ようこそ出だしでつまずく教室へ   作:ポテナゲ特大

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中々進みません……

主人公が陽キャになります。


第8話

 

 

 

 

 

 上尾は席につき、小さく息を吐いた。

 

 ようやく、一息つける──そんな感覚だった。

 

 南雲からの依頼。

 龍園との一件。

 

 どちらも気を抜けるようなものではなかったが、とりあえずは片がついた。

 

 胸の奥に張りついていた緊張が、ゆっくりとほどけていく。

 

 だが──

 

(星之宮先生との約束……)

 

 思考は、自然とそこへ引き戻される。

 

 あの場で交わした条件。

 いずれ、自分は一度だけこのクラスを裏切ることになる。

 

 避けられない未来。

 

 もしそれが露見すれば──

 

(……針の筵、か)

 

 想像するだけで、気が滅入る。

 

(上手くやらなきゃな……)

 

 今度は、さっきとは違う意味で息を吐いた。

 

 

 

 ゆっくりと顔を上げる。

 

 視線は、そのまま教室へと流れていく。

 

 中間テストまでの時間は、確実に減っていた。

 

 視線の先は須藤、池、山内の三人。

 

 どうやら堀北の勉強会は再開したらしい。

 

 成果がどんなもんかはわからない。

 

 しかし、かなり厳しい成績だったはずだ。

 

 他の生徒もそうだ。

 

 小テストの結果を見る限り、危ういラインにいる者は少なくない。

 

(平田くんや櫛田さんも動いてたはずだけど……)

 

 クラスの中心人物である二人の姿が思い浮かぶ。

 

 

 

(……まぁ)

 

 上尾は、自分の鞄へと視線を落とした。

 

 その中にあるもの。

 

 ──過去問。

 

 去年と、一昨年の中間テスト。

 

 これを使えば、赤点の回避はほぼ確実だ。

 

 ただし、ひとつだけ引っかかりがある。

 

(……範囲、ズレてるんだよな)

 

 現在のテスト範囲と、微妙に噛み合っていない。

 

 範囲変更の告知も、まだ出ていない以上、断定はできない。

 

 それでも──

 

 南雲や星之宮の反応を見る限り、これが“攻略法”である可能性は高い。

 

 問題は──

 

(Bクラスに売ってる手前、外したらまずいよな……)

 

「やっぱり違いました」では済まない。

 

 信用が一気に崩れる。

 

 一之瀬から、その事についての指摘がなかったのは少し気掛かりだが……

 

 

 

(だとしても……)

 

 視線が、わずかに教室へ戻る。

 

(共有しない理由はない)

 

 このクラスの現状を考えれば、なおさらだ。

 

 だが──

 

(……タイミングが悪い)

 

 思考が、そこで止まる。

 

 脳裏に浮かぶのは、堀北鈴音。

 

 距離を取ったばかりの相手。

 

 その直後に、こんなものを持ち出せば──

 

 不自然すぎる。

 

(どうしたものか……)

 

 思考に沈みかけた、そのとき──

 

「上尾くん、ちょっといいかな」

 

 柔らかな声が、不意に差し込んだ。

 

 

 

 顔を上げる。

 

 そこに立っていたのは──平田洋介だった。

 

「うん……どうしたの?」

 

 席を立ち、廊下へ出る。

 

 教室のざわめきが、背後で少しだけ遠くなった。

 

 

 

 平田は少しだけ言葉を選ぶように視線を落とし、それから顔を上げた。

 

「実は、お願いがあってさ」

 

「お願い?」

 

 上尾は小さく聞き返す。

 

 もしかして、と頭に浮かぶ。

 

「……勉強会の講師役のこと?」

 

「うん。前にもお願いしたこと、あったよね」

 

「……あの時は断ってごめん」

 

 上尾は視線を逸らしながら、静かに言う。

 

「いや、いいんだ。忙しかったならしょうがないよ」

 

 平田は苦笑する。

 

 責める色はない。

 

 それでも──

 

 その優しさが、少しだけ胸に刺さる。

 

