海の匂いがした。
鉄臭い臭いと、焼け焦げた肉の臭いに混じって、潮騒が確かに鼻腔をくすぐっていた。
────私は、デンジくんと水底に沈んだはず。
遅まきながら、自分がデンジに敗北したことを思い出し、レゼは跳ね起きた。
……生きている。負けたのに、生きている。
何故?
辺りを見回す。デンジが、三角座りでレゼを見ていた。
理解できた。
なぜ、自分が今ここで目を覚ますことができたのか。
────理解できたからこそ、困惑する。
「信じられない……」
「どうして私を蘇らせたの……?」
デンジはレゼを見なかった。
独り言のように、どこか遠くを見つめながら語る。
「オレは素晴らしき日々を送っている」
「何回もボコボコにされて酷い目に合って死んでも、次の日ウマいモン食えりゃそれで帳消しにできる」
「でも……」
デンジは、レゼを見た。
「ここでレゼを捕まえて公安に引き渡したら」
「なんか……魚の骨がノドに突っかかる気がする」
「素晴らしき日々を送っていても」
「時々ノドん奥がチクってなりゃあ最悪だ」
デンジの視線は、既にレゼから外れていた。
そっけないようで、ありのままがそのまま捧げられたような、誠意と態度がむき出しの『正直』が、今の彼なんだとレゼは理解した。
だが、それでもレゼはデンジを試した。
「今 私に殺されても同じこと言える?」
最大級の拒絶をした。
レゼなりの、デンジに対する最大の拒絶。
『レゼ』として、任務を遂行する駒として、拒絶した。
その行為そのものが、デンジへの愛に裏打ちされていることに、彼女は気付かない。
当然、デンジもそれに気づくことはない。
だからただ、デンジは思ったままに、レゼにしたり顔で言った。
「殺されるなら美人に ってのが俺の座右の銘」
そのしたり顔が、なんだかおかしくて。
少女は、思わず笑った。
「あはははははははは!!」
「はああ~!」
「あ~」
「もしかして……私がまだキミを本気で好きだと思っているの?」
ストンと、感情を落とす。
表情を殺す。
「キミに会ってからの表情も頬の赤らめも全部嘘だよ」
「訓練で身につけたもの」
突きつけるように、あるいは突き放すように言い放つ。
「私は失敗した……キミと戦うのに時間をかけすぎた」
「じゃあ私は逃げるから」
レゼはデンジに背を向けた。
────魚の骨がノドに突っかかった気がした。
でも、振り返ることはしなかった。
踏み出すことも、遠ざかることも躊躇しなかった。
だが。
「一緒に逃げねえ?」
想像だにしなかった言葉に、思わず足を止めてしまった。
「へ?」
思考を経由しない、単純な困惑が口から洩れる。
それを自覚する前に、デンジは畳みかけるように言葉を重ねた。
「俺も戦えるから逃げれる確率あがるぜ」
「私はたくさん人を殺したよ?」
「私を逃がすってことはデンジ君」
「人殺しに加担することになるけどわかってる?」
思ってもないことが機械的に口から吐き出された。
違う。言いたい言葉はそれじゃない。
────なんといえばいいのか、言葉は見つからないが。
なんというか、嬉しかったのだ。
なのに、口をついたのはスパイだか工作員だか、そんな『役割』の言葉。
『私』じゃない何かの言葉。
自己嫌悪したくなるような空っぽの言葉。それを────デンジは、あまりにも軽々しく受け入れた。
「仕方なくねえけど仕方ねえな」
「まだ俺ぁ好きだし」
「全部嘘だっつーけど」
「俺に泳ぎ方教えてくれたのはホントだろ?」
デンジの言葉の一つ一つが、馬鹿馬鹿しい妄言のように聞こえる。
レゼは、自分の耳がおかしくなったのかと疑った。あるいは、おかしくなったのは頭かもしれない。
だが、目の前に移るデンジの表情が、その考えを否定した。
笑っているようで、真剣だった。
いつもの、何も考えていないような能天気な笑顔じゃなかった。
真剣な顔をしていた。
馬鹿の癖に、こういう時だけ妙に真剣な顔をする。
レゼの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
────逃げる。
その言葉が、自分の頭から抜け落ちたことはただの一度もない。
同時に、それを諦めず実行に移したこともまた、一度もない。
ソ連の犬。
モルモット。
兵器。
貼られるラベルが変わっても、本質は変わらない。
『道具』という、都合のいい存在としてしか私は存在できない。
自分の意思で選んだ道など、なにひとつなかった。
「デンジくん」
『逃げる』という選択肢は、ずっと不自由だった彼女にとって、劇薬のように差し出された手のひらだった。
でも、レゼは素直にその手を握れなかった。デンジも、レゼの手を握ることはなかった。
沈黙が流れる。
「俺、レゼん事好きだよ」
