『ははっ、いい判断だ』
南雲は初対面のときと変わらない調子で笑った。
「そもそも、下につくって具体的に何をすればいいんですか?」
上尾は率直に疑問を投げる。
『いや、今んところ特にねぇな』
肩の力が抜けかけた、その瞬間だった。
『そんなに、俺に媚を売りたいってなら、やってもらいたいことが無いわけじゃない』
余計な一言を引き出してしまった、と上尾は天を仰ぐ。
「……何をすれば?」
『1年の各クラスのリーダー格、有望そうな生徒の情報をまとめろ』
再び、上尾は天を仰いだ。
「あの俺、他のクラスどころか自分のクラスメイトともまともな交友を持ってないんですよ」
『だろうな』
即答だった。
「明らかに、他に適任がいると思うんですが……」
『出来ないってならそれでも構わない』
南雲の声が一段と冷たくなる。
『おまえが、そんな簡単な仕事もこなせない無能って事が分かって、助かるよ』
「やればいいんでしょ! やれば!」
上尾は思わず食い気味に言い返した。
『ああ、それでいい』
今度は南雲の声が楽しげに弾む。
『俺の生徒会に入りたいなら、いちいち逆らわない事だな』
「……はなから入れる気なんて無いんでしょ?」
『ははっ、おまえも懲りねぇな』
「一年の情報が欲しいのも、新しい手駒探しでしょう」
『それもあるが……』
(ほらね)
上尾は心の中でため息をつく。
『新しい手駒を作ったからって、おまえを切るとは言ってねぇだろ』
それに近いことは言っていた気がするが、あえて飲み込む。
『大体おまえは、俺が直々に目をかけてるってことで広まってんだ』
「えぇ?」
(そういえば、堀北さんもそんな風な事を言ってたな)
『そんなおまえを早々に切ったとなりゃ、俺の見る目が無かったって評価が落ちるだろうが』
(……結局自分の体面かい)
『とにかく、期限は5月中だ。それまでに集めてこい』
「分かりました」
『なにかありゃ、また連絡しろ』
「はい」
『つーか、偶にはおまえから飯に誘えよ』
「じゃあ、初めて会った時に行ったとこ連れてってください。美味しかったんで」
『アホか、あんな高いとこホイホイ連れてくかよ』
そこで通話は切れた。
上尾は深く息を吐く。
Sシステムの真相。南雲への服従。
情報だけが積み上がり、頭の中は妙に騒がしい。
「……椎名さんに会いたい」
ぽつりと零れる本音。
「……まだ学校かな」
茶道部はまだ終わっていないかもしれない。
ふと、連絡先の画面を開く。南雲の名前のすぐ上に、椎名ひよりの名前。
指が一瞬だけ迷う。
(いや、やめとこう)
そのときだった。
「……っぶわっくしょん」
大きなくしゃみが出た。
春も後半に差しかかっているとはいえ、風は少し冷たい。
気づけば、かなりの時間を外で過ごしていた。
(風邪でも引いたか……?)
そう思いながら端末を見た瞬間、目を見開く。
「っえ、あっやばっ!」
通話が繋がっていた。
『もしもし? 上尾くん?』
少し遠くから、柔らかい声が聞こえる。
慌てて耳に当てる。
「椎名さん、ごめん!」
『いえ、構いませんが……』
「いや、その……用っていうか」
『……?』
一瞬の間。
そして、言葉が勝手にこぼれた。
「ちょっと嫌なことがあって、椎名さんの声が聞きたくなったんだ」
『ええっ!?』
声が跳ねる。
「ごめんね、忙しいのに」
『い、いえ。私は全然構いません──と言うかむしろ……』
後半はほとんど聞き取れないほど小さくなる。
「ん? なんか言った?」
『い、いえっ!』
誤魔化すような声。
上尾は苦笑した。
「あのさ、掛けちゃったから正直に言うけど」
『……はい』
「今日、一緒に帰ってもいい?」
『ええっ! ……あの、その、ぜひ』
即答だった。
「茶道部の用事は終わったの?」
『あっ! ……すみません、もうしばらくかかりそうなんです』
「じゃあ校門で待ってるね」
『っ! はい!』
通話が切れる。
上尾はスマホを見下ろしたまま、少しだけ息を吐いた。
(……声、聞いたらちょっと落ち着いたな)
誤って繋がった通話だったはずなのに、それが妙に救いになっている。
やけに軽い足取りで、学校へ向かって歩き出した。
────
さっきの通話が、まだ耳の奥に残っている。
『ちょっと嫌なことがあって、椎名さんの声が聞きたくなったんだ』
あの一言が、やけに真っ直ぐで、やけに無防備で。
(なんでしょう……)
胸の奥が、落ち着かない。
普段の上尾は、どこか距離を測るように言葉を選ぶ人だったはずだ。少し不器用で、でも誠実で、だからこそ安心できる。
なのに今日は違った。
『今日、一緒に帰ってもいい?』
あの時の声は、いつもより少しだけ近かった気がする。
椎名は端末をしまい、小さく息を吐いた。
なんだか、胸の奥がざわつく。
(なんでしょう……?)
