翌日。
湿り気を帯びた明るさが、白いカーテンの隙間から差し込んでいた。
部屋の中はまだ朝の蒸し暑さが残り、シーツが肌に軽く張りついて離れない。
目を覚ました敦嗣はしばらくぼんやりと天井を見つめ、ゆっくりとまばたきをした。
枕元のスマホを手に取って時刻を確認すれば、もう午前十時を回っている。
寝すぎたか、と敦嗣は小さく息を吐いて上体を起こした。
……腹が減った。
ひどく現実的な感覚だった。
そそくさとベッドから降りて、キッチンへ向かう。
広いキッチンは必要最低限に整えられていた。流しに伏せてある洗い終えた食器を横目に、冷蔵庫を開ける。
卵、トマト。あとは、数日前に買ってそのままになっていたベーコンと食パン。
(……まあ、何とかなるか)
自炊は嫌いではない。むしろ、手順を追えば確実に形になるこの作業は好きな部類でもある。
フライパンに垂らした油が、じゅっと小さな音を立てて広がる。
敦嗣は無意識に手を動かしながら、遠い記憶を思い返していた。
かつての自分は、料理などという行為と無縁の生活を送っていた。
まだ日も昇らない内から朝廷に出仕していたこと。
今、料理しているこのくらいの時間には、すでに帰宅していて、着崩した
庭をさらさらと流れる水のせせらぎ、ゆるゆると響く琵琶の音。
そして──
「それ、いい音だね」
振り返ると、そこにいたのは白い小さなウミウシで。
興味深そうにこちらを見上げていた。
何でもない日常のくだらない話も、朝廷での些細ないざこざを話したときも、楽しそうに聞いていた。
最初は庭の水辺の石の上で、そのうち琵琶の胴の上で。
ときどき肩の上に乗ってくることがあったのは、同じ目線で景色を見たかったから。そう思うのは、俺の思い上がりなのだろうか。
手が一瞬止まり、すぐに現実へ引き戻される。
ベーコンをフライパンに落とす。ぱちぱちと弾けるような音を聞きながら、トースターに食パンを2枚入れてスイッチを入れた。
卵を割って黄身が崩れないように、静かに落とす。
フライパンの中で、卵の白身がじわんり固まっていく。
軽く塩胡椒を振り、火を弱める。
胡椒もあの頃には貴重で馴染みのない品だったことを思い出す。
香ばしい小麦の匂いが広がり始めた。ベーコンの脂の香りと混ざり合って、キッチン全体が食欲をそそる心地よい空気で満ちていく。
油が馴染んだフライパンの上で、ジュ、と水滴が弾けた。
ベーコンと半熟の目玉焼き、切ったトマトとトーストを添えた簡単な食事。
皿に乗せてテーブルに運び、椅子に腰を下ろす。
「……いただきます」
敦嗣はベーコンを切り分けて、半熟の目玉焼きを一緒に口に運んだ。
ベーコンのほどよい塩気と脂の旨味がまず広がり、続いて黄身のまろやかな滋味と、とろりとした食感が絡みつく。
表面がほどよくカリッと焼き上がったトーストにバターを塗ると、生地に染み込んで艶やかに光った。触れた指先がほんのりと暖かい。
一口かじると、外側のサクサクとした歯ごたえと、中のもちっとした食感が交互に訪れ、バターのふくよかな風味が口いっぱいに広がる。
まろやかな油脂感に満ちた食事を、トマトの爽やかな酸味がさっぱりとまとめ、口の中に清涼感を残した。
フォークが皿に触れる小さな音、咀嚼する自分の息遣い、トーストを噛むカリカリという軽やかな音。
夏の光がテーブルの上に柔らかい影を落とし、すべてが静かな部屋の中でやけにはっきりと感じられた。
何も特別凝った味ではない。むしろ素朴で、日常的なメニューだ。
それが、かえって心を落ち着かせてくれるようだった。
(……こういうのでいいんだよ、こういうので)
ぽつりと、心の中で呟く。
昨日のことも、考えないわけではない。
ヤチヨのことも、かぐやのことも。
どう関わるべきかという問いも、消えたわけではないけれど。
答えを急ぐ必要はない。
少なくとも、こうしてご飯を食べている間くらいは。
ベーコンや玉子の黄身、トーストに塗ったバターの味わいが、まだ少し舌に残っている。
素朴な満足感とともに、ふと熱いコーヒーの香りと味が欲しくなった。
特に今は、濃くもなく、すっきりとした酸味のあるものが飲みたい気分だ。
そう思った瞬間、自然と足が動いて棚に並んだキャニスター缶の中からエチオピア豆を選び取り、蓋を開けていた。
サイフォンに挽きたてのコーヒーを投入した瞬間、エチオピア特有の明るい酸味を予感させる香りが一気に膨らむ。
細かい泡が立ち上るサイフォンの様子をぼんやりと眺めた。
カップに注いだコーヒーの表面に薄く泡が浮かび、熱い湯気がゆっくり立ち上る。
明るいベリーを思わせる華やかな香りと、フローラルな花のようなニュアンスがふわりと立ち上った。
一口含むと、明るい柑橘系の酸味が舌先で弾けた。
軽やかなコクと、酸味のあるすっきりとした飲み口が、脂っこい口内を洗ってすっと染み渡る。ベリーにも似たほのかな余韻が、静かな満足感を与えてくれた。
皿を洗って水を止める。
敦嗣は手を拭くでもなく、シンクの前に立ったままぼんやりと視線を落とした。
一定の間隔で落ちる水滴が、シンクのステンレスを叩く音。
高い空を飛んでいく飛行機の音がかすかに届く。
視線を少しだけ持ち上げると、シンクの縁に残った水の薄い膜が、光を受けてかすかに揺れていた。
手を伸ばして拭うほどでもない。ただしばらく目をむけたままでいる。
特別な出来事もないまま、時間が静かに進んでいく。
静かな部屋の何でもない日常を、ぼんやりと受け入れるように。
(……たまには、もう少しちゃんと作るのもありか)
誰に見せるでもない。
ただ、自分が食べるための料理だ。
だとしても、たまには少しくらい手間をかけるのもいいかもしれない。
そんな気分になった。
洗い終えた皿を拭き、元の場所に戻す。手を拭いて自室へ戻る。
机の上に転がっているスマコンが目に映った。
深くは関わらない。
それでも見届ける。
ヤチヨのそばにいる。
昨日決めたことが、頭をよぎった。
椅子に腰を下ろし、軽く伸びをする。
(今日は、もう少し力を抜いて過ごすか)
敦嗣は意識して肩の力を抜いた。
昨日の決意も、胸の奥に疼く想いも、決して消えたわけではない。
それでも、こうして何でもない時間を過ごすのも必要なことだと思った。
かぐやの物語には深く関わらないと決めたからこそ、まずは自分の日常をしっかり生きる。
それが、今の自分にできる最も自然で、最も誠実な姿勢のような気がした。
ゴールデンウィークなんて無い、と言わんばかりに仕事が忙しいので、次の投稿は間が空くかもしれません。
ご了承ください。