今回は過激な暴力描写が多数存在します。
また、本作品はあくまでフィクションであり、
犯罪の助長、及び賛美する意図は一切ありません。
ゾルダの苛烈な砲撃から逃げおおせ、
別荘を後にしたルリは、上の空のまま帰宅の途についていた。
足取りは重い。
まるで身体の芯から、力が抜け落ちた気分だ。
夜風が肌を刺す。
街灯に照らされた時計の針は、既に夜の10時を回っていた。
無理もない。現実世界に帰還した後、自分の完全な敗北と、何より「浅倉が戻ってこない」という冷厳な事実を突きつけられた彼女は、絶望のまま泣き崩れ、
戦いの疲労も重なり無人の別荘の床で、泥のように眠り込んでしまったのだ。
しかし、どれほど帰宅が遅かろうと、今のルリには気にする余裕も無い。
彼女の脳内は、ただただ茫然とした白に染まっている。
覚束ない足取りで夜道を歩みながら、ルリは静かに呟いた。
「いい……いいよ……二度と会えない……わけじゃないし……」
誰に聞かせるでもない独り言。
カサついた唇から、乾いた笑みがこぼれ落ちる。
「鏡の中なら……また、会える…………浅倉さんに……」
現実世界での対面は、もう難しい。
だが自分や彼が仮面ライダーである限り、そして鏡の世界が存在する限り。
戦いをこよなく愛する浅倉なら、出会う機会はこれからも在る。
―― この戦いが、永遠に続いてくれればいい。
ルリは暗い夜空を見上げ、心の中で歪んだ願いを反芻した。
やがて、見慣れた壮麗な我が屋敷へと辿り着く。
だが、門をくぐった瞬間、ルリの胸に奇妙な違和感が走る。
「……え?」
既に深夜と言っていい時間であるにもかかわらず、本邸の窓にはこうこうと明かりが灯っていた。普段なら、使用人たちも寝静まり、静寂に包まれているはずの時間だ。
胸を騒がせながら、恐るおそる玄関を抜け、家の中へと侵入する。
何時もなら予め鍵を開けといた自室の窓から入り込んでいたが、
使用人が自分を見逃してるのを知って警戒が緩んでいた。
浅倉が居なくなった事でこれ以上彼らの目を気にする必要も無くなったのも要因だろう。
足音を忍ばせ、廊下を進んだその時――
ルリは、鼓膜を直に掴まれるような、信じられない声を耳にした。
「随分遅い帰宅だな……ルリ?」
「……っ!」
心臓が跳ね上がり、全身の血の気が一気に引いていく。
ルリは自分の顔面が、恐怖で凍りついていくのをはっきりと感じた。
信じられない。いや、信じたくなかった。
ルリの視線の先。
リビングの薄暗がりに佇んでいたのは――
あの日浅倉に暴行され、ずっと病院のベッドで昏睡状態のままだと信じ込んでいた男。
長年、自分を理不尽な支配と恐怖で縛り付け、苦しめ続けてきた張本人。
父親、 曽川文也が ――
電動車椅子に座り、鋭い眼光でこちらをじっと睨みつけていたのだ。
「…………お父……様…………」
紡ぎ出されたルリの声は、恐怖のあまり、哀れなほどに震えていた。
「.....い....いつ.....戻られて......」
声が上手く出ない。
奥歯がガチガチと鳴るのを必死に堪えながら、ルリは絞り出すように唇を震わせた。
そんな娘に対し、文也は氷のような眼差しを向けたまま、静かに、しかし地を這うような低い声で語る。
「数時間前にな。 怪我は大分良くなった。以前から腕の良い主治医を雇っておいて正解だったよ」
文也が奇跡的に意識を取り戻したのは、今日の午前中のことだった。
ルリは学校へ行き、その後はファムとの死闘、そして別荘の中での深い眠りと、一日中ずっと家を空けていた。なので父親の覚醒というあまりにも重大な情報が、彼女の元へ行き渡っていなかったのだ。
半年もの間、昏睡状態のベッドに縛り付けられていながらも、文也の脳内は「自分をこんな目に遭わせた浅倉への怨み」と、「残された娘と、己の会社がどうなっているか」という執念だけで満ち満ちていた。
故に、目を覚ました瞬間に主治医が告げた「まだ絶対安静だ」という必死の制止を、文也は完全に無視。
意識が戻ったばかりの文也は、まだおぼつかない身体でありながらも、自身の持つ絶対的な権力を振るい、屋敷の使用人たちを病院へ脅すようにして呼び出したのだ。
『今すぐ私を家に連れ戻せ。断る者は......それ相当の処分を下す』
冷酷な命令を下された使用人たちに拒否権などなかった。
主治医は渋々バイタルをチェックし、会話や車椅子への移乗が最低限可能であると判断せざるを得なかった。ガチガチに強い薬を投与して無理やり痛みを抑え込み、
文也は電動車椅子にその身体を固定して、夜が更けるまでに我が物顔で屋敷へと帰還したのだった。
「さて.....早速だが質問だ。 私が居ない間、お前は何をしていた?」
「........................」
文也は威圧的な表情を変えないまま電動車椅子を動かし、ゆっくりとルリの元へ近づく。
「答えないか? では、いくつか状況を整理し、推理してみよう」
低く唸るような音を立てて、電動車椅子がじりじりと距離を詰めてくる。
文也の凍てついた視線が、ルリの顔を容赦なく射抜いていた。
「私が寝ている間、学校の成績が随分と落ちたようだな?
