「トレーナーさん? ちょっと休んだ方が……」
「……あ、ああ、ごめんキタサン。ちょっとぼんやりしてたよ。何でもないから大丈夫だ」
ここ最近のトレーナーさんは、凄くお疲れの様子だ。パソコンの画面を見つめる目の下にはひどいクマができているし、無理をして笑う顔を見ていると、胸の奥がチクッとしてしまう。
「お仕事をお助け!……なんて、あたしじゃできないもんね。分かってはいるんだけど……」
小さくため息をつきながら、ゆっくりと廊下を歩く。仕事は手伝えなくても、今のあたしにやれることはある。
右手に下げた紙袋を、きゅっと握り直した。中に入っているのは、さっき買ったばかりのお饅頭。甘いものを食べて少しでもホッとしてほしいし、あたしの特別なマッサージもあれば、きっと疲れなんて吹き飛ばせるはずだ。
そう考えると自然と気合が入り、走らないように気をつけながらも、ぐっと足を速める。周りの景色も気にならないくらい真っ直ぐに進んでいくと、あっという間にトレーナー室の扉が見えてきた。
「よし、やるぞ! あたしはお助けキタちゃん。やれることは全力でやるんだ!」
左手をギュッと握り、気合を入れてからノックする。
トントントン。
…………返事がない。
あれ? いないのかな?
時計を見ると、ちょうどお昼休みの時間だ。ご飯を食べに行ってるのかもしれない。
「そっか……そんなことも頭から抜けてたんだ、あたし」
胸に手を当ててみると、心臓の鼓動がドクドクと少し速かった。自分でも気づかないうちに、かなり焦っていたみたいだ。
肩の力を抜くと、ピンと張っていた緊張の糸がふっと緩んだ気がした。
「いないなら仕方ないよね……」
そう思い、向きを変えて帰ろうとした、その時。
ガタン!
「えっ?」
中から聞こえた音に、あたしの耳がピクリと動く。
小さな音だった。だけど、あたしの耳は確かにその音を拾ってしまった。聞き間違いであってほしいと願っても、ごまかしがきかない。
誰もいないはずの部屋から聞こえた物音。ノックには返事がなかったのに……。
——じゃあ、今の音は?
最悪の想像が頭をよぎり、背筋がゾクッと寒くなる。
勝手に入るのはいけないことだ。だけど、なりふりなんて構ってられない。すぐに振り返り、力任せに扉を開け放った。
「トレーナーさん!!」
扉を開けた先にあったのは、ソファーの横でうつ伏せに倒れているトレーナーさんの姿だった。
一瞬、頭の中が真っ白になる。
あたしは無我夢中で駆け寄り、その横に膝をついた。うつ伏せのまま、トレーナーさんはピクリとも動かない。
もしかして……。ううん、そんなことないはずだ!
震える手を、恐る恐るその背中に伸ばす。服越しに、かすかな体温が手のひらに伝わってきた。
無意識のうちに止めていた息を、ふっと細く吐き出す。まだ意識がないことに変わりはないけれど、その温もりを感じただけで、胸を締め付けていた力が少しだけ緩んだ。
「トレーナーさん! トレーナーさん!!」
すがるような思いで、その肩を大きく揺さぶる。
だけど……ダメだ、力が抜けたままで何の反応もない。
何で? 何で反応してくれないの? 何で起きないの、トレーナーさん?
視界が涙でじんわりと滲んでいく。あたしは祈るように、もう一度だけその体を揺すった。
「うん……? あれ、ここは……?」
そのかすかなつぶやきを聞いた瞬間、あたしの手にこもっていた力がふっと抜けた。
よかった……やっぱり寝てただけなんだ……。
ポロリとこぼれ落ちた雫を慌てて拭いながら、体を起こそうとするトレーナーさんに手を貸した。
「ありがとう……って、キタサン? 何でここに?」
「……そんなことはどうでもいいです。早くソファーに座りましょう」
きょとんとしているトレーナーさんに、自分でも驚くほど冷たい声が出てしまった。
本当はもっと優しく答えたかったのに。まだ心臓がうるさく鳴っていて、うまく笑えそうになかった。
まだ足元がおぼつかないトレーナーさんの腕を引いて、何とかソファーに座ってもらう。あたしは隣には座らず、彼の前に立ったままジッと見下ろした。
「すまないキタサン、助かったよ」
「……何で倒れてたんですか?」
「えっ?」
いつものような明るい声が出ない。抑えきれない感情のせいで、思わずハッとするほど低い、硬い声になってしまった。
キョトンとした顔で、トレーナーさんがこちらを見上げる。あたしの声がいつもと違うことに戸惑っているようだった。
「何でソファーの横で倒れてたんですか、トレーナーさん?」
「ああ……それはだな……。ちょっと眠くなったから一休みというか……その……」
「へぇ〜」
