「う~ん……もっとこう……っ」
廊下をぼんやりと歩きながら、もどかしそうな唸り声が零れ落ちた。
いつもならスキップで通り抜ける廊下なのに、今日ばかりは足取りが重い。トボトボと靴底を擦るように歩いてしまう。
その理由は……。
「むぅ〜……もっと構ってほしいなぁ……じゃなくて!」
ブンブンと首をふって言葉を打ち消す。違う、違う。あたしがしたいのはトレーナーさんの『癒やし』だ!
ドクドクとうるさい胸をギュッと押さえて深呼吸。……よし。
最近のトレーナーさんは、いつ見ても電話や山積みの書類とにらめっこしていて、ここ数日は挨拶以外でまともに目も合っていない。
忙しいのは良いことだって分かってる。でも、慣れない。というか、慣れたくない。
せめて一日一回くらいは、ちゃんと笑顔で触れ合いたいのだ。
「う~ん……どうにかして、もっと自然に……」
もちろん、お疲れのトレーナーさんを癒やしたいのも本当だ。
だけど、ウンウン唸りながら廊下をフラフラ歩いてみても、そんな都合のいいアイデアは浮かんではこない。
苦し紛れに見上げた先には、ただ白い天井があるだけ――
「……図書室?」
ふと視界に入った教室札に、ピタリと足を止める。
そうだ、本! 本の中になら、今のあたしにぴったりな名案が載っているかも!
藁にもすがる思いで、普段は縁のないその扉に手を掛けた。
「とはいえ……」
図書室特有の紙の匂いに包まれながら、本棚の間をさまよう。
ズラリと並ぶ背表紙をぼんやり目で追って、気になった本をペラペラとめくってみるけれど、やっぱりどれもピンとこなくて――
「……待って、これって……」
あるページで、あたしの手はピタリと止まった。
そこにはちょっと難しい用語も並んでいたけれど、今のあたしにピッタリの言葉が輝いて見えた。
「これだ……!」
これならすぐにでも実行できるし、何より効果を得るのに1分もかからない……!
本をゆっくりと閉じながら、頭の中でシミュレーションを回す。
正直今すぐやってみたいけど、どうせならなるべく断られないタイミングがいい。
となると実行は……。
「トレーニング前……これで行こう……!」
小さく拳を握り、声を潜めて決意を口にする。
答えは決まった。後は実行するのみだ!
手に取った本を小脇に抱え、意気揚々と図書室を飛び出した。
――気づけば、トレーニング開始の時間が迫っていた。
ふふ……いざトレーナー室の前に立つと、なんだか緊張してきたかも。
静かに深呼吸をして、ゆっくりと扉を開ける。
隙間から見えたのは、机に広げた資料と睨み合っているトレーナーさんの姿だった。俯き加減の顔には、相変わらず隈が落ちている。
一瞬だけ迷いがよぎったけれど、小さくほっぺたを両手で叩いて気合を入れた。やるって決めたらやり通す!
「トレーナーさん、今大丈夫ですか!」
「っ!? き、キタサン……いつの間に!?」
弾かれたように顔を上げたトレーナーさんは、目を丸くして固まっている。
「えっと……さっきです」
「そ、そうか……ごめん、全然気づかなくて……」
「あーっ、謝るのはそこまでです!」
さらに謝ろうと肩を落とすトレーナーさんの言葉を、あたしは少し大きめの声で遮った。早く本題に入りたくて、尻尾が落ち着きなく揺れている。
「それよりもトレーナーさんに、ちょっとやりたいことがありまして!」
キョトンとするトレーナーさんの返事も待たず、あたしは一歩踏み出して真っ直ぐにその目を見つめた。
「トレーナーさん、最近お疲れですよね?」
「えっ……? まぁ……そうだな……」
目を泳がせながら渋々認めたトレーナーさんに、あたしはここぞとばかりに踏み込んだ。
「だったら! あたしがその疲れ、一瞬で吹き飛ばしてあげます!」
バンッと小脇に抱えていた本を机に置き、人差し指をビシッと突きつけると、トレーナーさんはあたしの勢いに少しのけぞった。
「えっと……マッサージ? いや、気持ちは嬉しいけど、これからトレーニングだし――」
「安心して下さい! マッサージよりも全然、短い時間で出来るものですから!」
このまま突き進め、キタサンブラック! 走り出したなら後ろなんか気にしちゃダメ!
