キタちゃんって距離感が近いよなと思いながら書きました
「キタサンって、トレーナーさんとの距離が近いよね」
ざわめく食堂の喧騒の中。それはきっと、何気ない言葉だったはずだ。
何気なくご飯を食べている時にふと出てきた、ちょっとした話題。
だけど、それでも。
「そう、なのかな?」
ピクリと耳が反応してしまう。
あたしにとっては、箸を止めてしまうくらいの一大事に他ならなくて。
「うん、仲良しって感じで微笑ましいよね〜」
「……」
目の前の友達の言葉も周りの喧騒も、どこか遠くに感じられて。
あたしはただ、机に並べられたにんじんハンバーグから立ち上る湯気を、見つめることしか出来なかった。
思い当たることはいくつかある。
トレーナーさんと話をするためとはいえ、顔をぶつけてしまったこと。
感謝の気持ちを伝えるためとはいえ、マッサージをしてしまったこと。
お弟子さんの提案とはいえ、父さんの前でデュエットを披露したこと。
これって、どう考えても距離が近すぎる証明じゃなかろうか……?
「——どう思いますかね、トレーナーさん!」
「どう、って言われても……」
友達との会話を右から左へ聞き流し、いつの間にか食べ終わっていたにんじんハンバーグを片付けると、気がつけばトレーナー室の前へと辿り着いていた。
扉をノックしようと伸ばした手を戻し、一度はその場を立ち去ろうとして——すぐにまた振り返る。
こんな時だからこそ彼に意見を聞きたい。そう思い直したあたしは、ゆっくりとノックをしてトレーナー室に入ったのだ。
目を丸くしながらもお茶を用意してくれたトレーナーさん。ミーティングをするみたいに向かい合わせに座って話を聞いてくれたけど、徐々に腕を組んで首を傾げてしまっていた。
あたしはお茶を一口だけ飲んでから、彼の方を見つめる。トレーナーさんはここに来た時と同じように、困った顔をこちらに向けていた。
「俺はもう何とも思ってないからなぁ」
「そう……なんですか?」
トレーナーさんは眉を寄せながらも、柔らかな笑みを浮かべる。
今度はあたしの方が首を傾げる番だ。ぴょこん、と耳が動いてしまう。
「君とそれなりに長く一緒にいるから、もう慣れちゃったしな」
「……慣れたってことは、困ることもあるってことですか?」
「そんなことは……」
そう言いながら、彼は顔を伏せてしまう。
何度か「うーん……」と唸り、頷いては首を振ってを繰り返す。
あたしの方もお茶を飲んでから窓に視線を移す。窓の外はほんの少し暗いみたい。だけど湿った匂いはないから、雨は降ってないのかな?
そんな風に考えていたけれど、ふと衣擦れの音が耳に届き、トレーナーさんの方に視線を戻す。
彼はつぶっていた目を開き、苦虫を噛みつぶしたような表情をしていた。
「………………ない、ぞ?」
「困ってるんですね……」
「い、いやいや! いつもじゃないから!」
必死に両手と首を振るトレーナーさん。
……全然フォローになってないよね?
首を傾げながら彼の瞳の奥まで覗き込むと、彼はあたしから視線をそらした。
「ぐっ……まあ、その……。心臓に悪いこともあるかな」
「そうですよね……」
「っ、だけど! 迷惑と思ってはいない。嘘じゃない」
その真っ直ぐな瞳は、あたしの心に響くほどに輝いていた。
トレーナーさんの言葉はきっと信頼出来る。……出来るのだけど。
もう一度両手を組んで頭をひねらせてしまう。
「むむ〜……」
「……納得は出来ないか」
お祭り娘としてちょっと困らせるくらいは愛嬌みたいなものかもしれない。だけど、お助け大将としてはそうも言っていられない。
好意には甘えるべきだけど、今のままだとトレーナーさんの許容範囲を超えてしまう。それでは自分を許すことが出来ないし、何よりも彼に拒絶されたくない。
——ならば!
バッと顔を上げ、大きく目を見開いて彼に視線を向ける。
「トレーナーさん!」
「お、おう……どうした?」
突然の勢いに、彼は思わず身を引いてしまった。
「あたし、距離感を見直したいと思います!」
「えっ? いや、俺は——」
「そのためにはどうすればいいでしょうか!」
「ち、近い近い! そういうところ! 見直すならそういうところだから!」
「……はっ!」
し、しまった! ついつい、いつもの調子で……。
身を乗り出すように彼の方へと体を近づけちゃっていた。あたしは誤魔化すようにほっぺたをかきながら、そそくさと距離を元に戻す。
ポッポッと熱くなる体に尻尾で風を呼び込んでみるけれど、あまり効果はないみたい。
トレーナーさんは肩の力を抜きながら小さく息をつく。そのままゆっくりと顔を上げ、あたしを見る頃には、困り眉のままだけど揺るぎない瞳に変わっていた。
「まあ、変えたいってことなら協力するよ」
「トレーナーさん……!」
「やるならトコトン、なのがお祭り娘なんだろ?」
「……っ、はい!」
彼が拳を強く握るのを見て、あたしの胸がドクンと跳ねる。
もう、何も恐れることはない。だってこんなにも心が燃えているのだから。
気づけば、胸に当てたあたしの拳にも力が込められていた。
「よぉし、そうと決まったら実行あるのみです! キタサンブラック、トレーナーさんとは距離をとります!」
「……言葉にされるとちょっと傷つくな」
「えっ、普通の距離感に戻すだけなのに?」
「いや、まあ……そうなんだけどね」
そんなものなのかな?
