最強の処刑人、罪なき聖女を殺せと言われたので二人で逃げて成り上がる   作:滝浪酒利

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第1話 処刑人と聖女 その1

 家に客が訪ねてきたのは、朝の8時だった。

 

「今回の命令書だ」

 

 玄関のドアを開けると、いかにも「こんな所には死んでも来たくなかった」という顔をした白衣の司祭が、命令書を押し付けるように渡してきた。 

 ここは聖都トゥリリアの街外れにある黒い一軒家。

 俺は公共の安全のために、市内に住むことを固く禁じられている。

 家は黒く塗られ、用のない人間が間違って近づかないようにされている。

 

「確かに渡したぞ」

「お疲れさまです。お茶でも飲んでいきますか」

「馬鹿を言うな」

 

 司祭はぎょっとしたように肩を震わせた。

 

「汚らわしい。お前の家で茶を飲むぐらいなら、便所の水を飲んだ方がましだ」

「冗談ですよ」

 

 そう言うと、司祭はむかついたように、足早に馬に乗って去っていった。

 ここは聖教国。王や貴族の代わりに、教皇と聖職者が統治する宗教国家だ。

 渡された命令書の紐を解く。

 そこには日時、手段、人数、名前、身分、その他の考慮事項が記され、教皇の印璽(ハンコ)が押されていた。確かに本物だ。

 準備をしなければいけない。必要な道具や資材の手配も俺の仕事だ。

 

 外出するため、鏡の前で着替えをする。

 役所勤めが締めるネクタイの代わりに、短くした首吊り用のロープを首元に着ける。外出の際は必ず、俺はそれを着けなければいけない決まりだった。

 すれ違う人々に、前もって自分の職業と存在を知らせるために。

 距離を取る。舌打ちをする。罵詈雑言や唾をはきかける。あるいは拾った石を投げる。そうした善良な市民の義務を果たすための時間的余裕を、彼らに与えなければいけない義務が俺にはあるのだ。

 

 もう一度、渡された命令書を読んでみる。

 それは、死刑執行命令書だった。

 そこには以下の内容が書かれていた。

 

 執行日時。羊の月第二水曜日処女の表刻。

 場所。聖レモニック中央広場。

 刑種。斬首。 

 囚人名。イリス=フェアチャイルド。17歳。

 身分。聖女。

 その他。囚人は大罪人のため、格別たる配慮は必要なし。

 

「なにやったんだ、この子」

 

 思いがけず、俺は呟いた。

 だが関係ない。俺の仕事は善悪を決めることでも、罪の重さを量ることでもない。ただその首を斬り落し、その命を永久に断絶させることだった。

 俺の名はカイン=ハルドル。

 聖教国、第一類特定法務執行者。

 つまり、処刑人である。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 処刑には、色々と下準備が必要だ。

 広場に建てる処刑台や、囲いの柵に使う木材や釘。それに死体を運ぶ棺桶と参列者への弁当の配達を手配して、それから雑用係も二、三人雇わないといけない。

 だから俺は市街に出て、そうした買い付けをする必要があった。

 

「うわっ! しょ、処刑人……!」

「ひ、ひぇええっ! ひ、人殺しだ!」

「不吉なゴミが……真昼間から出歩きやがって……!」

 

 道行く人々は俺を見るなり大げさに距離を取り、聞こえるように陰口を叩いた。時折、豚のクソや腐った卵が飛んでくる。

 無視、あるいは物理的に回避しながら、俺はいくつかの業者を訪ねた。

 手短に商談をまとめ支払いをする。財布から黒手袋の指先で金貨をつまんだ。

 これも義務だった。俺は素手で他人と触れ合わないように、または素手で触れたものを他人に渡さないようにしなければいけない。

 

「契約成立だ。……とっとと帰れ。店の空気が汚れるんだよ」

「はいはい」

 

