ようこそ出だしでつまずく教室へ   作:ポテナゲ特大

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視点がコロコロ入れ替わります。


第7話

 

 

 

 

 

「やっぱり、話し合えば分かり合えるもんだね」

 

 意趣返しのつもりか、そう上尾は龍園に言い放つ。

 

 ──話し合い? 

 これが? 

 

 退学を逆手に取った、ただの脅しだ。

 

 龍園は舌打ちを噛み殺す。

 

「じゃあ、ここに署名を頼むよ」

 

 差し出された紙を見下ろしながら、低く吐き捨てる。

 

「……その前にひとつ聞かせろ」

 

「なにかな?」

 

「お前じゃねぇ」

 

 一瞬の間を置いて、視線を横へ流す。

 

「……おい、星之宮」

 

『こらっ、先生をつけなさいっ!』

 

 間延びした声が返ってくる。

 

 龍園は無視した。

 

「……退学届なんて、本当に受け取ってたのか?」

 

『……』

 

 沈黙。

 

 答えない。

 

 やはりブラフか──そう思いかけた、そのとき。

 

「先生、“答えてあげていい”ですよ」

 

 上尾の声が、静かに割り込む。

 

 なぜ、こいつが許可を出す。

 

 一瞬だけ、思考が止まる。

 

『うん、ちゃんと受け取ってるわ』

 

 あっさりと、肯定。

 

『証拠が欲しいなら、あとで見せてあげてもいいし──』

 

『──それに、教師が生徒に嘘を言うわけないじゃない』

 

 軽い口調のまま、続ける。

 

『流石に嘘で他クラスの生徒同士を争わせるなんて、わたしの首が飛ぶわ』

 

 判断がつかない。

 

「やっぱり気が変わった?」

 

 上尾の声。

 

 その軽さが、神経を逆撫でする。

 

『えっ! これ出してきちゃってもいいのっ!』

 

 星之宮の声が重なる。

 

 どこまでも場に似合わない、能天気な響き。

 

「……うるせぇ」

 

 低く、吐き捨てる。

 

「しねぇとは言ってねぇだろ」

 

 沈んだ声。

 

 それが、この場での結論だった。

 

「うん、ありがとう」

 

 上尾は、変わらない調子で答えた。

 

 

 

 それから、龍園は契約書に記入した。

 

 ペン先が紙を走る音だけが、やけに大きく響く。

 

「チッ……これでいいんだろ」

 

 吐き捨てるように言うと、上尾は軽く頷いた。

 

「うん、ありがとう。じゃあこれ」

 

 そう言って差し出されたのは、あのボイスレコーダーだった。

 

 龍園はそれを受け取る。

 

 一瞬だけ、手の中で重さを確かめる。

 

 次の瞬間、足元に落とし、そのまま──

 

 踏み潰した。

 

 鈍い音が、床に広がる。

 

「ええっ! ちょっとそれ!」

 

 上尾の声が裏返る。

 

「今月金欠なのにっ!」

 

 その慌てぶりに、さっきまで胸の奥に溜まっていた苛立ちが、すっと引いていくのを感じた。

 

 龍園は、わずかに口角を上げる。

 

「足が滑った」

 

「どうすんだよ……!」

 

 上尾は頭を抱えながら、壊れたそれを拾い上げる。

 

 しばらく眺めてから、諦めたように小さく息を吐いた。

 

「……もういいや。カラオケ代は君が持ってね」

 

 そう言って、壊れたボイスレコーダーを大事そうに抱えたまま、上尾は背を向ける。

 

 そのまま、部屋を出ていこうとした──

 

「おい、上尾」

 

 低い声。

 

 上尾の足が止まる。

 

 振り返らないまま、短く返す。

 

「なに?」

 

 龍園は椅子に深くもたれたまま、視線だけを向ける。

 

 そして、感情を押し殺すように言った。

 

「……次は潰す」

 

 空気がわずかに軋む。

 

 上尾は肩をすくめるでもなく、ただ一言だけ返した。

 

「そっ」

 

 それだけ。

 

 軽すぎるほどの返事を残して、上尾は部屋を出ていった。

 

 

 

 

 龍園は、最初から上尾のことを舐めていた。

 

 南雲とコネがあるという噂は聞いていたが、所詮はそれだけの存在だと思っていた。

 利用価値はある。傀儡にできれば十分。そう判断していた。

 

 椎名ひよりに関しても同じだ。

 クラスに積極的に貢献するタイプではない。だが、上尾を人質に取れば話は別だ。

 あの手の人間は、他人を理由にすれば簡単に折れる。

 

