「やっぱり、話し合えば分かり合えるもんだね」
意趣返しのつもりか、そう上尾は龍園に言い放つ。
──話し合い?
これが?
退学を逆手に取った、ただの脅しだ。
龍園は舌打ちを噛み殺す。
「じゃあ、ここに署名を頼むよ」
差し出された紙を見下ろしながら、低く吐き捨てる。
「……その前にひとつ聞かせろ」
「なにかな?」
「お前じゃねぇ」
一瞬の間を置いて、視線を横へ流す。
「……おい、星之宮」
『こらっ、先生をつけなさいっ!』
間延びした声が返ってくる。
龍園は無視した。
「……退学届なんて、本当に受け取ってたのか?」
『……』
沈黙。
答えない。
やはりブラフか──そう思いかけた、そのとき。
「先生、“答えてあげていい”ですよ」
上尾の声が、静かに割り込む。
なぜ、こいつが許可を出す。
一瞬だけ、思考が止まる。
『うん、ちゃんと受け取ってるわ』
あっさりと、肯定。
『証拠が欲しいなら、あとで見せてあげてもいいし──』
『──それに、教師が生徒に嘘を言うわけないじゃない』
軽い口調のまま、続ける。
『流石に嘘で他クラスの生徒同士を争わせるなんて、わたしの首が飛ぶわ』
判断がつかない。
「やっぱり気が変わった?」
上尾の声。
その軽さが、神経を逆撫でする。
『えっ! これ出してきちゃってもいいのっ!』
星之宮の声が重なる。
どこまでも場に似合わない、能天気な響き。
「……うるせぇ」
低く、吐き捨てる。
「しねぇとは言ってねぇだろ」
沈んだ声。
それが、この場での結論だった。
「うん、ありがとう」
上尾は、変わらない調子で答えた。
それから、龍園は契約書に記入した。
ペン先が紙を走る音だけが、やけに大きく響く。
「チッ……これでいいんだろ」
吐き捨てるように言うと、上尾は軽く頷いた。
「うん、ありがとう。じゃあこれ」
そう言って差し出されたのは、あのボイスレコーダーだった。
龍園はそれを受け取る。
一瞬だけ、手の中で重さを確かめる。
次の瞬間、足元に落とし、そのまま──
踏み潰した。
鈍い音が、床に広がる。
「ええっ! ちょっとそれ!」
上尾の声が裏返る。
「今月金欠なのにっ!」
その慌てぶりに、さっきまで胸の奥に溜まっていた苛立ちが、すっと引いていくのを感じた。
龍園は、わずかに口角を上げる。
「足が滑った」
「どうすんだよ……!」
上尾は頭を抱えながら、壊れたそれを拾い上げる。
しばらく眺めてから、諦めたように小さく息を吐いた。
「……もういいや。カラオケ代は君が持ってね」
そう言って、壊れたボイスレコーダーを大事そうに抱えたまま、上尾は背を向ける。
そのまま、部屋を出ていこうとした──
「おい、上尾」
低い声。
上尾の足が止まる。
振り返らないまま、短く返す。
「なに?」
龍園は椅子に深くもたれたまま、視線だけを向ける。
そして、感情を押し殺すように言った。
「……次は潰す」
空気がわずかに軋む。
上尾は肩をすくめるでもなく、ただ一言だけ返した。
「そっ」
それだけ。
軽すぎるほどの返事を残して、上尾は部屋を出ていった。
龍園は、最初から上尾のことを舐めていた。
南雲とコネがあるという噂は聞いていたが、所詮はそれだけの存在だと思っていた。
利用価値はある。傀儡にできれば十分。そう判断していた。
椎名ひよりに関しても同じだ。
クラスに積極的に貢献するタイプではない。だが、上尾を人質に取れば話は別だ。
あの手の人間は、他人を理由にすれば簡単に折れる。
──そう、思っていた。
だが現実は逆だった。
脅したはずの相手に、脅し返された。
自主退学によるマイナス500ポイント。
それが真実かどうかは分からない。
だが、あの場には星之宮がいた。
そして、あの女はそれを肯定した。
もし、あれが本当だとしたら──
『“お前は王様じゃない。ただの問題児だ”』
上尾の言葉が、頭の奥で何度も反響する。
馬鹿げている。
だが、不思議と──あの通りの展開になるような感覚が拭えなかった。
場に似つかわしくない、星之宮の能天気なカウントダウン。
どちらでもいいから早く終われ、と言わんばかりの上尾の無機質な表情。
あの空間そのものが、結論を強制していた。
恐怖じゃない。
もっと別のものだ。
すでに詰みを宣言され、選択肢ごと潰されたような感覚。
抗う余地のない敗北を、静かに突きつけられた。
だから──龍園は、引いた。
「……上尾、面白ぇじゃねぇか」
小さく、吐き捨てるように笑う。
だが同時に、確信もしていた。
あいつは、ひとつミスを犯している。
あの契約には、上尾自身が含まれていなかった。
守られているのは椎名ひよりだけだ。
つまり──上尾は、いつでも狙える位置にいる。
……いや。
上尾を退学に追い込めば、椎名は自ら辞める可能性が高い。
そうなれば、マイナス500ポイント。
それでは意味がない。
そこまで読んだ上で、自分の名を入れなかったのか。
それとも──
そもそも、なぜ奴らは退学を避けた?