 こうした生活はもう20年。とうに慣れ切っていた。

 処刑人は、激しく差別される。

 聖教国では、父なる唯一神を信仰する聖教への帰順が国是とされている。その正典の一節によると、たとえ罪人であっても、同胞殺しはそれ自体が最も重い罪とされているのだ。

 しかし、現実の要請として死刑は必要とされた。罪人に最も明快で分かりやすい罰を与え、民衆の不安やストレスを解消するために。

 同時に、それを専門にする処刑人の家系もまた定められたのだ。

 その行為にまつわる人々の憎悪と嫌悪を一心に引き受けさせるために。

 それがハルドル家。俺の生まれた、忌まわしき汚れた処刑人一族である。

 

 ……当たり前だが、俺だって好きで人殺しをやっているわけじゃない。

 処刑人の家に生まれてしまったからには、他に選択肢がなかったのだ。

 死罪の免除と引き換えに処刑人と結婚する羽目になった元罪人の母は、俺を産んですぐに自殺した。父は俺に必要な技を伝えると、もうこの世には一秒だっていたくないように病没した。

 友人も恋人も俺にはいない。一人、誰からも感謝されず、憎まれるだけの仕事を続けている。

 たまに、なんでこんな仕事をしているのか分からなくなる。

 けれど辞めようとは思わなかった。そもそも辞められないし、仮に辞めたところでどうしようもないからだ。これ以外の生き方など、俺は知らないのだから。

 

 街中での用事を済ませてから、俺は最後にある場所を訪ねた。

 監獄だ。

 

 処刑人の仕事は、人を殺すことだ。言い換えれば、人として殺すことだ。

 決して草刈りのような流れ作業としてではなく、その人間の人生を知り、人格を尊重した上で殺害するという意味である。

 執行する者とされる者。この世で最後となる人間関係には敬意が存在しなければならない。

 そのために死刑囚に面会するのが、ハルドル家の処刑人の習わしだった。

 

「一番奥の牢だ。鍵はこれ。用が済んだらさっさと帰れ」

「どうも」

 

 俺と目を合わせないように、看守は石造りの牢獄の奥を指した。

 ちなみに面会には見張りが必要なのだが、俺と同じ空間にいたくないという理由で、看守は牢のカギだけをぞんざいに渡してきた。

 

 看守からしてそんなものだから、最初は死刑囚も俺と口を利くのを嫌がる。

 しかし、大抵は10分もしない内に自分から話し出す。

 耐えきれないのだろう。死という絶対的な孤独を前にした人間の精神は、誰かとつながりを持たずにはいられないのかもしれない。

 彼らはこれまでの人生の思い出を語りながら、まだ死にたくないと涙を流す。

 けれど、俺には分からない。

 人生とは、涙を流すほど価値のあるものだろうか。

 

 分厚い鋼鉄の扉をノックする。ややあって「どうぞ」という細い声が聞こえた。

 扉越しでも分かった。森閑の泉に落ちる朝露のような、澄んだきれいな声だった。

 この清らかな声が、果たしてどんな罵詈雑言をぶつけてくるのだろうか。

 

 狭い独房に入ると、そこには予想通り一人の少女が佇んでいた。

 長い金髪は荒れてはいるものの気品を残し、宝石のような碧眼をはめた、まだ幼さの残る顔は人形のように端正なもの。驚くほど華奢な肩をした体はしかし、同時に女らしい起伏にも富んでいる。

 

 明り取りの鉄格子から差し込む陽光の下、小さな寝台に腰かけた姿に俺は思わず息をのんだ。手足に枷をはめられ、囚人に許される粗末なボロ布1枚だけをまとう少女はそれでいながら、まるで高貴な美術品のようだった。

 

「あの、あなたは?」

「……ああ、失礼。あんたの担当をする処刑人の、カイン=ハルドル」

 

 数秒、ぼうっとしていた俺に、少女は不思議そうに訊ねてきた。

 俺は短くはっきりと、自らの身分を名乗った。すると少女は舌打ちをするでも顔をしかめるでもなく、柔らかく微笑んだ。

 そしてぺこりと、俺にむかって頭を下げた。

 