理由がうまく言葉にならないまま、頬に熱が集まっていくのを感じる。
椎名はそっと自分の頬に手を当てた。
「……なんか今日の上尾くん、すごく積極的というか……」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと漏れる。
いつもより距離が近い気がする。いや、近くなったというより──踏み込んできた、という方が正しいのかもしれない。
その感覚が、妙に落ち着かない。
「何でしょう……?」
言葉はそこで止まる。
代わりに、胸の鼓動だけがやけにうるさい。
(……ドキドキ、します)
椎名は視線を落とし、頬に手を当てる。
顔が熱い。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
────
校門の前で、上尾は目を閉じる。
(どうやって情報を集めようか……)
頭の中では南雲の課題がぐるぐると回っている。各クラスのリーダー格、有望な生徒。交友の薄い自分にとっては、地図のない迷路を歩けと言われているようなものだ。
そんな思考の最中、遠くに人影が見えた。
(椎名さんかな)
期待を乗せて目を凝らす。
しかし近づいてきたのは、望む人物ではなかった。
「なんだ、堀北さんか」
「……開口一番、失礼すぎるんじゃないかしら」
即座に返ってくる冷たい声。
(どの口が言うか)
上尾は心の中でだけ反論する。
堀北はそのまま去るでもなく、そこに立ち止まっていた。
「帰らないの?」
「……気にはならないのかしら」
「なにが?」
「私が聴きに行ったこと……」
その言葉で、上尾はすぐに察した。
「顔を見ればわかるよ。納得のいく回答はもらえなかったって顔してる」
堀北の表情が、わずかに歪む。
「……ええ、その通りよ。貴方の言った通り」
「"その質問には答えられない"?」
「……ええ」
やはりか、と上尾は内心で息を吐く。
(まあ、分かってたことだ)
むしろ自分自身が、違う答えを期待していたのかもしれない。
「……私は兄さんに認めて貰わないといけないのに」
「……」
上尾は何も返さない。
「……私はどうすればいいの?」
「何で俺に聞くの?」
返答は乾いていた。
「……貴方の言ってることは正しかった」
それでも堀北は続ける。
「……少なくとも私より洞察力は上よ」
その言葉には、悔しさとプライドが同居していた。
「でも、それで周囲を突き放して、本当に困ったときだけ縋り付くんだ?」
「……っ!」
堀北の顔が歪む。
「……ごめんなさい」
絞り出すような謝罪は、いつもの鋭さを失っていた。
上尾は短く息を吐く。
「俺の昨日までの予測だと、評価はプライベートポイントの支給に直結してる」
堀北が顔を上げる。目つきが一瞬で切り替わる。
「現に食堂では、上級生の何人かが山菜定食を頼んでいた。コンビニやスーパーでは無料コーナーもあった」
堀北も覚えがあったのだろう、特に口を挟まない。
「毎月10万支払われるなら、あれを選ぶ理由がない」
「……ええ、そうね」
「つまり間違いなくポイントは減るってこと」
まぁ、他にも判断材料はあったけど、と上尾は続ける。
「そのポイントの数が、クラスの評価なのかもしれない」
「……貴方は個人評価で減ると予測していたのよね」
「うん」
「……つまりクラス単位ってことは」
「うちのクラスの様子だと、最悪ゼロもあり得るかも」
「……なんてことよ」
「仮に10万基準だとしたら、Aクラスは8万前後残っててもおかしくない」
「……ゼロと8万」
「あくまで予測だよ。実際そこまで極端じゃないかもしれない」
「……でも、覚悟はしておいた方がいいわね」
「うん」