それだけではない。目覚めてすぐに、執事が震えながら報告してくれたよ。
お前が夜中に何度も部屋を抜け出していたとな……」
「!!」
ルリの血の気が引いた。
車椅子のモーター音が、静まり返ったリビングに不気味に響く。
文也は淡々と、しかし一言ごとに圧力を増しながら、ルリの罪状を積み上げていく。
「私が定めた『曽川家の規則』を忘れたわけではあるまいな?
許可のない単独での外出の禁止。分単位での行動報告。そして夜8時の門限……。
私が病床にある間、お前はそれらを全て破り、使用人どもの目を盗んで夜の街を徘徊していたそうだな。
怯える執事を少し問い詰めただけで、お前の不品行がボロボロと溢れ出てきたぞ。
そして、あの森の別荘について。
奇妙な形跡が確認できた……維持費の明細(あるいは電気・水道代の推移)をチェックさせてみれば、
一目瞭然だ」
獲物を完全に追い詰める前に、逃げ道を一つずつ、冷酷に塞いでいくように。
文也の言葉は容赦なくルリの逃げ場を奪っていく。
「お前が『掃除』をしていた、という割には、深夜の電力消費量が異常に跳ね上がっている。
ただの気晴らしや清掃だけで、あの様な数字にはならん。そうだな。 例えば.........
他の誰かと過ごしていた.....とか?」
「………………」
何も言えなかった。
言葉が、喉の奥で凍りついたまま出てこない。
ルリは静かに、小刻みに震え続けた。
文也は車椅子をルリの間近で止める。
見上げる娘の顔を、真上から見下ろすように。
周囲に控える使用人たちは、誰一人として声を上げなかった。
歯向かう事も出来ず、ただ苦い顔のまま、その場で二人を見つめているだけだった。
やがて文也は、低く、静かに続けた。
「まだ答えないか........まあ、それとは別に、ハッキリしている事が一つある」
一拍の間。
「私がこんな姿になった原因は、あのビルの無能な管理体制『だけ』ではない、と言う事だ……」
次の瞬間だった。
風を切る鋭い音と共に、文也の杖がルリの頬を力いっぱい打ち付けた。
乾いた、痛ましい音が屋敷の廊下に響いた。
「っ——!」
衝撃が頬骨の奥まで突き抜ける。
一瞬、視界が真っ白に弾けた。
ルリの細い身体は大きく仰け反り、受け身を取る間もなく冷たい床へと倒れ込んだ。
打ちつけた肩と肘に鈍い痛みが走る。
頬の内側に、じわりと鉄の味が広がった。
「何故あの時、直ぐに警備員を呼ばなかった!?」
文也の怒声が、頭上から降り注いだ。
病み上がりとは思えないほど、その声には怒りの熱が満ちていた。
「お前がいち早く行動していれば、無駄な入院費を払う必要も無かった!
