主人公が陽キャになります。
上尾は席につき、小さく息を吐いた。
ようやく、一息つける──そんな感覚だった。
南雲からの依頼。
龍園との一件。
どちらも気を抜けるようなものではなかったが、とりあえずは片がついた。
胸の奥に張りついていた緊張が、ゆっくりとほどけていく。
だが──
(星之宮先生との約束……)
思考は、自然とそこへ引き戻される。
あの場で交わした条件。
いずれ、自分は一度だけこのクラスを裏切ることになる。
避けられない未来。
もしそれが露見すれば──
(……針の筵、か)
想像するだけで、気が滅入る。
(上手くやらなきゃな……)
今度は、さっきとは違う意味で息を吐いた。
ゆっくりと顔を上げる。
視線は、そのまま教室へと流れていく。
中間テストまでの時間は、確実に減っていた。
視線の先は須藤、池、山内の三人。
どうやら堀北の勉強会は再開したらしい。
成果がどんなもんかはわからない。
しかし、かなり厳しい成績だったはずだ。
他の生徒もそうだ。
小テストの結果を見る限り、危ういラインにいる者は少なくない。
(平田くんや櫛田さんも動いてたはずだけど……)
クラスの中心人物である二人の姿が思い浮かぶ。
(……まぁ)
上尾は、自分の鞄へと視線を落とした。
その中にあるもの。
──過去問。
去年と、一昨年の中間テスト。
これを使えば、赤点の回避はほぼ確実だ。
ただし、ひとつだけ引っかかりがある。
(……範囲、ズレてるんだよな)
現在のテスト範囲と、微妙に噛み合っていない。
範囲変更の告知も、まだ出ていない以上、断定はできない。
それでも──
南雲や星之宮の反応を見る限り、これが“攻略法”である可能性は高い。
問題は──
(Bクラスに売ってる手前、外したらまずいよな……)
「やっぱり違いました」では済まない。
信用が一気に崩れる。
一之瀬から、その事についての指摘がなかったのは少し気掛かりだが……
(だとしても……)
視線が、わずかに教室へ戻る。
(共有しない理由はない)
このクラスの現状を考えれば、なおさらだ。
だが──
(……タイミングが悪い)
思考が、そこで止まる。
脳裏に浮かぶのは、堀北鈴音。
距離を取ったばかりの相手。
その直後に、こんなものを持ち出せば──
不自然すぎる。
(どうしたものか……)
思考に沈みかけた、そのとき──
「上尾くん、ちょっといいかな」
柔らかな声が、不意に差し込んだ。
顔を上げる。
そこに立っていたのは──平田洋介だった。
「うん……どうしたの?」
席を立ち、廊下へ出る。
教室のざわめきが、背後で少しだけ遠くなった。
平田は少しだけ言葉を選ぶように視線を落とし、それから顔を上げた。
「実は、お願いがあってさ」
「お願い?」
上尾は小さく聞き返す。
もしかして、と頭に浮かぶ。
「……勉強会の講師役のこと?」
「うん。前にもお願いしたこと、あったよね」
「……あの時は断ってごめん」
上尾は視線を逸らしながら、静かに言う。
「いや、いいんだ。忙しかったならしょうがないよ」
平田は苦笑する。
責める色はない。
それでも──
その優しさが、少しだけ胸に刺さる。
南雲の依頼があったため、断っていた。
理由はぼかしたが、嘘はついていない。
少しだけ、間が空く。
言葉を探すような沈黙。
その隙間を埋めるように、平田が続けた。
「その……今回も、似たお願いなんだけど」
どこか言いづらそうな声音だった。
──クラスへの貢献。
──いずれ訪れる裏切り。
(それまでに……)
少しでも、返しておいた方がいい。
それに──
平田に対する、負い目もある。
「……まぁ、俺なんかでいいのかは分からないけど」
ぽつりと、言葉が落ちる。
