どの勝負服もキタちゃんの魅力が伝わる良い衣装だと思ってます
「……あれ?」
三回のノック。呼びかけに応答はない。けれど、恐る恐る手をかけたドアノブはカチャリと回り、鍵がかかっている様子はない。
スッと耳の先が冷えていくのを誤魔化すように頭を振り、金属の冷たさで痺れるような手の震えを抑えながら、ゆっくりと扉を開ける。
「し、失礼……します——」
開かれた視界に映ったのは、珍しくソファーに座っているトレーナーさんの姿だった。
ホッとあふれる息。さっきまでの冷えも痺れも、嘘みたいに消えていく。
ジッと彼の姿を見つめていると、少し前かがみになりながら、何かを真剣に眺めているのが分かった。
えっと、アルバムか何かなのかな……?
そっと扉を閉めてから、そろりと足音を立てないようにソファーの裏側へ回り込む。好奇心につられたのか、尻尾が小さく揺れていた。
「……どれどれ」
ウマ娘にしか聞こえないくらいの囁き声で、彼の肩越しにアルバムを覗き込む。ふわりと鼻をかすめる、彼から漂ういつもの匂い。
むむ、新聞や雑誌の切り抜きを貼っているみたい。……って、この写真は——
「デビューしたばかりの頃のあたし?」
「うわっ!?」
思わずこぼれた声と同時に、短い驚きの声が響く。
しまった!
慌てて口を抑えても後の祭り。ビクッと肩を跳ねさせ、瞳を大きく見開いているトレーナーさんと目が合った。
「……っ、なんだ、キタサンか。び、びっくりした……」
「お、驚かせてごめんなさい……」
「いや、君が何も言わずにここに来るわけないし、俺が気づかなかったのが悪いんだ。そんなに謝らないでくれ」
「あ、あはは……」
深いため息の後、安心したように目尻を下げてあたしを見てくれるトレーナーさん。
声は確かにかけた。かけたけど、扉越しだったし、そのあとは忍び足で近づいたんだよね……。
チクリと痛む罪悪感を誤魔化すように、少しだけ耳を伏せながらほっぺたをかいた。
「と、トレーナーさんは何を見てたんですか?」
「あっ、これかい? よかったら一緒に見てみる?」
「よ、喜んで!」
手招きする彼に吸い込まれるように、あたしはソファーの隣に座った。
急に左右に揺れ出す尻尾。咄嗟に手で抑えてみたものの、視線まで同じように泳いでいたことには気づけなかった。
彼に包まれるような匂いを強く感じつつ、ようやく定まった視界で彼の指先を捉える。
ページに所狭しと並んでいたのはあたしの写真——だけではなく、小さく書かれた文章も混じっていた。
「これって、あたしの記事ですか?」
「うん、そうだよ」
ペラリとめくられるページ。
そこには体操服姿だけではなく、勝負服姿のあたしも写っていた。
「……ふふ、菊花賞の時のあたしだ」
写真の上の自分をそっと指でなぞりながら、目を閉じる。すると、今でも鮮明に思い出せる。
尻尾の先まで痺れるような感覚、ターフの香り、それに皆の地鳴りのような歓声だって。
思い通りにいかなくて悩んで苦しんだ先に見えた、あのキラキラと輝く光景を、あたしは一生忘れることはない。
「あの時に見せてくれた君の笑顔、今でも俺の胸に残ってるよ」
「えへへ、あたしもあなたの笑顔はずっと胸にしまってありますよ」
「は、恥ずかしいから、少しずつ忘れてくれると助かるかな」
「あはは、いやでーすっ♪」
「ぐっ……珍しく意地悪だな……」
今度はトレーナーさんがほっぺたをかく番だ。
あたしから視線を外し、気まずそうに明後日の方向を向いて困った顔に変わる。
だけど緩んでいる口元までは隠せていない。あたしもつられるように、ふにゃりと笑みがこぼれた。
「さ、さぁて。次のページを見ようかな」