 ──そう、思っていた。

 

 だが現実は逆だった。

 

 脅したはずの相手に、脅し返された。

 

 自主退学によるマイナス500ポイント。

 それが真実かどうかは分からない。

 

 だが、あの場には星之宮がいた。

 そして、あの女はそれを肯定した。

 

 もし、あれが本当だとしたら──

 

『“お前は王様じゃない。ただの問題児だ”』

 

 上尾の言葉が、頭の奥で何度も反響する。

 

 馬鹿げている。

 だが、不思議と──あの通りの展開になるような感覚が拭えなかった。

 

 場に似つかわしくない、星之宮の能天気なカウントダウン。

 どちらでもいいから早く終われ、と言わんばかりの上尾の無機質な表情。

 

 あの空間そのものが、結論を強制していた。

 

 恐怖じゃない。

 

 もっと別のものだ。

 

 すでに詰みを宣言され、選択肢ごと潰されたような感覚。

 抗う余地のない敗北を、静かに突きつけられた。

 

 だから──龍園は、引いた。

 

「……上尾、面白ぇじゃねぇか」

 

 小さく、吐き捨てるように笑う。

 

 だが同時に、確信もしていた。

 

 あいつは、ひとつミスを犯している。

 

 あの契約には、上尾自身が含まれていなかった。

 守られているのは椎名ひよりだけだ。

 

 つまり──上尾は、いつでも狙える位置にいる。

 

 

 

 ……いや。

 

 上尾を退学に追い込めば、椎名は自ら辞める可能性が高い。

 そうなれば、マイナス500ポイント。

 

 それでは意味がない。

 

 そこまで読んだ上で、自分の名を入れなかったのか。

 

 それとも──

 

 

 

 そもそも、なぜ奴らは退学を避けた? 

 

 ……確かに、退学にはリスクが付きまとう。

 編入するにしても、“入学して一ヶ月で退学”という経歴は消えない。

 

 それを嫌ったのか。

 

 それともブラフか。

 

 ……考えても、答えは出ない。

 

 龍園は小さく舌打ちをした。

 

 ただ一つ、はっきりしていることがある。

 

「……俺をコケにしたことは、必ず後悔させてやる」

 

 低く、確かに吐き捨てた。

 

 

 

 ────

 

 

 

 上尾が龍園と別れたあと、通話越しに声が届く。

 

『星之宮先生、今日はありがとうございました』

 

「いいよー!」

 

 軽い調子で返してから、ほんのわずかに間を置く。

 

「……でも──」

 

 声の温度が、少しだけ変わる。

 

「──“約束”は忘れないでね」

 

『ええ、必ず』

 

 即答だった。

 

 迷いのないその返事に、星之宮は一瞬だけ目を細める。

 

『それでは』

 

 短い別れの言葉とともに、通話が切れる。

 

 静寂。

 

 星之宮は端末を見つめたまま、ふーっと長く息を吐いた。

 

 

 

 上尾照。

 

 星之宮の友人──茶柱佐枝が担任を務める、1年Dクラスの生徒。

 

 成績は優秀。

 だが、コミュニケーション能力に難あり。

 

 そんな評価の生徒だったはずだ。

 

 ──少なくとも、書類の上では。

 

 しかし実際はどうか。

 

 彼は入学して間もない4月の時点で、生徒会副会長と何らかのコネクションを築いていた。

 

 あの南雲が目を掛けるのだ。

 

 ただの“優秀な生徒”で収まるはずがない。

 

 きっと何かある。

 

 そう思う程度には、興味を引かれていた。

 

 それくらいの印象だった。

 

 だからこそ──

 

 職員室に現れた彼が、茶柱ではなく、自分の名前を口にしたとき。

 

 星之宮は、素直に驚いた。

 

(……でも、あの時の佐枝ちゃんの顔)

 

 ふと思い出す。

 

 ほんの一瞬、表情を崩しかけた、あの顔。

 

 それだけで、口元が緩みそうになる。

 

 ──茶柱佐枝。

 

 友人であり、そして“Aクラス”の座を奪った戦犯。

 

 あの女の余裕が崩れる瞬間は、何度見ても飽きない。

 

「……ふふっ」

 

 小さく、喉の奥で笑いが漏れる。

 

 それからソファの背に体を預け、軽く天井を見上げた。

 

 それにしても──

 

「……とんでもない子ね」

 

 思い出すのは、あの場の空気。

 

 龍園の苛立ちと焦燥。

 上尾の、あまりにも淡々とした態度。

 

