放課後の校舎は、昼間とは別の顔を見せていた。
ざわめきはあるのにどこか間延びしていて、笑い声も足音も少しだけ遠く聞こえるように感じる。
敦嗣は階段をゆっくり降りながら、ポケットの中のスマコンを指でそっと撫でた。
(……昨日は、少しやりすぎたかもしれない)
ツクヨミでの光景が、ふと鮮やかに脳裏に蘇る。
熱を帯びた手拍子、歓声が重なり合う空気。そして、あの涼やかな声。
『お見事~』
思わず目を細めた。
(まあ……怒られてはいないから、よし)
小さく息を吐いたそのとき、上の階から慌ただしい足音が駆け下りてきた。
三人組の女子生徒が、息を切らして横をすり抜けていく。
そのうちの一人がちらりとこちらに視線を向けた。
視線が、ほんの一瞬だけ絡む。すぐに逸らされた。
酒寄彩葉。
名前は知っている。成績上位者の名前くらいは、自然と耳に入るものだ。
才色兼備で、文武両道。授業中の発言はいつも的確で、教師からの信頼も厚い。
──表向きそれだけの認識だ。
「ほら行くよ~彩葉」
「うん、今行く」
友達に呼ばれ、彼女は足を止めずに応じた。
その声が階段に残響を残して消えた。
校門を出ると、西に傾きはじめた陽光が強い輝きを残したまま街を照らしていた。夏休みを目前に控えたこの時期特有の、眩しさと蒸し暑さが混じり合った光がアスファルトで白く照り返している。
街路樹の緑はすでに深く濃く、葉の裏側に重々しく影を落としていた。風が運んでくる空気には、じっとりと湿った熱が含まれていて、制服のシャツが背中に張りつく感触が、夏の入り口など疾うに踏み越えていたことを実感させる。
まだ終業式まで数日あるというのに、街全体を彩った夏が、どこか浮ついたような解放の気配を感じさせた。
人の流れに身を任せ、敦嗣はゆっくりと歩き出す。
周囲の生徒たちはすでに夏休みの計画をあれこれ話しながら帰路についているようで、笑い声も少し弾んでいるように聞こえた。
(……しばらくライブはやらなくてもいいか)
無理にしなくてもいい。そういう時もある。
やりたくないのにやるライブなど、ファンも見たくはないだろう。
それに、想定の範囲内だったとはいえ、昨日は人が集まり過ぎた気もする。ヤチヨが現れたのは、きっとそういうことなのだろう。
ポケットの中のスマコンを軽く指で弾きながら、敦嗣は小さく息を吐いた。
家に帰り着くと、いつものように鞄をソファーに放り、軽く肩を回した。
制服を脱いで、ラフなTシャツに着替えると、わずかに汗ばんだ肌に室内の空気が心地よく触れる。
そのままキッチンへ向かい、棚に並んだキャニスター缶を眺める。
今日はバランスの良いブラジル豆の気分だった。
豆を挽く小気味の良い音が、静かな部屋に響く。
アルコールランプに火を灯し、サイフォンに目を落とす。ゆらめく炎を見つめながら、ゆっくりとフラスコの温度が上がっていくのを待った。
挽いたばかりのコーヒー粉をサイフォンに投入すれば、ふわりとキャラメルのような甘い香りが部屋いっぱいに広がる。
火の揺らめきと対流するコーヒー粉をぼんやりと眺めていると、昨夜のツクヨミの熱狂が、また少しだけ胸の奥でざわつくようだった。
カップに注いだコーヒーを一口含むと、芳醇な黒い熱さが胸の奥まで染み渡る。
(今日は……ライブはしないとしても、ツクヨミに行くか、行かないか)
ぼんやりと考えながら、もう一口、カップを傾けた。
熱い液体が喉を通るたび、昨夜の熱狂と今のこの静けさが不思議と重なり合う。
ライブをしているときのあの循環する熱量は確かに心地いい。けれど、こうして一人でコーヒーを淹れ、静かに街を眺める時間も、自分にとっては欠かせないものだった。