平田が目を見開く。
それから、表情がゆっくりと緩んだ。
「ありがとう、上尾くん。君はクラスで一番頭がいいから心強いよ」
その評価に、上尾は少し照れながら視線を逸らす。
(……堀北さんが聞いたら、怒るだろうな)
そんな場違いな考えが、頭をよぎった。
「……あと、もう一つだけお願いがあって」
平田は、少しだけ目を伏せながら言う。
「……佐倉さんのこと、なんだ」
その一言に、空気がわずかに変わる。
佐倉愛里。
上尾の隣の席の女子生徒。
「……佐倉さんがどうかしたの?」
「彼女、全然勉強会に来てなくてさ」
短い説明。
けれど、それだけで十分だった。
「無理に引っ張るのは違うと思ってる。でも、このままだと危ない」
静かな声の奥に、確かな危機感が滲んでいる。
実際──
小テストの点数を思い返せば、否定はできない。
「上尾くんからも、声をかけてみてくれないかな」
「……俺が?」
わずかに驚きが混じる。
「うん。正直に言うと……僕だと、ちょっと避けられてる感じがあってさ」
苦笑混じりの言葉。
だが、その裏にある現実は軽くない。
(……いや)
上尾は内心で思う。
(平田くんが避けられてるなら、俺なんてもっとだろ……)
自分の立ち位置は分かっている。
クラスで浮いている自覚もある。
それに──
(……知らないのか)
上尾は、ほんのわずかに目を伏せた。
入学式の日と、その翌日。
あの時から、彼女に避けられている感覚があった。
それ以来──
まともに会話をしたことはない。
(そんな俺が声をかけて、どうにかなるのか……?)
疑問は、消えない。
それでも──
平田は、自分に頼んだ。
「……分かった」
小さく、しかしはっきりと口にする。
「上手くいくかは分からないけど、やってみる」
平田の表情が、ほっと緩む。
「ありがとう。本当に助かるよ」
その言葉に、上尾は軽く頷いた。
(……やるしかないか)
静かに、腹を括る。
視線の先には──
自分の席。
その隣にいる、物静かな少女の姿があった。
────
席に戻る。
椅子を引き、腰を下ろす。
そのすぐ隣──
先ほど話題に上がった少女、佐倉愛里が静かに座っていた。
(……なんて声をかけようか)
机に視線を落としながら、思考が巡る。
とはいえ──
上尾には、多少自信があった。
最愛の友人であり、想い人でもある椎名ひよりとの出会い。
そこから始まり──
南雲との問答。
星之宮との交渉。
龍園への脅迫……もとい、説得。
並べてみれば、かなり濃い場数を踏んでいる。
(……いや)
(これ、普通にすごくないか?)
自分で振り返って、素直にそう思う。
(あれだけの相手と会話成立してる時点で──)
結論は、一つだった。
(俺、もうコミュ力ある側では?)
(というか、下手したら平田くんクラス……)
そこまで思考が跳ねる。
ちらりと横を見る。
佐倉は、相変わらず静かにノートへ視線を落としている。
(……うん、いけるな)
根拠はない。
だが、妙な確信だけはあった。
(今の俺なら、自然に話しかけられる)
小さく息を吸う。
そして──
「は、ハロー?」
────
上尾は、重い足取りで平田の元へ向かっていた。
「上尾くん! 佐倉さんどうだった?」
少しだけ期待を含んだ声。
上尾は、何も言わずに──静かに首を振る。
「……そっか」
平田は、それ以上は何も聞かなかった。
ただ、ほんの少しだけ困ったように笑う。
その優しさが、逆に刺さる。
上尾は視線を逸らした。
(い、言えない……自爆しただけなんて……)
数時間前の出来事が、頭の中でゆっくり再生される。
『は、ハロー?』
『……ぇ』
小さく肩を震わせる佐倉。
(ミスった)
瞬時に理解する。
(なんで英語……?)