わざとらしく声を張り上げて、彼はページを優しくめくり、あたしは緩みきったほっぺたでその景色を見つめた。
ペラッ、ペラッと紙の擦れる音が響く。まるで記憶の探索をするみたいに、写真や記事を見るたび記憶が蘇っていく。
ライバル達との熱戦に、その後のウイニングライブ。応援してくれた皆との絆。
それはトレーナーさんとの二人三脚の景色に他ならなくて。このヒトがいたから今のあたしがいる……というのは、流石にちょっと老け込みすぎかな。
「色んな思い出がありましたね……」
「そうだな」
小さな咳払いは、どうやら彼には聞こえなかったみたい。
胸をなで下ろしつつ、なんでもない風を装って彼の横顔を眺める。目を細めるその姿は、さっきまでのあたしを鏡で見ているかのよう。
胸の奥が燃えるように熱くなっていく。
「そ、そういえば! こうやって見直してみると、あたしって色んな勝負服を着てますよね!」
くすぐったくなるような気持ちに耐えられず、ピンと跳ねる耳と尻尾の勢いのまま声を上げる。
隣にいるトレーナーさんは一瞬だけ体を仰け反らせたけれど、すぐに元に戻り、目を瞬かせながらこちらを向いた。
「うん、君の色んな魅力を伝えてくれる勝負服ばかりだよね」
「…………そ、そうですね」
何の躊躇いもない彼の笑顔。耳の奥がチリチリと痺れていく。
直視できないほどの眩しさに目をそらすけど、グッと目をつぶったまま、もう一度彼に向き直した。
「キタサン、なんで目をつぶって——」
「これとか! お祭り娘らしくていいですよね!」
「それどちらかというと洋服に近いやつ——」
「あっ、こっちでしたか!」
「それがいつもの勝負服を着てる写真だね……」
チク……タク……チク……
秒針を刻む音がやけに大きく部屋に響く。それに胸が詰まりそうなくらいで、息がうまくできない。
恐る恐る目を開いて、自分の指先を見てみる。
確かにそこには、いつもの勝負服を着たあたしが写っていた。
「…………こ、コホン! この際どのあたしでも構いません!」
「よくはないのでは?」
「細かい男のヒトはモテませんよ!」
「うぐっ……!」
ビシッとトレーナーさんを指差すと、彼は苦しそうに胸を抑えて顔を下に向けた。
……ちょっと言い過ぎたかも?
シュンと垂れそうになる耳をなんとか持ち上げる。それでも、視線はほんの少しだけそらしてしまい、彼の顔を真っ直ぐに見ることは出来そうもなかった。
「そ、その……トレーナーさんは、どのあたしが好きですか!」
上擦った甲高い声。だけど、勢いづいた口は止まらない。せわしなく泳ぐ瞳と一緒に言葉を紡いだ。
項垂れていたトレーナーさんだったけど、ゆっくりと顔を上げた。
「どれがって、選ばないといけないのか?」
一転、彼の瞳は、何色にも染まらない強い意思を宿した光に変わる。
ズキュンと胸を撃ち抜かれたように、体を仰け反らせてしまう。
「え、えっと……その……。そ、そんなに本気で悩まないでもいいです! ちょっと……ほんの少しだけ興味があるだけなので!」
「ふむ……」
ワタワタと両手を動かしながら言葉を繋いでいくと、彼は小さく頷いてくれた。
ホッと息を吐くと、パタリと尻尾が揺れる。
顎に手を当てる彼の横顔は写真に釘付けだ。なんだかちょっと妬けるけど、それ以上に胸のドキドキが耳の奥まで響いて、ほっぺたが緩んだ。
「いつもの——いや、だが——」
彼の微かな声だって聞き漏らしたくない。それなのに胸の音が邪魔をする。
胸元をギュッと握りしめても、音はさらに大きく響くだけだった。
針の音なんて、もう聞こえもしない。
「……ううん……よし!」
噛み締めたような声にピクリと耳が動く。
下がっていた目尻を両手で持ち上げながら、すぐ隣に座る彼の方に顔を向ける。