 そして──自分が、その“駒”として組み込まれていた事実。

 

「しかも教師を使うなんて……ほんと、いい度胸してるわ」

 

 呆れたように笑う。

 

 けれどその笑みは、どこか楽しげでもあった。

 

 大人しい顔をして、やることだけは派手。

 

 教師を巻き込み、龍園を抑え込み、状況ごとひっくり返す。

 そのすべてを──

 

 たった一人(椎名ひより)のためにやってのけた。

 

「いいじゃない」

 

 少しだけ目を細める。

 

 そういうの、嫌いじゃない──

 

 そこまで考えて。

 

 ふと、胸の奥に小さな引っかかりが残る。

 

(……ああ、そういうこと)

 

 理由はすぐに分かった。

 

 あの“真っ直ぐさ”。

 

 損得を並べながらも、最後の一線だけは感情で踏み越えるあのやり方。

 

 どこかで見たことがある。

 

 ──昔。

 

 まだ学生だった頃。

 

 茶柱の隣にいた、あの男。

 

「……やめてよ」

 

 ぽつりと零れる。

 

 思い出したくもないのに、勝手に重なってくる。

 

 似ているわけじゃない。

 

 性格も、立ち回りも、まるで違う。

 

 それでも──

 

 大事なもののために、迷いなく無茶を通すあの感じが、どうしても重なる。

 

「……気に入らないわね」

 

 星之宮は表情を歪ましながら呟く。

 

 評価はしている。

 

 間違いなく、あの生徒は面白い。

 

 それでも。

 

「……佐枝ちゃんの周りって、なんでこういうのばっかりなのかしら」

 

 小さく息を吐き、視線を逸らす。

 

 羨ましいわけじゃない。

 

 そう言い聞かせるように。

 

(……ま、いいけど)

 

 最後は軽く流す。

 

 けれど、その奥に残った感情は消えないままだった。

 

 

 

 でも──

 

 これで、Cクラスの足は止まる。

 

 今日の一件で、簡単に動ける状況じゃなくなったはずだ。

 

(……いい仕事してくれたじゃない)

 

 満足げに目を細める。

 

 だが次の瞬間、その表情がわずかに引き締まる。

 

「ただし」

 

 声が、わずかに低くなる。

 

「“約束”を破ったら──その時は容赦しないけどね」

 

 誰に聞かせるでもない、静かな呟き。

 

 それを最後に、星之宮はもう一度だけ息を吐いた。

 

 

 

 

 

 しばらくの沈黙。

 

 やがて、ぽつりと零す。

 

「彼らを相手にしないといけないなんて」

 

「……うちのクラスの子、大丈夫かしら」

 

 視線を落とし、わずかに肩をすくめる。

 

 

 

 ────

 

 

 

 一之瀬帆波は、端末を握りしめたまま固まっていた。

 

『次の中間テストの攻略法、5万ポイントで買わない?』

 

 あまりにも唐突な提案。

 

 数秒遅れて、ようやく思考が追いつく。

 

「えっ……えぇっ!?」

 

 静かな部屋に、素の声が響いた。

 

 通話の相手は──上尾照。

 

(……どういうこと?)

 

 Dクラスの生徒が、Bクラスに“攻略法”を売る。

 

 普通なら、ありえない話。

 

 けれど。

 

『Bクラスは勉強が苦手な子は少なそうだけど、退学がかかっているなら保険は欲しいはずだよね』

 

 淡々とした声。

 

 まるでこちらの事情を、最初から織り込み済みのように。

 

「……それはっ……そうだけど」

 

 思わず言葉に詰まる。

 

 否定できない。

 

 今回の試験が、ただのテストではないことくらい、分かっている。

 

 誰も退学させたくない。

 

 そのためなら──

 

(でも……)

 

 一之瀬は、ぐっと端末を握り直した。

 

 “正しいやり方”から外れている気がした。

 

 理由はうまく言葉にできない。

 

 それでも、胸の奥が引っかかる。

 

 そんな彼女の迷いを見透かしたように。

 

「要らない?」

 

 あっさりとした一言。

 

 試すようでも、急かすようでもない。

 

 ただ、選択を委ねる声。

 

 一之瀬は小さく息を吸う。

 

 そして──

 

「……それ、確証はあるんだよね」

 

『ああ、副会長の雅さんのお墨付きだ』

 

 一之瀬の表情がわずかに引き締まる。

 

「……南雲先輩が教えてくれたの?」

 

『いや──』

 