だが、止まれない。
ここで引けば、ただの不審者で終わる。
(突っ走るしかない……!)
『お、俺と一緒に放課後スタディしない?』
『……』
沈黙。
視線を落とす佐倉。
空気が、じわじわと冷えていく。
(まだだ……まだいける)
根拠のない判断。
『こ、怖くないよ……ベリー……ハッピーになれる……的な……』
──言った瞬間、終わったと分かった。
『……ごめんなさい』
小さな声。
でも、はっきりとした拒絶。
『……はい』
それ以上、言葉は続かなかった。
(……なんだあれ)
思い返して、頭を抱えたくなる。
(コミュ力ある側ってなんだよ……)
数時間前の自分を殴りたい。
完全に、勘違いだった。
「……ごめん、平田くん」
ぽつりと、謝る。
「いや、いいんだよ。声かけてくれただけでも助かったよ」
すぐに返ってくる、いつもの優しい言葉。
その優しさに、少しだけ救われた上尾だった。
────
放課後。
勉強会は予定通り開かれた。
講師役は、平田と上尾。
そして──
生徒側には、軽井沢をはじめとした女子生徒たち数名。
その中で──
上尾が受け持つことになったのは、篠原、佐藤、松下の三人だった。
(……ハードル高くない?)
正直な感想だった。
つい数時間前。
自らの手で自信を粉砕したばかりの男である。
そんな状態で──
“あまり話したことのない女子三人”の前に座らせられている。
(……帰りたい)
心の底から思った。
「じゃあ、とりあえず──」
なんとか口を開こうとした、その瞬間。
「あーあ、私も平田くんがよかったなー」
篠原が、露骨にため息をつきながら言う。
「上尾くんに聞こえるよー。まぁ、同意だけど」
佐藤が、悪びれもなく続けた。
(……うん、知ってた)
刺さる。
ちゃんと刺さる。
(俺でごめんね……)
(平田くんと違って、ゴミみたいなコミュ力しかない俺で……)
ほんの数時間前の自分を思い出しながら、心の中で土下座する。
(……いや、ほんとになにしてたんだ俺)
メンタルは、ほぼ瀕死だった。
そんな中──
「上尾くんって、頭いいよねー」
不意に、松下が口を開いた。
上尾は一瞬だけ反応が遅れる。
「……ありがとう」
短く返す。
その一言が、思っていた以上に染みた。
(……優しい人だ)
そう思った、次の瞬間。
「だから、副会長さんは上尾くんに目をかけてるのかな?」
──空気が、わずかに変わる。
軽い口調。
けれど、視線は違った。
値踏みするような、静かな観察。
(……ああ、そういうこと)
上尾はほんの少しだけ背筋を伸ばす。
「……どうかな?」
曖昧に返す。
「どうやって仲良くなったの?」
間髪入れずに、次の質問。
「……たまたま、縁があってね」
それ以上は踏み込ませないように、言葉を切る。
「ふーん」
松下は、それ以上追及しなかった。
だが──
完全に興味を失ったわけでもない。
「じゃあ、始めようか」
上尾は話を逸らすように、軽く咳払いをして、 ノートを開いた。
「じゃあ──まずはここから」
静かに言いながら、問題文を指でなぞる。
「この問題、式は分かる?」
問いかける。
篠原と佐藤は顔を見合わせて、小さく首を振った。
「じゃあ、まず前提から整理しよう」
上尾はペンを走らせる。
無駄を削ぎ落とした説明。
順序立てて、必要な情報だけを積み上げていく。
「ここがこうなって──だから、この式になる」
淡々と、しかし淀みなく。
感情は乗せない。
ただ、理解させることだけに集中する。
数分後。
「……あれ?」
篠原が小さく声を漏らした。
「これ、解けるかも」
手を動かし始める。
その隣で、佐藤も同じようにペンを走らせる。
そして──