────デンジが口を開いた。
砂を踏む音がした。
2人の距離が、一歩分だけ縮まった。
「……たぶん」
自信なさげに、頬を赤らめながら、デンジはそういった。
「たぶん」なんて言葉がおかしくて、レゼは少し笑った。
その笑顔を見て、デンジは少しだけ安心したような顔をした。
「マキマさんのこととか、公安のこととか、よくわかんねぇけど」
デンジは頭を掻いた。
「お前がスパイとか、そういうのもよくわかんねぇ」
「でも、逃げたいなら逃げりゃいいじゃん。一人じゃ無理でも、二人なら」
「無理だよ」
レゼは言った。自分でも驚くほど静かな声だった。
「無理なの、デンジくん」
わかっているから。
レゼにはわかっていた。デンジはわかっていない。
この少年は、自分がどれほど深くマキマという女の掌の上に乗っているか、まだ気づいていない。
公安という組織が、悪魔の契約という鎖が、デンジという人間をどれほど雁字搦めにしているか。
そして、レゼ自身もまた雁字搦めであることは変わりない。
ソ連の上層部は、レゼを野放しにしない。任務を失敗した兵器など、回収して解体するだけだ。
逃げたところで、追ってくる。海を越えても、山を越えても、どこまでも追ってくる。
二人で逃げたところで、二人まとめて殺されるだけだ。
わかっている。
全部わかっている。
「逃げ場なんて、どこにもない」
レゼは静かに続けた。
「あなたはマキマに飼われてる。私はソ連に飼われてる。どこに逃げても、追ってくる。必ず捕まる。そんなこと────」
「じゃあ捕まったときに考えりゃいいじゃん」
デンジが言った。
レゼは顔を上げた。
デンジは相変わらず真剣な顔をしていた。馬鹿みたいに、でも真剣に、レゼを見ていた。
「捕まる前に逃げんだろ。捕まったら、そのとき逃げる。また捕まったら、またそのとき考える。ずっとそれの繰り返しじゃダメなのか」
「……それは」
「レゼはさ」
デンジはしゃがんだ。
レゼと目線を合わせて、まっすぐに見てきた。
こんなに近くで見ると、目が茶色いことがわかった。
犬みたいな目だと、初めて会ったときに思ったことを思い出した。
「逃げる前から諦めてるじゃん」
その言葉が、刺さった。
胸の奥の、柔らかいところに、真っ直ぐに刺さった。
諦めている。そうだ、レゼはずっと諦めていた。
諦めることを覚えて、諦めることを処世術にして、諦めることで自分を守ってきた。
希望を持てば傷つく。だから希望を持たないことにした。
逃げられないから、逃げることを考えないことにした。
でも。
でも。
「デンジくん」
レゼは呟いた。
「あなたといると」
言葉が続かなかった。
うまく言えなかった。ロシア語でも日本語でも、自分の感情を言語化する訓練をレゼはされていなかった。
感情は任務の邪魔だと、そう教わってきた。
でも今、確かに何かが、レゼの胸の中にあった。
デンジと一緒にコーヒーを飲んだとき。水の中で手を繋いだとき。
この馬鹿みたいな少年の隣にいると、なぜか────逃げられる気がした。どこまでも逃げられる気がした。
根拠なんて何もないのに。この少年が何かを保証してくれるわけでもないのに。
それでも。
「……うん」
レゼは立ち上がった。腕はまだ使えなかったが、足は動いた。砂が冷たかった。波の音が遠かった。
「一緒に、逃げる」
思慮の上での発言じゃなかった。
衝動が口を通り過ぎた言葉だった。
デンジが、笑った。
馬鹿みたいな、能天気な、いつもの笑顔だった。
「じゃあ行こうぜ」
デンジは立ち上がって、レゼの手をそっと掴んだ。
ついさっきまで殺し合っていた相手の手を、デンジは顔色一つ変えず。ただ、掴んだ。
「どこ行く?」
無計画と能天気が詰め合わせになったような言葉を聞いた。
呆れて、こういうしかなかった。
「知らないよ、そんなこと」
「じゃあ、とりあえず遠くに行こうぜ。遠ければ遠いほどいい」
馬鹿みたいな答えだった。
でも今だけは、その馬鹿みたいな答えが、レゼには何よりも眩しかった。
二人は海岸を歩き始めた。
波が足元を濡らした。夜風が頬を撫ぜた。
後ろには血の匂いが残っていた。前には何もなかった。
暗い朝焼けと、遠い水平線と、どこへでも続いていそうな道だけがあった。
逃げ場なんてどこにもない。
それはわかっていた。
マキマは待っている。ソ連は追ってくる。この逃避行に、明るい未来なんて用意されていない。
でも、今この瞬間だけは────デンジの手がレゼの腕を掴んでいて、波の音が聞こえていて、夜の空気が冷たくて、それだけで十分だと思えた。
逃げよう。
捕まったら、そのとき考えればいい。
馬鹿みたいな話だった。
でも、レゼは初めて——自分の意志で、どこかへ向かって歩いていた。
続くかどうかは友人の催促次第です