「そうなんですね! えと……私はイリス! イリス=フェアチャイルド。よろしくお願いします」

 

 驚きのあまり、俺は呼吸を忘れてもう一度固まった。初めてだったからだ。

 他人から、こんなにも穏やかな笑顔を向けられたのも。

 まるで対等な人間にするような挨拶をされたのも。

 

「どうかしましたか? あ、よく考えたら、よろしくお願いしますって、この状況だとなんか変ですよね」

 

 照れ隠しのように、少女はまた笑った。小さな肩が震えるのに合わせて、その手元にはめられた魔法封じの手枷がじゃらじゃらと鎖を鳴らす。

 

「それで、ハルドルさんは私に何のご用でしょう?」

「軽い健康診察と、それと話を聞きに」

 

 担当する死刑囚の様子を見て自殺や発狂の兆候がないか軽い診察をして、そのついでに話を聞くのが習わしだと説明した。

 少女、イリスは分かりましたと頷いた。彼女はひどく落ち着いていた。脈も安定している。顔色もやや白いが正常、まぶたの裏も赤く、貧血や睡眠不足の症状もない。筋肉に強張りもなく、爪や髪にも強度なストレスを示す兆候はない。

 まるで自宅のように落ち着いている。肝が太いなと俺は思った。経験上、ここまで冷静な死刑囚は10人に1人もいない。

 

「足の裏を見せてくれ」

「え?」

「右足の裏。怪我してるはずだ」

 

 どうして気が付いたのかと、少女は驚いたように口を開けた。

 簡単な理由だった。イリスは表情には出さずともずっと右足の裏を床から浮かせたまま、痛みに耐えるようにその爪先を丸めていた。

 罪人は靴をはくことを許されない。だから足の裏をよく傷つける。彼女のような少女ならばなおのこと柔らかい皮膚が傷つきやすい。

 

 見せてもらうと、そこには確かにやや深めの裂傷があった。小石か何かで切ったのだろう。幸い化膿はしていないが、放って置けば分からない。

 俺は黒手袋を新しい清潔なものに変えて、持ってきた道具カバンからピンセットと薬瓶を取り出した。

 足の裏を消毒して、食い込んだ砂利の粒やらを取り除き清潔にする。

 こうしないと、魔法処置の後で残留して悪影響が出る。

 それから回復魔法をかけて、傷を修復した。

 

「嘘……あなた、回復魔法が使えるんですかっ⁉」

「初級程度だが、まあ、仕事上の必要で修得が特別に許されてるんで」

 

 やはり、イリスはひどく驚いていた。

 処刑人には、業務上の理由でいくつかの特例が許されている。回復魔法の習得もその一つだ。

 処刑人の仕事には、罪人への拷問も含まれる。だから必要なのだ。口を割らない罪人の身体と精神を徹底的に破壊した上で、死なないように肉体だけを再生させる技術が。

 しばらく呆然とした後、少女は思い出したように、ありがとうございますと律儀に頭を下げた。言われ慣れない感謝の言葉を持て余しながら、俺は続けた。

 

「診察は以上。じゃあ出身、趣味、好きな食べ物、思い出話とか、なんでもいいから言っておきたいことを話してくれ」

 

 希望するなら書面にして、遺言として誰かに届けることもできると付け加える。

 それは大丈夫です、とイリスは断り、小さな唇を開いてすらすらと話し始めた。

 

「ええと、出身は西のアインツって地方都市です。知ってますか?」

「いや」

「じゃあ、いつか是非行ってみてください! 街の近くに大きな河があって、そこで獲れるでっかいニジマスの揚げたてに塩とワインビネガーをたっぷりかけると美味しいんですよ! 私、揚げ物が大好きなんです! ……あ、ハルドルさんは、どんな食べ物が好きですか?」

「特にないよ。メシ、美味いと思ったことないから」

「そうなんですか……それはもったいないですね。ご飯は人生を豊かにしてくれますよ? あ、そうだ。じゃあ趣味とかはありますか? 私は――」

 