沈黙が落ちる。
夕陽が二人の影を長く伸ばした。
「……みやっ──んんっ南雲さんの金払いは良かったんだ」
「……えっ?」
「ポイントは減るのは確定だと思う。でも、増やすこともできるってこと」
上尾は言葉を続ける。
「そうじゃなきゃ、逆転なんて一生無理だ」
堀北の目を見て、はっきりと言う。
「必ず、大きくポイントを得られるチャンスがある」
「……気休めでも嬉しいわ」
「まだ3年ある。コツコツやるしかないだろう?」
「……ええ、大変な3年間になりそうね」
再び静寂。
そのとき、堀北が小さく口を開いた。
「……あの、上尾くん?」
「なに?」
「もしかしてなのだけれど、その、校門で待っていたのは私を、その慰──」
「上尾くん!」
言葉は途中で遮られた。
小走りの足音とともに、椎名ひよりが駆け寄ってくる。
「椎名さん!」
「お待たせしてしまい申し訳ありません」
「いや、全然待ってないよ」
「……あの、隣の方は?」
「同じクラスの堀北さん」
「えっと、初めまして。椎名ひよりです」
「……ええ」
短い会釈。空気はまだ少しだけ張っている。
「そういえば堀北さん、さっき何か言おうとしてなかった?」
「なんの話? 自惚れるのもいい加減にして欲しいのだけれど」
「ええ……」
「大体、いい御身分ね。Dクラスが大変だって時に、彼女と逢引だなんて」
「椎名さんは彼女じゃないよ。友達」
「はい、上尾くんは大切なお友達です」
「そういう事を言ってるんじゃないわ!」
「えっ……?」
椎名がきょとんとする。
「上尾くん?」
「うん?」
「堀北さんは、なんで怒ってらっしゃるのでしょうか?」
「実はね、堀北さんはいつも俺を虐めてくるんだ」
「ええっ!?」
「さっきも校門の前でずっと……」
「……堀北さん、上尾くんをあまり虐めないでいただけますか?」
「虐めてないわよ!」
「でも……」
「大体、虐められたのは私のほうよ」
「上尾くん!?」
「堀北さんの方が日常的に俺を虐めてますー」
「今はここで会った話をしてるのであって、普段の話は関係ないわ」
「はい、認めたね」
「認めてないわ。そもそもあれは虐めじゃなくて正当な仕打ちよ」
言葉が交差し、校門前は奇妙な騒がしさに包まれる。
そして椎名ひよりは、ふわりと困ったように微笑んだ。
「……お二人とも、仲がいいんですね」
「「よくないっ!」」
声が、ぴたりと重なった。
────
堀北との言い合いは、椎名の少し的外れな一言によって、あっけなく幕を引いた。
堀北は小さく息を吐き、視線を上尾へ戻す。
「……上尾くん、貴方今日ちょっと様子が可笑しいわ」
「そりゃ、可笑しくもなるでしょ」
即答気味に返す上尾。
「……まぁ、それもそうね。Dクラスの惨状を考えたら」
(それだけじゃないんだけどな……)
心の奥で、南雲の顔がちらつく。あの笑みがやけに腹立たしい。
そんな思考を読んだわけでもないだろうが、椎名がふと口を開いた。
「そういえば、上尾くん。嫌なことがあったって……」
そこで二人の視線が、一瞬だけ交差する。
「……貴方、自分の彼女だからって情報を漏らすつもりじゃないのかしら」
「だから彼女じゃないって。それと、多分5月1日のポイント支給の日に全体発表されると思うよ」
「あと2日程度しかないのね」
「こっから情報が漏れても、どんぐりの背比べ程度しか変わらないよ」
「……いいわ。好きにしなさい」
それだけ言い残すと、堀北は踵を返した。
足早に、校門の外へと歩いていく。
「堀北さん!」
思わず呼び止める。
「……なによ」
振り返る横顔は、相変わらず無機質で、それでも完全には切り捨てていない何かが残っていた。
「また、明日」
