浅倉威が警察の手に落ちてから、その初公判の幕が上がるまで、三ヶ月の月日を要した。
法廷に姿を現した浅倉は、手錠と腰縄をつけられた身でありながら、まるで王座にでも着くかのような不遜な足取りで証言台へと向かった。その口端には、隠しようのない不敵な笑みが刻まれている。
これまで幾度となく傷害事件を引き起こし、警察のブラックリストにその名を連ねてきた男。だが、「殺人罪」という重罪で起訴され、法の裁きの場に引きずり出されたのは、これが初めてのことであった。
傍聴席は、異様な熱気に包まれていた。
浅倉の暴力によって人生を狂わされた遺族たち、スキャンダラスな結末を期待する野次馬、そして一字一句を逃すまいとペンを走らせる記者たち。
その最前列で、霧島美穂は血の涙を流さんばかりの鬼の形相で、目の前の犯人を睨みつけていた。握りしめた拳は白く震え、復讐の炎がその瞳の奥で激しく爆ぜている。
やがて被告人への審議が始まると、法廷内には氷のような冷気が走った。
浅倉が放つ言葉のすべてが、美穂、そして遺族たちの神経を執拗に逆なでするものだったからだ。
「なぜ、殺したのか」
検察官の問いに対し、浅倉は首を軽く傾け、あくび混じりに言い放つ。
「さぁな……なんとなく。 あの日、たまたまイライラしてた。それ以外何がある?」
その表情には、人ひとりの命を奪ったという重圧など微塵も感じられない。
まるで道端の虫でも踏み潰したかのような、あまりに軽薄で空虚な笑み。
そこにあるのは「反省」などという高尚な概念ではなく、
ただ己の衝動に従っただけの獣の居直りだった。
さらに遺族の逆鱗に触れたのは、弁護席に座る北岡秀一の存在だった。
彼は優雅に書類をめくりながら、その流暢な口調で浅倉を擁護する言葉を並べ立てる。
「被告人は犯行当時、心神耗弱の状態にあった可能性が極めて高く……成育環境に起因する深刻な精神疾患の兆候も見受けられます」
事実を捻じ曲げ、加害者を「病める犠牲者」へとすり替えていく弁護士の術数。
美穂は、吐き気を催すような嫌悪感に襲われた。奪われた姉の命、引き裂かれた日常、それらすべてが、法廷という名の茶番劇の中で泥に塗れていく。
憎悪と、虚無と、そして歪んだ熱狂。
法廷の冷たい空気の中で、それぞれの絶望が音を立てて膨れ上がっていった。
やがて、重苦しい審議が終わりを告げ、裁判官の口から一言一句、判決が下された。
「被告人を、懲役10年に処する」
その瞬間、法廷内には波のようなどよめきが広がった。
人一人の命を、単なる「イライラ」という身勝手な理由で奪っておきながら、
わずか10年の懲役。到底、遺族が納得できるはずもない。美穂は奥歯が砕けんばかりに唇を噛み締め、膝の上で拳を震わせた。姉の命の重さが、法という天秤の上でここまで軽く扱われた事実に、血の涙が出る思いだった。
しかし、この判決に誰よりも納得していない人物が、もう一人いた。
被告人、浅倉威だ。
「………………」
判決を聞いた瞬間、それまでの余裕な態度は一変した。
浅倉の瞳に獣のような凶暴な光が宿り、血走った眼が弁護席の北岡秀一を射抜いた。
「……無罪にできる弁護士じゃなかったのか……?」
低く地を這うような唸り声。