 よほど会話相手に飢えていたのだろうか。少女は初対面の俺にすっかり身の上を話してくれた。

 彼女の父、アレクサンデル=フェアチャイルドは平凡な司祭だったらしい。

 母親は富裕な商人の娘だったが、幼少時に病気で死別。

 その間に生まれた彼女は一人っ子で、兄弟姉妹はいない。

 幼い時に魔法の才能を父に見つけられて全寮制の聖教学院に入り、15歳の時に四大神聖魔法の一つ、浄化魔法を極めて聖女になると同時に卒業。

 聖女としての就任期間は二年。主に都市環境の浄化、衛生改善などの仕事をしていたと言った。

 

 話を聞く限り、彼女はまったくの善人に思えた。

 俺は内心で首をひねった。これっぽっちもイリスが死刑囚になる理由が分からない。彼女の死刑執行命令書には、罪状については書かれていなかった。 

 

「なあ」

「? なんでしょう」

「どうして、死罪に……つまり、あんた一体何をしでかしたんだ?」

 

 気付けば、俺はそんなことを訊ねていた。

 一体いつ以来だろう? 自分から他人の胸の裡を知りたいと思ったのは。

 するとイリスは微笑みを顔の裏にしまって、静かな声で断言した。

 

「国家機密である回復ポーションの製法を盗み、国外に流出させました」

「――――」

 

 淡々としたその声に、罪を悔やむような気配は欠片もなかった。

 

「つまり、売国罪です」

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 この国の政府でもある聖教会は、回復魔法を独占している。

 もし大きな怪我や病気をした時には、高額を支払って教会の指定した回復魔術者――ヒーラーから回復魔法をかけてもらうしかない。

 だから貧しい人々は治療を受けられず、普通の人にも大きな負担になっている。

 そしてこの国でヒーラーになれるのは、一部の高位聖職者のみに限定されている。

 

「回復ポーションは、研究畑だった私の父が発明した魔法薬です。蒸留した高濃度アルコールに無色魔力を溶かして保存し、そこに薬草を漬けこんで属性変化させて作る薬で、回復魔法を使わなくても飲むだけで怪我や病気を治すことができます」

 

 イリスの声は淡々としていた。

 

「父はこれでもう、たくさんの人が高額な回復魔法に頼る必要がなくなるんだと言っていました。……けどそんな事が、許されるはずがありませんでした」

 

 その発明が、ヒーラーの役割を独占する高位聖職者たちからすれば気に食わないものだったことは想像に難くない。

 彼女の父の発明はすぐに国家機密に指定され、その製法書は厳重に封印、父親本人も軟禁状態に置かれたという。

 

「でも、父はその状況が我慢できなかったんです。お金で人の生き死にが左右されるのが嫌だという人でしたから。だから彼は国外に逃亡しようとしました。

 外国で回復ポーションを開発して広めることで、外からこの国を変えようとしたんです。――だから、その前に暗殺されてしまいました。今から7年前です」

 

 うつむきながら少女は言った。

 

「その時は確かにすごく悲しかったけれど、でも私も小さかったので、そんな理由で殺されたなんてわかりませんでした。ただ、事故で死んだっていう説明で納得したんです」

 

 けれど、もう一つのきっかけがあった、と彼女は語った。

 

「私、聖女になる前に通っていた魔法学院に同い年の友達がいたんです。アンヌっていう、努力家で真面目だけどとっても優しい子でした。私と同じ緑の目をした、赤い髪のかわいい女の子。……私たちが14歳の時、アンヌは病気になりました」

 

 肺を患い、血の混じった咳を常に吐くようになってしまった。だから当然、アンヌは回復魔法による治療を受けに、医療聖堂を訪れた。しかしながら。

 

「でも、とても重い病気だったから、治すのには高位の回復魔法が必要で……彼女には、それだけのお金がなかったんです。

 だから彼女は治療を担当した司教に大きな借金を背負って、学校をやめて働くことになりました。けれど、それでも返せなくて……最終的に――アンヌは奴隷になり、その司教の所有物にされました」

