あれから数日が経った。
何度も美術部に顔を出したが、神室が現れることはなかった。
(また、Aクラスに行って真正面から呼び出そうかな?)
そう思いかけて、すぐに首を振る。
葛城の反感を買うだけだ。
かといって、神室が美術部に顔を出さない以上、他に手段もない。
ここにきて、行き詰まっていた。
だがまだ、南雲の定めた期限までは三週間以上ある。
焦る必要はない。
上尾は自分に言い聞かせ、思考を切り替える。
Dクラスの内情へと目を向けた。
一部では、中間テスト対策として勉強会が行われていた。
堀北も「三馬鹿」を中心にしたグループで勉強会を開いたらしいが、結果は散々だったと聞く。
上尾自身も平田から講師役を頼まれていたが、南雲の命令があったので断っていた。
堀北を突き放したとはいえ、Dクラスに貢献しないつもりではなかった。
Dクラスがクラスポイントを得ることは、上尾にとっても利益になる。
退学者が出れば、得られるはずのポイントも消える。
自身が退学になる可能性だって、増えるかもしれない。
だが、それでも今は南雲の命令が最優先だった。
それを終えるまでは、平田には悪いが動けない。
ただ、中間テストの攻略法については、確証こそないが見えているものがあった。
あとは、それをどのタイミングで使うかだ。
今はそれ以上、考えるのをやめた。
────
今日は久々に椎名と放課後を過ごす約束をしている。
昼休みには毎日顔を合わせていたが、放課後は美術部に顔を出していた。
授業が終わり、端末を操作しながら教室を出る。
そのまま図書館へ向かおうとした、その時だった。
「ねぇ」
背後から声がかかる。
振り返ると、そこにいたのは上尾がずっと探していた人物だった。
神室真澄。
「……あんたに会いたいってやつがいるんだけど」
唐突な一言。
一瞬、思考が止まる。
(……坂柳さん、か?)
それにしても……
よりによって、椎名と会う約束をしている日に。
本当にタイミングが悪い。
「……それ、今日じゃなきゃダメ?」
気づけば、考えるより先に口が動いていた。
神室はわずかに目を細める。
「……あんただって、坂柳に会いたかったんじゃないの?」
上尾は小さく息を吐いた。
そして諦めるように肩をすくめる。
「……じゃあ、案内お願いしようかな」
神室はそれ以上何も言わず、歩き出す。
上尾はその背中を追った。
歩きながら、端末を取り出す。
椎名へ謝罪のメッセージを打ち込む。
癒しの時間は当分先になりそうだ。
────
神室に連れられて辿り着いたのは、カラオケ店だった。
案内された個室の前で、神室はノックもせずにドアを開けた。
その先にいたのは──
ベレー帽を被り、杖をソファの横に立てかけた、小柄な銀髪の少女。
「ふふっ、お待ちしておりました」
柔らかな声音。
だが、その目は笑っていない。
そして彼女の隣には、長い髪の男が一人。鋭い眼差しが、入室した瞬間から上尾を射抜いていた。
(……やけに睨まれてるな)
初対面のはずだが、彼に恨まれることでもしただろうか。
そんな事を考える上尾をよそに、少女は話を続ける。
「まずは自己紹介と致しましょう」
少女はゆっくりと口を開く。
「1年Aクラスの坂柳有栖と申します」
軽く会釈。
「隣の彼は鬼頭君と仰います」
紹介された男は無言のまま、視線だけで圧をかけてくる。
「真澄さんの紹介は不要ですよね?」
(真澄……?)