「キタサン——って、なんで目を押さえてるんだ?」
「いえ、お気になさらず!」
「いや、気に——まあ、いいか」
目を丸くしていたトレーナーさんだけど、すぐに真っ直ぐな瞳であたしを見る。
……何故か首を傾げていたのがちょっと気になるけど、今はきっと大したことじゃない。うん、きっと。
「まずはいつもの勝負服なんだけどね」
「は、はい!」
彼の声が聞こえてきた瞬間、あたしは目尻に当てていた両手を強く握りしめてしまう。
幸いにも、目尻はグイッと持ち上がってくれていて、変な顔を見られることはなさそうだ。
ガッツポーズみたいな格好のまま目をそらし、胸の鼓動は強く跳ね出した。
まだかまだかと急かすように尻尾はバタバタと動き出す。
「君のことを想ってくれる人達の優しい気持ちが詰まっている、良い勝負服だよね」
「……! ですよね!」
「皆の想いが籠もっている勝負服を俺が嫌いになるわけがない。それに、初めてのG1を勝ったのだってこの服だ。俺だって思い入れがあるよ」
「えへへ、わぁ〜い♪」
弾けるような気持ちとともに、バンザイと両手を広げる。
皆の想いとトレーナーさんの想い。二つが合わさって手に入れた栄光は、紛れもなく夢見た景色への第一歩だった。
それを彼も感じていたなんて、嬉しくないわけがない。
広げた腕を下ろすと、胸元に持ってきた小さな手をグッと握りしめた。
「それに、お祭り娘な君にピッタリな服だ。君と言えばこの服だって、俺は思ってるよ」
「え、えへへ……そうですか……」
熱を持つ顔を冷ますように鼻の下をこすっても、冷えてはくれない。彼からの嬉しい言葉が反芻されて、むしろ熱くなるばかりだ。
「次は……あの白い勝負服だな」
「はい! ダイヤちゃんと一緒に着た、綺麗な勝負服です!」
懐かしいな……あの時は色々と悩んでたっけ。
ダイヤちゃんといつまでも一緒、なんてやっぱり難しいんだろうけど、だからこそ、もっともっと大切にしたいって。改めて思えた、そんな勝負服。
二人で並んでピースをして撮った写真を指でなぞりながら、目を瞑った。
「ふふ、今でも瞼の裏で思い出が駆け巡ってます」
「君とサトノダイヤモンドは本当に仲がいいよな」
「……はい! 大切で、一生ものの宝物なんです!」
「……そっか」
まぶたを開き、目一杯の笑顔でトレーナーさんの瞳を見つめる。
彼は目を細めて優しく微笑む。
不意に髪を撫でられて目を丸くしてしまったけれど、その手の温かさに身を委ねることにした。
「この勝負服についてはそうだな……。色んな人たちに幸福を運んでくれる、君らしい勝負服だよね」
「そ、そうですか……? そ、そんな風に言われると、えへへ……照れちゃいますよ」
「それに、白の勝負服が君に映えていて、本当に綺麗だなって思うよ」
「き、きれい……」
だ、ダメだ……。熱で顔が溶けてしまいそう……。
ぴょこぴょこと動く耳では風なんて呼ぶこともできず、耳の先まで熱くなってしまう。
そ、それにしてもだよ。
そらしてしまいそうな視線を彼に合わせると、そこに映るのはやっぱり真剣そのものの彼の瞳だけだった。
う、嘘とかじゃないんだろうな。いや、嘘ならやっぱり嫌かな? だけど、むむ〜……。
どんなに言葉を言い繕っても胸のドキドキだけは誤魔化せそうもなかった。
「あと、それと——」
「い、今はいいです! つ、次にいきましょう!」
「そうか? そうか……」
そ、そんな捨てられた子犬みたいな顔にならなくても……。
ちょっとだけ罪悪感に襲われるけれど、胸の鼓動はさっきよりもうるさくて、だけどどこか心地よかった。
「ま、まあまあ! 気持ちを切り替えましょうよ!」
