「これからも元気でいてくれますように!」
コポ……コポ……コポ……。
願いを込めながら急須を傾けると、あたしの弾む心に合わせるように、小気味良い音を立ててお茶が湯呑みに注がれていく。
湯気とともに立ち上る若草のような瑞々しい香りは、まさに新茶特有のもの。彼が喜ぶ顔を思い浮かべながらその香りを嗅ぐと、思わずほっぺたが緩んでしまう。
「よし!」
急須を置き、胸元で拳を握りしめる。
パタリと尻尾を揺らしながら、お盆に湯呑みを置き、跳ねるような足取りで歩き出した。
視線の先にいるのはトレーナーさん。彼は、あたしが近づいているのにも気づかず、カタカタとキーボードを打ち込む音を響かせている。
瞬きすら忘れ、眉間にしわを寄せて仕事に向かうその姿を見ていると、愛おしさで胸の奥がじんわりと熱くなる。けれど、ずっと張り詰めたままの彼を、お助け大将として見過ごすわけにはいかない。
「トレーナーさん。ここらで一杯、どうですか?」
「…………っ、キタサン?」
幽霊でも見たかのように目を丸くするトレーナーさん。それと同時に、室内に響いていた小気味の良い音はピタリと止まった。
「あっ、やっぱり。空になってますね」
「えっ。ああ、これのことか」
トレーナーさんは一瞬首を傾げていたけど、すぐに合点がいったように頷いた。
彼の視線の先、乱雑な書類から離れたところに、コーヒーカップがポツンと佇んでいる。
「ですので、こちらのお茶と交換です!」
えっへん、と胸を張り、お盆の上で湯気を立てるお茶をアピールする。
そして、耳の先まで熱が伝わる湯呑みをそっと持ち上げ、冷たい空気を纏っているカップと手際よく交換した。
お盆に回収したカップの底には、茶色の輪だけが残っていた。
「…………準備がいいんだな」
「お助けキタちゃんですから!」
「ああ、確かにそうだね」
張り詰めた空気は、トレーナーさんの眉間のしわと一緒にゆっくりとほぐれていく。
その顔を見て、あたしはふふんと得意げに鼻を鳴らし、尻尾をご機嫌にパタパタと揺らした。
「サァサ、グイッと! ……だとヤケドしちゃいますね」
「それじゃあ、いただこうかな」
あははと笑いながら、少しの照れくささを誤魔化すように、あたしはお盆の上のコーヒーカップのふちを人差し指でなぞる。
トレーナーさんは小さく笑みをこぼしながら、お茶を口元まで運んでいく。
コク……コク……。
そっと目を閉じると、湯呑みが唇に触れるかすかな音や、喉を鳴らして飲み下す音が、静かな部屋に波紋のように広がっていく。
その音に合わせて、パタリパタリと耳を振る。まるで、まぶたの裏で楽しく踊っているみたいだ。
「ふぅ……」
心地よいダンスは、温かなため息とともにふっと終わりを告げる。
そっと目を開けると、そこには目を細めながら口元を緩ませているトレーナーさんが映った。
陽だまりに包まれたような雰囲気。それが、いつも通りのあなた。見つめているだけで、胸の奥まで甘い熱が広がっていく。
瞬きするたびに揺れる睫毛や、呼吸のために小さく開かれた唇からも、もう目が離せない。
流れる時間がゆっくりと溶けていき、自分の心音さえ、間近に聞こえてくるように思えた。
「……美味しい」
ポツリとこぼれた言葉にハッとする。
いつの間にか、机の上の書類やパソコンすら目に入っていなかった。彼だけを見つめていた自分に気づき、全身の血がカアッと熱くなる。
耳と尻尾を風を起こすように動かすと、ほんの少しだけ熱が冷めていった。変な顔で見つめていなかっただろうか。背筋に冷たい汗が流れたのは、きっと気のせいだ。
「キタサン、ありがとうな」
「い、いえいえ! これくらい当然のことですのでっ!」
太陽みたいな瞳の輝きで、こちらを照らすトレーナーさん。
その視線が眩しいせいで、体中がポッポと火照ってしまう。照れを誤魔化すようにぶんぶんと両手を振り、最後はドンッと大げさに胸を叩いてみせることで、なんとか気持ちをそらそうとした。
「だけど、このお茶。何となくいつもと違う気がするんだよな。なんでだろう?」
その言葉に、あたしはピーンと耳を立てる。
「む! 良いところに気づきましたね、トレーナーさん!」
耳に入ってきたのは、純粋な疑問。だけどそれは、恥ずかしさでいっぱいだったあたしにとってはまさに助け舟のような、心が躍る言葉だった。
「……どうした、急に?」
トレーナーさんは首を傾げながら、困り眉であたしを見ている。
だけど、それで止まってしまうようではお祭り娘の名が廃るってもんだ。
あたしは勢いよく彼の前に手を伸ばし、待ったをかける。
「まぁまぁ、聞いてください。トレーナーさんが言ったようにこのお茶はいつものやつとは違うんです!」
「………………とりあえず、お盆は片付けた方が良いんじゃないか?」
「……あっ!」
その言葉にビクッと肩を揺らし、大慌てで自分の手元を見つめた。
勢いよく突き出した手の先には、お盆と、さっき回収したばかりの空のカップが堂々と鎮座している。
そ、そういえば片付けてなかった!