 

 南雲の依頼があったため、断っていた。

 

 理由はぼかしたが、嘘はついていない。

 

 

 少しだけ、間が空く。

 

 言葉を探すような沈黙。

 

 その隙間を埋めるように、平田が続けた。

 

「その……今回も、似たお願いなんだけど」

 

 どこか言いづらそうな声音だった。

 

 

 ──クラスへの貢献。

 

 ──いずれ訪れる裏切り。

 

(それまでに……)

 

 少しでも、返しておいた方がいい。

 

 それに──

 

 平田に対する、負い目もある。

 

「……まぁ、俺なんかでいいのかは分からないけど」

 

 ぽつりと、言葉が落ちる。

 

 平田が目を見開く。

 

 それから、表情がゆっくりと緩んだ。

 

「ありがとう、上尾くん。君はクラスで一番頭がいいから心強いよ」

 

 その評価に、上尾は少し照れながら視線を逸らす。

 

(……堀北さんが聞いたら、怒るだろうな)

 

 そんな場違いな考えが、頭をよぎった。

 

 

 

「……あと、もう一つだけお願いがあって」

 

 平田は、少しだけ目を伏せながら言う。

 

「……佐倉さんのこと、なんだ」

 

 その一言に、空気がわずかに変わる。

 

 佐倉愛里。

 

 上尾の隣の席の女子生徒。

 

「……佐倉さんがどうかしたの?」

 

「彼女、全然勉強会に来てなくてさ」

 

 短い説明。

 

 けれど、それだけで十分だった。

 

「無理に引っ張るのは違うと思ってる。でも、このままだと危ない」

 

 静かな声の奥に、確かな危機感が滲んでいる。

 

 実際──

 

 小テストの点数を思い返せば、否定はできない。

 

「上尾くんからも、声をかけてみてくれないかな」

 

「……俺が?」

 

 わずかに驚きが混じる。

 

「うん。正直に言うと……僕だと、ちょっと避けられてる感じがあってさ」

 

 苦笑混じりの言葉。

 

 だが、その裏にある現実は軽くない。

 

(……いや)

 

 上尾は内心で思う。

 

(平田くんが避けられてるなら、俺なんてもっとだろ……)

 

 自分の立ち位置は分かっている。

 

 クラスで浮いている自覚もある。

 

 それに──

 

(……知らないのか)

 

 上尾は、ほんのわずかに目を伏せた。

 

 入学式の日と、その翌日。

 

 あの時から、彼女に避けられている感覚があった。

 

 それ以来──

 

 まともに会話をしたことはない。

 

(そんな俺が声をかけて、どうにかなるのか……?)

 

 疑問は、消えない。

 

 それでも──

 

 平田は、自分に頼んだ。

 

「……分かった」

 

 小さく、しかしはっきりと口にする。

 

「上手くいくかは分からないけど、やってみる」

 

 平田の表情が、ほっと緩む。

 

「ありがとう。本当に助かるよ」

 

 その言葉に、上尾は軽く頷いた。

 

(……やるしかないか)

 

 静かに、腹を括る。

 

 視線の先には──

 

 自分の席。

 

 その隣にいる、物静かな少女の姿があった。

 

 

 

 ────

 

 

 

 席に戻る。

 

 椅子を引き、腰を下ろす。

 

 そのすぐ隣──

 

 先ほど話題に上がった少女、佐倉愛里が静かに座っていた。

 

(……なんて声をかけようか)

 

 机に視線を落としながら、思考が巡る。

 

 とはいえ──

 

 上尾には、多少自信があった。

 

 

 最愛の友人であり、想い人でもある椎名ひよりとの出会い。

 

 そこから始まり──

 

 

 南雲との問答。

 

 星之宮との交渉。

 

 龍園への脅迫……もとい、説得。

 

 

 並べてみれば、かなり濃い場数を踏んでいる。

 

(……いや)

 

(これ、普通にすごくないか?)