今後のマネジメントも大きく支障が出た!」
杖がまた振り下ろされた。
倒れたルリの背中へ、容赦なく叩きつけられる。
鈍い衝撃が全身を揺らした。
「そんな事も言わなければ解らないのか!?」
「っ……く……!」
ルリは咄嗟に頭を腕でかばい、身を縮めた。
床に額を押しつけるようにして蹲る。冷たいフローリングの感触だけが、妙に鮮明に伝わってくる。
杖が降る。また降る。
背中、肩、腕。
痛みが幾重にも重なり、やがて全身がじくじくと熱を持ち始めた。
「碌な判断も出来ず、それでも世界に誇る曽川家の娘か!?」
文也の声は怒鳴り続けている。
だが不思議と、ルリの耳にはその言葉が段々と遠くなっていくように聞こえた。
痛みで意識が霞んでいくのか、それとも——長年この痛みに慣れ過ぎてしまっているのか。
「この恥知らずの親不孝者が!!」
床に爪を立て、唇を強く噛み締め、ルリはただ耐えた。
声を上げない。泣き言を言わない。逃げない。
何年もそうしてきたように。
この屋敷の中では、それが唯一許された抵抗だったから。
だがその沈黙が、文也の怒りを更に煽るのだということも、彼女は知っていた。
周囲に佇む使用人たちは、誰もが顔を歪め、唇を固く結んでいた。
見ていられないというように目を伏せる者。
拳を握りしめたまま、微動だにできない者。
文也の権力の前では、誰もが声を上げる事が出来なかった。
かつてルリを庇えなかった日々と、何も変わっていなかった。
やがて杖を振るう音が、ぴたりと止む。
荒い息を整えながら、文也は大きく息を吐いた。
昏睡明けの身体に、さすがに応えたのかもしれない。
蹲ったままのルリを一瞥し、言葉を吐き捨てるように車椅子を方向転換させる。
「私が居ない間に、随分と微温湯を楽しんでいたようだな?」
廊下の先、控える使用人たちへと、感情の剥ぎ取られた声を投げかけた。
「将来の為に、これは十分な再教育を施すしかない」
一拍。
「ルリを部屋に連れていけ」
使用人の一人が、震える声で恐る恐る尋ねた。
「……どうなさる……おつもりです……?」
文也は振り返らなかった。
廊下の先を見据えたまま、静かに、しかし一切の反論を封じる重さで、自分の口癖を言い放つ。
「『教育』だ。そのくらい、言わなくても解るだろう?」
屋敷に深い沈黙が落ちた。
床に蹲ったまま、ルリは微動だにしなかった。
頬の熱。背中の痛み。口の中に滲む血の味。
それらを全て押し込めるように、彼女はただ静かに、小さく震えていた。
その瞳は、床の一点をぼんやりと見つめたまま、どこか遠い場所を映しているようだった。
しかし、その場に満ちた沈黙を破ったのは、思わぬ声だった。
「……お断りします」
低く、しかし明確な拒絶の言葉。
文也の動きが、ぴたりと止まった。
車椅子をゆっくりと方向転換させ、声の主へと視線を向ける。
口を開いたのは、長年曽川家に仕えてきた中年の使用人だった。
その手は小刻みに震えている。顔は青白い。
それでも彼は、真っ直ぐに文也を見据えていた。
「……聞き違いか?」
文也の声は、先ほどよりも低かった。
怒鳴らない。だからこそ、その静けさが凶器のように場に満ちた。
「今、何と言った?」
「お断りする、と申し上げました」
使用人は一度だけ唾を飲み込み、それでも視線を逸らさなかった。
「貴方には……もうついていけません」
震える声が、しかし一言一言、確かな重さを持って続く。
「貴方がなさっているのは、教育などではない。ただの……暴君だ……」
廊下の空気が、張り詰めた。
他の使用人たちが息を呑む気配がした。誰もが身を固くし、次の瞬間を待っていた。
文也の眉が、ゆっくりと吊り上がった。
「この私に歯向かうと、どうなるか……」
低く、静かに。まるで地の底から這い出てくるような声だった。
「理解して言っているのか??」
その一言が持つ意味を、この屋敷の誰もが知っていた。
仕事を失うだけでは済まない。
