これ、かくとぞ聞きし。
私はこういう話を聞いた。
今は昔、はるかなる後の世より来にける女ありけり。
今は昔、はるかな未来からやって来てしまった女がいた。
女、後の世に思ふ人を残して来にけり。
その女は、未来に愛する人を残してきてしまったのだった。
行くへなくあり渡るとも、後の世に至りて、またその人に逢はむとぞ願ひをる。
行くあてもなく古の時代から生き続けていたが、いつか未来でもう一度その人に会いたいと、強く願っていた。
京にありければ、音羽川の水を
都に住むようになってから、音羽川の水を引き込んだ別荘で琵琶を弾いたり歌を詠んだりして暮らしている雅な友人が一人できた。
世の人、枇杷中納言となむいひける。
世間の人はその人を「枇杷中納言」と呼んでいた。
ある時、枇杷中納言、西四条斎宮にて榊の枝にさしておきける歌をおぼしいでて、女に聞かせけり。
ある時、枇杷中納言は、自身が西四条斎宮で榊の枝に添えておいてきた歌を思い出し、女に聞かせた。
伊勢の海の千尋の浜に拾ふとも今は何てふかひがあるべき
どれほど広い伊勢の浜で探し回っても、もう価値のあるものなど見つかるはずがない──失われたものは、もう取り戻せないのではないか
聞きて女、しばしはもの言ひ遣れぬさまにて、返しにもおよばざりけり。
それを聞いた女は、しばらくは何も言えないようすで、返事もすぐにはできなかった。
ややありて、涙のたへがたきをおさふるが如く
やがて、こらえきれない涙を押しとどめるように
貝拾ふ千尋の浜に寄る波に濡れてを待たむ幾代経ぬとも
貝を拾う広い広い浜に寄せる波に濡れながら、涙に濡れながらでもずっと待つのです──たとえどれほどの年月が過ぎようとも
とわななき詠みて返しけり。
と、震えた声でそう詠んだ。
枇杷中納言、このさまをおぼえなく見つるに、いささか慌つ。
枇杷中納言は、思いがけないその様子を見て、少し慌てた。
げに歌さへあはれ、心苦しとや思ひけむ。
歌の切なさに、胸が締めつけられる思いがしたのだろうか。
また枇杷中納言、
そして枇杷中納言は、
物思ふと過ぐる月日も知らぬまに今年は今日に果てぬとか聞く
物思いにふけっているうちに月日の流れにも気づかず、気がつけば今年も今日で終わりだと聞く──人の時間はあまりに早く過ぎてしまう
しかうして、我は命短き族なれば、いかでかあらむずらむ。そこの願いの満つを見る方なしといひけり。
そして、自分は短命な一族の生まれだから、どうしてよいものか。あなたの願いが叶うところを、見る術はないのだ、と言った。
女、
それに対して女は、
なよ竹の長き
なよ竹の長い
詠みて、またいひけるに、ただひとたびの世にあればこそ、花の咲きては散るがごとく美しけれ。まいて、我忘れじ。後の世の人に種々おぼし語らむ。
そう詠んで、そしてさらに、「人の命は一度きりだからこそ、咲いては散る花ように美しい。だから、忘れない。そして未来であの人に、いろいろな思い出を話そうと思う」と言った。
枇杷中納言、うち赤みたる目見のわたりに袖押しあてつつ、そこの思ふ人は、いかなる人ならむ。といひけり。
枇杷中納言は、少し赤くなった目元を袖で押さえながら「あなたが思っているその人とは、どんな人なのだろう」と言った。
女の歌どもを聞きて、ふとゆかしがりけむ。
女が詠んだ歌たちを聞いて、ふと知りたくなったのだろうか。
女、世と共に心のうちに耀ふて、我をさるべき方にみちびき給ふ。たとへば北辰の星、中天の月ならむ。とやさしがりつつこたへけるとや。
女は、「いつもいつでも、絶えることなく私の心の中で輝いて、私をゴールまで導いてくれる存在。たとえるなら、北の空で輝いて旅人に道を示す北極星、空の真ん中で輝いて足元を照らす月のようなもの──」と答えたという。
この女、今も世のいづくかにありわたるとか。
この女は、今もこの世のどこかで生きつづけているということだ。
往時の五条大橋を思わせる橋のたもとに一人の男が立っていた。
ファンタジックにアレンジした和装の人々が行き交うこの街では少し珍しい、正統なデザインの狩衣をまとった男だ。
年の頃は十代後半。
すっきりとした鼻筋、薄く形の良い唇。理知的な光をたたえつつも、柔和な眼差し。
ともすれば女性と見まがうような美青年である。
ゆったりとした大きな袖が彼の身じろぎに合わせて揺れる。
袖口に通されている薄藤色の緒が、常夜の街の煌めく灯りを宿して、ほのかに発光しているようにも見えた。
遠くの空を光の粒のようなネオンカラーの魚が群れをなして泳いでいる。
ゆるやかに空を巡るその群れの中からは、やさしく澄んだ歌声が響く。
その光の下に集った人々の熱量は、街の賑わいの中心から離れた所にいる彼にまで届くようだ。
響く歌声に身をゆだねながら、彼が呟く。
「……貴女に、ハッピーエンドが訪れますように」
弦楽器をそっと爪弾いたような声が、ツクヨミの空にほどけていった。
夜の闇などものともしない東京の街明かりを下に眺めるマンションの一室。
