食欲の秋の話を少し書いてみました
頬を撫でる冷たく澄んだ風に、ようやく慣れてきた今日この頃。夕暮れの茜色に染まる空には、薄く白い月が浮かんでいる。
いつもなら賑やかな足音を響かせる隣の担当ウマ娘——キタサンブラックだが、今日ばかりはピンと張っているはずの耳も心なしか伏せ気味だ。そんな空を力なく眺めながら、彼女はどこか重苦しい声色でポツリと呟いた。
「秋って誘惑が多い季節ですよね……」
「どうした急に」
「考えてもみてください。サツマイモに柿、栗にりんごに梨! 甘いものだらけですよ!」
「ああ、そういう……」
彼女が足を止めるのと同時に、俺も立ち止まる。
バシバシと左右に大きく尻尾をはためかせ、頬をいっぱいに膨らませながらこちらを見る。抗議するように真っ直ぐ伸びた耳は、彼女の切実な感情をそのまま表しているかのようだ。
確かにキタサンは甘いもの——厳密に言えば砂糖菓子を好んでいる。特に金平糖は大好物なのだが、今は関係ないな。
とにかくだ。あふれる秋の味覚と、秋の大レースに向けた体調管理。この時期はウマ娘にとって一番過酷な試練の時期と言えるだろう。
「でも、君が好きなのは砂糖菓子だろ? 洋菓子の誘惑なら大丈夫なんじゃないか?」
「……まあ、そう、ですね」
まるで壊れかけの機械のように、彼女は不自然にゆっくりと首を動かし、俺から目を背けた。
おっと、これは……。誘惑に勝てなかったやつだな。
逃げるように逸らされた瞳を追うように、じっと彼女の顔を覗き込んでいると、キタサンは何度か視線を泳がせた後、諦めたようにため息をこぼした。
「……その、ごめんなさい! 友達と一緒に色々回ってたら、つい……」
ほんの少し涙目になりながら、彼女はシュンと耳を伏せて小さく頭を下げる。
なるほど、恐らく友達の押しに負けた形だろう。キタサンは押しが強い反面、押されると弱いところがあるからな。
友達に仲良く引っ張られていく彼女の姿が思い浮かび、悪いとは思いつつも、つい顔がほころんでしまった。
「……って、トレーナーさん? なんだか顔が緩んでません?」
おっと、流石に場違いなことを考え過ぎていたか。
涙目は変わらないまま、キタサンは不思議そうに首を傾げていた。
流石にこのままじゃいけないよな。頬を掻きながらなんとか眉をひそめ、わざとらしく一つ咳払いをする。
「……いや、そんなことはないぞ。キタサン、確かそれはどうにかしないとだな」
「そ、そうですよね……。トレーナーさん、サポートよろしくお願いします!」
「ああ、トレーニングの内容や負荷を調整してみるよ」
「えへへ、頼りにしてますね!」
さっきまでの表情は嘘のよう。今はもう、胸の前でギュッと両拳を握りしめながら、雲間に隠れていた太陽のような笑顔に早変わりだ。
笑って、怒って、泣いて。コロコロと変わる表情は本当に見ていて微笑ましい。……まあ、悲しい顔だけはさせないように気をつけないとな。
緩みそうな頬を引き締め、やる気に満ちた彼女のポーズに合わせるように、俺も胸の前で拳を作ってみた。
「それじゃあ、とりあえず甘いものは控えような」
「ぐっ……! ぬぬ……。悲しいですけど、まずはそこからですよね……! あたし、頑張ります!」
キタサンは一瞬だけ肩を落としたが、すぐに胸の前の拳にぐっと力を込め、顔を上げてこちらを見る。
決意に満ちた赤い瞳は真っ直ぐで、なんだってやり遂げてみせるという強い意志が込められていた。
「それでこそキタサンブラックだ」
「へへ、そう言ってもらえると力が湧いてきますね!」
キタサンはニッと歯を見せて笑った後、握りしめていた手で俺の手を掴み、引っ張るように歩き出した。
ウマ娘の、ましてや今をときめく彼女の力は強大で、抵抗など出来るはずもない。まあ、する気もないのだが。
足早に歩く彼女に追いつくため小走りで駆けると、あっという間に二人の足並みは綺麗に揃った。
「トレセン学園に戻ったら、早速走ってみましょうかね!」
「ふふ、気持ちは分かるけど焦っても上手くいかないよ」
「むぅ……全くもってその通り……」
「それにもう暗くなりそうだから、明日ちゃんと話し合おうね」
「明日……明日かぁ……。はぁ……なんだか「遠く感じますよ……」
繋がれた手は指を絡めるように強く握られていて、だけど決して痛くはない。
「あっ……焼き芋……」
「おっと、さっそく目移りかい?」
「い、いえいえ! こんなことであたしの意志は揺るぎませんから——はっ、たい焼きの良い香り……」
「そ、そこら中に甘いものがあるな……」
通りで売っていた焼き芋から、その先に売られていたたい焼きへ。何度か目を奪われながらも、彼女の足は前だけを向いて進んでいた。
振り切るような早足のせいで、ついていくのが精一杯だ。それでもどうにか足並みを揃えられているのは、彼女が手を引いてくれていることと、俺が息を切らしながら彼女の何倍ものペースで足を動かしているおかげだ。
「は、早く学園まで辿り着かなければ……!」
「そ、そうだな……」
「本当に秋は誘惑が多いです!」
「……言うほどたい焼きって秋か?」
不覚にも口を突いて出たツッコミのせいで、さらに体力を奪われる。
息も切れ切れになってしまうけど、緩んだ頬だけは変わらない。
なんとか足並みを揃えたまま、ようやく学園まで辿り着く。
その頃には、綺麗な茜色に染まっていた空はすでに夜の闇に溶け、星々が小さく煌めき始めていた。
「よし、ひとまずは誘惑に負けなかったあたしの勝ちですね!」
「そ、そうだな……」
「と、トレーナーさん! どうしてそんなに息が……?」
スッと離れていく手のひらの熱。
肩で息をしながら隣を見ると、ワタワタと両手と尻尾を動かし、心配そうにキタサンがこちらを見つめていた。
「だ、大丈夫……年のせいだから……」
「……トレーナーさんとあたしって、そんなに年齢離れてませんよね?」
「じゅ、十近くは離れてるだろ……。と、ともかく心配ないから……」
「……むむ、トレーナーさんがそう言うなら信じますけど……」
怪しむように目を細めるキタサンだが、納得したように小さく頷いてくれた。
これも信頼の賜物、なんて。卑怯な言い訳かな。
自分のズルい考えに、小さく苦笑が漏れる。
「さて、それじゃあ今日はここまでだな」
「そうですよね、もう真っ暗ですもんね。……はい、また明日です!」
「明日からは特にビシバシ鍛えていくから、そのつもりでね」
「もちろんです! 期待してますね、トレーナーさん!」
その言葉を最後に、彼女の足音は遠ざかっていく。
よし、帰ったらトレーニングメニューを改良しなくちゃな。効率よく効果的なものを考えないと……。さて、これから大変だぞ。
頭の中でいくつも浮かぶ案。自然とこぼれる笑みを浮かべたまま歩き出そうとしたが、ふと、遠ざかっていたはずの彼女の足音がピタリと止まったことに気づき、後ろを振り向く。
そこには、ほんの少し離れた場所でこちらに向かって小さく手を振っている影があった。
「早く戻らないと、もっと暗くなっちゃうぞ」
「えへへ、はぁい」
影は一旦手を振るのをやめて、今度こそ駆けるようにその場を離れていく。
その姿が見えなくなるまで、俺はその場で見送った。