「……ええ、また」
それだけのやり取りで、彼女の姿はすぐに視界から消える。
静けさが戻る。
「なんの話だったんですか?」
隣で椎名ひよりが首をかしげる。
その問いかけは、あまりにも純粋で、そして容赦がなかった。
いくら大切な存在の椎名だからと言って、先ほどの説明を繰り返すのは億劫な上尾であった。
────
翌朝。
上尾はいつものように一番乗りで席に着いていた。
机に鞄を置き、窓の外へ視線を流す。
昨日の出来事が、少しずつ頭の中で再生される。
椎名への説明は、意外なほどすんなりと受け入れられた。
むしろ納得の速さで言えば、拍子抜けするほどだった。
(いや、あそこまで疑わないのもどうなんだ)
それはそれで違和感が残る。
椎名は「Cクラスの人には黙っておきます」と静かに言った。
上尾も、それは賛成した。
(変に広まったら面倒だしな)
「なんでもっと早く気づかなかったの?」なんて言い出す連中が出てきたら厄介だ。
そうなれば、状況は一気に歪む。
そして、もう一人の顔が浮かぶ。
堀北鈴音。
昨日は少し言い過ぎたかもしれない、と上尾は少し反省した。
彼女には彼女なりの焦りがあり、必死さがある。
少なくとも「無能」ではない。
むしろ、このクラスを引っ張る可能性はある。
(いや、無理かも)
すぐに撤回した。
彼女の言動で周囲と亀裂が走る様子が目に浮かぶ。
そんなことを考えているうちに、教室の扉が少しずつ開き始める。
他の生徒がぽつぽつと登校してくる。
しかし、その中に目的の人物はいない。
(珍しいな)
いつもなら、上尾の次には来ているはずなのに。
そう思った瞬間、再び扉が開いた。
「遅かったね」
上尾が声をかけると、入ってきた堀北は一瞬だけ目を細めた。
「……流石に今日は足取りが重かったわ」
「明日は石にでもなっちゃう?」
「……とてもじゃないけど、冗談を聞く気分じゃないの」
今日という日付の意味は、二人とも理解している。
4月末。
そして明日が“Xデー”。
「どうなるかな?」
上尾がぽつりと呟く。
「暴動でも起こるんじゃないかしら」
堀北の返答は冗談とも本気ともつかない。
「うん、笑えないね」
「私の気持ちがわかった?」
そのときだった。
いつの間にか席に座っていた綾小路が、淡々と口を開く。
「お前ら仲がいいんだな」
「「……よくない」」
即答が重なる。
あまりにも既視感のあるやり取りで、二人は項垂れた。
────
項垂れている二人を尻目に、茶柱が教室へ入ってくる。
教室内は今日も今日とて騒がしい。
どうせ注意はされないのだろう。
「静かにしろー。今日はちょっとだけ真面目に授業を受けてもらうぞ。小テストを行うことになったから後ろに回してくれ」
多くの生徒が非難の声を上げる。
その一方で、上尾と堀北は顔を上げ、軽く視線を交わす。
ボソボソと話し合う。
「今までにない展開ね」
「これも何かの伏線かも」
騒ぎ出す生徒たちを尻目に、茶柱は淡々と説明を続ける。
「今回のテストはあくまでも今後の参考用だ。成績表には反映されることはない」
「ねぇ、成績表にはってことは」
「うん、多分そういうことだろうね」
やがてテストが始まった。
問題の内容はあまりにも簡単すぎて、拍子抜けするほどだった。
この程度なら全員100点でもおかしくない。
上尾は順調に解き進めていく。
しかし、ラスト3問に差しかかったところで、ふと手が止まった。
(……難しい)
17問目までは中学レベルの、あまりにも簡単な問題だった。
にもかかわらず、そこから急に難易度が跳ね上がっている。
まるで別の試験に切り替わったかのようだった。
(これが解けたら、何かボーナスでもあるのか?)
