「ささやかな救い」
朝の列車は苦手だ。
均衡のとれた神聖な空間にドタドタとエスカレーターを駆け上がり、「はーはー」と口から湯気を漂わせる。駅のホームにつくなり、肩にかけた工具の入ったボストンバッグを乱暴に足元に落とし、ポケットから携帯電話を取り出す。そのままのしかめっ面のままこれまた乱暴に頭を掻きながらタッチパネルを操る。
そんな空間とは中和しない私を人間の見本とでもいいたげな周囲は見るに耐えないゴミのようにあしらっている気がする。
水道水を入れたペットボトルに口をつけるのもそれも貧相で品位を欠いた行動のような気がしてならない。
彼らが捲るガサガサという新聞の音や、健康趣向の為かはわからないが誰も座らない席にすら私の思考の矮小さを際立たせるようだった。世界はこうあるべきなのだろう。天国に行ける模範的な人間とはこういう者たちを国家が貪り護り必要とする象徴的な臣民たち。富を善を支出する彼らを労働者の希望として扱われるのは当然のことである。思考が加速し、隣人が偽善者に思えてしまう。そして、比較するように自分が情けなくなる。
列車の車輪と線路が擦れ出る空気のプシュプシュという音が「くさい、くさい」という幻聴に聞こえた。私はただ扉背に立ちながら寝るフリをするしかなかった。しかし、これは私の思い込みであるが嘘でもなかった。彼ら彼女らが鼻をすするシューシューという音すらも「クセェクセェ」と言ってるように感じるのだ。果ては、彼らの口内で飛沫を反射させる舌打ちすらも私への不快さの姿勢に思えてしまった。ノアの方舟に誤って乗ってしまったような罪悪感や後悔が蒸し返される。
しかし、誰も私を罰さない。告発しない。正そうとしない。その存在の否認こそが最も堪えた。
なぜ漠然と社会を恐れていたかを再び想いさらされた。
各駅に停まる度に車内に人で埋もれていく。そして、段々と私の立ち位置も扉から遠のいていく。そして、来てしまった。私の終着駅へと。
私はどう声を上げようか。どのようにホームに出ようかと頭を悩ませる。最終手段として、目的地を諦め、次の駅で降りようかとも考える。そうこうしている間に列車は一度大きな揺れを起こした。
ああ。着いてしまった。目的地に停まってしまった。私は生唾を呑み込む。そして、一言「降ります」と言うだけで彼らは道を譲って貰えるのか。とまた悩む。「すみません」と謝りを入れるべきか。「降ります」ではなく「申し訳ございません。どうか下車させてくださりませんか」とでも改まって言えばいいのか。もう頭が痛くなる。
私が声を発しようとしたときである。誰かが「降りまーす」と発したのだ。ありがたかった。私も続くように少し遅れて「すみません。降ります」と頭を下げる。一度謝りを入れたのだ。それで終わりの筈だった。しかし、私は罪悪感に囚われ何故か道を譲る乗客たちに何度も「すみません」とヘドバンのように何度も頭を下げながら下車した。
そして、思った。発すれば彼らは道を開けてくれるのだ。
人々は私が思うほど冷たくはなかった。