曽川文也が本気で動けば、一人の人間の社会的な居場所など、あっという間に消えてなくなる。
それだけの力を、この男は持っている。
だが。
「もう沢山なんですよ!」
堰が切れた。
使用人は拳を握り締め、長年胸の奥に押し込めてきたものを、一気に吐き出した。
「貴方を見るのが! このお嬢様を見るのが! こんな事を見て見ぬ振りをし続ける自分自身が!!」
文也の顔が、みるみる険しくなり、遂に声を張り上げた。
「これは教育だ! 将来社会を円滑に生きる為に必要な規律と言う物を、お前たちは理解していない!」
文也の怒声が廊下に響き渡る。
病み上がりとは到底思えない、圧倒的な気迫。
電動車椅子の上から、まるで法廷で判決を下すかのように使用人を睨みつける。
その目には、自分が間違っているという可能性など、欠片も映っていなかった。
「規律……?」
使用人は一歩も引かなかった。
青ざめた顔で、それでも声を震わせながら、真っ向から言葉を返す。
「規律とは、無抵抗な子どもを杖で一方的に打ち据える事ですか!? そんな物が将来の何の役に立つのです!?」
「黙れ! 雇われ人間如きに、曽川家の教育方針を云々される筋合いはない!」
「雇われだからこそ、申し上げられる事があります! 長年この家でお嬢様を間近で見てきた私たちだからこそ……!」
「見てきた? 笑わせるな!」
文也の声が一段と低くなった。静かになった分だけ、その言葉は鋭さを増した。
「使用人風情が、親の代わりに何が出来る? 部外者が家庭の事情に口を出すな。これは愛故の指導だ。甘やかして育てた子供が社会に出てどうなるか、お前には解らないのか!」
「何が愛故か! 長年、私どもはずっと見てきた! お嬢様がどれほど必死にこの家で耐えてこられたかを……! それでも何も言えなかった。貴方が恐ろしくて、この仕事が失くなるのが恐ろしくて……! それがもう、限界なんですよ!……貴方はそれでも人の親か?!」
使用人と文也の言い争いの声が、廊下に重なり合う。
長年押し込めてきた鬱憤が、互いの言葉を燃料にして、際限なく燃え上がっていく。
他の使用人たちは身を固くしたまま、誰も声を上げられずオドオドとしていた。
そして—— 誰も気がついていなかった。
廊下の床に倒れたままのルリの事を。
文也も、使用人も、言い争いの熱の中で、彼女の存在をすっかり置き去りにしていた。
「……はぁ……あぁ……」
冷たいフローリングの上で、ルリは突っ伏したまま、乱れた呼吸を繰り返していた。
頬はまだ熱を持っている。
背中と肩には、杖で打ちつけられた痛みが何重にも残っていた。
口の中に滲む鉄の味が、現実の証明のようにじっとりと舌に纏わりついている。
だがそれ以上に。
彼女の内側で、何かが軋んでいた。
今日一日だけで、どれだけのものが自分を揺さぶったのか。
ファムとの戦いでの敗北。
あと一歩のところで、剣を止めてしまった自分の弱さ。
泣き疲れて眠り込んだ、誰もいない別荘の冷たさ。
浅倉はもうあそこにはいないという、当たり前の事実が突きつけてきた喪失感。
そして帰宅した瞬間に突きつけられた、昏睡から戻った文也の姿。
それらが全て、今この瞬間、一点に凝縮されていく。
脳裏に、浅倉の声が蘇った。
別荘の中で会話の、何気ない一言。
『お前、親を恨んでるんだってな。何故自分で手を下さない?』
「……はぁ……あぁ……」
そして、笑いながら続けた言葉。
『俺はやったぜ?』
自らの残忍な行いを、武勇伝のように、何の躊躇いもなく語るあの男の顔。
「……あぁ……あああ……」
次に蘇るのは、あの日の光景。
根津忠太が変身したシザースを、浅倉が躊躇いなく葬った瞬間。
『嫌だ……嫌だああ! 俺は、こんなところで……っ!』
『はあああっ!!』
『ああああああ嫌だああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……』
ジェノサイダーのブラックホールに吸い込まれるシザース。