……確かに、退学にはリスクが付きまとう。
編入するにしても、“入学して一ヶ月で退学”という経歴は消えない。
それを嫌ったのか。
それともブラフか。
……考えても、答えは出ない。
龍園は小さく舌打ちをした。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
「……俺をコケにしたことは、必ず後悔させてやる」
低く、確かに吐き捨てた。
────
上尾が龍園と別れたあと、通話越しに声が届く。
『星之宮先生、今日はありがとうございました』
「いいよー!」
軽い調子で返してから、ほんのわずかに間を置く。
「……でも──」
声の温度が、少しだけ変わる。
「──“約束”は忘れないでね」
『ええ、必ず』
即答だった。
迷いのないその返事に、星之宮は一瞬だけ目を細める。
『それでは』
短い別れの言葉とともに、通話が切れる。
静寂。
星之宮は端末を見つめたまま、ふーっと長く息を吐いた。
上尾照。
星之宮の友人──茶柱佐枝が担任を務める、1年Dクラスの生徒。
成績は優秀。
だが、コミュニケーション能力に難あり。
そんな評価の生徒だったはずだ。
──少なくとも、書類の上では。
しかし実際はどうか。
彼は入学して間もない4月の時点で、生徒会副会長と何らかのコネクションを築いていた。
あの南雲が目を掛けるのだ。
ただの“優秀な生徒”で収まるはずがない。
きっと何かある。
そう思う程度には、興味を引かれていた。
それくらいの印象だった。
だからこそ──
職員室に現れた彼が、茶柱ではなく、自分の名前を口にしたとき。
星之宮は、素直に驚いた。
(……でも、あの時の佐枝ちゃんの顔)
ふと思い出す。
ほんの一瞬、表情を崩しかけた、あの顔。
それだけで、口元が緩みそうになる。
──茶柱佐枝。
友人であり、そして“Aクラス”の座を奪った戦犯。
あの女の余裕が崩れる瞬間は、何度見ても飽きない。
「……ふふっ」
小さく、喉の奥で笑いが漏れる。
それからソファの背に体を預け、軽く天井を見上げた。
それにしても──
「……とんでもない子ね」
思い出すのは、あの場の空気。
龍園の苛立ちと焦燥。
上尾の、あまりにも淡々とした態度。
そして──自分が、その“駒”として組み込まれていた事実。
「しかも教師を使うなんて……ほんと、いい度胸してるわ」
呆れたように笑う。
けれどその笑みは、どこか楽しげでもあった。
大人しい顔をして、やることだけは派手。
教師を巻き込み、龍園を抑え込み、状況ごとひっくり返す。
そのすべてを──
たった
「いいじゃない」
少しだけ目を細める。
そういうの、嫌いじゃない──
そこまで考えて。
ふと、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
(……ああ、そういうこと)
理由はすぐに分かった。
あの“真っ直ぐさ”。
損得を並べながらも、最後の一線だけは感情で踏み越えるあのやり方。
どこかで見たことがある。
──昔。
まだ学生だった頃。
茶柱の隣にいた、あの男。
「……やめてよ」
ぽつりと零れる。
思い出したくもないのに、勝手に重なってくる。
似ているわけじゃない。
性格も、立ち回りも、まるで違う。
それでも──
大事なもののために、迷いなく無茶を通すあの感じが、どうしても重なる。
「……気に入らないわね」
星之宮は表情を歪ましながら呟く。
評価はしている。
間違いなく、あの生徒は面白い。
それでも。
「……佐枝ちゃんの周りって、なんでこういうのばっかりなのかしら」
小さく息を吐き、視線を逸らす。
羨ましいわけじゃない。
そう言い聞かせるように。
(……ま、いいけど)
最後は軽く流す。
けれど、その奥に残った感情は消えないままだった。
でも──
これで、Cクラスの足は止まる。
今日の一件で、簡単に動ける状況じゃなくなったはずだ。
(……いい仕事してくれたじゃない)
満足げに目を細める。
だが次の瞬間、その表情がわずかに引き締まる。
「ただし」
声が、わずかに低くなる。
「“約束”を破ったら──その時は容赦しないけどね」
誰に聞かせるでもない、静かな呟き。
それを最後に、星之宮はもう一度だけ息を吐いた。
しばらくの沈黙。
やがて、ぽつりと零す。
「彼らを相手にしないといけないなんて」
「……うちのクラスの子、大丈夫かしら」
視線を落とし、わずかに肩をすくめる。
────
一之瀬帆波は、端末を握りしめたまま固まっていた。
『次の中間テストの攻略法、5万ポイントで買わない?』
あまりにも唐突な提案。
数秒遅れて、ようやく思考が追いつく。
「えっ……えぇっ!?」
静かな部屋に、素の声が響いた。
通話の相手は──上尾照。
(……どういうこと?)
