龍騎外伝 仮面ライダースティーガ&王蛇   作:巽★敬

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超能力戦争見てきました


# 02

 

恍惚とした表情で浅倉の逞しい体に顔を埋めていたルリだったが、ふと思い出したように弾かれたようにその体から離れた。

 

「あ、そうだ。お腹空いてますよね? 待ってて下さい。今お食事持ってきますから」

 

弾むような、どこか浮かれた声。キッチンへと背を向けようとする彼女に対し、状況に置いてけぼりにされた浅倉が苛立ちを込めて声を絞り出す。

 

「……おい」

「~♪」

 

だが、ルリはその制止が耳に入っていないかのように、軽やかな足取りでキッチンへ向かってしまう。

 

「おい!」

 

浅倉がもう一度、今度は怒声を荒げたが、ルリは鼻歌でも歌い出しそうな様子で冷蔵庫の扉を開けた。

 

やがて、丁寧にタッパに包まれた厚手のステーキがレンジに入れられ、静かな別荘に解凍の音が響き始める。数分後、食欲をそそる芳醇な肉の香りがリビングまで漂ってきた。

 

「ウチのシェフが作った物です。残り物ですみませんが……どうぞ」

 

ルリが恭しく差し出したのは、残り物という言葉には到底不釣り合いな、高級レストランのメインディッシュそのものの豪華なステーキだった。

 

浅倉は、差し出された皿とルリの顔を、不信感を隠そうともせず怪訝そうに見比べる。バイザー越しではない彼の眼光は、鋭く、鋭利な刃物のようだ。

対するルリは、まるで学校で褒められた子供が親にプレゼントを渡すときのような、純粋でキラキラとした瞳で浅倉の反応を待っている。

 

「大丈夫です。毒なんて入ってません。なんなら……証拠を見せますね」

 

ルリは慣れた手つきでナイフを取り、ステーキの端を小さく切り取ると、迷わず自分の口へと運んだ。咀嚼し、嚥下する。彼女の容態に変化はなく、その瞳にはただ、浅倉への献身的な光だけが宿っていた。

 

浅倉は依然として警戒心を解かないままだったが、胃袋を突き上げる空腹には勝てなかった。フォークを乱暴に突き立て、肉を口に放り込む。

 

「……どうですか?」

 

期待に胸を膨らませて覗き込んでくるルリに対し、浅倉は咀嚼を終えると、吐き捨てるように、しかし否定しきれない事実をぶっきらぼうに漏らした。

 

「……ああ。美味い」

 

その一言が、ルリにとってはどんな宝石よりも輝かしい宝物だった。

 

「よかった……! 他にもありますから、遠慮なく食べて下さい!」

 

ルリは弾けるような笑顔で、言葉を続ける。

彼女の話によれば、屋敷の使用人たちの前では自分が全て完食したかのように振る舞い、その裏でこっそりとタッパに移して、この日のために保管し続けていたのだという。

 

やがて、別荘の重厚なダイニングテーブルには、

場違いなほど豪華な料理が次々と並べられていった。

冷製スープ、フォアグラのパテ、そしてメインのステーキ。

 

本来なら銀食器を使い、しずしずと運ばれるはずの逸品たちが、

今はタッパから移し替えられた不揃いな皿の上で、

暴力的なまでに豊かな香りを放っている。

 

浅倉は、ルリの熱を帯びた視線を浴びながら、無言で料理を口に運び続けた。

実際、逃亡生活の中での彼の「食事」は、

命を繋ぐための泥臭い作業でしかなかった。

道端で盗んだインスタント食品を水で流し込み、食い扶持がない時は河原で捕まえたトカゲを焼き、空腹が極まれば泥を啜ってさえ、生き永らえてきた。

そんな彼にとって、一流シェフが腕を振るった料理は、あまりに「文明」の味がしすぎたが、同時に胃の腑に落ちる熱は確かだった。

 

だが、浅倉は獣そのもの。

餌を与えられたからといって、

喉を鳴らして懐く訳ではない。

ましてや本来敵同士であるライダーとあっては尚更だ。

口の周りを無造作に拭うと、浅倉は空になった皿を睨みつけ、

それから獲物を定めるような冷徹な眼光でルリを射抜いた。

 

「……お前、ホントに何なんだ? 何故こんな真似を?」

 