逃げ場をなくすように、ジッと彼の目を見つめる。
「ソファーがあるのに床で寝るんですね。よく眠れましたか?」
「いや、ソファーで寝てたんだ……。気づいたら床にいただけで……はい……」
しどろもどろな言い訳を聞いても、あたしはあえて無言を貫いた。
冷たい態度だとは分かっている。だけど、あたしがどれだけ心配したか、少しは同じ立場で考えてほしかった。
沈黙に耐えきれなくなったのか、トレーナーさんの顔がどんどんと青ざめていく。泳がせていた視線がようやくこちらと合ったかと思うと、彼はそのまま勢いよくガバッと頭を下げた。
「ごめんなさい……ソファーで寝てたら床に落ちてました……」
「…………」
やっぱり……思ったとおりだ。
今はこうして話せているし、ケガがなかったからよかったものの、もし打ちどころが悪かったら大ケガをしていたかもしれない。
最悪の想像が頭をよぎり、あたしは無意識のうちに体の横でギュッと強く拳を握りしめた。どうしても、この奥歯を噛み締めるような感情を抑え込むことができなかった。
「あたしが何で怒ってるか……分かりますか?」
「っ……体を、大事にしてないから……だよな」
「あたし、何度も心配したのに。大丈夫だからって、あたしのこと遠ざけて……!」
込み上げてくるものを必死に抑えようとするけれど、喉の奥が熱くなって、視界がじわりと滲んでしまう。
「本当にすまなかった。……言い訳になるけど、タイミングがなくて。でも、もう二度としない。誓うよ。だから、許してほしい」
「本当に……反省してますか?」
震える声で問い返すと、トレーナーさんはあたしの目を真っ直ぐに見つめ返した。逃げるような色は、どこにもない。
「信じてもらえないかもしれない。……だけど、嘘じゃないんだ。本当に、反省してる」
トレーナーさんはそのまま、深々と頭を下げた。視界から彼の顔が消え、必死に謝る声だけが届く。
その誠実すぎる姿を見ていたら、さっきまでの意地なんてどうでもよくなってしまった。あたしは吸い寄せられるように、ゆっくりと彼との距離を詰めていく。
「頭を上げて下さい、トレーナーさん」
「…………許して、くれるのか?」
ゆっくりと顔を上げたトレーナーさんの瞳は、痛いくらいに後悔の色で揺れていた。
それを見た瞬間、言葉での返事なんてどうでもよくなった。あたしは自分でも驚くほどの勢いで、その胸へと飛び込んでいった。
鼻をくすぐる、いつもの匂い。体全体を包み込む、変わらない体温。
ずっと怖かった。この温もりがもう手に入らないんじゃないかって。そう思うと、こらえていたはずのものが一気に溢れ出して、視界が熱く歪んだ。
「キタサン!?」
「…………グス」
「キタサン……?」
耳元で名前を呼ぶ声が聞こえるけれど、今のあたしには意味をなさない。
ただ、胸の奥から溢れ出す感情が止まらなくて。
「よがっだよぉ! とれえなぁさんがたおれたとき、どうなるかとおもって……うわわあああん!!!」
「キタサン……本当にごめん……ごめんな……」
頭に、大きな手のひらがそっと置かれた。
その温かくて、不器用なくらい優しい感触を全身で受け止めながら、あたしは胸の熱さが引くまで、子供のように泣き続けた。
…………………
…………
……
どれくらいそうしていたか分からない。激しく波打っていた鼓動がようやく落ち着き、視界を塞いでいた涙もゆっくりと引いていった。
頭を撫でる手のひらの温かさを、あたしは胸の中で噛み締める。
……いつまでも、こうしているわけにはいかないよね。
トレーナーさんの体温でチャージされたみたいに、体に少しずつ力が戻ってくる。あたしは彼のシャツを掴んでいた指を名残惜しく離すと、ゆっくりと顔を上げた。
まぶたが熱く重いのは、ちょっと泣きすぎちゃった証拠だね。
「本当にごめん、キタサン。もう二度と、あんな心配はさせない」
「……約束、ですからね?」
「ああ。約束だ」
そう言ってニコリと笑うトレーナーさんに、あたしは『まだ許したわけじゃないんだから』と、わざとらしくほっぺたを膨らませてみせる。
差し出された彼の小指に、あたしも自分の指を絡める。
ぎゅっと結んだ指先から、さっきまでよりもずっと身近な体温が伝わってきた。
「もし、嘘をついちゃったら?」
「ふふ、あたしの『特製マッサージ』をお見舞いしちゃいます! 飛び上がるほど痛いですけど、効き目は絶大ですからね?」
「あはは、それは勘弁だな。分かった、絶対に約束は守るよ」
「嫌だなあ」なんて言いながらも、トレーナーさんの顔からは優しげな笑みが消えない。その表情を見ているだけで、胸の奥に小さな灯がともったような、確かな安心感が広がっていく。
