バッドルーザー球磨川 イフナッシングイズバッドノンフィクション 作:忘旗かんばせ
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結論から言えば私立箱庭学園は廃校となった。
その校舎は完膚なきまでに破壊され、その校風は完膚なきまでに毀損され、その校則は完膚なきまでに蹂躙され、その校訓は完膚なきまでに虐待され、その校内は完膚なきまでに退廃され、その校友は完膚なきまでに絶滅させられた。
後には塵一つとして残るものはなく、後には誰一人として残ることもなく、後には思い出一つ語られることすらもなく、箱庭学園は究極絶対に滅び尽くし、完全無欠に荒び尽くし、人々はそれに咽び尽くした。
ゆえにこの物語は、だから敗北の物語だ。
一人の人外が全てに幕を引くまでの、絶望と絶縁と絶交の物語だ。
一人の過負荷が全てを失うまでの、いつも通りの当たり前の、繰り返され尽くした敗北の物語だ。
一つの恋が儚く破れる、ありふれた青春の、その終わりを語る物語だ。
だからこの物語のタイトルは、きっとめだかボックスでなどはありはしない。風の如くに爽やかな、善き敗者の物語ですらもなく、見苦しくみっともなく、足掻き尽くしてなお届かぬ、惨めな敗者の無様で無惨な物語だ。
だからこそこの物語のタイトルはきっと——
『バッドルーザー
そのタイトルを冠し、この物語を開始しよう。
『イフナッシングイズバッドノンフィクション』
そんなサブタイトルを、真横に添えて——
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球磨川
流石に京都という土地に踏み込んだ瞬間なんの前触れもなく絶命し、それどころか大雨で増水したての鴨川へと何者かに死体を叩き落とされて、そのまま遥か大阪港まで流されるとは思いもしなかったことだけれど、まあこの程度の不幸はいつものことだ。
いつも通りで、ありふれた出来事だ。
かの有名な新撰組の大ファンである球磨川禊にとってしてみれば、彼らが八面六臂の大活躍を繰り広げた京都という土地の、その土すら踏めなかったというのはいささかショックなことではあるけれど、しかしその水には全身を以て触れることができたのだから、それこそ水に流すとするとしよう。物理的にも、精神的にも。流れ流れて忘れてしまおう。そう、こんな程度の不幸なんて今更嘆くには値しない。
理由なく嫌われることには慣れている。
理由なく憎まれることには慣れている。
理由なく疎まれることには慣れている。
理由なく傷付けられることにも慣れていて。
理由なく殺されることにだって慣れている。
生まれてくる時だって、なんの理由もなく生まれてくるのが人間なのだから、死ぬ時だって、なんの理由もなく死に果てるのが人間だ。なんのために死ぬかなんて選べない。なんのために生まれてくるかを選べないのと同様に。選べるのはせいぜい、なんのために生きるかくらいのもので——それだって、選べない人間の方が多いだろう。選ぶことの出来なかった人間の方が——多いだろう。
そういう意味で言うのならば、球磨川禊は少数派であると言えるのかもしれない。この社会においては希少で希薄で希世極まる、極々わずかな少数派の一人であると、そう断言してもいいのかもしれない。
球磨川禊——混沌よりも這い寄る
この世の誰よりも弱く、この世の誰よりも負けていて、それゆえにこの世の誰よりも強く、『負完全』たる少年。
彼はその人生を、
「——そんなきみにだからこそ、お願いしたい用事があるんだよ」
死後の世界と見紛うそこは、ありふれた教室の景色をしていた。
それは彼が唯一、廃校による強制退学や、あるいは追い出しを受けての自主退学でなく、無事の卒業と共に去ることの叶った麗しき母校、箱庭学園のそれ——というわけではありはせず。目前に広がるのは、懐かしき中学時代、ある意味では彼が最も最悪だった時代とも言えるその頃に通い詰めた、箱舟中学校の教室だった。
規則正しくずらりと整列する椅子と机には、けれど球磨川禊その人以外に着席者はいない。教室の中央に、学生服でもない白シャツ姿の乱れた短髪の男が独り、恥じらいもなく座するばかり。出席人数総計一名。なかなか終わった出席率だけれど、しかしむしろこの教室に限って言えば、満席である方が問題だ。ここは死後の世界ではなくとも、しかし生者の世界であるとも言えないのだから。
この世界は。
恐れ多くも教壇に足を組んで腰掛け、唯一の出席者を見下してみせる、赤いセーラー服を見事に着こなす美貌の少女——
彼女の姿を目にして、禊は目を見開いた。
「『——バカなッ! 死んだはずの!