低く、地這うような声。

殺意の一歩手前にあるようなその問いかけにルリは特に怯える気配が無い。

むしろ待っていましたと言わんばかりに頬を緩めた。

 

「そうですね……不思議に思われても仕方ありません。わかりました、お話しします。私の事を」

 

ルリは椅子に深く腰掛け、自分の細い指先をじっと見つめる。

そして顔に影を落としながら話し始めた。

 

「S・R・O......知ってますよね?」

「知らない奴が居るのか? ガソリン会社だろうが?」

「.........そこの頭取なんですよ。私の父は」

 

                ◆

 

ルリの父、曽川文也(そがわ ふみや)は誰もがその名を知る大手ガソリンメーカー

「ソガワ・ロイヤル・オイル 」通称「S・R・O」の頭取である。

 

彼が頭取になってからの実績は数多い。

石油の採掘(上流)から精製、ガソリンスタンドでの販売(下流)までを一気通貫で自社完結させるシステムを強化。

これにより、外部環境の変化に強い高利益体質を作り上げた。

価格競争に巻き込まれるのを嫌い、SROのガソリンを「高品質・高付加価値」なものとしてブランディングした。

「SROのガソリンを入れることは、愛車を大切にすること」という高級イメージを定着させ、

他社より数円高くても顧客が離れないロイヤリティを築いた。

 

そんな上流な地位の元で育ったルリ。

潤沢な資産、高い社会的地位、そして美しい娘。

世間はルリを「人生の勝ち組」と呼び、羨望の眼差しを向けた。

 

だが家庭という密室の真実は、外からは決して見えない。

 

インターネットが個人の声をそこまで可視化していなかった時代、

名家の重い扉の向こう側は、絶対的な暗部だった。

 

業界で揺るぎない実績を持つ文也は、

典型的な「昭和の権化」とも言える男だった。

 

「そんなこと、言わなくても解るだろ」

 

それが彼の口癖であり、家庭内における憲法だった。

なぜ勉強をしなければならないのか、なぜこの進路を選ばねばならないのか、なぜ将来は父の決めた相手と結婚しなければならないのか。ルリが抱く素朴な疑問に対し、文也は一度として言葉を尽くすことはなかった。

 

実際、彼の口癖は会社経営にも大きく共通している。

部下に対し、言葉を尽くして説明することはせず、結果が出なければ即座に更迭、あるいは閑職へ追いやった。

社員は文也の顔色を常に窺い、彼の意図を先読みして動くこと(忖度)が唯一の生存戦略となっている。

 

2000年代初頭はまだ「コンプライアンス」や「パワハラ」という言葉が一般化する前の時期。

SNSもまだ発展途上な時代、経営陣のパワハラや強引な経営手法が外部に漏れない事は多い。

マスコミもSROのような巨大スポンサーには忖度するので、

文也は「日本を支える名経営者」という仮面を容易に維持できた。

「黙ってついてこい」「石の上にも三年」といった精神論が美徳とされ、

文也の苛烈なやり方も「厳格な指導」として正当化されていたのだ。

 

そんな文也にとって、娘は一人の人間ではなく、

自分の完璧な人生というコレクションに並ぶ「パーツ」の一つに過ぎなかったからだ。

文也は、自分の思う通りにならないものを病的に嫌った。

ルリにとって何が幸せで、何が不幸かは、常に彼という物差しによって一方的に規定された。

 

 

ルリが中学に上がり、環境の変化に戸惑っていた頃の事。

返却された中間テストの結果は、決して「悪い」部類ではなかった。

だが、学年順位が文也の指定した「トップ5」からわずかに漏れたという、ただそれだけの理由で、ルリは冷え切った書斎に呼び出された。

重厚なデスクの向こう側に座る文也は、

成績表をゴミでも見るような目で一瞥し、静かに問い詰める。

 

「……なぜ、この程度の問題もできないんだ?」

 

言葉のナイフがルリの胸を抉る。

 

「少し、体調を崩してて……」

「言い訳か?」

「...............」

 

静かに眉を歪め、圧を含めた文也の声が部屋の空気を重くする。

次の瞬間、文也はデスクを回り込み、ルリの細い頬を全力で横なぐりにした。

 

パァン! と、乾いた、それでいて重い音が室内に響き渡る。

 

衝撃で首が弾かれ、ルリは床に膝をついた。

耳鳴りが鳴り、打たれた頬が焼けるように熱い。

 