証言台の柵を握る浅倉の手が、みしりと音を立てる。
自分を再び「退屈な檻」へ戻そうとする判決への怒りが、彼の中で一気に沸点に達していた。
だが、北岡はそんな視線を向けられても、欠片ほども動じることはなかった。
彼は呆れたように肩をすくめると、鼻を鳴らして視線を逸らした。
その表情は、不出来な子供をあしらう教師のように冷ややかだった。
「黒を白にする」と言われる敏腕弁護士、北岡秀一。
しかし彼にとっての弁護とはビジネスでもあり、自己プロデュースの一環だ。
浅倉ほど救いようのない凶悪犯を無理に無罪放免にすれば、法曹界での自分のブランドイメージに傷がつく。自分に酔いしれる北岡にとって、この「10年」という判決は、自分の腕の良さを証明しつつ、世間の納得もぎりぎり得られる、最高に「美しい落とし所」だったのである。
そもそもいくら無罪にしようにも、「イライラしたから」などの動機が通用する訳がない。
自分から独房を望んでるのと同義だ。
北岡は、高級なネクタイを整えながら、吐き捨てるように小声で漏らした。
( っは……何言ってんだか。身の程を知りなよ )
その囁きが耳に届いたのか、あるいはその傲慢な態度を本能で察知したのか。
北岡の冷淡な一言が、浅倉の中に渦巻く破壊衝動の起爆スイッチを完全に叩き切った。
「北岡あああああああああああ!!!!!」
鼓膜を突き破らんばかりの咆哮。
浅倉は猛獣の如く吠え、地を蹴った。弁護席に座る北岡の首をねじ切らんと突進するが、側に控えていた数人の刑務官たちが、反射的に彼の巨体に組み付く。
しかし、もはや周りが見えないほどに怒り狂った浅倉を止めるには、法という壁はあまりに脆すぎた。
「どけえッ!」
浅倉は、必死に抑え込む警官の一人を裏拳で殴り飛ばし、もう一人の警官の頭部を岩のような両手で掴み取った。そのまま、逃げ場のない重厚な被告人机に向けて、凄まじい力で叩きつける。
ゴンッ! という生々しい衝撃音が法廷に響き、木片と血飛沫が舞った。
傍聴席の誰もが、目の前で繰り広げられる地獄のような光景に息を呑み、恐怖に身を竦める。
だが、その絶望の静寂を切り裂いたのは、霧島美穂の絶叫だった。
「いい加減にしろよ!!!」
一滴の反省もなく、神聖な法廷をさらなる暴力で汚す男。
その醜悪な生命力に、美穂の堪忍袋の緒がついに弾け飛んだ。
「何でお前なんかに姉ちゃんが! ……お前の方が死んじまえばいいんだ!!」
「うがああああああ!!」
美穂の呪詛に反応し、浅倉はさらに凶暴性を増して彼女へと標的を変える。
襲い掛かろうとする浅倉を、応援に駆けつけた十数人の警備員たちが、まるで巨大な獲物を仕留めるかのように圧し掛かって取り押さえていく。
美穂もまた、怒りで我を忘れ、柵を乗り越えて浅倉の喉笛を掻き切らんと飛び掛かろうとした。
「離せ! 法が役立たずなら、私がアイツを殺してやる! 離せぇぇ!!」
彼女もまた周囲の人間が必死に宥め取り押さえられる。
裁判官の放つ「静粛に!」という木槌の音も、もはや誰の耳にも届かない。
怒号と、悲鳴と、肉体のぶつかり合う音。
神聖であるはずの法廷は、浅倉威という一人の男が存在するだけで、原始的な闘技場へと成り果てていた。