ほんの少しかげりを帯びた表情のトレーナーさんを見ながら、ぱちくりと瞬きをして首を傾げてみるけど、あまりピンとこなかった。
「だけど、どうやって距離をとればいいんですかね? ……そうだ! 五メートルくらい離れましょうか!」
「その距離は本当に傷つくからやめてほしいかな……」
な、泣きそうな顔になっちゃった……。うう、そんな顔されたら、胸が痛くなっちゃうよ……。
ぴんと立っていた耳をぺたんと伏せながら、あたしは心の中で反省する。
距離のとりすぎは逆に傷つけちゃうんだなぁ……。
「むむぅ……難しいですね……」
「だいたい二メートルくらいじゃないか?」
「——なるほど! ちょっと試してみましょう!」
「気が早いな……いいよ」
さっきまで悲しそうだったトレーナーさんの顔は、徐々に普段の表情に戻り、それどころか、優しい微笑みでゆっくりと立ち上がってくれた。
パタリ、と揺れる尻尾を隠さずに、あたしも一緒に立ち上がった。
そのままトコトコとトレーナーさんは離れていき、何もないような顔で振り返る。
「えっと、だいたい、こんな感じかな?」
「……えっ?」
あれだけ揺れていたはずの尻尾は、力を無くしたようにぶらりと垂れ下がる。
じゃあ五メートルなんてなったら当然……。
歩けばすぐ届く距離のはずなのに、どこかひどく遠くに感じた。
「え、えっとその……こ、この距離でずっと話すってことですか?」
「そう、なるな」
「……」
今日だけ、明日だけじゃなくて、ずっとこのまま……。
手を伸ばせば届いていたはずの距離。だけどこれからは前に出ないと手すら繋ぐことが出来ない。
凍えそうなほどの寒さが、指先から体全体に広がっていく。
「……無理に変える必要はないんだぞ?」
「い、いえ! なんともないですよ! ……はい、なんともないです」
「いや、でも君の耳——」
「ほ、他のことも試してみましょう!」
「……」
口の中がチリチリする。握りしめた手が痛い。
それでも一度決めたことを曲げてはいけない。だってあたしはお祭り娘だから。
潤んでしまった瞳で、真っ直ぐに彼の目を見つめ返した。
深く、重い吐息が落ちる。
「……いや、やっぱりやめておこう」
「そ、そんな……どうして……?」
だけど、トレーナーさんはあたしから目をそらし、首を振った。
あたしは思わず彼の元へと歩み寄る。
さっき決めた距離なんか無かったみたいに、いつも通りの距離に戻っていた。
「距離感なんて人それぞれだよ。今の俺達にはいつもの方が合ってると思う」
「だ、だけどあなたを困らせちゃうことが——」
覗き込むように、鼻と鼻がくっついてしまいそうなほど顔を近づけると、彼はもう一度、今度は大きく首を振った。
「さっきも言ったけど、もう慣れちゃったから大丈夫だよ」
「で、でもそれって——」
「それにね、距離なんてとられたら俺の方が悲しいからさ。だから、今まで通りでいいんだよ」
「トレーナー、さん」
ジーン……と胸が熱くなる。
その温もりが体中を巡り、さっきまでの寒さなんて、嘘みたいに消え去っていた。
「あ、あたし嬉し——あいた!」
「っ!」
ゴチン!
嬉しさのあまりそのまま顔を近づけたら、頭をぶつけちゃった。
ジンジンと響くような痛みが頭を襲う。両手で頭を押さえながら、よろよろと後ろに下がってしまう。
か、体の丈夫さには自信があったけど、今だけは恨めしい……。
雫が溜まった瞳をトレーナーさんに向けると、彼の方はすでに片膝をついて、うずくまるように頭を押さえていた。
「と、トレーナーさん!」
急いで彼の元に駆け寄ると、片膝立ちのまま、あたしの方を見上げていた。
「ほ、ほら、こんな風に心配してくれるだろ?」
「良いこと言ってる雰囲気出してる場合じゃないですよ!」
「だ、大丈夫……多分もう少しで痛みが引くから……大丈夫……」
ずっと頭を押さえたまま、眉間にシワを寄せながらも、トレーナーさんは笑っていた。
そんな風に笑われたら、何も言えないじゃないですか。
あたしも自然と微笑んでしまった。
「——なんてことが今日はあったんだよ」
その日の夜。同室の親友であるダイヤちゃんに、ベッドに座りながら今日あった出来事を話していた。
トントンとシーツに当たる尻尾。あたしのほっぺたは緩んだまま元に戻ってくれない。
「ふふ、本当にキタちゃんとトレーナーさんは仲が良いんだね」
ダイヤちゃんも同じようにベッドに座り、柔らかく微笑んでいた。
あたしは一瞬だけ目を丸くしちゃったけど、すぐにえへへ、と目を細め——
「うん、とっても仲良しなんだ!」
緩んだままのほっぺたで笑った。