スマホの画面に一人の少女が映っている。
麗しい絹糸を束ねたような
その完璧に整った容貌は、優しさも気高さも可憐さも併せ持った、まさにこの世の尊さの顕れとでもいうべきで──つまりは月見ヤチヨが、スマホの中にいた。
『えへへ、びっくりした?』
画面の中で、ヤチヨがぶんぶんと手を振る。
スマホのスピーカーから流れる声は、配信越しに聞くそれよりもずっと近い。夏の昼下がり、冷房の音が静かに響く部屋の中で、敦嗣は机に頬杖をついたまま小さく息を吐いた。
『いや反応うっす』
お互い正体を明かしてから、時おりヤチヨが敦嗣のスマホやPCに現れるようになっていた。出現タイミングに規則性はない。動画を見ていようが、宿題をしていようが、深夜にぼんやり音楽を流していようが、お構いなしだ。 本人は「会いに来ちゃった♪」くらいの軽さなのだが、される側としては心臓に悪い。
とはいえ、人間というのは慣れる生き物で。今では、突然画面の中から話しかけられても驚くより先に「ああ来たのか。今日は何の用だろう」と考えるようになっていた。
「さすがにもう慣れた」
敦嗣は椅子へ深く腰掛けたまま、適当に応える。
ヤチヨが不満そうに頬を膨らませた。
『話題のライブも間近に迫った、超人気ライバーが会いに来てるのに~』
「練習というか準備は?」
『滞りなく。……まぁ、ヤチヨもただただ誰かと喋りたくなる日があるのです』
「配信すればいいだろ」
『配信は別物だからね~』
こういう時のヤチヨは、たいてい理由を聞いてもまともに答えない。ただ、雰囲気から何となく察するものはあった。ようするに、誰かの声を求めているのだろう。
けれど、それを口にするほど野暮ではない。
「ま、ここで油売ってる余裕があるならいいけど」
『さぁさぁ寄ってらっしゃい見てらっしゃい!』
どこからともなく扇子を取り出して、ヤチヨが突然立ち上がった。反対の手には、四角い孔の開いた古銭……というか“ふじゅ~”を摘まんでいる。
「待て」
『待たぬ』
ぱんっ。
小気味よい音とともに扇子を広げたヤチヨが、“ふじゅ~”を高々と掲げた。
『この油、この銭の穴を通しても一滴たりとも無駄にはしません! さあ見ておくんなまし!』
まるで大道芸人か露天商の口上だ。
「どこからその芸を仕入れてきた」
『道三! 成り上がるためには必要だからね』
ヤチヨはしたり顔で頷く。たぶん本人の中では、油売りから道三の国取りまで綺麗に繋がっているのだろう。
返ってくる答えはだいたい予想できていたが、一応確認することにした。
「何を目指してるんだ」
『国取り』
一切の迷いもなく即答だった。一秒たりとも考えていない。おそらく最初からそこに着地するつもりだったのだろう。
「もうトップライバーだろうに」
『いやぁ~乱世乱世!』
扇子をぱたぱたと振りながら、ヤチヨは楽しそうに笑っている。どうやら油売りはこれで終幕らしい。
扇子をスッと仕舞いこむ。今度は身を乗り出して画面いっぱいに顔を寄せてきたかと思えば、ころころと姿勢を変え、こちらの部屋を覗き込むように視線を巡らせている。さっきまで油売りをしていたとは思えない切り替えの早さだ。
『勉強中?』
「夏休みの宿題やってる」
『えらえらだ~』
「別に、偉くはないだろ」
『夏休みの昼は概念的に深夜だとヤッチョは思うんだよね』
「また妙なことを……」
敦嗣はシャーペンをくるりと指先で回す。
解きかけの問題集、開きっぱなしのノート、飲みかけの麦茶。だらけ切った夏休みの空気が、部屋のあちこちに沈殿していた。
けらけら笑いながら語るヤチヨの意味不明な理論を半ば聞き流しつつ、机の上に散らばったプリントを適当に脇へ寄せた。紙が擦れる乾いた音が小さく部屋に響く。