人が人の命を奪う瞬間を、ルリは生まれて初めて間近で見た。
あの時、身体が竦んで動けなかった自分。
どんな覚悟を誓っても、いざとなれば足が止まる自分の甘さ。
頭上では、まだ文也と使用人の怒声が続いている。
だが今のルリの耳には、それらの声が、ひどく遠い場所から聞こえてくるようだった。
「……あぁ……あああ……」
呼吸が、うまく続かない。
胸が激しく上下し、吸った空気が肺の奥まで届かない感覚がした。
過呼吸の一歩手前で、視界の端がじわじわと霞み始める。
床に爪を立てたまま、ルリの視線が、ゆっくりと文也の背へと向いた。
その目の奥に宿るものを、言葉で表すのは難しい。
怒りとも、憎しみとも、恐怖とも違う。
長年かけて積み重なったものが、今この瞬間、ようやく臨界点を超えようとしているような——そんな、静かで昏い光だった。
いつの間にか。
ポケットの中で、カードデッキを握りしめていた。
指が震えている。
だが、その握力は緩まなかった。
文也も、使用人も、誰もルリを見ていなかった。
見ていれば、気がついただろうか。
今の彼女の異常さに。
今のルリは、もはやただ従うだけの令嬢ではない。
鏡の世界で何度も死線を潜り抜けてきた、一人の戦士なのだ。
「ぁ……ぁぁ……ぁぁぁぁ……」
声にならない声が、喉の奥から滲み出てきた。
やがてそれは、せき止めていた何かが完全に決壊するように——
「ぁぁぁぁあああああああ!!!」
絶叫と共に、ルリは床を蹴って跳ね起きた。
ポケット内のデッキから、アドベントカードを力いっぱい引き抜く。
玄関すぐ脇の窓ガラスが、内側から激しく震えた。
次の瞬間、ガラスの中から轟音と共に——
「ギシャアアアァァァァ!!」
ディスコーピオンが屋敷内へと顕現した。
「……う……うう……」
暗闇の中で、小さなうめき声が漏れた。
重い瞼をゆっくりと押し上げると、視界に飛び込んできたのは見慣れた天井だった。
全てのカーテンが閉め切られ、部屋は深い闇に沈んでいる。
だが調度品の輪郭や、壁紙の模様には覚えがある。
自分の部屋だ。
一体、何が起きたのか。
朦朧とする意識の中で、文也は記憶を手繰り寄せようとした。
廊下での言い争い。使用人の反抗。
そして——突然、窓ガラスの向こうから現れた、巨大な蠍の化け物。
その後の記憶が、すっぽりと抜け落ちている。
余りにも一瞬の出来事だった。
ここで文也は、奇妙な違和感に気がついた。
身体が動かない。視線を落として解った
自分が座っているのは、電動車椅子ではなかった。
背もたれのある、普通の椅子だ。
そして——両腕も、胴体も、脚も。
全身が、何かによって椅子ごと縛り付けられていた。
目を凝らすと、それは千切られたカーテンだった。
分厚い生地が何重にも巻きつけられ、びくともしないほど固く締め上げられている。
「な……なんだこれは……!?」
本能的に身を捩ろうとする。だが、びくともしない。
焦りが、じわりと背筋を這い上がってきた。
その時。
「お目覚めですか? お父様」
静かな声が、暗闇の中に響いた。
文也は顔を上げた。
部屋の中央にルリが立っていた。
服装は学生服ではなく、黒いパーカーと、黒のスラックスに着替えている。
これは浅倉と初めて出会った時と同じ、普段夜に出歩く際の服装である。
だが問題は服装などではない。
―—何かが、違った。
いつも俯き加減で、文也の視線から逃げるように目を伏せていた娘の顔が、
今は真正面から自分を見据えていた。
その目が。
かつて文也に従い、怯え、無感情に耐え続けてきた娘の目が——
今はまるで別人のように冷たく、静かに父親を映していた。
「ルリ........」
文也は、努めて平静な声を作った。
「これは.......何の真似だ?」
「......いやあ……何と言いますか......」
ルリは静かに、しかし確かな声で口を開いた。
「少し見習おうかな?っと思ったんです。 お父様のやり方を」