『半信半疑だったけど、結果的に確証が得れたって感じかな』

 

「……?」

 

 

 

 ────

 

 

 

「過去問?」

 

『ええ、去年の中間テストのをください』

 

「なるほどねぇ」

 

 南雲は椅子にもたれながら、くつくつと喉の奥で笑う。

 

「だが、こんな夜更けにどうしてだ?」

 

『明日、必要になるかもしれないので今のうちに、と』

 

「ふーん、まあいいや」

 

 深くは追及しない。

 

「用意しといてやるよ。去年と()()()の分」

 

『……俺はまだ、確信してたわけじゃないんですが』

 

「どうせすぐに気付くだろ」

 

 軽い調子で言い切る。

 

『……まぁ、雅さんがいいなら、ありがたく受け取っておきます』

 

「おう、優しい先輩に感謝しろよ」

 

 上尾は、軽く流して続けた。

 

『調査した情報は、翌朝までにメールでまとめて送ります』

 

「そんな急がなくていいけどな」

 

『いえ、必ず送りますので』

 

「……そうか」

 

 短く返す。

 

 そこで通話は終わる──はずだった。

 

『それでは失礼します』

 

「待て」

 

 南雲は呼び止める。

 

『はい?』

 

 わずかな沈黙。

 

 ほんの僅かに、空気が張る。

 

「何があったか?」

 

『いいえ、特には』

 

 即答。

 

 迷いのない、切り捨てるような否定。

 

 だが──

 

(嘘だな)

 

 南雲は、ふっと口元を緩める。

 

「……ならいい」

 

 それ以上は追わない。

 

『はい、それでは』

 

 通話が切れる。

 

 

 

 

「……俺に隠し事とはな」

 

 小さく呟く。

 

 ほんのわずかな苛立ち。

 

 だが、それは長くは続かない。

 

「ほんと生意気になったな、あいつ」

 

 くつ、と喉の奥で笑う。

 

 本来なら気に入らないはずの態度。

 

 だが──

 

 不思議と、不愉快ではなかった。

 

 

 

 ────

 

 

 

 椎名ひよりは、上尾照の部屋で一人、彼の帰りを待っていた。

 

 時計の針の音だけが、やけに大きく響く。

 

 落ち着かない。

 

 けれど、動くこともできない。

 

 ただ、待つしかない。

 

 昨日の夜のことを思い出す。

 

 龍園による脅迫。

 

 上尾の過去。

 

 そして──

 

『でも、辞める前に少しだけ悪あがきしてみない?』

 

 自分たちの退学をかけて、脅し返すという選択。

 

 あまりにも無茶で。

 

 それでも、あの時の上尾の目は、迷っていなかった。

 

(……上尾くん)

 

 胸の前で、そっと手を握る。

 

 自分は、何もできていない。

 

 ただ守られているだけだ。

 

 それが、少しだけ苦しい。

 

 それでも──

 

(信じるって、決めたから)

 

 ゆっくりと息を吐く。

 

 上尾には、自分も同行すると強く言った。

 

 けれど。

 

『椎名さんが居てくれると心強いよ』

 

『でも、俺一人で行かせて』

 

 あの時の、少し困ったような声。

 

 理由を問えば──

 

『……男の子の見栄?』

 

 思い出して、椎名は小さく笑う。

 

 あまりにも不器用で。

 

 でも、どこか優しい言い訳。

 

(……ずるいです)

 

 そう思いながらも、胸の奥はほんのり温かかった。

 

 だからこそ。

 

 ここで待つことを、選んだ。

 

 彼が戻ってくる場所で。

 

 ちゃんと、「おかえり」と言えるように。

 

 椎名は、静かに扉の方へ視線を向けた。

 

 その瞬間──

 

 

 

 

 ガチャ、と玄関のドアが開く。

 

 その音だけで、体が先に動いた。

 

 視界に入った瞬間、椎名は上尾に抱きついていた。

 

 勢いのまま、胸に顔を埋める。

 

 上尾は一瞬だけ驚いたように息を止め、それからそっと腕を回した。

 

「悪あがき、成功したよ」

 

 静かな声。

 

 それだけで、張り詰めていたものが一気にほどける。

 

 返事はできなかった。

 

 代わりに、涙が溢れた。

 

「……俺のわがままに付き合わせてごめんね」

 

 すぐ耳元で、少しだけ苦笑の混じった声。

 

 椎名は首を振る。

 

「……いいえ、嬉しいんです」

 

 言葉にするほど、胸の奥が熱くなる。

 

