上着を着るシチュエーション好きなんですけど、自分で書いてみると中々難しいものですね
ソファーに座り、パタパタと両足と尻尾を揺らす。
湯呑みから立ちのぼる湯気をじっと見守って――よし、とそのままお茶を一気にグイッと呑み込んだ。
「……はふぅ」
思わずこぼれるため息。
やはりお茶は良い……。体全体がポカポカしてくるし、お茶の渋みと香りがこれでもかってくらい広がっていく……。
ふにゃりとほっぺたが緩む。空になった湯呑みを机に置いて、いつもの癖でトレーナーさんがいる場所に目を向ける。
「……早く帰ってこないかな」
いつもならいる場所に彼の姿は無く、机の端に積まれた書類だけが少し寂しそうに残されていた。
『ごめん、キタサン。ちょっと席を外すね』
電話を取った後、そう言って部屋を出ていったのはほんの数分前。申し訳なさそうに小さく頭を下げていたのは、いかにもあの人らしかった。ふふ、思い出すだけでもニヤけちゃうな。
……なんて、思い返してはみるけれど。
あたし以外誰もいないこの部屋はガランとして広く、風が窓を叩く音が寂しげに聞こえてしまう。
「友達に会いに行くっていうのもなぁ……」
ここから出ていくのは簡単な話だ。
だけど部屋の主がいないのに、勝手にいなくなるのは如何なものか? お助け大将としてそういう不義理はしちゃダメだよね、うん。
書き置きをしたらいいのに。そんな言葉が頭の片隅に浮かんだけど、聞こえないふり。
「……よし!」
そんな考えを打ち消すように、勢いよく頭を振って立ち上がる。
もしかしたらもうすぐ帰ってくるかもしれない。そうだとしても、ほんの少しの時間で出来ることはあるはずだ。
例えば机の上の整理整頓。ちょっとでも綺麗な方が仕事は捗る……と思う!
よぉし、早速始めちゃうぞ! お助け大将、ここにあり!
バタバタと尻尾を揺らしながら、こぶしをギュッと握りしめて彼の仕事机へと足を進めた。
「さぁて、どんな……もの……」
張り切って腕まくりをしようとした手が、ピタリと止まる。
視界が捉えたのは机の上——ではなく、その奥の椅子。もっと言うなら、背もたれに掛かっている上着から目が離れてくれない。
「……確かこれってトレーナーさんが着てたやつだよね」
肌寒くなるとよく羽織っている上着だ。そういえば、ここを出ていく時は着ていなかった気がする。
丈夫なあたしと違って、トレーナーさんは寒さにあまり強くないと言っていたっけ。
でも、朝はともかく今の時間は暖かいもんね。脱いじゃうのも仕方ないか。
それは分かるんだけど、こうも無造作に掛けておくのは良くないと思うな。シワになっちゃいますよ、うんうん。
「なのであたしが綺麗にかけますよ」
キョロキョロと周りをうかがいながら、背もたれの上着をそっと手に取る。
そうそう、これはトレーナーさんのため。お助け大将として張り切ってるだけ。他意なんてあるはずがない。
「えっと、ハンガーっと……」
ごく自然な手つきで、右腕をゆっくりと袖に通していき。
「引っ掛けるところは……」
手元を見ないまま、モゾモゾと左腕も袖に通す。
「……って、あれ!?」
ウロウロとトレーナー室を歩き回り、ふと自分の姿に目を落とす。
な、何故だか分からないけど、トレーナーさんの上着をあたしが着ているではないか! 本当に何故だか分からないけども!
「ぬ、脱がなきゃ! ……いや、でも、なんだか急に寒くなってきた気がするし、ちょっと借りるくらいなら大丈夫だよね!」
口にすればするほどチクチクと痛む胸。だけど、そんな後ろめたさをかき消すように、首元からふわりと彼の匂いが広がっていく。包まれるように温かで、眠りを誘うように安らかだ。
すると上着を脱ぐ気力はすっかり消えて、自分の体をギュッと抱きしめる。ポカポカしていた全身がさらに火照るみたいで、緩んだほっぺたがやけに熱い。
「二人分の温かさ……みたいな……。って、何言ってるんだろ、あたし!」
沸騰しそうな頭をブンブンと振り、抱きしめていた腕を解いて、熱を逃がすようにパタパタと動かしてみる。それでも火照りは高まるばかりで、ちっとも冷めてくれそうにない。
「ぐぬぬ……体が熱い……」
悶えるようにこぶしを握りしめると、手のひらに柔らかい布地が巻き込まれた。……って、布?