「あたしと、ハグして下さい!」
室内に響き渡った自分の声の大きさに、あたし自身が一番固まってしまう。
息を止めたまま見つめ合っていると、やがてトレーナーさんの顔がふっと綻び、どこか微笑ましそうな表情へと変わった。
「……甘えたかったのか?」
「……!?」
図星を突かれたあたしは、ビクンッと尻尾を跳ねさせた。
ち、違う! 必死に口を動かすけれど、上手く声にならない。その代わりと言わんばかりに、耳が誤魔化しきれずペタンと倒れてしまう。
そんなあたしを見て、トレーナーさんの口角がさらに上がった。
「だってハグってそういうことだろ? だから――」
「ち、違います! ハグするとオキシトシンがたくさん出て、すっごく癒やされるんですっ!」
慌てて口から飛び出したのは、シミュレーションとは似ても似つかない言葉だった。
あれあれ? あたし、今なんて言ったっけ!?
ぐるぐるする頭の中と同じくらい、尻尾もバッタンバッタンと荒ぶりだす。
熱くなるほっぺたに、ピコピコと落ち着きなく動く耳。
もう誤魔化しきれない! 限界を迎えたあたしは、気づけば床を蹴っていた。
驚いて立ち上がったトレーナーさんの胸元へ、一直線に飛び込む。
「ワッショイ!」
「ぐふっ!?」
勢いよく飛び込んだあたしを、トレーナーさんはよろけながらもしっかりと受け止めてくれた。
その温かい胸元に顔をぐりぐりと押し付けると、ふわりと安心する匂いが鼻をくすぐる。
心の中がぽかぽかと温かくなり、全身の力がフワリと抜けていく。
「う……ん……」
もう、理屈なんてどうでもいいや。
心地よい微睡みの中に、あたしはすっかり身を預けてしまった。
「……サン?」
耳元で、低い声が心地よく響く。
むぅ……もっと聞いていたい……。
幸せな微睡みに沈みかけた瞬間、ハッと本来の目的を思い出した。
そうだ! トレーナーさんを癒やすためだったのに、あたしが満喫してどうするの!?
一気に頭に血が上り、あたしは慌てて体を離そうと――したけれど、何故か離れることが出来なかった。
えっと……腰に、何かが回されている?
「これでいいのかな?」
「ふぇ?」
頭上から降ってきた声に、ゆっくりと顔を上げる。
「トレーナー……さん……?」
「……結構恥ずかしいな、これ」
目の前には、少しほっぺたを赤らめて、はにかむように笑うトレーナーさん。
腰に回された腕の熱が、あたしの体温を一気に跳ね上げた。
あ……これ、あたしも『されてる』んだ。
「な、なな……なんで、トレーナーさんが……っ、あ、あわわ……」
耳と尻尾はピンと直立し、目は完全に泳いでいる。
あわわ、あわわわ……!
そのまま固まって見つめ続けていると、トレーナーさんは困ったように頭をかいた。
「……うーん。強いて言えば、こういうのは『お互いに贈りあえたら素敵』……だから、かな?」
ずるい。そんなの、ずるすぎる。
胸の奥が大きく跳ねて、抗議するはずだった言葉が全部溶けていく。
「……そう、ですね」
コクリと頷くと同時に、あたしの腕はもう一度、トレーナーさんの背中にギュッと巻き付いていた。
「……キタサン」
不意に降ってきた真剣な声に、あたしは耳をピクリと動かす。
「ありがとうな。ハグってすごいな……本当に疲れが抜けていく気がする」
ポツリとこぼれた本音に、あたしは無言で背中の腕にギュッと力を込めた。
「それと……寂しい思いをさせて、ごめんな。最近忙しくて、全然――」
違う。謝ってほしいんじゃない。
胸に埋めていた顔を勢いよく上げ、あたしは真っ直ぐにトレーナーさんの目を見つめた。
「甘えたかったのも、癒やしたかったのも、本当なんです!」
本で読んだ時、これだ! って思ったこと。トレーナーさんを癒やしつつ、あたしもいっぱい甘えられる一石二鳥の作戦だって思ったこと。
隠していた本音を、ポツポツと全部こぼしていく。
「……忙しいのは分かってます。だけど……もしも、トレーナーさんさえ良ければ……これからも――」
ハグしても、いいですか。
そう言おうとした、その時。
腰に回された腕にギュッと力がこもり、あたしは息を呑んだ。
だから、あたしは。
背中に回した腕に、めいっぱいの力を込め返した。
「えへへ……♪」
トレーナーさんの胸に顔をぐりぐりと押し付けて、とびきりの笑顔を浮かべる。
トレーニングの時間まで、あと数分。
それまでは絶対に離してあげない。この夢のような温もりを、今はただ、体いっぱいに味わっていたい。