 そのまま、ぎゅっと抱きしめる力を強めた。

 

 離したくない、とでも言うみたいに。

 

 上尾は何も言わず、そのまま受け止める。

 

 彼は、自分と一緒に辞めると言ってくれた。

 

 それがどれだけ重い言葉か、分かっている。

 

 分かっているからこそ──

 

 ほんのわずかに、不安が残っていた。

 

 彼の口ぶりからして、彼の両親が素直に認めるとは思えなかったから。

 

 

 

 

 

(……私は上尾くんが、好き)

 

 友人以上の、確かな感情。

 

 ──きっと、彼も同じだ。

 

 そう思える瞬間が、いくつもあった。

 

 けれど。

 

 彼は、それを自覚しようとしない。

 

 いや──しないのではなく、できないのだ。

 

(……怖いんですね)

 

 心の中で、そっと呟く。

 

 愛し合っていたはずの両親が、憎しみ合い、壊れていく姿。

 

 それを、ずっと見てきた。

 

 だからきっと。

 

 “愛する”ということ自体を、どこかで拒んでいる。

 

 踏み込めば壊れるものだと、知ってしまっているから。

 

 だから彼は、その感情に名前をつけない。

 

 触れないようにしている。

 

 “友情”という、壊れにくい形に留めて。

 

(……それでも)

 

 椎名は、ほんの少しだけ顔を上げる。

 

 すぐ近くにある、彼の体温を感じながら。

 

 それでもいいと、思った。

 

 今はまだ、この距離で。

 

 無理に名前をつけなくてもいい。

 

 ただ──

 

「……上尾くん」

 

 小さく、呼ぶ。

 

 上尾は「なに?」と短く返す。

 

 その何気ないやり取りが、どうしようもなく愛おしかった。

 

(少しずつでいいから)

 

 彼に想いを告げれば、きっと彼は傷つく。

 

 だから──今はまだ、この気持ちは告げない。

 

 今は。

 

 この距離のままでいい。

 

 隣にいられるなら、それでいい。

 

 椎名は、そっと目を閉じる。

 

 腕の中にある確かな温もりを、逃さないように。

 

 少しだけ、力を込めた。

 

 

 

 ────

 

 

 

 椎名ひよりを抱きしめながら、上尾は胸の奥でその感情を抑えきれずにいた。

 

(……俺は、椎名さんが好きだ)

 

 言葉ははっきりしている。

 

 もう誤魔化せない。

 

(友人としてじゃない)

 

 それでも──

 

 口にすることは、できなかった。

 

 彼女が自分に同じものを向けているのか、分からない。

 

 もし違っていたら。

 

 もし、この関係が変わってしまったら。

 

(……壊したくない)

 

 ようやく手に入れたものだった。

 

 初めて、自然に隣にいられる誰か。

 

 それを──自分の言葉で終わらせるかもしれない。

 

 そんな選択は、できなかった。

 

 だから──

 

 この気持ちは、閉じ込める。

 

 少なくとも、今は。

 

 上尾は目を閉じる。

 

 腕の中にある温もりを、確かめるように。

 

 離さないように。

 

 

 

 

 

「……ひとつ、お聞きしたいことがあるのですが」

 

 腕の中のまま、椎名が少しだけ顔を上げる。

 

「南雲さんは、名前で呼んでるんですよね?」

 

「うん、お世話になってるしね」

 

 何気なく返す。

 

 けれど、その直後。

 

「……わたしは?」

 

 静かな声。

 

 ほんの少しだけ、拗ねたような響き。

 

 上尾は一瞬、言葉に詰まる。

 

「一番最初に仲良くなったのは、わたしのはずですよ」

 

 視線を逸らさず、まっすぐに見てくる。

 

 逃げ場はない。

 

「……えっと」

 

 らしくもなく、言葉を探す。

 

 そんな様子を見て、椎名はほんの少しだけ唇を緩めた。

 

「ひよりって呼んでくれなきゃ、やです」

 

 やわらかいのに、逃がさない声音。

 

 上尾は観念したように息を吐く。

 

「……ひ、ひより?」

 

 一瞬の間。

 

 それから──

 

「はいっ、照くん!」

 

 ぱっと花が咲いたみたいに、表情が明るくなる。

 

 その笑顔に、上尾は思わず視線を逸らした。

 

 耳の奥が、少しだけ熱い。

 

(……反則だろ、それ)

 

 

 

 

 

 




抱き合いながら、名前を呼び合って
それでも友人って言い張ってる男女が居るらしい



私用のため、投稿ペースが少し落ちます。
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