「モハメド・アヴドゥルじゃあないんだよ。安心院なじみね、安心院なじみ」
どっちかっていうと、「死んだはずのッ!」はきみの方だよ、なんて彼女は真っ直ぐに切りそろえられた前髪の下で片目を閉じる。リボンで結んだ、足元まで届くほどの長い髪を揺らしながら。
そう、こうやって呑気に話しているから勘違いしそうになるけれど、しかし今現在のところ、現実世界における球磨川禊は死んでいる——無論、死という概念にすら嫌われた彼のことだ。ドラゴンボールを七つ集めるまでもなく、その内に再び現世へと引き戻されるのは間違いのないことだけれど——
「その前に、ちょっと僕のお話を聞いて行って欲しいんだよね」
なんて、彼女は軽やかに笑う。
しかし——死んでいる、と言うのならば。
「『うーん。いや、ビデオレターも二回目になると流石にもう感動が薄れるし、今日はやめておくよ。また今度気が向いたらね!』」
彼女もまた同じことだ。
安心院なじみ——かつて平等なだけの人外と呼ばれた
七九三二兆一三五四億四一五二万三二二五個の
彼女はすでに——死んでいる。
球磨川禊が今回絶命するよりもずっと前に。
彼がまだ箱庭学園に生徒として在籍していた頃に、とある事件によって、完膚なきまでに殺されている。
殺されて、壊されて——死亡している。
その後にも、こうして球磨川禊の前に、生前掛けておいた『保険』としてその残影が現れ、言葉を語りかけることもありはしたけれど。
それだって全ては過去の言葉で、過去の彼女の遺物でしかない。
会話だって、成り立っているようでいて、彼女の先読みが残しただけの残響で、真実球磨川禊の言葉が、安心院なじみへと届いているわけではないのだ。
だからこそ、禊はそう言って、笑顔で教室を出ようとするけれど——
「まあ待ってくれよ」
「『いや待たない。どうせパンツも見せてもらえないし』」
「そりゃパンツは見せないけどさ……しかし僕だって、何も用事がないのにきみのことが好きで化けて出てきたってわけじゃないんだぜ」
「『照れ隠しはよせよ。かつてには情熱的にも、僕のことを神を愛するように愛しているとさえ言ってくれたくせに』」
「弟のようにね。どこのエンリコ・プッチだよ。きみを神の如くに崇めるくらいならまだしもそこら辺の石ころを祀る方がマシだって」
信者に裸エプロンを強要しそうな神なんか、どう考えたって邪神だろ。
彼女は言って両手を広げる。
「真面目な話、この僕がきみと話してるってことは、状況はかなり逼迫してるんだぜ。それこそ京が一どころじゃない。僕が死んだ後に那由多が一、『よりにもよってきみになんとかしてもらうしかないような空前絶後の危機』が本当に訪れてしまった時にだけ起動するように仕込んでおいた、時限式ならぬ因限式のエマージェンシーコールだ。聞かずに出て行ってくれても良いけれど、しかし間違いなく『きみ以外の誰か』が後悔することになるぜ」
「『願ったり叶ったりだ』」
「困るのがめだかちゃんでもかい?」
「『うん』」
「そこで躊躇いなく頷けるあたりがきみの可愛くないところだよ」
やれやれ。ため息をついて、なじみは首を振る。
「それじゃあ——困るのが僕だったら、どう?」
その質問に——
「『…………』」
球磨川禊は、言葉を返さず。
けれど代わりのように、足を止めた。
「きみのそういうところが、僕は本当に可愛くって仕方がないよ」
「『勘違いしないでくれよ安心院さん。僕が足を止めたのは、きみの困りごとを解消したら、お礼にパンツを見せてもらえるかもしれない可能性に思い至ったからでしかないんだぜ』」