一瞬遅れて、それが神室の名前だと気づく。
振り返れば、当の本人は壁にもたれ、興味なさげにこちらを見ていた。
「……うん。俺は上尾照。1年Dクラス」
短く名乗る。
それで十分だと判断した。
「今日お呼び立てした理由は、もうお分かりですね?」
坂柳は楽しげに微笑む。
逃げ場を塞ぐような、穏やかな声だった。
「……さあ、どうかな」
とぼけてみせる。
だが、その一手が意味を持たないことは、次の言葉で思い知らされる。
「貴方は葛城君に接触した翌日から、美術部に毎日訪れていました」
「入部後、数日で幽霊部員になったにもかかわらず、です」
淡々とした事実の列挙。
だがそれは、観察されていたという証明でもある。
「真澄さんを通して、私とも接触したかったのでしょう」
坂柳の視線が、まっすぐに上尾へと向けられる。
「南雲副会長の命令で、情報を得るために」
──図星。
(全部バレてる……)
背筋に、冷たいものが走る。
葛城との会話を拾われたのか、それともその後の行動から組み立てられたのか。その両方か……
いずれにせよ──
目の前の少女は、すでに盤面を読み切っている。
上尾は小さく息を吐いた。
誤魔化しは、もう通じない。
どうしたものか──
そう考える上尾を尻目に坂柳は指先でテーブルを軽く叩いた。
「では──取引と参りましょう」
そう言って、彼女は視線を机の中央へ落とす。
そこには彼女が用意したであろう、場違いなほど整然としたチェス盤が置かれていた。
白と黒の駒は既に初期配置に並べられている。
「私のことをお話しする代わりに……その間、一局お付き合い願えますか?」
柔らかな誘い口調。
だが拒否権など最初から存在しない、そんな空気があった。
(カラオケ店でチェスか……)
上尾は小さく息を吐く。
嫌いではない。
むしろ──
「……いいよ」
椅子を引き、盤の前に腰を下ろす。
「ちゃんと坂柳さんのこと、教えてくれるならね」
坂柳が微笑む。
「では、白をどうぞ。先手はお譲りします」
試されている。
そう理解しながらも、上尾は迷いなく手を伸ばした。
キング前のポーンを二つ前へ。
静かな開戦。
対して坂柳も即座に応じる。
駒同士が、音もなく噛み合い始めた。
────
「貴方は、4月中に“Sシステム”について看破していましたね」
数手進んだところで、坂柳が口を開く。
まるで雑談のような口調だった。
だが内容は鋭い。
「それがきっかけで、南雲副会長は貴方に一目置いたのでしょう」
断定。
疑いを挟む余地のない言い方だった。
上尾は盤面から目を離さず、次の一手を置く。
核心には触れているが、全てではない。
ならば──
駒を一つ進めた瞬間、坂柳は間を置かずに打ち返してくる。
しかも守る気配がない。
こちらの駒を取れる形を作ることを、最優先にしているような手。
気づけば、さっき動かした駒がもう狙われていた。
迷いなく踏み込み、ためらいなく奪いに来る。
様子見も、牽制もない。
最初から喉元を狙いに来ている。
その打ち方は、あまりにも攻撃的だった。
──まるで、彼女の性格を表したかのように。
「うん、まぁね」
軽く肯定する。
嘘ではない。
「でもそれは、坂柳さんだって同じでしょ?」
ナイトを跳ねさせながら、視線だけを上げる。
「Aクラスのポイント見れば分かる。かなり早い段階で仕組みに気づいてなきゃ、あの数字は出ない」
静かなカウンター。
坂柳の口元が、わずかに緩む。
「ふふ……鋭いですね」
彼女は迷いなく駒を進める。
まるで最初からその一手しか存在しないかのように。
次の瞬間、こちらの駒が一つ盤から消えた。
防げたはずの一手。
だが、その前の動きで“防げない形”にされていた。
気づいたときには、もう遅い。
攻めながら、逃げ道を潰している。
「確かに、私も気づいておりました」
一拍。
「ですが“同じ”というのは、少々語弊がありますね」
坂柳の指先が、クイーンに触れる。
滑るように駒を進める。
こちらの陣形に、静かに圧がかかる。
その一手で、さらに選択肢が減る。
守れば別の駒が取られる。
逃げれば、別の場所を崩される。
考えるたびに、不利な形に寄せられていく。
攻め続けることで、相手に考えさせない。
完全に主導権を握る打ち方だった。
「貴方は気付いていながらも、それをクラスに共有する事はなかった」
淡々とした声音。