頭に浮かぶハテナとともに、両手を目の前まで持っていく。
「…………あっ」
視線の先には、こぶしの中にクシャッと握り込まれた袖口があった。
そっか、トレーナーさんとあたしだと身長差があるからこうなっちゃうんだ。むむ、ちょっと不格好。
そんな残念な気持ちとは裏腹に、ふとある考えが浮かぶ。
そっと手を開いてみると、余った袖が指先まですっぽりと覆い隠した。
「……これを、こうして……」
袖に包まれた手を、自分の頭の上にそっと乗せる。
いつも撫でてもらう時みたいな温もりは微かだけど、確かにそこにある。
それさえ感じられるなら……いける!
「……コホン!」
一つ咳払いをして、喉の調子を整える。
それから目を閉じて、トレーナーさんの姿を思い浮かべる。
トレーニングで好タイムを出した時や、重賞に勝った時。あるいは、お助け活動を頑張った時。
あたしに優しく微笑んで、大きな手をゆっくりと伸ばして——
「『よくやったね、キタサン』」
頭を撫でてみる! みる……。……うん。
一瞬、本当に一瞬だけは彼のような温かさがあったけど、すぐに消えてしまった。
残っているのは、袖が髪をこする感覚だけ。いくら上着を借りたって、本人の代わりにはならないらしい。
涙目になりながら、ダラリと手を下ろす。
「うぅ……せめてこの匂いだけでも……」
それでも、この上着に残る温もりはもう少し味わっていたい。
うるうると揺れる瞳で両手を見た後、重い腕をなんとか持ち上げて、袖口にそっと顔をうずめる。
もう微かになっているけれど、彼の匂いが胸の奥までじんわりと染み込んでくる。
ああ、これだけでもなんだか気持ちが和らいでいくみた——
「キタサン、待たせちゃってごめん!」
パタリと扉が閉まる音とともに、不意に部屋へと響いた声。その意味が頭に届くまでにはほんの少し時間が掛かって、ビクンと耳と尻尾を伸ばした時にはもう遅かった。
顔へ近づけていた両手が、スローモーションで落ちていく。
思ったように動かない首を、なんとか入り口の方へと向ける。すると、視界は声の主をしっかりと捉えてしまった。
「……キタサン?」
戸惑うように、もう一度名前を呼ばれる。
置かれた状況を理解した瞬間、あんなにも温かかった体が、真冬に放り出されたみたいにスッと冷え切ってしまった。
この上着の持ち主は目を丸くして、小さく口を開けたままこちらを見つめていた。
「あの……その……」
もつれる舌でなんとか絞り出したのは、意味もなさない言葉。
えっと、早く何か言い訳をしなきゃ! だけど、あたしがこれを着てるそれらしい理由って、どう説明すればいいんだろう!? ぐぬぬ……なるようになれ!
泳ぐ視線と同じように頭の中がグルグルと回るけれど、このまま黙っているわけにもいかない。
「これは……そう! また肌寒くなってきましたので、上着を温めておこうと思って!」
「お、おう……」
「昔、そういう偉い人もいましたよね! だからこれは、断じておかしいことではないのです!」
「い、勢いが凄い……」
言葉をまくし立てるたびに、じりじりと距離が縮まっていく。
気圧されるように彼は体を引くけれど、すぐ後ろの扉とあたしに挟まれて、もう逃げ場はないみたいだ。
「というわけですので! この上着を着てください! さあ、さあさあさあ!」
「わ、分かった! 着る、着ますから!」
もうどうにでもなれと、慌てて脱いだ上着を彼の胸元へとグイグイ押し付ける。
さっきまで冷えていたはずなのに、今は血液が沸騰したみたいに全身が熱い。クラクラする視界の中で、手元と目の前から漂う二つの温かな匂いを感じながら、あたしはただ必死に詰め寄ることしか出来なかった。