Dクラスの生徒が、Bクラスに“攻略法”を売る。
普通なら、ありえない話。
けれど。
『Bクラスは勉強が苦手な子は少なそうだけど、退学がかかっているなら保険は欲しいはずだよね』
淡々とした声。
まるでこちらの事情を、最初から織り込み済みのように。
「……それはっ……そうだけど」
思わず言葉に詰まる。
否定できない。
今回の試験が、ただのテストではないことくらい、分かっている。
誰も退学させたくない。
そのためなら──
(でも……)
一之瀬は、ぐっと端末を握り直した。
“正しいやり方”から外れている気がした。
理由はうまく言葉にできない。
それでも、胸の奥が引っかかる。
そんな彼女の迷いを見透かしたように。
「要らない?」
あっさりとした一言。
試すようでも、急かすようでもない。
ただ、選択を委ねる声。
一之瀬は小さく息を吸う。
そして──
「……それ、確証はあるんだよね」
『ああ、副会長の雅さんのお墨付きだ』
一之瀬の表情がわずかに引き締まる。
「……南雲先輩が教えてくれたの?」
『いや──』
『半信半疑だったけど、結果的に確証が得れたって感じかな』
「……?」
────
「過去問?」
『ええ、去年の中間テストのをください』
「なるほどねぇ」
南雲は椅子にもたれながら、くつくつと喉の奥で笑う。
「だが、こんな夜更けにどうしてだ?」
『明日、必要になるかもしれないので今のうちに、と』
「ふーん、まあいいや」
深くは追及しない。
「用意しといてやるよ。去年と
『……俺はまだ、確信してたわけじゃないんですが』
「どうせすぐに気付くだろ」
軽い調子で言い切る。
『……まぁ、雅さんがいいなら、ありがたく受け取っておきます』
「おう、優しい先輩に感謝しろよ」
上尾は、軽く流して続けた。
『調査した情報は、翌朝までにメールでまとめて送ります』
「そんな急がなくていいけどな」
『いえ、必ず送りますので』
「……そうか」
短く返す。
そこで通話は終わる──はずだった。
『それでは失礼します』
「待て」
南雲は呼び止める。
『はい?』
わずかな沈黙。
ほんの僅かに、空気が張る。
「何があったか?」
『いいえ、特には』
即答。
迷いのない、切り捨てるような否定。
だが──
(嘘だな)
南雲は、ふっと口元を緩める。
「……ならいい」
それ以上は追わない。
『はい、それでは』
通話が切れる。
「……俺に隠し事とはな」
小さく呟く。
ほんのわずかな苛立ち。
だが、それは長くは続かない。
「ほんと生意気になったな、あいつ」
くつ、と喉の奥で笑う。
本来なら気に入らないはずの態度。
だが──
不思議と、不愉快ではなかった。
────
椎名ひよりは、上尾照の部屋で一人、彼の帰りを待っていた。
時計の針の音だけが、やけに大きく響く。
落ち着かない。
けれど、動くこともできない。
ただ、待つしかない。
昨日の夜のことを思い出す。
龍園による脅迫。
上尾の過去。
そして──
『でも、辞める前に少しだけ悪あがきしてみない?』
自分たちの退学をかけて、脅し返すという選択。
あまりにも無茶で。
それでも、あの時の上尾の目は、迷っていなかった。
(……上尾くん)
胸の前で、そっと手を握る。
自分は、何もできていない。
ただ守られているだけだ。
それが、少しだけ苦しい。
それでも──
(信じるって、決めたから)
ゆっくりと息を吐く。
上尾には、自分も同行すると強く言った。
けれど。
『椎名さんが居てくれると心強いよ』
『でも、俺一人で行かせて』
あの時の、少し困ったような声。
理由を問えば──
『……男の子の見栄?』
思い出して、椎名は小さく笑う。
あまりにも不器用で。
でも、どこか優しい言い訳。
(……ずるいです)
そう思いながらも、胸の奥はほんのり温かかった。
だからこそ。
ここで待つことを、選んだ。
彼が戻ってくる場所で。
ちゃんと、「おかえり」と言えるように。
椎名は、静かに扉の方へ視線を向けた。
その瞬間──
ガチャ、と玄関のドアが開く。
その音だけで、体が先に動いた。
視界に入った瞬間、椎名は上尾に抱きついていた。