だが、その一言一言が確実に核心を突いてくる。
盤の上でも同じだった。
言葉と同じように、逃げ場を削りながら追い詰めてくる。
「私と違って」
駒から指が離れる。
「いったい何故でしょう」
視線だけが、まっすぐに上尾へ向けられる。
その視線と同じ圧が、盤面にもあった。
「どうしても、それだけが理解できませんでした」
逃げ場のない問い。
上尾は盤面を見つめたまま、すぐには答えない。
(……やっぱり、そこ来るか)
当然の疑問だ。
大きなミスはしていない。
それでも──
気づけば、駒は減り、選択肢も減っている。
守ってばかりでは勝てない。
ならば──
こちらからも攻めるのみだ。
上尾は盤面を一瞥し、静かに駒を動かす。
守りを一つ捨て、代わりに相手を狙う形。
小さな反撃だった。
「何だが俺ばかり質問されているなぁ」
軽く肩をすくめる。
「チェスを打つ代わりに坂柳さんの話をしてくれる約束でしょ」
視線だけを上げる。
「その答えの前に、俺からも質問させてよ」
「ふふっ、そうでしたね」
坂柳は微笑む。
「私の何が知りたいのでしょう」
余裕は崩れない。
だが、先ほどまでの一方的な流れでもない。
「坂柳さんはAクラスのリーダーを目指しているよね」
上尾は続ける。
「葛城くんと争って」
坂柳の指が、駒に触れたまま止まる。
ほんのわずかな間。
「クラス間で争うこの学校において、内輪揉めなんで愚の骨頂だと思わない?」
言葉を重ねる。
「にも関わらず、君はクラスを掌握しきれていない」
逃がさない。
「葛城くんがよっぽど優秀なのか、君が──よっぽど人望がないのか」
踏み込む。
同時に、盤面でも一手を差し込む。
相手の出方を問う形。
攻めた。
確かに一歩、踏み込んだ。
だが──
それが通用するかどうかは別だ。
「ええ、確かにあなたの言うとおりです」
あっさりと、坂柳は頷いた。
否定も、取り繕いもない。
「しかし、私に人望がないと言うわけではございません」
指先が駒に触れる。
迷いはない。
「私について来てくれる“お友達”は沢山いらっしゃいます」
一手。
先ほど上尾が仕掛けた形を、あっさりと崩す。
まるで最初から見えていたかのように。
「少し遊んであげてるんです」
その声音は、柔らかい。
だが内容は、あまりにも一方的だった。
「葛城君を」
コト、と小さな音。
さらに一手。
今度は明確に、上尾の駒が一つ取られる。
反撃の起点だった場所が、消える。
「私が圧倒的な勝利を手にして、Aクラスを完全に掌握する為に」
視線が上がる。
微笑みは崩れない。
けれどその奥には、揺るぎのない確信があった。
勝つことが前提。
競っているつもりすら、ない。
盤面を見下ろしながら、上尾は小さく息を吐く。
(……やっぱり、そう来るか)
攻めたはずだった。
だが気づけば、また一つ、形を崩されている。
会話も、盤面も。
じわじわと、逃げ場を削られていた。
とてもじゃないが勝てそうにない。
残る選択肢はひとつ──
「でもその“お友達”って本当にただの友達なの?」
上尾は駒を一つ手に取り、軽く示す。
「君からすれば、これと大差ないんじゃないかな?」
コト、と盤に戻す。
坂柳はすぐには答えない。
わずかに目を細めるだけ。
その沈黙で十分だった。
──確信する。
南雲と同じだ。
人を、"駒"として見ている。
「酷い事をおっしゃいますね」
坂柳は微笑んだまま言う。
「皆さん私の大切なお友達ですよ」
上尾はちらりと視線を横へ流す。
鬼頭は変わらず無表情。
まるで置物のように動かない。
一方で、神室はわずかに俯き、不機嫌そうに眉を寄せていた。
──彼女は、弱みでも握られているのだろうか。
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
「そろそろ先ほどの答えを頂けませんか?」
坂柳が静かに促す。
わずかに、急かすような間。
「何でクラスに共有しなかったか、だっけ?」
「ええ」
上尾は肩の力を抜いたまま答える。
「簡単な話だよ。あのクラスメイト達じゃ、話したところで聞く耳を持たない」
「余計な混乱を生むだけだ」
「それに──俺ははなから、Aクラスの座なんか興味はないんだ」
「ただ、退学になりたくないだけ」
わずかな沈黙のあと、坂柳が眉を寄せる。
「では何故、南雲副会長に取り入るような事を」