「だとするなら今すぐに扉から出て行きたまえ」
その可能性はゼロだ。
僕のパンチラはそう安くはないんだぜ——言って、彼女は足を組み直した。
「真面目な話、僕だって申し訳なく思ってはいるんだよ。きみの全国ツアー——『
「『どうせきみなんか路頭に迷うだろうからいい機会だろうなんて酷い言葉とともにね』」
「事実だろう。それとも一社でも出たのかい? 内定が」
「『ちくちく言葉はやめておくれよ』」
「それみたことか。ともかくだね、きみの全国ツアーを中断させてまでこっちの都合に付き合ってくれってのは、虫のいい話というか、無視していい話にさえ思えるかもしれないけれど——」
それでも。
「ここは無視せず無碍にせず、無理にでも無理矢理にでも聞いて欲しい。本当に、きみにしか出来ないお願いなんだ」
ぺこり、と。
頭を下げて、なじみは言う。
あるいはそれは彼女を良く知る人間であるのならば、卒倒しかねないほど彼女らしくないポーズであって——
「『僕にしか、ね。そうは言うけど、僕にしか出来ないことなんて、せいぜい人に嫌われることくらいのものだ。この地球上で最も他人の役に立たない男が、この球磨川禊と言う男だぜ』」
けれどそれに心を動かされもせずに、彼はひたすらに冷めた目で言う。
「人に嫌われること、ね。むしろそっちはあまりうまくできていないのがきみという男な気はするけれど、しかしきみの特技ならもう一つあるだろう?」
「『もう一つ? なんだろう。缶ビールの一気飲みとかかな?』」
「空条承太郎を気取る気かい? きみ如きが」
学ランすら脱ぎ捨てたきみに空条承太郎との共通点はもはやゼロだ。言って、彼女は首を振る。
「『それじゃあなんだって言うんだい? 他の特技なんてあとはせいぜい、女子にパンツを見せてもらうことくらいのものだけれど……』」
「だからそれはきみが苦手なことだろう? 違うって。きみが得意なことと言えば——負けることだ」
「『……』」
「きみは敗北することが誰よりも得意だろう、球磨川くん」
挑発的なその言葉に、禊は薄く笑みを作る。
「『言ってくれるね安心院さん』」
「言うともさ。なにせ今回の件に限って言えば、その『負けること』がこそ、他の何よりも必要なことなのだから」
頭を上げて、彼女は返す。禊は大して面白くもなさそうに肩をすくめた。
「『へぇ、そりゃ面白い。それじゃあもしも、きみが僕なんかに頼らざるを得ないような、負けることが解決になると言う今回の件で、僕が勝つことができたなら』」
そこまで言って、彼は彼女の手を取った。
「『僕と一日、デートの一つでもしてくれよ、安心院さん』」
……やれやれ、全く。
「いいよ。そのくらいなら、お安いご用だ」
晴れやかな笑顔で言って、彼女はその手を握り返した。
かくして物語は始まる。
終わりへ向けて、第一歩。
2
恥の多い生涯を送って来ました、なんて言葉が過小表現になりかねないほどに、恥と恥と恥だけの生涯を恥知らずにも送り続けてきた球磨川禊ではあったけれど、しかし然しもの彼にしたって、あれだけ盛大に見送られ、卒業したはずの学舎へと、僅か半年程度で出戻ることになるのは、流石に少々の恥じらいを感じざるを得なかった。
校門の手前から巨大な校舎を見上げながら、禊は呟く。
「『思い出すなあ、この空気。僕が愛すべき後輩たちから『風』と呼ばれ親しまれていた、懐かしきあの時代を……』」
「いや、そんな時代一度としてなかっただろ」