そう考えながら、上尾はペンを握り直す。
────
「ねぇ、最後の3問だけど」
「桁違いに難しかったわね」
堀北が小さく息を吐きながら言う。さっきまでのテストの余韻が、まだ指先に残っているようだった。
「でも、あれが解けたらボーナスとかあるかなって」
「……だと良いけれど」
堀北は視線を落としたまま、短く返す。
「堀北さんは自信あるの?」
「……一問だけならね」
その一言は静かだったが、妙な重みがあった。
「やっぱり頭いいね」
「……貴方は?」
視線が上尾へ向く。
「俺も同じだよ」
即答。
だが嘘である。
本当は2問解けている。
ただし、それを口に出す気はなかった。
(テスト返却の時だ)
上尾の頭の中では、もう未来が出来上がっている。
『いやー、俺はダメもとでやったけど合ってたわー』
『堀北さんはー?』
『ああー、まぁしょうがないよー』
『難しかったもんね!』
そこまで想像して、思わず口元が緩みかける。
なぜここで、嘘をついたのか
それは解けた2問のうち1問が少し自信がなかったからである
もし、2問解けたと言って間違っていたら彼女は絶対にそれを咎めてくる
『あら、昨日はあんなに自信満々だったのに』
『あんな口振りで、間違えるなんて』
『私だったら生きていられないわ』
『まぁ、しょうがないわね。見栄を張りたかっただけだものね』
上尾の脳内の堀北は、現実に匹敵する口の悪さを誇っていた。
同点なら、普通に流す。それでいい。
(もし、俺が合ってたら)
その時だけは。
盛大に、静かに、容赦なく煽ってやる。
上尾はいつの間にか、堀北の影響を強く受けていた。
────
放課後。
上尾はいつも通り、図書館へ向かおうと鞄を肩に掛けた。
教室を出ようとした、その瞬間だった。
「……あの、明日の事について、話し合っておかないかしら」
背後から堀北の声。
足が止まる。
(明日か……)
確かに、あの“Xデー”が来れば、クラスはどう転ぶか分からない。いや、むしろ確実に荒れるだろう。
だが同時に、上尾の中では別の結論も固まりつつあった。
(俺たちだけでどうにかできる範囲じゃない)
そう判断した上尾は、軽く肩をすくめる。
「正直足掻いたってしょうがないし、ただ静観するしかないんじゃない?」
「それはそうだけど……」
堀北の声には、珍しく迷いが混じっていた。
普段なら即座に否定しそうなものだが、今はそれすらできないらしい。
「まぁ、なんとかなるよ」
上尾はそう言って、あえて軽く流した。
それ以上考え込んでも、今は答えが出ない。
そしてもう一つ。
今日の優先事項は、別にある。
「椎名さんを待たせてるから、もう行くね」
そう言って背を向ける。
上尾は振り返らないまま、手を軽く上げる。
「また、明日」
ドアを開け、廊下へ出る。
その背後で──
『──ぱり付き──ているじゃない』
誰かの声が、途切れたノイズのように耳の奥をかすめた。
だが、それが誰の言葉だったのか確かめる前に、扉は静かに閉まった。
────
そして図書館で椎名と落ち合い、いつも通りの放課後を過ごした。
帰り道、並んで歩いている途中で椎名がふと足を止める。
「──上尾くん」
「どうしたの?」
振り返ると、椎名は少し言いにくそうに視線を揺らしていた。
「明日からも、変わらないですよね」
その言葉で、上尾は一瞬だけ言葉を失う。
(そうか、椎名さんと俺は別のクラス)
個人じゃなく、クラス単位で競わされる環境。
椎名の不安はそこにある。
自分との時間が、この先も続くのかどうか。
上尾は少し間を置いてから口を開いた。
「たとえ、クラスが違っても」
椎名がまっすぐこちらを見る。
「椎名さんは俺の大切な友達だよ」
「だから明日からもこうやって一緒に過ごそう」
その言葉に、椎名の表情がゆっくりほどけていく。
そして小さく頷いた。
「はいっ!」
────
寮の自室に戻った上尾は、シャワーを浴びて汗と一緒に思考のざらつきも流し落とすようにした。
夕食は手早く済ませる。
ベッドに倒れ込むと、身体が重く沈んだ。
思い返せば、たった一ヶ月。
それなのに、初日の自分が別人に思えるほど、生活は変わっていた。
椎名という、大切な友人ができた。
南雲という、厄介な上司ができた。
そして一番意外なのは——
堀北と、ここまで言葉を交わすようになったことだ。
本来なら避けていたはずの相手。
それが今では、普通に会話をしている。
たった一晩でこうも変わるとは。
彼女が変わったのか。
それとも、自分の見方が変わったのか。
(堀北さん相手だと、なぜか強気に当たっちゃうんだよな)
それなのに、不思議と会話は噛み合うようになってきている。
それが良いのか悪いのかは、まだ判断がつかない。
ただ一つだけ確かなのは、関係が「動いている」ということだった。
(明日だ)
天井を見上げたまま、目を閉じる。
(明日からが本番だ)
意識は静かに沈み、夜の底へと落ちていった。
(あっ、雅さんの依頼忘れてた)
何かラノベ主人公みたいになった