上尾は肩の力を抜いたまま答える。
「この学校は情報が全て」
「彼の近くにいれば、退学になるリスクが減ると思ったから」
坂柳はわずかに目を細める。
「では貴方は“勝つ”つもりなどない、と」
「いや、違うよ」
上尾は盤面に視線を落としたまま、小さく言う。
「“負け”ないように動くだけだよ」
そのまま、静かに駒から手を離す。
それ以上、どちらも動かない。
動けない。
互いに王は追い詰められてはいない。
だが、これ以上進めば崩れるのは自分だと分かっている。
──行き場がない。
気づけば盤面は、完全に止まっていた。
ステイルメイト。
引き分け。
勝敗のつかない、決着だった。
坂柳がふっと小さく笑う。
「……なるほど」
その声音は、どこか楽しげだった。
────
「少々、貴方を侮っておりました」
坂柳が、盤面を見下ろしたまま言う。
「終始、私が攻めていたはずでした」
「貴方は防戦一方」
指先で、いくつかの駒の位置をなぞる。
「途中で反撃に出たようですが、それも潰した」
そして、わずかに口元を緩めた。
「にも関わらず、ステイルメイトまで持って行かれてしまいました」
視線が、ゆっくりと上尾へ向けられる。
「どうやら、本当に負けない戦いが得意なようですね」
軽い称賛。
けれど、その言葉はただの褒め言葉じゃない。
どこまで攻めれば崩れるのか。
どうすれば詰むのか。
それを確かめられたような感覚が、じわりと残る。
上尾は小さく肩をすくめた。
「勝てない相手に、無理して勝ちに行く必要もないでしょ」
淡々と返す。
坂柳は、くすりと笑った。
「ええ、とても合理的です」
その言葉は、どこか楽しそうだった。
「ですが面白味もありません」
すぐに続く声音は、わずかに温度が下がる。
「勝つつもりのない人と戦っても」
坂柳は視線を細める。
「貴方が盤面に登場するには、どうすれば良いのでしょうね」
突き刺すような、冷たい笑み。
まるで“どう動かせば面白くなるか”を考えているような目だった。
「……勘弁してほしいなぁ」
上尾は小さく肩をすくめる。
「ふふっ、冗談です」
あっさりと引く。
だが、その軽さが逆に信用できない。
「今日はとても楽しかったです」
「ぜひ、また一局お願いしたいですね」
穏やかな声音。
だが──
「……もしくは、別の遊びでもよろしいのですが」
その一言だけが、わずかに重い。
上尾は内心で即座に却下した。
(絶対に嫌だ)
「……うん、まぁ、チェスみたいな遊びだったらいつでも誘ってよ」
あくまで軽く返す。
線を引くように。
坂柳は、くすりと笑った。
────
「今日はどうもありがとうございました」
席を立ちながら、坂柳が柔らかく微笑む。
「よろしければ、連絡先を交換して頂けませんか?」
断る理由もなく、上尾は端末を取り出した。
軽い操作音のあと、坂柳の連絡先が画面に追加される。
その流れで、神室、鬼頭とも交換することになった。
「では、また」
短い別れの言葉。
坂柳は神室を伴い、そのまま個室を後にする。
扉が閉まり、わずかな静寂が落ちた。
──残されたのは、上尾と鬼頭の二人。
気まずい空気。
というより、一方的な圧。
「……えっと、鬼頭くんだったよね」
探るように声をかける。
「俺にまだ何か?」
鬼頭は、先ほどまでと変わらぬ無表情のまま。
だが、その視線にはわずかな迷いが混じっていた。
「……上尾照」
低く、探るような声。
「お前の母親は……上尾──か?」
断定ではない。
確かめるような言い方だった。
一瞬、思考が止まる。
「……は?」
掠れた声が、思わず漏れた。
心臓が、どくん、と大きく跳ねる。
呼吸が一拍、遅れる。
胸の奥がざわつくどころか、嫌な汗がじわりと滲んだ。
どうしてその名前を知っている。
いや、それ以上に──
(なんで、俺が“そいつの息子”だと思った?)
上尾は、わずかに息を呑む。
声がうまく出ない。
それでも、絞り出すように口を開いた。
「……どういうこと?」
かすかに震えた声だった。
鬼頭は、ゆっくりと答える。
「……前に、ドキュメンタリーで聞いたことがある」
淡々とした口調。
「彼女の息子の名前をな」
視線が、わずかに上尾へ向く。
「……上尾照」
短く、区切る。
「……珍しい苗字や名前ではないが」
一瞬の間。
「もしやと思ってな」
(ドキュメンタリー……?)