 

 自分で振り返って、素直にそう思う。

 

(あれだけの相手と会話成立してる時点で──)

 

 結論は、一つだった。

 

(俺、もうコミュ力ある側では?)

 

(というか、下手したら平田くんクラス……)

 

 そこまで思考が跳ねる。

 

 ちらりと横を見る。

 

 佐倉は、相変わらず静かにノートへ視線を落としている。

 

(……うん、いけるな)

 

 根拠はない。

 

 だが、妙な確信だけはあった。

 

(今の俺なら、自然に話しかけられる)

 

 小さく息を吸う。

 

 そして──

 

「は、ハロー?」

 

 

 

 ────

 

 

 

 上尾は、重い足取りで平田の元へ向かっていた。

 

「上尾くん! 佐倉さんどうだった?」

 

 少しだけ期待を含んだ声。

 

 上尾は、何も言わずに──静かに首を振る。

 

「……そっか」

 

 平田は、それ以上は何も聞かなかった。

 

 ただ、ほんの少しだけ困ったように笑う。

 

 その優しさが、逆に刺さる。

 

 上尾は視線を逸らした。

 

(い、言えない……自爆しただけなんて……)

 

 数時間前の出来事が、頭の中でゆっくり再生される。

 

 

 

『は、ハロー?』

 

『……ぇ』

 

 小さく肩を震わせる佐倉。

 

(ミスった)

 

 瞬時に理解する。

 

(なんで英語……?)

 

 だが、止まれない。

 

 ここで引けば、ただの不審者で終わる。

 

(突っ走るしかない……!)

 

『お、俺と一緒に放課後スタディしない?』

 

『……』

 

 沈黙。

 

 視線を落とす佐倉。

 

 空気が、じわじわと冷えていく。

 

(まだだ……まだいける)

 

 根拠のない判断。

 

『こ、怖くないよ……ベリー……ハッピーになれる……的な……』

 

 ──言った瞬間、終わったと分かった。

 

『……ごめんなさい』

 

 小さな声。

 

 でも、はっきりとした拒絶。

 

『……はい』

 

 それ以上、言葉は続かなかった。

 

 

 

 

(……なんだあれ)

 

 思い返して、頭を抱えたくなる。

 

(コミュ力ある側ってなんだよ……)

 

 数時間前の自分を殴りたい。

 

 完全に、勘違いだった。

 

 

「……ごめん、平田くん」

 

 ぽつりと、謝る。

 

「いや、いいんだよ。声かけてくれただけでも助かったよ」

 

 すぐに返ってくる、いつもの優しい言葉。

 

 その優しさに、少しだけ救われた上尾だった。

 

 

 

 ────

 

 

 

 放課後。

 

 勉強会は予定通り開かれた。

 

 講師役は、平田と上尾。

 

 そして──

 

 生徒側には、軽井沢をはじめとした女子生徒たち数名。

 

 その中で──

 

 上尾が受け持つことになったのは、篠原、佐藤、松下の三人だった。

 

(……ハードル高くない?)

 

 正直な感想だった。

 

 つい数時間前。

 

 自らの手で自信を粉砕したばかりの男である。

 

 そんな状態で──

 

 

 “あまり話したことのない女子三人”の前に座らせられている。

 

(……帰りたい)

 

 心の底から思った。

 

 

「じゃあ、とりあえず──」

 

 なんとか口を開こうとした、その瞬間。

 

 

「あーあ、私も平田くんがよかったなー」

 

 篠原が、露骨にため息をつきながら言う。

 

「上尾くんに聞こえるよー。まぁ、同意だけど」

 

 佐藤が、悪びれもなく続けた。

 

(……うん、知ってた)

 

 刺さる。

 

 ちゃんと刺さる。

 

(俺でごめんね……)

 

(平田くんと違って、ゴミみたいなコミュ力しかない俺で……)

 

 ほんの数時間前の自分を思い出しながら、心の中で土下座する。

 

(……いや、ほんとになにしてたんだ俺)

 

 メンタルは、ほぼ瀕死だった。

 

 そんな中──

 

 

「上尾くんって、頭いいよねー」

 

