩や同期に色々と聞いて、ようやく見つけた場所。
それがここだ。
いつも沢山の人に囲まれている彼女だからこそ、人目を気にせず、ゆっくりと心落ち着ける場所がいいと思ったのだ。
「まあ、今年はまだまだ折り返しではあるんだけどね」
「そう、ですね」
「『お助け大将』の君じゃない日も必要だろ? ……なんて、思っていたけど。やっぱり君はキタサンブラックなんだよな」
「あ、あはは……。これがあたしの性分なもので……」
少しだけバツが悪そうに、彼女は空になった湯呑みを両手でつつむ。
「いや、キタサンらしくて嬉しかったよ」
俺が自然と口角を上げてそう伝えると、彼女はピタリと動きを止めた。
「そう……ですか……」
そう言った後、キタサンはふいと俯いてしまった。
……やっぱり、余計なお世話だったかな。
俺は最後に残っていたお茶を飲み干すと、二人の間に置かれていた彼女の空の湯呑みも手に取り、立ち上がって歩き出し——
「トレーナーさん」
「キタサン?」
呼び止められて振り返ると、キタサンも立ち上がっていた。
どうしたのだろうか。
俺が首を傾げながら見つめていると、彼女は俺の手から空の湯呑みをひょいと奪い取った。
突然のことに何もできず目を丸くしている俺を見て、キタサンはイタズラが成功したようにペロッと舌を出し、ゆらりとご機嫌な尻尾を揺らす。
「えへへ、これはあたしが持っていきますね!」
「いや、それは俺が——」
「だから、あの風鈴のところで待ってて下さい!」
「えっ?」
「もう一回、あそこで踊っちゃいましょうよ!」
「な、なんで?」
「だって、今日のあたしは『お助け大将』でも『お祭り娘』でもない、『キタサンブラック』ですもん!」
そしてそのまま、彼女は振り返らずに駆け出していった。
俺は引き留めることもできず、ただその場に立ち尽くす。——いや、きっと何も言えなかったんだ。
誰かの期待や役割を何も背負っていない、ただの『キタサンブラック』でいてくれることが嬉しかったから。
もう一度、そんな無邪気な君の姿を見られると分かったから。
「……ズルいよな」
ポツリと呟いた言葉は、ふいに吹いた風に溶けて消えていく。
『いつまでも、彼女が笑顔でいられますように』
きっとお参りした時の願いは、神様が叶えてくれるだろう。
俺達を祝福するように鳴り響く風鈴の音色を背に受けながら、俺はゆっくりと足を進めた。