勢いのまま、胸に顔を埋める。
上尾は一瞬だけ驚いたように息を止め、それからそっと腕を回した。
「悪あがき、成功したよ」
静かな声。
それだけで、張り詰めていたものが一気にほどける。
返事はできなかった。
代わりに、涙が溢れた。
「……俺のわがままに付き合わせてごめんね」
すぐ耳元で、少しだけ苦笑の混じった声。
椎名は首を振る。
「……いいえ、嬉しいんです」
言葉にするほど、胸の奥が熱くなる。
そのまま、ぎゅっと抱きしめる力を強めた。
離したくない、とでも言うみたいに。
上尾は何も言わず、そのまま受け止める。
彼は、自分と一緒に辞めると言ってくれた。
それがどれだけ重い言葉か、分かっている。
分かっているからこそ──
ほんのわずかに、不安が残っていた。
彼の口ぶりからして、彼の両親が素直に認めるとは思えなかったから。
(……私は上尾くんが、好き)
友人以上の、確かな感情。
──きっと、彼も同じだ。
そう思える瞬間が、いくつもあった。
けれど。
彼は、それを自覚しようとしない。
いや──しないのではなく、できないのだ。
(……怖いんですね)
心の中で、そっと呟く。
愛し合っていたはずの両親が、憎しみ合い、壊れていく姿。
それを、ずっと見てきた。
だからきっと。
“愛する”ということ自体を、どこかで拒んでいる。
踏み込めば壊れるものだと、知ってしまっているから。
だから彼は、その感情に名前をつけない。
触れないようにしている。
“友情”という、壊れにくい形に留めて。
(……それでも)
椎名は、ほんの少しだけ顔を上げる。
すぐ近くにある、彼の体温を感じながら。
それでもいいと、思った。
今はまだ、この距離で。
無理に名前をつけなくてもいい。
ただ──
「……上尾くん」
小さく、呼ぶ。
上尾は「なに?」と短く返す。
その何気ないやり取りが、どうしようもなく愛おしかった。
(少しずつでいいから)
彼に想いを告げれば、きっと彼は傷つく。
だから──今はまだ、この気持ちは告げない。
今は。
この距離のままでいい。
隣にいられるなら、それでいい。
椎名は、そっと目を閉じる。
腕の中にある確かな温もりを、逃さないように。
少しだけ、力を込めた。
────
椎名ひよりを抱きしめながら、上尾は胸の奥でその感情を抑えきれずにいた。
(……俺は、椎名さんが好きだ)
言葉ははっきりしている。
もう誤魔化せない。
(友人としてじゃない)
それでも──
口にすることは、できなかった。
彼女が自分に同じものを向けているのか、分からない。
もし違っていたら。
もし、この関係が変わってしまったら。
(……壊したくない)
ようやく手に入れたものだった。
初めて、自然に隣にいられる誰か。
それを──自分の言葉で終わらせるかもしれない。
そんな選択は、できなかった。
だから──
この気持ちは、閉じ込める。
少なくとも、今は。
上尾は目を閉じる。
腕の中にある温もりを、確かめるように。
離さないように。
「……ひとつ、お聞きしたいことがあるのですが」
腕の中のまま、椎名が少しだけ顔を上げる。
「南雲さんは、名前で呼んでるんですよね?」
「うん、お世話になってるしね」
何気なく返す。
けれど、その直後。
「……わたしは?」
静かな声。
ほんの少しだけ、拗ねたような響き。
上尾は一瞬、言葉に詰まる。
「一番最初に仲良くなったのは、わたしのはずですよ」
視線を逸らさず、まっすぐに見てくる。
逃げ場はない。
「……えっと」
らしくもなく、言葉を探す。
そんな様子を見て、椎名はほんの少しだけ唇を緩めた。
「ひよりって呼んでくれなきゃ、やです」
やわらかいのに、逃がさない声音。
上尾は観念したように息を吐く。
「……ひ、ひより?」
一瞬の間。
それから──
「はいっ、照くん!」
ぱっと花が咲いたみたいに、表情が明るくなる。
その笑顔に、上尾は思わず視線を逸らした。
耳の奥が、少しだけ熱い。
(……反則だろ、それ)
抱き合いながら、名前を呼び合って
それでも友人って言い張ってる男女が居るらしい
私用のため、投稿ペースが少し落ちます。