ヤチヨは相変わらず画面の向こうで落ち着きなく視線を巡らせていたが、ふと、その動きが止まり、何かに気づいたように目を瞬かせた。その視線の先には、机上に積まれた教科書と資料集があった。
『あ、歴史の資料集だ』
ヤチヨが声を弾ませる。さっきまでゆるゆる雑談モードだった瞳をきらめかせ、画面の向こうでぐいっと身を乗り出す。その反応だけで興味津々なのが伝わってきた。
『見せて見せて』
「何で」
『いーじゃん、見たい』
「子供か」
『八千歳のお姉さんですけど~?』
「はいはい」
敦嗣は面倒そうにしながらも、資料集を手に取って適当にページをめくる。紙の擦れる音。色鮮やかな写真や絵図。ヤチヨは画面の向こうで目を輝かせた。
『うわ懐かし~。縄文人と魚とったの思いだすなぁ。この頃なんてまだお米無いのにさ、お寿司握りたくなったんだよね』
「それ昔も聞いたけど、多分その頃の人類、かぐやのこと神霊か何かだと思ってるぞ」
敦嗣が呆れ混じりに言うと、ヤチヨは「えへへ」と悪びれもなく笑った。
『いつだっけかな、西の方角行っときゃ余裕で解決! みたいなこと言ったんだよね。そしたら、海の向こうまで行くって話になって。たしかにあっち行けば大陸あるし、グローバル化もいいかな~って──』
「歴史学会の人間が聞いたら頭抱えるぞ……」
敦嗣は額を押さえながら息を吐く。
ヤチヨは気づいていないみたいに、そのままページを眺め続ける。
『あっ、これ覚えてる!』
「何だ」
『この将軍、めちゃくちゃ字きれいだった』
「知らん情報飛んできたな」
『この人も知ってる!』
ヤチヨが資料集のページを指差して言う。
敦嗣が目を向けると、東山文化のページだった。水墨画や銀閣寺の写真、その隣に、一人の僧侶の肖像画が載っている。
「……一休宗純か」
『そそ。一休さん。かなり変な人だったよ?』
「まあ、破戒僧というか、型破りで自由奔放だったらしいな。会ったことあるのか」
『ヤチヨは説法リアタイ勢なのです。……偉ぶったお坊さんとか、清廉ぶった人とか、そういう正しさはあんまり信じてなくて。情けなくても欲まみれでも、それが人間だろって感じ。偉そうなこと言うより、苦しいよねぇ、人間だもんねぇって認めて、それでも笑うタイプだったかな』
その声が少し柔らかくなる。
『人間らしくて、ちょっと好きだったなぁ』
ヤチヨは資料集を覗き込みながら、どこか懐かしそうに目を細める。そこに載っている肖像画の一休宗純は、どこか飄々として見えた。
『──あと、めっっちゃ頭よかった』
「急にIQの話」
ヤチヨはくすくす笑いながら、懐かしそうに続ける。
『蓮如さんいるじゃん。本願寺の』
「浄土真宗中興の祖って言われてるあの?」
『うん。その人と仲良かったんだけどね。ある日、一休さんが蓮如さんの部屋に勝手に上がり込んでさ』
「嫌な予感しかしないな……」
『留守だったんだけど、部屋に置いてあった仏像見つけて。おっ、ちょうどいい枕あんじゃんって』
「待った」
『そのまま頭乗せて昼寝した』
「最悪だろ」
敦嗣が即座に突っ込む。ヤチヨは堪えきれないみたいに笑い出す。
『で、帰ってきた蓮如さんが、お前、俺の商売道具に何してんだ! って』
「商売道具って言ったのか……?」
『言った言った。笑いながら*1』
「そこ怒るとこじゃないのかよ」
『いや、一応怒ってはいたよ? お前の頭の脂で汚れたらどうするって』
その怒り方もずれている気がするが、それでいいのだろうか。
『そしたら一休さん、蓮は泥中に在りて潔し、俺の脂程度で汚れん汚れん。それに、疲れた坊主が一人、仏に救われた。なんて言ってさ』
ヤチヨは口調を真似るみたいに、わざとそれっぽく言う。