「何?」
闇の中で、ルリがゆっくりと歩み寄ってくる。
その手に何かが握られているのに、文也が気がついたのは、彼女がすぐ目の前まで迫ってからだった。
バール。
自家用車の整備用に、車庫に置いてあったものだ。
「教育……という方法です」
次の瞬間、バールが空気を裂いた。
乾いた、重い衝撃音。
文也の顔面へ、それは容赦なく叩きつけられた。
「——っ!?」
思考が追いつく間もなかった。
衝撃で視界が激しく歪み、椅子ごと横倒しに吹き飛ぶ。
冷たい床に顔面を打ちつけ、鈍い痛みが頭蓋の奥まで響いた。
鼻の奥から、生温かいものが溢れ出してくる。
「ほら、耐えてください」
見下ろすルリの声は、恐ろしいほど平坦だった。
「貴方ほど厳しい人なら、このくらいの痛み、耐えられるでしょ?」
バールが、また振り下ろされた。
「ぐが……っ!!」
文也の喉から、みっともない声が漏れた。
椅子ごと縛られた身体では、受け身を取ることも、身をかわすことも出来ない。
バールが振るわれる。また振るわれる。
その度に衝撃が走り、痛みが積み重なっていく。
殴り続けるルリの表情は、能面のように動かなかった。
怒りで歪んでいるわけでも、泣いているわけでもない。
ただ静かに、淡々と、まるで当然の作業をこなすように。
それが、文也には何よりも恐ろしかった。
「だ……誰か……! 誰か来い……!!」
震える声で叫ぶ。
「無駄ですよ」
ルリは静かに、事務的に答えた。
「屋敷内には私と貴方しか居ません。 使用人たちは皆、適当に気絶させて外で寝ています」
「き……貴様……正気か……! この私に、何をして——」
「ええ、正気ですよ」
ルリはバールを持ち直しながら、淡々と遮った。
「ずっと正気でした。貴方の言う事を聞いていた時も、怒鳴られていた時も、今この瞬間も」
「ふ、ふざけるな! 親に向かってこんな……」
床に倒れたまま、文也は震える声を絞り出した。
鼻血で汚れた顔に、それでも消えない傲慢さを滲ませながら。
「お前には、何でも与えてやった! 巨万の富、約束された最高の将来……ここまで我が子の為に尽くしてきたのに……! この親不孝者が!!」
「—――っ」
その言葉を聞いた瞬間。
ルリの目つきが、音もなく変わった。
怒りではなかった。
憎しみとも、少し違う。
理解、だった。
今まで、この男に家族愛など存在しないとばかり思っていた。
ただ支配したいだけの、空っぽな権力者だと。
だから憎めた。だから割り切れた。
だが —— 違った。
この男は本気で信じているのだ。
自分が娘に注いできた仕打ちの全てを「わが子を思う愛ゆえの行動」だと。
厳しく接する事と、ただの暴力を、完全に履き違えたまま。
怒鳴る事が指導で、殴る事が教育で、縛り付ける事が愛情だと——
その歪んだ認識に、一切の疑いを持たずに生きてきたのだ。
古い時代の価値観と、肥大した支配欲と、「愛の鞭」という都合の良い言葉の裏に、
全てを押し込めて。
それが余計に、腸が煮えくり返るほど腹立たしかった。
「……黙れ」
低く、押し殺した声が漏れた。
「黙れこのゴミクズ野郎ぉ!!」
「がほぉ....」
怒声と共に、ルリの足が文也の頬を思い切り蹴り飛ばした。
これまでの平坦な口調は跡形もなく消え、長年押し込めてきた感情が一気に溢れ出す。
バールが振り上げられ、叩きつけられる。
文也の呻き声が上がった。
「与えてやった? 尽くしてやった? 笑わせんな! テメエがくれたのは全部テメエの都合だろうが!!」
また一撃。また一撃。
「私が何を望んだかなんて、一度でも聞いた事があったか!?
ああ!? あったかって聞いてんだよクソが!!」
怒鳴りながら、ルリは止まらなかった。
かつて浅倉が鉄パイプで文也を打ち据えたのと、同じように。
バールが振り下ろされるたびに文也の呻き声が上がり、椅子が床を軋ませた。
「テメエみてえな能無しが! 都合の良い時だけ親面すんじゃねえ!