「それでも曽川家の娘か? ひと様に恥ずかしいと思わないのか、お前は!」

 

見下ろす父の瞳には、娘への愛など微塵もなかった。

あるのは、自分の完璧なキャリアに泥を塗られたことへの、純粋な苛立ちだけだ。

 

 

これが令和の時代であれば、文也は間違いなく「毒親」や「親ガチャの失敗例」として指弾されていだろう。

視界が滲み、涙が溢れそうになるルリ。

だが彼女は必死で奥歯を噛み締め、それを堪えた。

ここで泣くことは、さらなる地獄を招くことを知っていたからだ。

もし一滴でも涙をこぼせば、「泣けば済むと思っているのか!」「女の武器を使えば許されるとでも思っているのか!」と、さらに執拗な叱責が続くのは目に見えていた。

 

腫れ上がった頬を押さえ、ルリは畳んだ指に爪を立てながら、なす術もなく頭を垂れた。

 

「……はい......申し訳…………ありませんでした……」

「わかればいい。そこに座れ」

 

文也はルリの前に原稿用紙を数枚、叩きつけるように置く。

 

「何が悪かったのか、これからどう立て直すのか。一文字も妥協せず書き上げろ。終わるまで一歩も部屋を出ることは許さん」

 

それから数時間。

窓の外が深い夜に沈んでも、ルリは冷たい床の上でペンを走らせ続けた。

指先が震え、感覚がなくなっても、父が納得する「模範解答」を書き続ける。

その時、ルリの心の中で何かが静かに死に、代わりに黒い空洞が広がっていった。

 

ルリの家庭環境がここまで歪んでしまった背景には、

もう一人の欠落した存在――母の影があった。

 

文也の妻、そしてルリの母であった女性は、数年前に家から姿を消している。

表向きには「病気療養中」あるいは「不慮の失踪」として処理されていたが、真実はもっと卑俗で、救いのないものだった。

 

彼女にとって、文也との結婚は愛ゆえのものではなく、

国内屈指の巨大資本「ソガワ・ロイヤル・オイル」の資産に寄生するための手段だった。

いわゆる「後妻」として入り込み、贅沢の限りを尽くすことだけが目的だった彼女にとって、文也の病的なまでの支配欲と、自分ですら道具として扱う「昭和の鉄の規律」は、計算外の苦痛だった。

 

「これ以上、こんな息の詰まる場所にいたら、私が死んでしまうわ」

 

ある夜、彼女はルリに一言の別れも告げず、

文也の金庫から持ち出せるだけの貴金属と現金を手に、夜逃げ同然に姿を消した。

彼女にとってルリは「文也との繋がりを示す邪魔な証拠」でしかなかったのだ。

 

残された文也の怒りと失望は、凄まじいものだった。

だが、彼は失踪した妻を追うことはしなかった。

そんなことをすれば「一流企業のトップが妻に逃げられた」という、

彼が最も忌み嫌う「恥」を世間に晒すことになるからだ。

 

代わりに行われたのは、残された娘・ルリへのさらなる徹底した「浄化」と「教育」だった。

 

「お前の中には、あの卑しい女の血が流れている。

私が叩き直さなければ、お前もいつか私を裏切るに違いない」

 

文也にとってルリを支配することは、逃げた妻への復讐であり、

自らの完璧な帝国を再構築するための聖戦ですらあった。

 

ルリは、母からは捨てられ、父からは「失敗作の予備軍」として監視される。

そんな日々の中で、ルリは外面だけは「ロイヤル・オイル」の令嬢に相応しい微笑みを貼り付け、

内側では真っ黒な虚無を育てていった。

 

自分は永遠に、この家に支配されて過ごすのだろう....そんな事を考えていた。

 

しかし、やがて彼女の運命を大きく左右する出来事が起きた。

 

 

 

半年前、

まだ夜の空気に冬の鋭さが残る頃。

 

その夜、文也がルリを連れ出したのは、

外資系石油メジャー「グローバル・エネルギー」の日本代表夫妻を招いた、

極めて私的で、政治的な会食の席だった。

 

場所は、ビルの最上階に位置する会員制のフレンチレストラン。

文也は、最高級のシルクをあしらったドレスをルリに着せ、彼女を「自慢の娘」として傍らに置いた。

 