絡めた指先に最後にもう一度だけぎゅっと力を込めてから。名残惜しさを溶かすように、ゆっくりと、一本ずつ指をほどいていった。
「ふふ、これでバッチリですね!」
「ははは。約束は絶対に守るよ、誓う」
「信じてますからね! えへへ……。……あれ?」
ふたりで笑い合って、ようやく少し余裕ができた時だった。
「……あ。お饅頭と、マッサージ……!」
本来の目的を思い出して、あたしは慌てて自分の右手を見つめた。けれど、そこにあるはずの紙袋の重みは、いつの間にかどこかへ消えてしまっていた。
「あ、あれ? 嘘!?」
さっきまでの余韻を台無しにするような勢いで、あたしは自分の周りを見回した。
「キタサン? 急にどうしたんだ、そんなに慌てて」
「お饅頭です! トレーナーさんに食べてもらおうと思って持ってきた袋が、どこにもなくて……! あんなにしっかり握ってたはずなのに!」
「袋……。あそこの扉の前に落ちてる、あれのことか?」
「え?」
トレーナーさんの指の先——入口のあたりに、見覚えのある袋がポツンと転がっていた。
慌てて袋を回収しに走り、それを大事に抱えてトレーナーさんの元へと駆け戻った。
「ごめんなさい……。あんなところに、落としちゃってました……」
「はは、いいって。それより、お饅頭は無事かな? せっかくキタサンが持ってきてくれたんだ、一緒に見よう」
申し訳なさに身を縮めながら、袋を差し出す。
トレーナーさんが中を覗き込み、中からひとつ、お饅頭を取り出した。
「あはは……ちょっと潰れちゃってるな」
「うう……やっぱり……」
彼の指先で不格好にひしゃげた、お饅頭。あんこがはみ出していないのが、せめてもの救いだった。
「いや、これなら大丈夫だよ」
「あっ! そんな無理に食べなくても!」
止める間もなかった。トレーナーさんはひょいとお饅頭を口に放り込み、そのまま幸せそうに頬を動かす。
……味、どうかな。
固唾を呑んで見守るあたしの前で、彼はゴクリと喉を鳴らした。そして、不安げなあたしの目を真っ直ぐに見ると、指で大きな丸を作ってみせた。
「よかった……! えへへ、それじゃあ次はマッサージ、張り切っちゃいますよ!」
あたしは腕まくりをして、意気揚々と一歩踏み出した。だけど——。
「あー……。ごめんキタサン、もうすぐ昼休みが終わる時間だ」
「……え?」
弾かれたように壁の時計を仰ぎ見る。
「……うそ、本当だ!」
夢中で怒って、泣いて、笑って。
気がついた時には、針はもう無情な位置まで進んでいた。
「ああっ、あと数分でチャイムが……。あたし、マッサージしに来たのに……!」
「はは、気持ちだけで十分癒やされたよ。ありがとう、キタサン」
「むぅ……。あたしのせいで余計に疲れさせちゃったんですから、絶対に! 『お預け』はナシですからね!」
「……ああ。放課後、楽しみにしてるよ」
不満を込めてジト目で見つめると、トレーナーさんは「勘弁してくれ」とばかりに眉を下げて苦笑いした。
……でも、確かに現実は非情だ。あと数分で午後のチャイムが鳴ってしまう。
ただで引き下がるのは、お助けキタちゃんの名が廃る。
あたしは名案を思いつき、パッと顔を上げた。
「今は難しそうなので、トレーニングが終わったら……放課後に『お助け』再開です!」
「えっ。でも、それじゃキタサンが疲れちゃうだろ?」
「大丈夫です! あたしのスタミナ、なめないでくださいね? トレーナーさんの疲れ、全部あたしが引き受けますから!」
「……はは、参ったな。わかった、じゃあ放課後、甘えさせてもらうよ」
心配そうな視線を、あたしは不敵な笑みと親指を立てたポーズではねのける。
「任せてください」という無言の合図。彼は降参したように眉を下げ、小さく、けれど確かに頷いてくれた。
たったそれだけで、胸の奥にカッと熱い火が灯る。
……よし。午後のトレーニングも、その後の『お助け』も、あたしは全力で駆け抜けられそうだ。
「やった! これで午後のトレーニングも百人力です! 放課後、絶対に期待しててくださいね、トレーナーさん!」
「ああ。楽しみにしてるよ」
「はい! ……それじゃあ、行ってきます!」
「ああ。行ってらっしゃい、キタサン」
勢いよく扉を開け、一度だけ振り返って、とびきりの笑顔を贈る。
廊下を駆けていく足取りは、羽が生えたみたいに軽かった。
もうすぐ授業が始まるけれど、今のあたしの頭の中は「放課後の作戦」でいっぱいだ。
肩に腰、それとも思い切って全身?
膨らむ期待を抱きしめて、あたしは弾む鼓動と一緒に、光の差す教室へと駆け抜けた。