お前は主に裸エプロン先輩という恥ずかしいあだ名で呼ばれ親しまれていた——と、校門前で存在しない過去を回想する彼に容赦なく事実を指摘するのは、一般生徒が着用する制服とは一風変わった、純白の学生服を纏う白髪の少年だった。
少年——と、そう表現しはしたけれど。
あるいはより正確に、正しく確たる表現を追い求めるのならば、いっそ彼のことは、児童と表現するべきでさえあるのかもしれない。
彼のことは。
箱庭学園が誇る『元』風紀委員長——
「『あ、冥利ちゃん、お久!』」
なんて、禊は冥利へと気軽に声をかける。初対面の時に彼がこの少年に何をしたかを考えたならば、断じてそんな気軽な挨拶は出来ないだろうと思うけれど、そんな常識的な感性を超越するのが球磨川禊という男であり、またそれを平然と受け入れる度量があるのが、雲仙冥利という十一歳の少年だった。
「おー、お久。んで? 何しに来やがったんだ社会不適合者。在校生を代表して我らが生徒会長様が盛大に送り出してやったってのに、今更ノコノコと舞い戻って来やがってさ。社会の荒波が辛すぎるからって、学生気分でぬるま湯に浸ろうって魂胆ならお断りだぜ。箱庭学園は療養施設じゃなく学舎だ。お前の青春はとっくに終わってるんだから、それを自覚して来た道を戻りやがれ」
若干十一歳にして、私立箱庭学園という魔境にも等しいエリート養成校の特別特待三年生である雲仙冥利の優秀さは、ここに列記しようものなら紙面がいくらあっても足りないほどで、ある意味では、球磨川禊の対極の対極の対極とも言うべきエリートの極地にいる彼であるけれど、しかしそんな彼は彼にしては珍しく、やや疲れを滲ませた顔で面倒臭そうに言った。
「『あはは、キツイこと言うねぇ冥利ちゃん。僕も別に、今更箱庭学園に通い直そうなんては思ってないぜ。青春ってのは何も、学校の内側にだけあるものじゃないし』」
ただ——
「『どうも、とある筋から聞いた情報じゃあ、今、僕の愛すべき母校ってやつに、なんらかの『危機』が迫っている——と、そんな話らしいじゃないか』」
それを聞いて放っておけるほど、僕は薄情な男じゃないぜ——なんて笑う彼だけれど、しかしそれを聞かされた冥利はといえば、その特徴的な白髪をガシガシとかき乱して言った。
「どーも、俺の言ってることは理解されてねーみたいだな。お前がわざわざ来るぐらいだし、この箱庭学園に危機が迫ってるってのはそうなんだろう……間違いないことなんだと思う。
鋭い目つきで睨みつけるようにして、雲仙冥利は捲し立てる。
「
過負荷が過保護になってどーする。彼は言って、腕を組んだ。
「『————』」
その言葉に、禊は閉口する。口を噤んで、言葉を慎む。
確かに、その言葉はその通りだ。
道理を語っていて、道義を示していて、道徳を満たしている。
球磨川禊。混沌よりも這い寄る
それを突きつけられて——
「『わかったよ』」
禊は、折れた。
「『確かに、考えてみれば過ぎた真似だった。出過ぎた真似だった。出来過ぎた話で、行き過ぎた話だった。然しもの僕も心配のあまり不必要な暴走をしていた。『学園の危機を解決する』って体験を後輩から奪おうってのは、流石に過保護な真似だったさ。だけど冥利ちゃん。そんなに言うなら、その学園の危機はきちんときみらが対処してくれよ。任せて去ったつもりが、いつの間にか廃校の知らせを風の噂で聞くなんて、そんな後味の悪い後日談はごめんだぜ?』」
肩を竦めて言えば、冥利は「はっ」と挑発的に笑って見せる。