生きてるだけでウゼエんだよ、この死に損ないがあぁっ!!」
どれほどの時間が経ったのか。
ふと、ルリの手が止まった。
肩で息をしながら、彼女はゆっくりと我に返る。
乱れた前髪が額に張り付いていた。バールを持つ手から、じわじわと力が抜けていく。
床に倒れた文也を、しばらく無言で見下ろす。
荒い呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
「……あら、やだ」
静かに、呟いた。
乱れた髪を片手でさらりと払い、バールを持ち直しながら、小さく息を吐く。
「私ったら、はしたない……」
いつの間にか、声は元の平坦なトーンに戻っていた。
まるで今起きた事が、日常の些細な出来事であるかのように。
「さて……もうこのくらいで良いでしょう」
ルリは静かにバールを下ろした。
「が……あが……」
床に倒れたまま、文也はもはや声を出すのも難しそうに喘いでいた。
呼吸のたびに胸が細かく上下し、鼻血で汚れた顔が苦痛に歪んでいる。
かつてあれほど威圧的だった男の姿が、今は見る影もなかった。
ルリはその場に立ったまま、しばらく父親の姿をまじまじと見下ろし続けた。
怒りでも、憐れみでもない。
ただ静かに、確認するように。
まるで長年悩まされてきた問いの答えを、ようやく自分の目で確かめているかのように。
やがて彼女は片手を上げ、乱れた髪をさらりと掻き上げ、口を開く。
「お父様。最期に、お伝えしたい事がございます」
声は、先ほどの荒々しさが嘘のように穏やかで柔らかかった。
にこやかな笑みすら、その顔に浮かんでいる。
だがその笑みは、娘が父親へ向けるものとは似て非なる、
どこか張り付いたような冷たい笑みだった。
「私は貴方に、一つ感謝してる事があるんです」
次の瞬間、ルリは靴のまま文也の横腹を力の限り踏みつけた。
「あがぁっ!!」
踏みつける足に、一切の躊躇いがない。
笑みも、崩れない。
「貴方が愚かで傲慢だったお陰で……私は素敵な人に巡り会えた。
その人は私を変える切欠を作って下さいました。とっても愛おしい方なんです......」
言葉を紡ぎながら、今度は腹部を蹴り飛ばす。
鈍い衝撃音と共に、文也の身体が椅子ごと床を滑り、壁際近くまで後退した。
悶絶しながら喘ぎ、助けを求めるように虚空へ手を伸ばす父親の姿を、ルリは感情の読めない瞳でただ見下ろしていた。
やがて彼女は懐へ手を差し込み、そっとカードデッキを取り出した。
「なので、せめてお礼をさせてください」
デッキが、すぐ傍に飾られていた大きな額縁の絵画に反射し、映り込む。
曽川邸の中でも一際高価な、文也が自らの権威の象徴として飾り続けていた一枚だ。
その磨き抜かれた金縁のガラス面が、鏡のようにデッキの紋章を映し出した。
「娘から貴方への........最初で最後の贈り物です」
鏡面への反射と共に、その場にVバックルが音もなく出現。
自動的にルリの腰へと巻かれていく。
「相応しい最後、と言う名のね.................変身」
小さな、静かな声だった。
ルリは慣れた手つきでデッキをVバックルへ装填。
刹那、幾重にも光の虚像が重なり合い、彼女の全身を包み始める。
瞬時に深紅の装甲が形成され、蠍を模した意匠が浮かび上がり、
少女は仮面ライダースティーガへと姿を変える。
突如、娘が謎の鎧に包まれ、全く別の存在へと化した光景に、文也は痛みも忘れ息を呑んだ。
「な……なんだ……それは……一体……」
これまで見た事のない異形の姿。
長年支配してきた娘が、自分の知らない場所で、自分の知らない力を手に入れていた。
その事実が、文也の中に得体の知れない恐怖を増幅させる。
「さあ? 何でしょうね?」
スティーガは首を僅かに傾け、事もなげに答えた。
「まあ、どうでもいい事ですよ。貴方には」
一歩。また一歩。
右手にディスティングバイザーを携えながら、スティーガは静かに、しかし確実に歩み寄っていく。
その足取りに焦りはなく、怒りもない。
ただ、決意だけがあった。
「ま、待て……来るな……!」
文也は必死に身を捩ろうとした。だが椅子ごと縛られた状態では、わずかに身体が床を滑るだけだ。
それでも本能的に後退しようとした、その背中に、硬い何かが当たった。
動きが、止まる。
静まり返った部屋の中で、低い唸り声が響いた。
恐る恐る、文也は頭だけを上へと向けた。
「ギシャアアアあぁぁ……」
そこには先ほど自分を襲ったディスコーピオンが禍々しい口を大きく開けて、真上から文也を見下ろしていた。
闇の中で赤く輝く二つの目。
巨大な顎が涎を垂らしながらゆっくりと開閉している。