 不意に、松下が口を開いた。

 

 上尾は一瞬だけ反応が遅れる。

 

「……ありがとう」

 

 短く返す。

 

 その一言が、思っていた以上に染みた。

 

(……優しい人だ)

 

 そう思った、次の瞬間。

 

 

「だから、副会長さんは上尾くんに目をかけてるのかな?」

 

 ──空気が、わずかに変わる。

 

 軽い口調。

 

 けれど、視線は違った。

 

 値踏みするような、静かな観察。

 

(……ああ、そういうこと)

 

 上尾はほんの少しだけ背筋を伸ばす。

 

「……どうかな?」

 

 曖昧に返す。

 

「どうやって仲良くなったの?」

 

 間髪入れずに、次の質問。

 

「……たまたま、縁があってね」

 

 それ以上は踏み込ませないように、言葉を切る。

 

「ふーん」

 

 松下は、それ以上追及しなかった。

 

 だが──

 

 完全に興味を失ったわけでもない。

 

「じゃあ、始めようか」

 

 上尾は話を逸らすように、軽く咳払いをして、 ノートを開いた。

 

「じゃあ──まずはここから」

 

 静かに言いながら、問題文を指でなぞる。

 

「この問題、式は分かる?」

 

 問いかける。

 

 篠原と佐藤は顔を見合わせて、小さく首を振った。

 

「じゃあ、まず前提から整理しよう」

 

 上尾はペンを走らせる。

 

 無駄を削ぎ落とした説明。

 

 順序立てて、必要な情報だけを積み上げていく。

 

「ここがこうなって──だから、この式になる」

 

 淡々と、しかし淀みなく。

 

 感情は乗せない。

 

 ただ、理解させることだけに集中する。

 

 

 

 数分後。

 

 

 

「……あれ?」

 

 篠原が小さく声を漏らした。

 

「これ、解けるかも」

 

 手を動かし始める。

 

 その隣で、佐藤も同じようにペンを走らせる。

 

 そして──

 

「あ、できた」

 

 ぽつりと、佐藤が言った。

 

 空気が、わずかに変わる。

 

「……え、なにこれ。分かりやす」

 

 篠原が顔を上げる。

 

 さっきまでの露骨な不満は、すでに薄れていた。

 

「めっちゃ教えるの上手いじゃん!」

 

 上尾は、少しだけ視線を逸らした。

 

「……そう?」

 

 それだけ返す。

 

「そうだよ! めっちゃ分かりやすい」

 

「うん、普通にいいじゃん!」

 

 さっきまでとは打って変わった反応。

 

 手のひら返し──と言えばそれまでだが。

 

(……よかった)

 

 内心で、ほっと息を吐く。

 

「じゃあ、次いこうか」

 

 そのまま、淡々と続ける。

 

 問題を一つずつ崩していく。

 

 躓きそうな箇所を先回りして潰す。

 

 理解が追いついていない部分には、別の角度から説明を入れる。

 

 

 気付けば──

 

 

「え、これ解けたんだけど」

 

「ちょっと待って、私もいける」

 

 最初とはまるで違う空気になっていた。

 

 篠原と佐藤は、完全に集中している。

 

 不満の色は消え、純粋に問題へ向き合っていた。

 

 その様子を見て、上尾はほんの少しだけ肩の力を抜く。

 

(……なんとか、なったか)

 

 ふと、視線を横に流す。

 

 

 松下。

 

 彼女だけは──変わっていなかった。

 

 ペンは動かしている。

 

 問題も、きちんと解いている。

 

 だがその視線は、ときおり上尾へと向けられていた。

 

 静かに、観察するような目。

 

(……見てるな)

 

 上尾は、特に何も言わなかった。

 

(まぁ、いいか)

 

 今は、やることをやるだけだ。

 

 それからしばらくして──

 

 

 

 勉強会は、特に大きな問題もなく進んでいった。

 

 篠原と佐藤は最後まで食いつき、松下も黙々と手を動かし続ける。

 

 当初の不安が嘘のように、場は安定していた。

 