「代表、これが私の娘です。現在は名門の私立に通わせており、将来はロイヤル・オイルの気品を体現する女性になるよう、私が直々に教育しております」

 

文也はワイングラスを揺らしながら、流暢な英語を交えて語る。

彼が求めていたのは、ビジネスの契約だけではない。

「仕事も完璧、家庭も完璧、教育も完璧」という、非の打ち所がない『曽川文也というブランド』に対する、相手からの感嘆と承認だった。

 

ルリは、その横で人形のように微笑み続けていた。

フォークとナイフの角度、スープを口に運ぶ音、相手の言葉に対する相槌のタイミング。

そのすべてが、文也から課された「合格点」をクリアしなければならないのだから。

 

「ルリさん、お父様は素晴らしい方ですね。あなたのようなお嬢さんに育ったことが、その証明だ」

 

代表の言葉に、文也は満足げに目を細める。

だが、そのテーブルの下で、文也はルリの膝を、誰にも見えない力加減で強く、執拗に指で叩いていた。

 

『背筋が2ミリ曲がっている』

 

言葉を使わずとも、その指先の感触だけで文也の「不機嫌」が伝わってくる。

ルリは、刺身のような冷たい汗が背中を流れるのを感じながら、さらに深く、嘘の笑みを顔に貼り付けた。

 

会食が終わり、代表夫妻を見送った瞬間、文也の顔から営業用の仮面が剥がれ落ちた。

 

「……ルリ。三皿目の時、左肘がわずかに浮いた。あの程度のマナーを何時になったら学べる?私の恥を晒すのが、そんなに楽しいか?」

 

地下駐車場へ向かうエレベーターの中、文也の声は冷徹な刃となってルリに降り注ぐ。

先ほどまで「自慢の娘」と呼んでいた口唇は、今はルリを「自分を汚す欠陥品」として罵るために動いていた。

 

文也にとって、社交辞令とは戦場であり、ルリはその戦場における「自分の性能を示す装備品」に過ぎない。結果こそが全て。その結果に至るまでの娘の葛藤や、歩きにくい豪華なドレスでの苦労など、語るに値しない無意味なゴミに過ぎない。

 

「……すみません、お父様。以後、気をつけます」

 

ルリはもう、心に鍵をかけることに慣れていた。

何も感じないように、ただの「パーツ」として淡々と返事を返す。

反射的な謝罪だけが、この男の支配下で波風を立てずに生きる唯一の術だった。

 

自動ドアを抜ける。

高級複合ビルの地下駐車場は、冷たい静寂に支配されていた。

文也は、一流ブランドの革靴の音を無機質に響かせながら、自家用車である最高級セダンへと向かっていた。

その後ろを操り人形のような足取りでついていくルリ。

 

まもなく重厚なセダンが見えてくる。そこへ乗り込めば、また次の「教育」が始まるはずだった。

だが、その夜、曽川文也の完璧なルーティンは、一台の車の前で唐突に遮られた。

 

「……何だ、貴様は?」

 

文也が不快そうに足を止めた。

セダンのフロントグリルに背を預け、地面に堂々と座り込んでいる一人の男。

 

 

浅倉威だった。

 

 

彼がなぜ、こんな場所にいたのか。

そこに深い理由などない。「ここは静かそうだ」と直感が告げた。

ただそれだけの理由で、彼は獣が巣穴で休むようにそこに居座っていた。

 

「…………っ」

 

ルリの全身に、本能的な戦慄が走った。

薄汚れたジャケット。無造作に伸びた髪。

そして何より、周囲の空気を腐食させるような、圧倒的なまでの「獣の気配」。

今まで文也が作り上げた温室内で整えられた人間しか見てこなかったルリにとって、

浅倉は理解の及ばない未知の怪物だった。

 

だが、文也の眼に映るものは違った。

彼は、目の前の男が放つ命の危険を察知するよりも先に、その「身なりの卑しさ」を軽蔑した。

 

「そこをどけ。不潔な浮浪者が……ここは貴様のような人間が入り込んでいい場所ではない!警備員は何をしてるんだ?」

 

文也は吐き捨てるように言い、高級な杖の先で浅倉を払うような仕草を見せた。

自分の「帝国」に迷い込んだ害虫を、言葉の礫で駆除しようとしたのだ。

 