(……あの熱もいい。でも、こういう静かな時間も悪くない)
敦嗣はソファーに深く腰を沈め、窓の外に広がる空を眺める。
頭の片隅で、光の魚がゆるやかに泳ぐ様子が静かに浮かんでは消えていく。
コーヒーカップを両手で包み込みながら、敦嗣は小さく息を吐いた。
静かな時間を過ごすのも悪くない、はずだった。
それなのに、指先は無意識にスマコンを何度もなぞり続けている。
コーヒーの熱がまだ残る胸の奥で、小さなざわめきがどうしても消えなかった。
結局、軽く息を吐いて目を閉じた。
「……少しだけ、ぶらつくだけにしよう」
現実の蒸し暑い夕方から、鮮やかで柔らかな光に満ちた世界へ。
どうしても、あの街に触れたくなっていた。
ツクヨミの街並みは、ただ目的もなくぶらつくだけでも悪くない。
現実よりも鮮やかで、ネオンの光が輪郭を持って空を漂うこの世界は、歩いているだけで心が少し軽くなるようだ。
しばらくあてもなく歩いていると、どこか遠くから明るい歌声が聞こえてきた。
天真爛漫で、弾けるように元気な声。不思議と距離を感じさせないような、生々しいほどの熱量がある。
(誰だ……?)
音の方へゆっくりと歩いていくと、小さな広場にたどり着いた。
人は多くないが、無人でもない。その中央に、一人の少女が立っていた。
朱色と若草色の鮮やかな装い。
月が照り返した太陽の光のような、まばゆい金髪。
なだらかなロングヘアに沿って垂れた、うさぎの長い耳がふわりと揺れる。
その隣には、デフォルメされたキツネの着ぐるみを着たもう一人が控えていた。
金髪の少女は目を細めて笑いながら、思いきり声を張り上げて歌っている。
うわべだけの技巧を凝らした歌ではない。
ただ、真っ直ぐで、芯があって、聴いているだけで胸が温かくなるような歌声だった。
高く伸びる音が聴衆の心を自然と持ち上げていく。
(……いい声だな)
敦嗣は自然と足を止め、耳を傾けた。
周囲の数人も、微笑みながら聴いている。茶化すようなざわめきはなく、ただ純粋な楽しさがそこにあった。
歌が終わると、ぱらぱらと控えめながらも温かい拍手が起こった。
「楽しかったー!! ゲリラなのに来てくれてありがとー!」
「……無名のド新人なんだから、告知した方が効率的に……ゲリラで歌って人が集まるのなんて、ほんの一握りの──」
「えー、ゲリラも楽しいじゃ~ん! だって、こうやって突然出会えるんだよっ」
二人のやり取りに、周囲から小さな笑いがこぼれる。
少女は、金のシルクを束ねたような髪を揺らして、満面の笑みで手を振った。その笑顔は、まるで太陽の欠片をそのまま詰め込んだように明るく、底抜けに無邪気だ。
笑うたびに軽やかに跳ねるうさぎの長い耳が、彼女の天真爛漫さを一層際立たせている。
(……いい空気だな)
かわいらしい見た目はもちろん、周りの全てを巻き込んで明るくするようなそのキャラも、先ほどまでの溌剌とした歌声も、天性のアイドルとでもいうべきだろうか。きっと、すぐに大人気ライバーになるだろうな、と思わせるだけの魅了があった。
普段は推される側に立っている自分が、すでに惹かれているのだから。
無理に近づいて声をかけようとは思わなかった。
敦嗣は静かに背を向け、歩きだした。
背後からは、まだ楽しげな笑い声と、うさぎ耳の少女の弾むような声が聞こえてくる。
ほんのわずかに足を止め、耳を澄ませてから、何事もなかったかのように再び歩き出す。
胸の奥がほのかに温かかった。
二話書いて一話投稿する。
このまま自転車操業に陥るのではという恐怖にさらされている。