 

 俺は黙って聞いていた。回復魔法代金が支払えず、債務奴隷にされる庶民の典型例だ。あるいは最も悲劇的なのは、それがよくある話だということだろうか。

 

「私は聖女になって学院を卒業した後、彼女が働いている司教の屋敷を訪ねました。奴隷にされたアンヌが、ひどい扱いを受けていないか心配で……それで、もし可能なら残りの借金を代わりに支払って、彼女を解放できないかと思ったんです」

 

 しかし客間に通されたイリスは、屋敷の執事からアンヌは体調不良で寝込んでいるからお引き取りを、と言われたという。

 それでもイリスは引き下がった。だったら、なおさら見舞いのために会わせてほしいと。すると執事はひどく悲しげな困り顔をして、誰にも言ってはいけないという約束の上で、ある部屋に案内してくれたという。

 そして――イリスは、そこで苦しそうに声を落とした。

 

 その部屋には、剥製にされた裸のアンヌがショーケースに展示されていた。

 案内した執事は精一杯の同情をこめた声で言ったという。

 労働の人手は足りていた、そして彼女は若くて美しかった。だから主人の嗜好を満たすために、そうされてしまったのだと。

 

「……そんな理由で殺されて、人形にされちゃったアンヌの前にへたり込んで、私、思ったんです。――こんなことが許されるなんて、絶対におかしいって」

 

 特権階級である司教以上の高位聖職者は、世襲である。

 彼らはその家に生まれついたという理由だけでヒーラーとなり、庶民から金や命や尊厳を奪いとって肥え太る。

 その一方で、庶民はどんなに努力しても、回復魔法が修得できるような地位にはなれない。

 聖女――数人しかいない、四大神聖魔法いずれかの究極熟達者に送られる名誉位階を獲得した少女は語った。自分でさえ回復魔法の習得は許可されないのだと。

 

 その声は、怒りと悲しみで震えていた。イリスは直面する自分の死よりも、友人の死に対して感情を露わにしていた。

 

「それから私は父の死についても調べ始めて、暗殺されたことを知りました。だから、私は父の作った回復ポーションの製法を盗み、間者を通じて国外に流出させました」

 

 回復魔法よりも手軽で便利で安価な医療手段。

 それが国外で量産されて普及すれば、やがて聖教国内にも流れ込むだろう。そうなれば回復魔法の独占によって富を得ている、この国の特権階級は崩壊する。

 彼女の目論見が上手くいくかは、俺には分からない。

 けれど現状死刑囚となっていることが、彼女の仕業がどれほど重大視されているのかを物語っていた。

 

「もちろん私だって死ぬのは怖いし、嫌です。でも、後悔はしてません」

 

 そう言うイリスは、どこかやり切ったような顔つきをしていた。

 

「私は、父と親友を殺した人達が、許せないと思った。だから、戦うことを選びました……以上が、私が死刑になる理由です」

 

 語り終えて、イリスは疲れたように深い息を吐いた。

 俺は、前もって用意していた水筒を差しだした。

 ありがとうございますと言って、彼女は一口飲んだ。

 

「これで最後だ。なにか欲しいものとか、やりたいことがあったら言ってくれ」

 

 最後の餞別(せんべつ)。これもまた死刑囚に対する慣例だった。

 しかし、俺自身がそうしたいと思ったのはこれが初めてだった。

 するとイリスはもじもじと肩を揺らして、頬を赤らめて言った。

 

「あの、それって、なんでもお願いしていいんですか?」

「ああ、現実的な範囲なら大丈夫だ」

「……じゃあ、何を聞いても笑ったりしませんか?」

「経験上、何を聞いても一度も笑ったことはない」

「じゃあ……あの」

 

 数秒。勇気を振り絞るような沈黙を挟んで、彼女は恥じらうように頬を染めた。

 

「…………デート、したいです。男の人と」

 

 明後日の方へ視線を逸らしながら、イリスは恥ずかしがるように指先をつけたり離したりしていた。

 