その瞬間、浅倉の肩がピクリと動いた。

ゆっくりと顔を上げた浅倉の瞳には、一切の理性が欠落していた。あるのは、ただ煮え繰り返るような、底なしの不快感。

 

「……あぁ?」

 

地這うような低い声。

文也は、相手が自分の言葉に怯まないことに苛立ちを覚えた。

 

「聞こえなかったのか? そこをどけと言った!下等な人間が、私の車が汚れるだろ!今なら特別に見逃してやるぞ?」

 

文也は、仕事以外はどこまでも愚かな男だった。

常に完璧な数式で世界を支配し、自らが定めた規律こそが万物の理だと信じて疑わなかった彼にとって、目の前に立つ浅倉威という名の「イレギュラー」は、その計算式のどこにも存在しない、理解しがたい怪物だったのだ。

その無知が、浅倉の沸点の低い逆鱗を真っ向から踏み抜いた。

 

文也が次の罵倒を口にしようとした、その刹那。

浅倉の体が野獣のような俊敏さで跳ね、鉄槌のような拳が文也の頬を力の限り殴り飛ばした。

 

「……ッ、がはっ!?」

 

高級なタイルに転がり、血と唾液を吐き散らす文也。彼は何が起きたのか理解できず、動揺に声を震わせた。

 

「き、貴様……何を、しているか分かって……!」

「……お前…………イライラするな?」

 

浅倉の瞳には、交渉の余地も、慈悲の欠片もなかった。

彼はジャケットの陰から隠し持っていた鈍く光る鉄パイプを引き抜くと、倒れ込んだ文也の顔面、そして全身へと、一切の躊躇なくそれを叩きつけた。

激しい金属音が地下駐車場に虚しく反響する。

 

「や、やめろ....痛い!....... 助けて....」

 

あんなに威厳に満ちていた「ソガワ・ロイヤル・オイル」の頭取は、今や見る影もなく、防戦一方のまま地面を這いずり、無様に鳴き声を上げるだけの肉塊に成り下がっていた。

 

バキッ、という嫌な音が鳴るたび、文也の端正だった顔は歪み、どす黒い鮮血がドレスを纏うルリの足元まで流れてくる。

 

「……あ………あぁ…......」

 

ルリは腰を抜かし、冷たいコンクリートに座り込んだまま、声も出せずにいた。

ガタガタと震えながら、ただ眼前の光景を凝視する。

恐怖か、あるいはそれ以上の何かか。

自分の世界を統治していた「絶対神」が、得体の知れない暴力によって紙クズのように破り捨てられていく。その光景が、網膜に焼き付いて離れない。

 

やがて、遠くで異変に気づいた警備員たちが駆けつけてくる怒号が聞こえ始めた。

浅倉は獲物に飽きた獣のように、無造作に鉄パイプを振って血を払うと、ゆっくりと立ち上がった。

 

ふと、浅倉の視線が、床にへたり込んだままのルリに向けられる。

一瞬だけ、二人の視線が交差した。

 

思わず「ひっ.....」と小さな悲鳴を上げるルリ。

 

だが浅倉の瞳は、彼女を「女」とも「子供」とも認識していなかった。

ただの「そこに転がっている石ころ」を見るような、底冷えする無関心しかない。

彼は特に興味を示すこともなく、吐き捨てるように鼻を鳴らすと、警備員たちが到着するよりも早く、闇の奥へと足早に立ち去った。

 

後に残されたのは、激しい脳震盪を起こし、顔を無残に変形させて意識を失った文也の姿だけだ。

 

「…………あ…………」

 

ルリは、立ち去っていく浅倉の背中を、ただただ茫然と見つめた。

 

やがて、目の前で倒れる文也を見て、彼女は有る事に気付く。

自分を縛っていた檻が、粉々に砕け散った事に。

遠ざかる男の背中に、彼女は生まれて初めて「自由」の色彩を見たのだ。

 

 

 

 

曽川文也が受けた暴力の凄惨さは、一命を取り留めたのが奇跡と言えるほどだった。

全身打撲に複雑骨折、そして執拗に狙われた顔面は、

かつての威厳など微塵も留めぬほど無残に腫れ上がり歪んでいた。

即座に入院を余儀なくされた彼は、そのまま深い昏睡状態へと陥った。

 

【大手ガソリンメーカー頭取、地下駐車場で暴行される】

 