「誰にものを言ってんだよ、卒業生。こちとら、お前がこの学園に来るよりも前からこのイかれた学園の秩序を守り通して来た風紀委員長様だぜ。今は引退した身じゃあるが——しかし退学した身ってわけじゃあない。在校生の一人として、学園の危機なんてもんは、鼻歌混じりに蹴散らしてやるよ」
「『うん。その言葉が聞けてよかったよ。それじゃああとは任せるぜ、在校生』」
「ああ。てめーの助力は借りないが、しかし助言くらいは受け取っておくさ。箱庭学園のことは俺らに任せとけ、卒業生」
その言葉を皮切りに、二人は別れる。雲仙冥利は学園の内側へ。球磨川禊は外側へ。対照的に、鏡写しのように。
やれやれ、また勝てなかった——なんて内心負けを認めつつ。
二人は離れ、それっきり。
二度と出会うことはなく、二度と話すことはなく。
二度と同じ道を歩むことも、またなかった。
3
そんなわけで、球磨川禊は箱庭学園を囲う背の高い塀を乗り越えて、その敷地内に侵入した。
正面からは入れなかったのだから、仕方がない。裏口入学というやつだ。いや、それでは意味が違うか?
「『ともかくとして、どうにも厄介なことになっちゃったな』」
厄介な、というか。
面倒くさいことに、というか。
禊は一人顎に手を当てて考え込む。
風紀委員に目をつけられたとなれば、学園内を表立っては動けない。流石に見敵必殺とはいかないだろうけれど、しかし見つかれば間違いなく大捕物が始まるのは目に見えている。
だからこそ、球磨川禊に残されている道は、密かに学園に忍び込む以外には存在しない。
元風紀委員長にして、現在は在学中でありながら警備会社を立ち上げ中という凄まじいプロフィールを持つ、骨の髄まで秩序の守り手である雲仙冥利の手前、物分かりの良いふりをして見せた彼ではあったけれど、しかし球磨川禊という男は、残念ながらそんなに諦めの良い、気持ちのいい男というわけではない。
風なんてあだ名で呼ばれるほど、気持ちのいい男ではない。
むしろ、悪い男だ。
気持ちが——ではなく、諦めが。
そう、球磨川禊は諦めの悪い男である。
諦めの悪さだけでこの十九年間生きて来たようなものだ。
諦めの悪さで三兆年を生きた少女には負けるけれど——それでも。
諦めの悪さには自信がある。
正面からの侵入を封じられたというのならば、そんなもの別の道を探すだけのことである。学園の在校生から学園の危機を解決する機会を奪う? 馬鹿馬鹿しい話だ。貴重な機会だというのなら、なるほどそれを奪うことになどなんの躊躇いもない。貴重な機会を奪って、青春の一ページを毟り取って、成長のきっかけを台無しにして、ぬるい堕落を、無様な安寧を、馬鹿げた安心を愛しき母校の後輩たちに与えてやるのが、混沌よりも這い寄る
だってそう。球磨川禊は——悪い大人なのだから。
諦めが。
そして育ちが。
底意地が。
悪くて悪くて、悪い大人だ。
そんなわけで、学園の敷地内に入り込んだ球磨川禊だったけれど、しかしそこからが問題だった。塀を乗り越えたところで、広大な敷地面積を持つ箱庭学園のことである。外壁から校舎まではそれなりに距離があって、そして今はどうやらお昼休みの時間らしい。在校生たちがざわざわと縦横無尽にそこかしこを動き回っている最中で、この状況で校舎への突撃をかますのは、さすがに馬鹿のやることだ。
ここは一つ授業が始まり、廊下やグラウンドから人気が退くのを待ってから校舎に忍び込んで——
などと、塀近くに植えられた草木の影に隠れ、皮算用をしていた球磨川禊の元に。
「きみ——だれ?」