「あ、できた」
ぽつりと、佐藤が言った。
空気が、わずかに変わる。
「……え、なにこれ。分かりやす」
篠原が顔を上げる。
さっきまでの露骨な不満は、すでに薄れていた。
「めっちゃ教えるの上手いじゃん!」
上尾は、少しだけ視線を逸らした。
「……そう?」
それだけ返す。
「そうだよ! めっちゃ分かりやすい」
「うん、普通にいいじゃん!」
さっきまでとは打って変わった反応。
手のひら返し──と言えばそれまでだが。
(……よかった)
内心で、ほっと息を吐く。
「じゃあ、次いこうか」
そのまま、淡々と続ける。
問題を一つずつ崩していく。
躓きそうな箇所を先回りして潰す。
理解が追いついていない部分には、別の角度から説明を入れる。
気付けば──
「え、これ解けたんだけど」
「ちょっと待って、私もいける」
最初とはまるで違う空気になっていた。
篠原と佐藤は、完全に集中している。
不満の色は消え、純粋に問題へ向き合っていた。
その様子を見て、上尾はほんの少しだけ肩の力を抜く。
(……なんとか、なったか)
ふと、視線を横に流す。
松下。
彼女だけは──変わっていなかった。
ペンは動かしている。
問題も、きちんと解いている。
だがその視線は、ときおり上尾へと向けられていた。
静かに、観察するような目。
(……見てるな)
上尾は、特に何も言わなかった。
(まぁ、いいか)
今は、やることをやるだけだ。
それからしばらくして──
勉強会は、特に大きな問題もなく進んでいった。
篠原と佐藤は最後まで食いつき、松下も黙々と手を動かし続ける。
当初の不安が嘘のように、場は安定していた。
「……終わり、かな」
最後の問題を解き終え、上尾がそう言う。
「うん、ありがと。普通に助かったわ」
篠原が軽く手を振る。
「正直、ちょっと見直した」
佐藤も頷いた。
上尾は、少しだけ苦笑する。
「……それはどうも」
ふと、松下と目が合う。
彼女は小さく、ほんのわずかに口元を緩めた。
だがその目は──まだ、何かを測るように静かだった。
「……ふーん」
小さく、そんな声が落ちる。
一体彼女からどんな評価が下ったのだろう。
気になるような、聞きたくないような。
勉強会は、ひとまず成功という形で幕を閉じた。
────
それから──
「ね、今日の流れでさ、どっかでお疲れ様会しない?」
軽井沢がそんなことを言い出したのがきっかけだった。
場の空気は悪くない。
だが──
「ポイントきつくない?」
誰かの一言で、現実に引き戻される。
「あー……確かに」
「今月もう結構使ってるしね」
ぽつぽつと同意が重なっていく。
結局、その話は「また今度」という形で自然消滅した。
(……まぁ、そうなるよな)
上尾も内心で頷く。
かく言う自分も、人のことは言えない。
元々持っていた16万pp。
一之瀬から受け取った5万pp。
だが、その大半はすでに消えている。
星之宮に支払った分で、手元に残っているのは──
(……1万ちょっと)
心許ない数字だった。
(見栄を張らずに、雅さんにポイントも強請ればよかった……)
「じゃあ、今日はありがとう」
平田が締めるように言う。
それに続いて、それぞれが軽く挨拶を交わし始める。
上尾も、流れに合わせて動いた。
平田と。
そして──
自分が受け持った三人。
篠原、佐藤、松下。
簡単なやり取りの末、連絡先を交換する。
ほんの少しだけ、距離が縮まった気がした。
そのまま、各々が帰路につく。
────
帰り道。
上尾は一人、歩きながら考えていた。
(……過去問、どうするか)
鞄の中にあるそれ。
切り札になり得る情報。
(平田くん経由で渡すか……?)