その衝撃的な見出しは、瞬く間に世間を震撼させた。

ワイドショーはこの事件をトップで扱い、現場となった高級ビルの警備体制の杜撰さを糾弾し、視聴者へ向けて「正体不明の凶悪犯」への警戒を煽り立てた。

 

警察は、事件の一番の目撃者であるルリにすぐさま聞き込みを開始。

しかし、彼女は犯人の特徴について固く口を閉ざしたままだった。

 

「……よく、覚えていなくて。とにかく……怖くて……」

 

微かに肩を震わせ、力なく首を振る少女の姿に、捜査員たちは「無理もない。酷いショックを受けているのだ」と判断。

これ以上の追及は精神的に危険だと考え、落ち着いてから改めて状況を聞く方針を固め、その日は引き上げた。

 

が、ルリの内心は警察の推測とは全く別の場所にあった。

 

確かにあの瞬間、自分は恐怖を抱いていた。

血の匂いと鉄の音が響く光景はあまりにショッキングだった。

しかし、それ以上にルリの心を占めていたのは、あの「怪物」が不利になる情報など渡したくないという独占欲に近い感情だった。

 

 

警察が去り、静まり返った夜。

ルリは一人、寝室の広大なベッドに仰向けになり、高い天井をじっと見上げていた。

文也の肥大化したプライドを象徴するように無駄に広く作られた邸宅は、今夜、かつてないほどの静寂に包まれている。

 

「いつ以来だろう……こんなに静かな夜……」

 

耳障りな叱責も、完璧を強いる重圧も、冷徹な足音も聞こえない。

こんなにも穏やかで、深く息を吸い込める夜が自分に訪れるなんて、想像もしていなかった。

 

「……あの人の………おかげだ………」

 

暗闇の中でルリの頭を占めているのは、父を蹂躙したあの男の姿ばかりだった。

自分を長年苦しめ、魂を磨り減らしてきた「悪魔」を完膚なきまでに討伐し、名も告げずに去っていった男。

世間がどんなに凶悪犯と呼ぼうとも、ルリの目には、彼は自分を救い出したヒーローのように映っていた。

 

「また……会いたいな…」

 

ルリの唇に、微かな、そして歪な笑みが浮かぶ。

もう一度彼に会いたい。

あの冷たい瞳を間近で見たい。

そして、名前を知りたい。

私の救世主の名前を。

 

少女は祈るように瞳を閉じた。

 

その祈りが、最悪の形で現実の物となるまで、そう時間はかからなかった。

わずか二日後、ニュース番組は速報を流した。

 

【関東一円の暴行犯、殺人容疑で逮捕。浅倉威容疑者】

 

そのテロップがニュース速報として流れた瞬間、ルリは息を呑み、テレビ画面に吸い寄せられるように食い入った。

テレビから流れるアナウンサーの声が、彼女の「ヒーロー」の正体を詳らかにしていく。

 

あの夜、文也を無残に叩き伏せた男 ―― 浅倉威。

彼は単なる暴行魔ではなかった。

文也に接触する数日前、彼はとある女性一人を殺害しており、

凶悪な殺人犯として警察の追っ手から逃走を続けていたのだ。

 

その犠牲者こそが、霧島美穂の姉であった。

 

美穂の姉が命を奪われた際、現場に目撃者は存在しなかった。

しかし、執念に近い警察の捜査網は、浅倉という一人の男を容疑者として浮上させていた。

犯行直後、浅倉は警察の目が向く前に地下迷宮のような都市の死角を転々と移動しており、

その逃走経路の途上で、運悪く(あるいはルリにとっての幸運によって)曽川文也と遭遇したのである。

 

「……あさくら、たけし」

 

ルリはその名前を、甘い毒を味わうように舌の上で転がした。

 

「やっと、名前…………わかった……」

 

ルリの瞳が、熱を帯びて潤んでいく。

彼が誰を殺していようと、どれほど世間に忌み嫌われていようと、今のルリには関係無かった。

むしろ警察という巨大な組織から追われながらも、悠然と自分の「悪魔」を粉砕してみせたその圧倒的な力に、より深い陶酔に似た感覚を覚えたのだった。

 

そして、「浅倉に再び会いたい」というもう一つの願い。

これも直ぐに叶う事となる。

 

初公判の日が決まったのだ。

 

 

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