なんて、声がかかる。
「『……やあ! 僕は樹木の精霊! この箱庭学園で大事に育ててもらったおかげで晴れて実体化できたんだ!』」
「ダウト。樹木の精霊にしちゃ陰気すぎるよ、きみ。お日様の光を浴びたらそのまま焼け死にそうな奴が樹木の精霊であってたまるかい。どう見たって、きみはただの不審者だ」
ちくしょう、なんて鋭い推理なんだ。致命的なまでに正確無比な仮説推論に敗北感を覚えつつ、仕方なく禊は声の方へと視線を向ける。
そして——
「『——え?』」
目を見開いた。
見開かずにはいられなかった。
彼が球磨川禊である限り、彼女の姿を見て、目を見開かないなんて選択肢はありえなかった。
だって、そう。
そこにいたのは——
「『——安心院さん?』」
長い髪。直線に切り揃えられた前髪に、足元まで届くほどの長い後ろ髪と、それを留める幅広のリボン。絶世の、とさえ言っていい美貌に——凛と澄む佇まい。
死んだはずの、なんて冗談も口には出せず。
ただひたすらに、驚く。
驚愕する。
するしかない。
そこにいたのは間違えようもなく——安心院なじみその人だった。
夢の中で見る過去の残影ではなく、生きた、生々しいほどに生き生きとした、生きた人間としての安心院なじみ。彼がよく知る通りのセーラー服でと言うわけではなく、箱庭学園の制服を着てはいたけれど。その顔も、その体も、その髪も、その姿勢も、その声も、その佇まいも、その表情も、全てが全て、彼のよく知る安心院なじみその人で——
「……? 誰だい、アンシンインさんって」
けれど一点だけ。
違いがあって、それは、その麗しい目元に、無粋にも眼鏡をかけていることで——彼女は。
眼鏡をかけた彼女はそんな風に、首を傾げる。
安心院なじみのその顔で。
そんな人物は名前も聞いたことがないとばかりに、人差し指を口元に添えて、ただひたすらに疑問符を浮かべる。
彼女は。
安心院なじみのようでそうではない、彼女は——
「『いや、ごめん。人違いだったみたいだ。知り合いに似ていたものでね……。よければきみの名前を教えて欲しいんだけど、ダメかな?』」
崩れた表情を取り繕って、上がった鼓動を無理やり沈めて、禊は努めて冷静に、そんな風に問うて見せる。
不審者からの誰何に、少女は当たり前のように顔を顰めて——けれど。
「……きみ、この学園の生徒——じゃ、ないよね」
見ない顔だし——なんて、昨年には生徒会の一員として、八面六臂の大活躍——とまではいかないものの、しかし七転八倒の大醜態を晒し続けていた球磨川禊を、けれどそんな風に言い表すということは、つまり彼女は新入生なのだろう。
現在二年生以上の——つまり去年の箱庭学園を知る人物で、球磨川禊を『見ない顔』なんて言い表せるのは余程の大物か、あるいは余程の不登校生徒くらいのものだ。
「『……そうだけど、だとしたら?』」
そっと、彼女には見えない角度で手元に『螺子』を取り出しながら、禊は言う。
悲しいかな、この段階で学園内に侵入者がいるとバレるわけにはいかないのだ。だからこそ、彼女が眼前の不審者を風紀委員あたりに通報するというつもりであるのなら、その動きを見せた瞬間、彼女の記憶を『
「
彼女は。
そんな風に言って、小さく笑う。
「ボクの名前は——
ねぇ、不審者さん。
「もしもあなたがこの学園の生徒じゃないと言うのなら——」
ボクを助けてはくれないかい?
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