浅倉は尚も、獣の唸り声にも似た怒号を上げながら、大勢の警官に引きずられるようにして法廷を後にする。
もはや真面目な審議など不可能な、文字通りの壊滅。
そんな騒乱の極致にあって、ただ一人。
傍聴席の最深部で、微動だにせず、静かに座り続ける少女がいた。
ルリだ。
彼女はずっと喪服のような漆黒のドレスに身を包み、
浅倉の事をずっと見つめていたのだ。
瞬きすら惜しむように。
(……あれが……浅倉さん……)
小さく、熱を孕んだ呟き。
その顔には、父を廃人に追い込んだ罪人への憎しみなど、微塵も存在しない。
まるで、何百年も前から約束されていた「運命の人」にようやく巡り会えたかのように。
カオスに染まった法廷の中で、ルリの瞳だけが、美しく、そして不気味なほど純粋に輝いている。
父のように小綺麗で、欺瞞に満ちた理屈を盾にしない。
法律、社会、警察という巨大な権力組織を、紙屑のように踏みにじる傍若無人な振る舞い。
浅倉威という、これまでの人生で出会うことのなかった種類の人間に、
ルリは完全に心を奪われていた。
世間が彼をどれほど「凶悪犯」と罵り、石を投げようとも、自分だけは彼の孤独な牙のそばに寄り添いたい。その狂おしいまでの熱情が、彼女の心を隙間なく埋め尽くす。
初公判の熱気が冷めぬうちから、ルリは何度も浅倉への面会を画策した。
しかし一介の中学生が単身で拘置所を訪れ、殺人犯と対面するなど現実にはほぼ不可能。
保護者の同行を求められても、意識なく病院のベッドで固定されてる父と対面するなど論外だ。
あんな男の顔等見たくも無い。
当然見舞いなど一度も行った事が無い。
周囲の使用人たちは、ルリの行動を必死になって遮った。
「お嬢様、あのような恐ろしい男に会うなど、正気の沙汰ではありません」
それは一見、子供を守るための大人として当然の対応に見えたが、その根底には卑しい「保身」が透けて見えていた。
文也がたとえ昏睡状態であっても、万が一「娘が加害者に会いに行った」という情報が彼の耳に届きでもしたら。その時、管理責任を問われた彼らがどんな仕打ちを受けるか、想像するだけで震え上がるのだ。
彼らもまた、父の支配という檻の中で、曽川家に仕えることだけが人生の誇りであると思い込まされている――洗脳に近い隷属状態。
そんな哀れな大人たちを、ルリは今更責める気にもなれなかった。
手紙を送ると言う案もあったが、匿名で手紙を届ける事も出来ない。
それでも諦めきれず、ルリは直接拘置所へ電話をかけ、受話器を握りしめて面会を懇願した。
だが、返ってきたのは冷淡な拒絶だった。
【浅倉被告は非常に情緒が不安定でしてね。誰かを殴るか、自分が殴られるかしないと気が済まない男です。
相手がいない時は、狂ったように自らの額を壁に叩きつけ、自傷行為に走る。そんな危険人物に、被害者のご令嬢を会わせる訳にはいきませんよ】
多大なストレスを、トラウマを、恐怖を。
職員は良識ある言葉でルリを守ろうとするが、その言葉一つひとつが、
ルリには自分と彼を隔てる分厚い壁のように感じられた。
ツーーー……という虚しい切断音を聞きながら、
ルリは自分の部屋で受話器を置き、膝を抱えた。
(どうして……? どうして、『ありがとう』の一言も言わせてもらえないの……?)