ピシッと体全体が石のように硬くなる。一気に耳の先まで熱が上り、口の中がカラカラに干からびていく。
「で、ではではちょっと片付けてきますね!」
あははと甲高い声で笑いながら、小走りで彼から離れていく。
なんであたしはいつもこう……勢い任せで……。
後悔したって仕方ないのだけれど、恥ずかしくて、うつむいてつま先を見つめながら歩を進める。ただ、歩くたびにほっぺたを撫でる空気が、火照った体から熱を奪い、パニックになった心を冷ますには十分だった。
「ただいま戻りました!」
「おかえりなさい」
すっかりいつもの自分を取り戻したつもりで、地面を軽く蹴り、手を振りながらトレーナーさんに近づいていく。
彼はいつも通りにあたしを迎えてくれたけれど――あれ、口角がちょっと上がってるような? ……気のせいかな?
「キタサン、このお茶がどうしたの?」
「そうでした! このお茶はですね、一番茶なんですよ!」
頭の中に微かに浮かんだ疑問を遠くに放り投げ、彼を真っ直ぐに見つめ返して口を開く。
まるで先生になったみたいに、人差し指をピンと伸ばして、ビシッと天を突くようにポーズを決めた。
「一番茶……なるほどこれが……」
「むむ、知ってましたか」
口元に手を当てながら呟くトレーナーさん。どうやらご存知だったみたいだ。
カッコつけてしまった自分が急に恥ずかしくなって、あたしは行き場をなくした人差し指をそっと曲げ、むーっと口を尖らせた。
「言葉だけだよ、言葉だけ。だからほら、教えてほしいな」
視線を泳がせながら、少し早口で取り繕うように言葉を重ねるトレーナーさん。
その様子を見て自然とほっぺたが緩んでしまい、ツンと尖らせていた口はゆっくりと元に戻った。
「それならば改めて。これはですね、生まれたばかりの柔らかい芽から取ってる茶葉なんです!」
「なんだっけ、味が変わるって聞いたことがあるような」
「ですです! 春になって顔を出したばかりの若い葉っぱだから、大人になる前の瑞々しさが出ている……みたいな!」
「おっ、ちょっとカッコいい言い回しだな」
ふふん、と人差し指で鼻の下をこすりながら、胸を張ってみる。
まさにワッショイな表現を思いついたものだ。これもお祭り娘らしさと言えるんじゃないかな!
……とはいえ、素直に褒められるとやっぱり恥ずかしい。いくら器用に耳と尻尾を動かして扇いでも、顔の熱は冷めるどころか、熱風となって返ってくる。
「だ、だからですね! 今しか飲めない旬の味、是非とも堪能してくださいっ!」
「そうだな。しっかりと味わって飲まないとだよな」
そう言って湯呑みを両手で包み込み、優しく微笑むトレーナーさん。
陽だまりみたいにポカポカとしたその顔を見ているだけで、お日様の光をたっぷり吸い込んだ草葉のような匂いや、ゆりかごのような温かさに包まれる気がする。
いつまでだって離れたくない。そばでずっと見ていたい。
大好きなその顔から、あたしはもう、絶対に視線をそらさない。
「……」
美味しそうに息をつく彼を見て、心の中で小さくガッツポーズをする。あちこち走り回って、何日もかけてこのお茶を探した甲斐があったというものだ。
ゆっくりとご機嫌に尻尾を揺らしながら、あたしは彼の顔をただジッと見つめ続ける。
「本当にありがとう、キタサン」
「ふふ、そんなにお礼を言わなくてもいいのに」
「ちゃんと元気、貰えたから」
「……っ!」
なんだ、この一杯に込めた、あたしの願い。
やっぱり、ちゃんと気づいてたんじゃないですか。
「キタサンも一緒に飲まないか?」
「えっ? いや、それはトレーナーさんのために用意して――」
「だけど、こういうのは一緒に楽しんでこそだし」
せっかくトレーナーさんのために選んだのになぁ。
そんな思いとは裏腹に、心の奥底まで温かくなり、自然とほっぺたは緩んでしまった。
「それじゃあ、君の分を用意してくるよ。急須はどこにあるんだ?」
「いえいえ! 自分の分は自分で用意しますので!」
「君は俺の分を用意してくれたんだし、それくらいはさせてくれ」
「それはあたしがしたかったからで――」
「ええと、こっちかな?」
「ああ〜! 勝手に行かないでくださいよ!」
スタスタと足を進めるトレーナーさん。一瞬だけ尻尾を立てて、あたしは彼の後を追いかける。
その歩みはいつもよりもゆっくりで、追いつくなんてあっという間だ。
隣に並び、チラリと彼の顔を覗いてみる。変わらない笑顔がそこにあった。
あたしはそれとお揃いの表情を浮かべ、その足並みにそっと寄り添って歩き出す。
木漏れ日のような時間は、まだ続いていく。