「……終わり、かな」

 

 最後の問題を解き終え、上尾がそう言う。

 

「うん、ありがと。普通に助かったわ」

 

 篠原が軽く手を振る。

 

「正直、ちょっと見直した」

 

 佐藤も頷いた。

 

 上尾は、少しだけ苦笑する。

 

「……それはどうも」

 

 ふと、松下と目が合う。

 

 彼女は小さく、ほんのわずかに口元を緩めた。

 

 だがその目は──まだ、何かを測るように静かだった。

 

「……ふーん」

 

 小さく、そんな声が落ちる。

 

 一体彼女からどんな評価が下ったのだろう。

 

 気になるような、聞きたくないような。

 

 勉強会は、ひとまず成功という形で幕を閉じた。

 

 

 

 ────

 

 

 

 それから──

 

「ね、今日の流れでさ、どっかでお疲れ様会しない?」

 

 軽井沢がそんなことを言い出したのがきっかけだった。

 

 場の空気は悪くない。

 

 だが──

 

「ポイントきつくない?」

 

 誰かの一言で、現実に引き戻される。

 

「あー……確かに」

「今月もう結構使ってるしね」

 

 ぽつぽつと同意が重なっていく。

 

 結局、その話は「また今度」という形で自然消滅した。

 

(……まぁ、そうなるよな)

 

 上尾も内心で頷く。

 

 かく言う自分も、人のことは言えない。

 

 

 元々持っていた16万pp。

 

 一之瀬から受け取った5万pp。

 

 だが、その大半はすでに消えている。

 

 星之宮に支払った分で、手元に残っているのは──

 

(……1万ちょっと)

 

 心許ない数字だった。

 

(見栄を張らずに、雅さんにポイントも強請ればよかった……)

 

 

 

「じゃあ、今日はありがとう」

 

 平田が締めるように言う。

 

 それに続いて、それぞれが軽く挨拶を交わし始める。

 

 

 

 上尾も、流れに合わせて動いた。

 

 平田と。

 

 そして──

 

 自分が受け持った三人。

 

 篠原、佐藤、松下。

 

 簡単なやり取りの末、連絡先を交換する。

 

 ほんの少しだけ、距離が縮まった気がした。

 

 そのまま、各々が帰路につく。

 

 

 

 ────

 

 

 

 帰り道。

 

 上尾は一人、歩きながら考えていた。

 

(……過去問、どうするか)

 

 鞄の中にあるそれ。

 

 切り札になり得る情報。

 

(平田くん経由で渡すか……?)

 

 自分が表に出る必要はない。

 

 むしろ、出ない方がいい。

 

「目立ちたくないから」

 

 そう理由を添えれば、平田はきっと納得する。

 

 口も堅い。

 

 問題はないだろう。

 

(問題は──タイミングだな)

 

 今日の勉強会を思い出す。

 

 篠原や佐藤の様子。

 

(あれ、多分……)

 

(やればできるタイプだよな)

 

 ただ、“やっていない”だけ。

 

 習慣がないだけ。

 

 だからこそ──

 

(早すぎるのは、まずい)

 

 過去問を渡した瞬間。

 

 安心して、手を止める可能性がある。

 

「これがあるから大丈夫」

 

 そんな油断が、一番危ない。

 

(渡すなら……)

 

 少し考える。

 

(3日前……)

 

 追い込みに入るタイミング。

 

 危機感が残っている状態で渡せば、効果は最大になる。

 

 そこまで思考を進めて──

 

 

 ふと、立ち止まる。

 

 

(……いや)

 

 違和感。

 

(そもそもこれ……)

 

 手に入れた経緯。

 

 南雲の反応。

 

 星之宮の態度。

 

(本当に、“攻略法”なのか?)