花瓶に生けられた花や、さりげなく壁にかけられたシンプルな絵画。
マグカップやキャニスター缶が並べられたキッチン脇の棚。
部屋の一隅には良く手入れされた飴色のアコギがスタンドに立てられている。
そんな“丁寧な暮らし”という言葉がふさわしい室内において、一際異彩を放っているユニットタイプの防音室の扉が、ガチャ、と音を立てて開いた。
軽やかな足取りで防音室から出てきた男が、鼻歌まじりにキャニスター缶を手に取り、コーヒーサイフォンのアルコールランプに火を灯す。
ほのかに揺らぐ火を眺めながら、コリコリと小気味の良い音を立てて豆を挽く。
フラスコの水がコポコポと沸きはじめる。
とたん、甘やかなコーヒーの香りが部屋に満ちた。
テーブルに積み上げられた参考書やノートを押しやって、淹れたばかりのコーヒーを置くと、彼は傍らのソファーに深く座り込む。
適当に退かされた参考書は、どれもこれも理数系科目の物ばかり。
文系科目はわざわざ勉強するまでもない成績だ。
とくに古典の理解は教師が舌を巻くほどだった。
それもそのはず。
歌詞に古語を交えた和風ロックを引っ提げて、彗星のごとくツクヨミに現れたアーティスト
年齢も経歴も明かさないその正体は彼──本名、
チャイムが鳴る少し前、教室のざわめきがゆるやかに一つにまとまっていく。
敦嗣は自分の席に鞄を置き、椅子を引いた。手に触れるひんやりとした感触が心地よい。
「おはよ、海藤」
前の席のクラスメイトが、眠そうな目で半身をこちらに向ける。
「おはよう」
「一限から古典だってよ……マジだる。寝そう」
「そうか?」
「そうか? じゃねーよ。お前、なんでそんな平気なんだよ」
敦嗣は小さく肩をすくめた。
「慣れてるだけだ」
「慣れてるって、意味わかんねーんだけど」
クラスメイトが呆れたように笑う。敦嗣も、つられて口元を緩めた。
──慣れてる。他に何と言えばいい?
授業が始まると、教師が古文の文章を黒板に書き連ねた。
「この辺、有名だから知ってるやつも多いだろ。軽く文法もやるからな」
「出たよ、文法……」
前の席から聞こえるため息に、敦嗣は思わず小さく笑いそうになった。
「じゃあここ、海藤。読んでみろ」
「はい」
立ち上がると、自然に言葉が流れ出す。
古語はまるで歌うように口をついて出た。抑揚を効かせてはっきりと。
読み終えると、教師が満足げに頷いた。
「うん、いいな。じゃあこの“けり”は何の用法だ?」
「詠嘆です。気づきのニュアンスで」
「そうだな。よくわかってる」
席に戻ると、後ろの席から小声が飛んできた。
「海藤さ、読むのうますぎじゃね?」
「マジで。なんか雰囲気出てたわ」
「声がいいんだよな、多分」
敦嗣は振り返らず、軽く肩をすくめた。
「普通だろ」
「いやマジで。朗読配信とかやれそう」
「やらないって」
「えー、もったいねー」
小さな笑いが教室の後ろの方に広がった。つい口元が緩む。
──声がいい、か。
ツクヨミでは、その声を武器に歌っているというのに。ここではただの海藤敦嗣でしかない。クラスメイトとの絶妙な距離感。それには、妙な心地よさもあった。
昼休み。購買のパン袋を開ける音と、机を寄せる音が混ざり合う。
教室の隅でパンをかじっていると、にぎやかな声が聞こえてきた。
「ねえ、今日の夜またツクヨミ行く?」
「当然!
「マジ!? 絶対行くわ」
「人の数ヤバそうじゃね?」
敦嗣は横目でちらりと見た。みんな楽しげに目を輝かせている。
自分の名前が、こんな風に飛び交っていることに対する実感は薄い。
それでも、胸の奥が少しだけくすぐったいような気がした。
「そういや、海藤とあっちで会ったことないよな?」
「ツクヨミ?」
「そうそう。もしかして行ったことない? 海藤、ハマりそうじゃん。和風なものとか好きそうだし」
パンの袋をワシワシと丸めながら、敦嗣は軽く首を振った。
「見る専なら、たまにな」
「えー意外。なんか作る側っぽいのに」
「そんなに器用じゃないよ」
「絶対嘘だろそれー」
笑い声が返ってくる。その輪に、軽く混ざっている感じが悪くなかった。
午後の授業は、窓の外の青い空とゆっくり動く雲が、眠気を誘う。
敦嗣はあくびを噛み殺し、軽く背伸びをした。
隣のクラスメイトが小声で囁く。
「眠そうじゃん。ヤチヨのライブ見て夜更かし?」
「まさか。まあ、見てはいたけど」
小さく笑い合って、再びノートに目を落とした。
放課後。
「海藤、今日寄り道する?」
「いや、帰る」
「たまには遊び行こうぜ」
「また今度な。今日は用事がある」
手を振って別れ、廊下を歩き出す。西に傾きだした強い陽光が、床に影を落としていた。
ポケットの中で、スマコンをそっと指でなぞる。
(……今日は、どうするかな)
昼休みの会話が頭をよぎる。人が多いとか、賑やかだとか。
光の魚が泳ぐ空の下で、
ふと、昨晩の自分が呟いた言葉が蘇った。
『……貴女に、ハッピーエンドが訪れますように』
急いでいるわけではないのに、靴先が軽く地面で弾む。
階段を降りながら、敦嗣は小さく息を吐いた。