自分が表に出る必要はない。
むしろ、出ない方がいい。
「目立ちたくないから」
そう理由を添えれば、平田はきっと納得する。
口も堅い。
問題はないだろう。
(問題は──タイミングだな)
今日の勉強会を思い出す。
篠原や佐藤の様子。
(あれ、多分……)
(やればできるタイプだよな)
ただ、“やっていない”だけ。
習慣がないだけ。
だからこそ──
(早すぎるのは、まずい)
過去問を渡した瞬間。
安心して、手を止める可能性がある。
「これがあるから大丈夫」
そんな油断が、一番危ない。
(渡すなら……)
少し考える。
(3日前……)
追い込みに入るタイミング。
危機感が残っている状態で渡せば、効果は最大になる。
そこまで思考を進めて──
ふと、立ち止まる。
(……いや)
違和感。
(そもそもこれ……)
手に入れた経緯。
南雲の反応。
星之宮の態度。
(本当に、“攻略法”なのか?)
範囲はズレている。
告知は出ていない。
それでも、確証があるような空気だった。
(……話して、おくか)
ポケットから端末を取り出す。
一之瀬帆波。
すでに過去問を渡している相手。
通話ボタンを押す。
数コールの後──
「……突然ごめんね」
「前に渡した過去問なんだけど……」
「テスト範囲と、少しズレていたよね」
「その事で話が……」
「……うん……えっ!」
「それはいつ!?」
「俺が渡した……数日前……?」
確認するように、低く呟く。
そして──
「そんな前から範囲変更の告知が!?」
一之瀬との通話を切った上尾。
すぐさま、連絡先一覧を開き──
平田の名前をタップした。
────
翌日──朝のホームルーム。
いつも通りの時間。
だが、空気のどこかに落ち着かないものが混じっていた。
「先生、少し確認いいですか」
立ち上がったのは平田だった。
静かな声だが、明らかに緊張している。
教壇の茶柱が、面倒そうに視線を向ける。
「手短にしろ」
「中間テストの範囲についてなんですが……変更されていたって本当ですか?」
「ああ、そうだったな」
あっさりと、茶柱は頷いた。
「報告が遅れていた」
──ざわり。
教室の空気が、一斉に揺れる。
「え……?」
「遅れてたって……」
「聞いてないんだけど……」
小さな声が、波のように広がっていく。
平田の表情が固まる。
「先生、それは──いつからですか?」
「先週の金曜日だ」
即答。
迷いも、躊躇いもない。
その一言で──
教室の温度が、目に見えない形で下がった。
「は……?」
「結構前じゃん……」
「今までの勉強って……」
動揺が、はっきりとした形になる。
だが──
茶柱はそれを気にする様子もなく、淡々と続けた。
「まぁ、お前達ならきっと突破できるだろう」
軽い調子。
励ましのようでいて──どこか他人事。
「……」
その一言に、上尾はわずかに眉を寄せた。
(……なんだ、それ)
違和感。
状況に対して、言葉が噛み合っていない。
普通なら──
謝罪か、補足か、何かしらの説明があっていい。
なのに、それがない。
ただ、「できるだろう」とだけ。
(もしかして──)
思考が、ひとつの仮説に触れる。
(わざと、知らせなかった?)