 

 範囲はズレている。

 

 告知は出ていない。

 

 それでも、確証があるような空気だった。

 

(……話して、おくか)

 

 ポケットから端末を取り出す。

 

 

 一之瀬帆波。

 

 

 すでに過去問を渡している相手。

 

 通話ボタンを押す。

 

 数コールの後──

 

 

「……突然ごめんね」

 

「前に渡した過去問なんだけど……」

 

「テスト範囲と、少しズレていたよね」

 

「その事で話が……」

 

「……うん……えっ!」

 

「それはいつ!?」

 

「俺が渡した……数日前……?」

 

 

 確認するように、低く呟く。

 

 そして──

 

 

「そんな前から範囲変更の告知が!?」

 

 

 

 一之瀬との通話を切った上尾。

 

 すぐさま、連絡先一覧を開き──

 

 平田の名前をタップした。

 

 

 

 ────

 

 

 

 翌日──朝のホームルーム。

 

 いつも通りの時間。

 

 だが、空気のどこかに落ち着かないものが混じっていた。

 

「先生、少し確認いいですか」

 

 立ち上がったのは平田だった。

 

 静かな声だが、明らかに緊張している。

 

 教壇の茶柱が、面倒そうに視線を向ける。

 

「手短にしろ」

 

「中間テストの範囲についてなんですが……変更されていたって本当ですか?」

 

 

 

「ああ、そうだったな」

 

 あっさりと、茶柱は頷いた。

 

「報告が遅れていた」

 

 ──ざわり。

 

 教室の空気が、一斉に揺れる。

 

「え……?」

 

「遅れてたって……」

 

「聞いてないんだけど……」

 

 小さな声が、波のように広がっていく。

 

 平田の表情が固まる。

 

「先生、それは──いつからですか?」

 

「先週の金曜日だ」

 

 即答。

 

 迷いも、躊躇いもない。

 

 その一言で──

 

 教室の温度が、目に見えない形で下がった。

 

「は……?」

 

「結構前じゃん……」

 

「今までの勉強って……」

 

 動揺が、はっきりとした形になる。

 

 だが──

 

 茶柱はそれを気にする様子もなく、淡々と続けた。

 

「まぁ、お前達ならきっと突破できるだろう」

 

 軽い調子。

 

 励ましのようでいて──どこか他人事。

 

「……」

 

 その一言に、上尾はわずかに眉を寄せた。

 

(……なんだ、それ)

 

 違和感。

 

 状況に対して、言葉が噛み合っていない。

 

 普通なら──

 

 謝罪か、補足か、何かしらの説明があっていい。

 

 なのに、それがない。

 

 ただ、「できるだろう」とだけ。

 

(もしかして──)

 

 思考が、ひとつの仮説に触れる。

 

(わざと、知らせなかった?)

 

 胸の奥で、小さく何かが引っかかる。

 

(過去問の存在に、気付かせるために)

 

 そうだとしても──

 

(綱渡りすぎるだろ)

 

 上尾は、ゆっくりと息を吐いた。

 

 気付けなければ、そのまま落ちる。

 

 救済はない。

 

 選ばれるのは、ほんの一部だけ。

 

(……趣味悪いな)

 

 心の中で、短く吐き捨てる。

 

 教室のざわめきは、しばらく収まりそうになかった。

 

 

 

 ────

 

 

 

 茶柱は、それ以上何も言わなかった。

 

 淡々と出席簿を閉じ、そのまま教室を出ていく。

 

 ──バタン。

 

 扉が閉まった瞬間。

 

「ちょっと待ってよ……」

「今の何……?」

「意味わかんないんだけど……」

 

 抑えきれなかったざわめきが、一気に溢れ出す。

 

 教室は、完全に騒然としていた。

 

 その中で──

 

「みんな、ちょっと聞いてほしい」

 

 平田の声が、前から通る。

 

 教卓の前に立つその姿に、自然と視線が集まっていく。

 

「安心して」

 

 そう言って、手に持っていた紙を軽く持ち上げた。

 

「これは、去年と一昨年の中間テストの過去問だ」

 

 ざわめきが、一瞬だけ止まる。

 

「内容を確認したけど……今回の新しいテスト範囲と一致している」

 

「え……?」

 

 誰かが、思わず声を漏らす。

 