確かに、出ていたことはある。
あの業界では知らない人はいない存在だ。
だが──
(関係ない人間なら、せいぜい名前を聞いたことがあるかどうか、くらいだろう……?)
家族構成まで覚えているか?
ましてや、息子の名前なんて。
普通は、そこまで記憶に残らない。
上尾はゆっくりと視線を上げる。
鬼頭は相変わらず無表情のまま、こちらを見ていた。
(……何が目的だ?)
坂柳との接触の直後。
自分の素性に踏み込むような質問。
胸の奥がざわつく。
──触れてほしくない。
誰にも。
そして何より、自分自身ですら思い出したくない。
あの存在のことだけは。
思考の端に浮かびかけた瞬間、反射的に押し潰す。
嫌悪だけが、わずかに残る。
それでも、鬼頭の視線は逸れない。
逃がさないと言わんばかりに。
上尾の胸の奥で困惑と警戒が渦を巻く。
────
寮の自室。
気分の悪さと胸の奥に残るざらつきを抱えたまま、上尾は制服のままベッドに倒れ込んだ。
上尾の脳内では先ほどの会話が頭から離れなかった。
(……最悪だ)
よりにもよって、そこに触れてくるのか。
他人には触れてほしくない。
自分でも考えたくない。
あの人間のことを──
『……俺の憧れだ』
『は?』
あまりにも予想外で、素っ頓狂な声が漏れる。
『日本のファッション界のトップデザイナー』
『自分のブランドを持って、パリやミラノのコレクションにも出てる』
『それに、旦那は今一番勢いのある日本のアパレル企業の代表』
簡潔な説明。
それだけで十分だった。
だからこそ、余計に現実味を帯びる。
『……俺もファッションデザイナーを目指している』
迷いのない声音。
上尾は一瞬、言葉を失う。
さっきまでの警戒や苛立ちが、わずかに形を変える。
だが同時に、胸の奥にじわりと広がるのは──嫌悪だった。
『……それで、わざわざ確認したの?』
『……ああ。名前と年齢が一致してたからな』
『……もしかしたらと思ってな』
『もし本当にあの人の息子なら、一度見ておきたかった』
鬼頭はそれだけ言う。
余計な感情は乗っていない。
ただ、それが事実だとでも言うように。
上尾は小さく息を吐く。
(……なんだよ、それ)
張っていたものが、少しだけ緩む。
だが、完全には解けない。
視線を逸らし、ほんの一瞬だけ逡巡する。
そして──
『……まぁ、そうだよ』
短く、肯定した。
投げやりにも似た一言。
(どうせ、彼が知るのは“表の顔”だけだ)
華やかな肩書き。
成功者としての姿。
世間が知っているのは、そこまで。
(裏なんて、誰も知らない)
仮に知られたとしても──
(困るのは、あいつらの方だ)
自分に言い聞かせるように、思考を切り捨てる。
それでもなお、
胸の奥に残るざらつきだけは、消えなかった。
(それにしても今日は、怒涛の一日だったな)
神室からの呼び出し。
坂柳とのチェス。
そして──鬼頭の話。
どっと疲れが押し寄せる。
時刻は19時。
(このまま寝るか……)
そう思った瞬間、端末が短く震えた。
不機嫌な顔で画面を見る。
『椎名ひより』
一瞬で意識が切り替わる。
(……椎名さん!?)
飛び起きるように上体を起こした。
今日の約束は事情が重なって断っている。
その埋め合わせとして改めて謝りたい気持ち。
荒れた思考を少しでも落ち着かせるために、彼女の声を聞きたかった。
端末を握る指に、わずかに力が入る。
通話に出る上尾。
「椎名さん! 今日はごめんね! 突然行けなくなっちゃって……」
『……いえ』
彼女の声は、妙にやけに暗かった。
……怒っているのだろうか?
「……椎名さん?」
『……上尾くん、今お時間大丈夫でしょうか……?』
「平気、だけど……」
通話の向こうに、短い沈黙が落ちる。
その間が、やけに長く感じられた。
『……上尾くんに、会いたいと、言ってる人が居ます』
既視感のある言葉。
どうしようもない胸騒ぎが上尾の胸の奥を静かに締めつけていった。
とりあえずここまでは書けました。
続きの展開はまだ悩んでいますが、なるべく早くお届けできたらなと思います。