『蓮如さん、一瞬ぽかんとしてたんだけど、次の瞬間めちゃくちゃ笑い出すの。お前はほんと口が回るな! って』
ヤチヨは楽しそうに肩を揺らす。
『そんで一休さん、してやったり、みたいな顔してた』
ころころと表情を変えて語るヤチヨ。
敦嗣は呆れ半分のまま資料集を閉じかけて、ふと手を止める。
画面の向こうでは、ヤチヨがまだ楽しそうに笑っていた。まるで昨日の出来事でも思い返しているみたいに。
『ねえねえ、ヤッチョ歴史の先生とかやってみたいかも』
「……は?」
『絶対得意だよ? 日本史全部リアタイ勢だし。ここテスト出まーすって言いながら、ここで歴史が動きますが、当人たちは割と勢いで喋ってました、とか補足するの!』
「絶対いらん情報だな」
『この頃の朝廷、空気最悪でした、とかも言えるよ』
敦嗣が半眼になる。ヤチヨは楽しそうにくすくす笑った。
『楽しそうじゃない?』
スマホの中で、ヤチヨは身振りを交えながら続ける。
『実際は教科書みたいに整ってなくて、もっとぐちゃぐちゃだったし。みんな普通に悩むし。暑いなーとか、眠いなーとか、明日どうしよっかなーとか。恋したり、失敗したり、どうでもいいことで笑ったり怒ったり』
「まあ、人間だからな」
『そうそう! みんな、ちゃんと生活してたんだよ。一休さんだって昼寝するし』
「仏像を枕に?」
『あれは芸術点高かった』
「褒めるな」
『何かさ、○○時代の一言で片付けて、昔の人って括りで遠い存在になるの、ちょっと寂しいなって思うんだよねぇ』
ヤチヨは資料集のページを見つめたまま、ぽつりと続けた。
『みんな今と地続きなのにね』
その感覚は少しわかる気がした。
教科書や資料集の中では、人は簡単に括られる。
太字で記された時代の名前。貴族。僧侶。武将。
その誰もが、夏の暑さに辟易し、眠気に欠伸を噛み殺し、どうでもいいことで笑い、時に怒っていたのだろう。
そして、自分もまた。 本来なら歴史の側へ押し込められているはずの存在だった。
それが千年あまりの時を経た今、こうして生きている。スマホを触って、夏休みの宿題をやって。今はただの高校生としてここにいる。
「……ヤチヨの授業なら、楽しいだろうけど脱線しすぎるだろうな」
面越しの沈黙。冷房の送風音が微かに聞こえる。
本人もその様子が容易に想像できたのか、ヤチヨはううん、と唸りながら腕を組む。
『やっぱ脱線したらだめかな?』
「授業としてはだめなんじゃないか?」
『でもでも、戦国武将の恋愛事情とか盛り上がるくない!?』
次の瞬間には、もうぱっと顔を上げている。ころりころりと話題も表情も転がっていく。
「一部で異常に人気出そうではある。かといって授業でする話では……」
『えぇ~? 絶対みんな好きだって~』
「そういう話は配信でやればいいだろ」
不服そうに頬を膨らませながらも、画面越しに資料集を覗き込んでヤチヨは喋り続ける。まるで、長い長い旅の途中で拾い集めた宝物を、誰かに見せているように。
気づけば、資料集を開いてからかなりの時間が経っている。普通なら、そろそろ切り上げてもいい頃だ。
コラボライブは目前。
本人が言うように、準備が順調だったとしてもやるべきことが何もないわけではないだろう。
けれどヤチヨは帰ろうとしなかった。
話題が尽きれば別の話題を拾い、一区切りつけばまた別の思い出を引っ張り出してくる。
そうして喋っている間だけは、何かを忘れられるみたいに。
「でさ──」
ヤチヨがまた新しい話を始める。敦嗣は小さく息を吐いた。
何かあったのか、なんて訊いたところで、きっとはぐらかされるだろうし、そもそも訊かれたくもないだろう。
敦嗣はただ相槌を打ちながら、画面の向こうで楽しそうに喋り続けるヤチヨの声を聞いていた。