「2年連続で、同じテストが出されているんだ」

 

 教室の空気が、今度は別の意味で揺れた。

 

「ということは──今年も同じ可能性が高い」

 

 平田は、一度言葉を区切る。

 

「これをしっかり覚えれば、赤点は免れるはずだ」

 

 さっきまでの不安が、わずかに緩む。

 

「……ほんとに?」

 

 疑うような声。

 

「それは、確実なの?」

 

 静かに問いかけたのは、堀北だった。

 

 真っ直ぐな視線。

 

 平田は、ほんの一瞬だけ間を置き──頷く。

 

「うん。信頼できるサッカー部の先輩から聞いた」

 

 淀みなく、言葉を繋ぐ。

 

「その時に、これも譲ってもらったんだ」

 

「……そう」

 

 堀北は、それ以上は追及しなかった。

 

 

 上尾は、静かに目を伏せた。

 

 昨日のやり取りが、脳裏に浮かぶ。

 

 平田への報告。

 

 そして──過去問の存在。

 

「俺の名前は出さないでほしい」

 

 そう伝えた時の、あの微妙な沈黙。

 

 困惑していた。

 

 それでも──

 

 平田は、頷いた。

 

(……悪いことしたかな)

 

 心の中で、短く呟く。

 

 嘘をつかせている自覚はある。

 

 だが──

 

(これが、一番丸い)

 

 自分が前に出る必要はない。

 

 むしろ、出るべきじゃない。

 

(問題は──)

 

 上尾の視線が、わずかに紙へ向く。

 

 配られ始めた過去問。

 

 それを手にしたクラスメイトたちの表情は、明らかに変わっていた。

 

 安堵。

 

 期待。

 

 そして──油断。

 

(……そこだよな)

 

 

 テストまで、約一週間。

 

 本来なら──三日前に渡すつもりだった。

 

 勉強会で習慣を付ける。

 

 その上で、最後の三日間で過去問を叩き込む。

 

 短期集中。

 

 無駄を削ぎ落とした、最も効率のいい形。

 

 それが、上尾の中での“最善”だった。

 

 だが──

 

「できれば、早めに配りたいんだ」

 

 平田の言葉が、頭に残っている。

 

「みんな、かなり不安がってると思うから」

 

 あの時の表情。

 

 何か鬼気迫るものを感じた。

 

「三日前まで持たせるのは……ちょっと怖い」

 

 折れてしまう人間が出るかもしれない。

 

 その可能性を、彼は先に見ていた。

 

(……まぁ)

 

 上尾は、静かに息を吐く。

 

(あの空気なら、分からなくもないか)

 

 範囲変更の一件で、教室は確実に揺れていた。

 

 不安。

 

 焦り。

 

 そして、諦めに近い感情。

 

 あのまま何もなければ──

 

 確かに、途中で手を止める者も出るだろう。

 

(平田くんは、そういうの見逃さないからな)

 

 人の感情の揺れに、妙に敏感だ。 

 

(でも──)

 

 ほんの少しだけ、視線を落とす。

 

(あのまま不安な状態で一週間、か)

 

 想像する。

 

 焦り続ける時間。

 

 手応えのない勉強。

 

 終わりの見えない不安。

 

(……確かに、キツいな)

 

 小さく、息を吐く。

 

(人の気持ちに寄り添うのが得意な人が言うなら)

 

 きっと、それが正解に近いのだろう。

 

 “今のクラス”にとって必要なのは、効率よりも安定かもしれない。

 

 上尾は、ゆっくりと視線を上げた。

 

 教室の中。

 

 過去問を手にしたクラスメイトたちの表情は、どこか安堵している。

 

 その様子を見て──

 

(……これでいい、のかもしれない)

 

 小さく、そう思った。

 

 ──まぁ

 

(5教科あるとはいえ、1週間あるんだ)

 

(普通なら、赤点を取ることは無いだろう)

 

 

 

 ──普通なら。

 

 

 

 

 




9話は明日の昼か、早ければ今日の夜に投稿します。
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