「いやでも——うん、そうだよな。分かったよ。えっと次の勝負服は……」
「もちろんこれですよ!」
ビシッと写真を指差す。そこには、赤い服を身にまとったあたしが写し出されていた。
「いつもの勝負服とは違うけど、あたしらしさが詰まってる大切な勝負服です」
「耳元で輝く王冠。……うん、君にピッタリだよ」
王冠だけじゃない。
首元には永遠の絆を着飾った宝石を。それに、進むべき道を迷わないためのコンパスを手元に置いて。どんなことがあっても最後まで走り切る。
そんな決意を込めている勝負服なんだ。
「この勝負服を見ていると、負けないぞ! って、気持ちになれるんです」
「……そっか。それなら俺は君を支えるために頑張るよ」
その言葉とあなたの輝く瞳がある限り、あたしはどこまでだって走ることが出来る。
指先まで熱が伝わっていき、淡く痺れていった。
「あっ、そうだ。この勝負服は活発でありながら高貴にも思えるところがいいよな」
「と、トレーナーさん!?」
ビクッと肩を震わせ、ハッと息をつく。
そうだった、これどの勝負服が良いって話だったよ。良い雰囲気だったから忘れてたよ。自分で言い出したことなのに!
同じように指先は熱いままだけど、その熱はどこか甘い痺れで、全然違うものだった。
「活発で明るい、君らしさが詰まった素敵な勝負服で、俺は好きだよ」
「……! …………?」
全身が熱くなるのに耐えられなくて顔を下に向け——ようとして、首を傾げる。
あれ、そういえばさっきも好きって言ってたような? むむ、もしかして。
ぷくりと膨らむほっぺた。ジトッと目を細めながら、彼に視線を送る。
「……トレーナーさん、結局どのあたしがいいんですか?」
写真から指を離し、ツンツンと彼の体を突く。
彼は困り眉で小さく笑いながらも、瞳は全く揺れることがなかった。
「卑怯な答えだけど、全部だよ」
「……ふぇ?」
パチリと瞬きを一つしてしまう。言葉がまだのみ込みきれない。
トレーナーさんの方はやっぱり真っ直ぐと視線をそらすことなく、あたしを見ていた。
「お祭り娘な君も、白が似合う君も、王子様な服の君だって。俺にとっては優劣をつけたくないくらい、全部が大切で好きなんだ」
ズルい答え。でも心は妙に凪いでいて、燃えるように熱くなっていく。
色んな形のあたしを受け入れてくれて、その上で全てが好きなら、何も言えないじゃないか。
「……やっぱりダメだよね?」
情けなく眉を下げる彼を見て思う。言い切ったのなら、そこは自信満々な顔じゃないと。
揺れる尻尾に合わせるように小さく笑った後、コホンと一つ咳払い。
「最初に言いましたよね、本気にしないでほしいって。だから、全然問題ないです」
「そ、そうか! 良かった……」
彼の、深い深い、ため息。
あまりに深かったから、同じ想いを込めてるんだと思えて、笑みをこらえることが出来なかった。
「……キタサン?」
「い、いえ、なんでも! それよりもカメラで一緒に撮ってもいいですか?」
「急だな……。まあ別にいいけど」
「ありがとうございます!」
ポケットにしまっていたスマホを取り出し、画面に二人を収めるように、肩と肩がぶつかるくらい彼に密着する。
「……流石に近すぎないか?」
「いいですから、いいですから! ではいきますよ!」
「……ふふ、はいはい」
パシャリ。
小さく響くシャッター音の後、スマホの画面に写し出されていたのは、いつも通りの姿だった。
困り眉で、だけど優しく微笑む彼と、笑顔のあたし。
あのアルバムであたしと一緒に時々写っている真剣な表情の彼とは違う、その姿。
それは間違いなく、あたしが好きなもう一つの表情だった。
自分はやっぱりいつもの勝負服が好きですね