「私、ずっと学院の女子寮で暮らしてて、卒業してからも聖女だったから、恋愛とかしたことなくて……その、ずっと憧れてたんです。一度くらい、そういうこと、してみたいなあって……」

「悪いけど無理だ。流石に牢からは出せないし、魔法封じの手枷も外せない。街歩きなんて以ての外だ。すまんが別ので頼む」

「そ、それは分かってます。ちょっと言ってみただけ……だから、せめて手をつなぐだけでいいんです」

「手?」

「はい。男の人と……あなたと、手をつないでいいですか?」

 

 そう言って、丸い緑色の瞳が真っすぐに俺を見つめた。

 不意に、心臓がどきりとはねた。黒手袋をはめた指先が、急に痺れるように熱くなった。皮膚の下で流れる血が、奇妙に大きく脈を打っている。

 

「いや、でも……俺の手は、汚れてるから」

「どうしてですか?」

「どうしてって、処刑人の手だぞ」

 

 俺の声は、はからずも少し荒くなっていた。

 イリスは強く否定するように、何度も首を横に振った。

 

「職業なんて関係ありません。あなたは、優しい人です。……私の怪我を治して、話を聞いてくれた。そんな人の手が、汚れているわけがないじゃないですか」

 

 分からない。どうして、彼女は俺にそんなことを言えるのか。

 どうして、彼女の言葉はこんなにも胸の裡をかき乱してくるのか。

 

「いや、とにかく、代わりの男を呼んでくる。看守から誰か若い奴を――」

「だめです」

 

 一旦、独房を出ようとする俺を静かな声が強く引き留めた。振り返った俺は、真っすぐな上目遣いと目が合った。

 

「あなたがいいんです。……それとも、私とは嫌ですか?」

 

 俺はゆっくりと、震える手を彼女の前に差し出した。

 手袋を外してください、とイリスは言った。

 ためらいながら、俺は右の手袋を外した。

 ひんやりとした牢の空気が肌に触れる。にじんでいた汗が乾いて冷えていく。

 その感覚が、そっと温かな体温に包まれた。

 

「えへへ、なんか、恥ずかしいですね……でも、あったかい」

 

 真っ赤な顔ではにかみながら、枷のはまった両手が俺の手を包む。

 いつも触れている冷たい死体とは違う。鼓動を鳴らす、血の通った柔らかな体温。

 それが人間なのだと、俺はこの瞬間に知ったような気がした。

 

「あの、もう一ついいですか?」

「なんだよ」

「イリスって、名前で呼んでください。私のこと」

「……イリス」

「それと」

「?」

「あなたのこと、カインって呼んでいいですか?」

「……ああ」

「やった。じゃあ、カイン……カイン、カイン、カイン! ふふ、なんだか不思議です。男の人の名前って、何度も口に出すとこんな気分になるんですね」

 

 ふと、互いの間に沈黙が降りた。数秒か、十数秒か、ぎこちない無音の空気に、きっと俺たちは察していた。

 これ以上は、きっと何か、どうしようもないものを胸に残してしまうと。

 ゆっくりと手を離して、イリスは微笑んだ。

 

「えへへ、何だかすごく、どきどきしました。あの、ありがとうございます」

「……じゃあ、お大事に。一週間後、執行の日に迎えに来る」

「はい」

 

 じゃらりと、足枷の鎖を引きずってイリスも立ちあがった。

 そして深々と、俺に向かって頭を下げる。

 

「今日はありがとうございました。会えて嬉しかったです。それではまた、カイン」

 

 会えて、嬉しかった。

 そんな言葉をかけられたのは、本当に生まれて初めてだった。

 

 ――家に帰った俺は、立ち尽くしたままずっと同じことを考えていた。

 俺の仕事は、罪人を処刑することである。

 けれどどれだけ考えても、どうしてあの少女が死ななければいけないのか。

 その理由が、俺には分からなかった。

 

 そして一週間後。

 聖女、イリス=フェアチャイルド処刑の日。

  

 

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