あの夜、廊下に突如として現れた蠍の怪物。その禍々しい気配が、再び目の前に満ちていた。
「うぅあああああああああ!!」
文也の口から、これまでの人生で上げた事がないような悲鳴が迸った。
忽ちパニックに陥る文也の身体を、スティーガの足が勢いよく踏みつけた。
そしてディスティングバイザーの剣先を、文也の鼻先へと向ける。
更なる恐怖で顔を歪んませる文也。
「やめろおおぉぉ! 何をする気だぁぁぁ!!」
「っふ」
スティーガは短く笑った。
「そのくらい、言わなくても解るでしょ?」
文也が長年、頭ごなしにぶつけ続けてきた言葉を、
そっくりそのまま返す。
そして一拍の沈黙の後、
「さよなら……お父様……」
静かに剣を振り降ろした。
◆
「...........」
スティーガは無言で地面を見つめていた。
カーテンの隙間から月明かりが僅かに零れ、床に転がった、『かつて文也だった何か』を照らしている。
部屋の中は不気味なほどの静寂と、生臭い匂いが支配していた。
仮面に付着した大量の返り血を拭いもせず、
スティーガはまるで準備運動でも終えたかの様に
「うーーーん」と軽く背伸びをする。
とても初めて一つの命を奪った人間とは思えない程、今の彼女は冷静だった。
「さてと.....仕上げね....」
一旦回れ右をして部屋の奥まで歩く。
そして隅に予め置いておいたある物を手に持った。
それはガソリン携行缶だった。
蓋を開けると、彼女は部屋中に中身を垂れ流す。
出来る限りまんべんなく丁寧に。
ある程度のガソリンを撒き終えた後、今度は銀のライターを取り出す。
文也が普段、喫煙用に所持していた物だ。
スティーガはそのライターを点火すると、迷う事無くばら撒かれたガソリンに引火させる。
一瞬で炎が部屋中のガソリン溜まりを伝い、大爆発を引き起こす。
生身の人間なら、忽ち自分も爆発に巻き込まれ命の危機は免れない。
しかし、スティーガの鎧に包まれたルリには何の影響もない。
炎は瞬く間に部屋中を駆け巡り、火の海と化した。
スプリンクラーは一切作動しない。
屋敷内の物は全てディスコーピオンに頼んで破壊してあるから。
「ふふ....ふふふ.........どう? お父様?」
スティーガはこの地獄絵図を楽しむかの様に、両手を僅かに広げる。
「貴方を支えてくれた資源による、相応しい光景ですよ?」
不気味に笑い続けながら、彼女は絵画の額縁を介してミラーワールドへと入っていった。
◆
ミラーワールドの夜空に、満月が異様なほど白く輝いていた。
静まり返った無人の街を一人歩く、仮面ライダースティーガ。
その背後では、巨大な炎が夜空を赤く染め上げている。
鏡映しとは言え、現実世界の建物が倒壊しても、ミラーワールドの建築物に影響はない。
だからルリは鏡の世界の実家にも火を放ったのだ。
想い人が過去にやった事と、同じように。
長年、自分を縛り続けた忌々しい豪邸。
曽川家の象徴だった屋敷は、今や業火の中に呑み込まれていた。
ルリが撒いたガソリンにより、火勢は衰える気配を見せない。
あの家には懐かしみたい過去すら存在しない。
無駄に大きい豪邸だった分、炎の勢いは凄まじい。
赤と橙が混ざり合う炎が夜空へと高く舞い上がり、黒煙が月を霞ませるほど立ち上っていた。
「……ふふ」
スティーガの仮面の奥で、ルリは夜空を見上げた。
「はははは……あはははは……」
静かな、しかしどこか壊れたような笑いが、仮面の奥から漏れ出した。
脳裏に蘇るのは、別荘のソファーで喉を鳴らして笑っていた浅倉の顔だ。
自らの大罪を武勇伝のように語りながら、低く、愉しそうに言っていた。
『格別だったぜぇ? 散々イラつかせた奴らが、無様にのたうち回る様はなぁ』
「……浅倉さんの言う通りだ」
ルリは静かに呟いた。
「本当に……格別だなぁ……」
最高だった。
自分の手で、あの文也の顔が恐怖で引きつる様を、この目で見た。
長年自分を縛り、怒鳴り、打ちすえ続けた男が、椅子ごと縛られて震えていた。
人生でこれほど晴れやかな瞬間があっただろうか。
やがてスティーガは、歩みを速めた。
まるで子供が軽くスキップをするような、無邪気な足取りで。
そして —— 歌い始めた。
「♪~ ♪~」
聞き覚えのある旋律。
それは修学旅行のキャンプファイヤーで歌わされた合唱曲だった。
あの時は興味も持てず、いやいやながら口を動かしていた記憶がある。
だが今は違う。
こんなにも炎に似合う歌だとは、思いもしなかった。
燃え盛る豪邸を背後に従えながら、無人の街に歌声を響かせ、
スティーガは静かに、夜の闇へと消えていった。