広すぎる屋敷。静まり返った廊下。
自分の無力さに悲観し、唇を噛みしめる。
だが、この「何もできない」という絶望の淵に立たされた時。
彼女に転機が訪れる。
初公判から半月が過ぎた頃。
沈殿していたルリの日常に、爆弾が投げ込まれたような衝撃が走った。
テレビの臨時ニュースが、信じがたい事実を告げたのだ。
――浅倉威被告、厳重な警備を誇る拘置所から脱獄。
画面に映し出されるアナウンサーの困惑した表情、騒然とする現場の様子。
ルリは、震える手でリモコンを握りしめたまま、そのニュースに釘付けになった。
どんな方法で脱獄なんて成し遂げたのか、ルリには想像もつかない。
だが、彼女が感じたのは恐怖ではなく、魂が震えるほどの歓喜だった。
同時に焦燥が彼女を突き動かす。
「今しかない……彼がまた捕まってしまう前に、何としても……」
それからルリは、取り憑かれたように街へ繰り出した。
学校が終わるやいなや、重い通学鞄を抱えたまま、浅倉が潜んでいそうな場所を求めて彷徨い歩いた。人通りの途絶えたガード下、廃墟のようなビル、泥臭い河川敷。
かつての「令嬢」としての暮らしでは決して足を踏み入れなかった路地裏を、泥に汚れながら探し回る日々。おかげで、彼女はこの街の入り組んだ構造に、かなり詳しくなった。
だが、それでも浅倉を見つけることはできなかった。
相手は、国家を敵に回して逃げ続けている脱獄犯。
表舞台に出ようとしないのは当然であり、警察組織ですら足取りを掴めない人物を、一人の少女が先に見つけ出すのは、あまりに無謀で難易度が高すぎた。
「……どこにいるの……浅倉さん」
夕暮れに染まる駅の歩道橋の上で、ルリは荒い息をつきながら、行き交う人々を見下ろした。
誰にも見つからず、どこにも属さず、ただ破壊の衝動だけを抱えて闇に潜む獣。
その時、ルリはふと、目の前の自動販売機のガラスに映る、自分の「虚ろな瞳」と目が合った。
どれだけ歩いても、どれだけ願っても、現実の世界では彼に届かない。
脱獄の衝撃から立ち直る間もなく、テレビはさらなる衝撃的な続報を届けた。
「指名手配中の脱獄犯・浅倉威、逃走中に事故死か」
ニュースの映像には、無残にひしゃげ、黒煙を上げる車の残骸が映し出されていた。盗んだ車で逃走中、ハンドル操作を誤り橋から転落。激突の衝撃とともに車は爆発し、濁流に消えた。
「遺体はまだ確認されていませんが、この状況での生存は絶望的です」
冷淡なアナウンサーの声が、事件の「幕引き」を告げる。
しかし、ルリだけは違った。そのニュースを見つめる彼女の瞳には、絶望の涙など一滴も浮かんでいなかった。
根拠などない。
ただ、自分の魂を救ったあの「怪物」が、
そんなつまらない事故で消えるはずがないという、狂信に近い確信があった。
(嘘よ……あの人は死んでない。こんな簡単に死ぬ訳ない)
事実、それは浅倉が警察の追跡を振り切るために仕組んだ、稚拙ながらも大胆な偽装工作だった。
ルリは彼の生存を信じ、捜索の熱をさらに高めていった。
学校が終わると図書館に籠もり、埃っぽい空気の中で過去の新聞記事を片端から読み漁る。
浅倉威という男の出生、凄惨な経歴、そして崩壊した家族構成――。
彼を形作るすべての破片を集め、その心の在り処を突き止めようとした。
それでも、彼には届かない。
現実の街も、紙の上の記録も、浅倉威という名の「嵐」を捉え続けるにはあまりに脆すぎた。
その夜。
ルリは暗い自室で、一人、テレビの画面を見つめていた。
映っているのは、録画したワイドショーの静止画。法廷で暴れる浅倉の、あの狂気に満ちた、美しく猛々しい横顔。
「会いたい……会いたいよ……浅倉さん……」
ルリは震える指先で、テレビ画面の中の、彼の頬にそっと触れた。
会って、お礼を言いたい。父から私を救ってくれたように、今度は私が、社会から貴方を守ってあげたい。
静かな部屋に、ルリの寂しげな独白が溶けて消える。
その時だった。
『――浅倉威に会いたいか?』
「っ!!?」
心臓が跳ね上がり、全身の血が逆流するような衝撃。
ルリは悲鳴を飲み込みながら、弾かれたように後ろを振り返った。
鍵をかけていたはずの、自分一人しか居ない筈の部屋。
その中央に、いつの間にか一人の「男」が立っていた。
長いコートを纏い、鷹のように鋭く、冷徹な光を湛えた瞳で静かにルリを見下ろす男。
彼から発せられる空気は、生身の人間というよりも、
鏡の表面のように冷たく、無機質である。
神崎士郎が、そこにいた。