胸の奥で、小さく何かが引っかかる。
(過去問の存在に、気付かせるために)
そうだとしても──
(綱渡りすぎるだろ)
上尾は、ゆっくりと息を吐いた。
気付けなければ、そのまま落ちる。
救済はない。
選ばれるのは、ほんの一部だけ。
(……趣味悪いな)
心の中で、短く吐き捨てる。
教室のざわめきは、しばらく収まりそうになかった。
────
茶柱は、それ以上何も言わなかった。
淡々と出席簿を閉じ、そのまま教室を出ていく。
──バタン。
扉が閉まった瞬間。
「ちょっと待ってよ……」
「今の何……?」
「意味わかんないんだけど……」
抑えきれなかったざわめきが、一気に溢れ出す。
教室は、完全に騒然としていた。
その中で──
「みんな、ちょっと聞いてほしい」
平田の声が、前から通る。
教卓の前に立つその姿に、自然と視線が集まっていく。
「安心して」
そう言って、手に持っていた紙を軽く持ち上げた。
「これは、去年と一昨年の中間テストの過去問だ」
ざわめきが、一瞬だけ止まる。
「内容を確認したけど……今回の新しいテスト範囲と一致している」
「え……?」
誰かが、思わず声を漏らす。
「2年連続で、同じテストが出されているんだ」
教室の空気が、今度は別の意味で揺れた。
「ということは──今年も同じ可能性が高い」
平田は、一度言葉を区切る。
「これをしっかり覚えれば、赤点は免れるはずだ」
さっきまでの不安が、わずかに緩む。
「……ほんとに?」
疑うような声。
「それは、確実なの?」
静かに問いかけたのは、堀北だった。
真っ直ぐな視線。
平田は、ほんの一瞬だけ間を置き──頷く。
「うん。信頼できるサッカー部の先輩から聞いた」
淀みなく、言葉を繋ぐ。
「その時に、これも譲ってもらったんだ」
「……そう」
堀北は、それ以上は追及しなかった。
上尾は、静かに目を伏せた。
昨日のやり取りが、脳裏に浮かぶ。
平田への報告。
そして──過去問の存在。
「俺の名前は出さないでほしい」
そう伝えた時の、あの微妙な沈黙。
困惑していた。
それでも──
平田は、頷いた。
(……悪いことしたかな)
心の中で、短く呟く。
嘘をつかせている自覚はある。
だが──
(これが、一番丸い)
自分が前に出る必要はない。
むしろ、出るべきじゃない。
(問題は──)
上尾の視線が、わずかに紙へ向く。
配られ始めた過去問。
それを手にしたクラスメイトたちの表情は、明らかに変わっていた。
安堵。
期待。
そして──油断。
(……そこだよな)
テストまで、約一週間。
本来なら──三日前に渡すつもりだった。
勉強会で習慣を付ける。
その上で、最後の三日間で過去問を叩き込む。
短期集中。
無駄を削ぎ落とした、最も効率のいい形。
それが、上尾の中での“最善”だった。
だが──
「できれば、早めに配りたいんだ」
平田の言葉が、頭に残っている。
「みんな、かなり不安がってると思うから」
あの時の表情。
何か鬼気迫るものを感じた。
「三日前まで持たせるのは……ちょっと怖い」
折れてしまう人間が出るかもしれない。
その可能性を、彼は先に見ていた。
(……まぁ)
上尾は、静かに息を吐く。
(あの空気なら、分からなくもないか)
範囲変更の一件で、教室は確実に揺れていた。
不安。
焦り。
そして、諦めに近い感情。
あのまま何もなければ──
確かに、途中で手を止める者も出るだろう。
(平田くんは、そういうの見逃さないからな)
人の感情の揺れに、妙に敏感だ。
(でも──)
ほんの少しだけ、視線を落とす。
(あのまま不安な状態で一週間、か)
想像する。
焦り続ける時間。
手応えのない勉強。
終わりの見えない不安。
(……確かに、キツいな)
小さく、息を吐く。
(人の気持ちに寄り添うのが得意な人が言うなら)
きっと、それが正解に近いのだろう。
“今のクラス”にとって必要なのは、効率よりも安定かもしれない。
上尾は、ゆっくりと視線を上げた。
教室の中。
過去問を手にしたクラスメイトたちの表情は、どこか安堵している。
その様子を見て──
(……これでいい、のかもしれない)
小さく、そう思った。
──まぁ
(5教科あるとはいえ、1週間あるんだ)
(普通なら、赤点を取ることは無いだろう)
──普通なら。
9話は明日の昼か、早ければ今日の夜に投稿します。