――恐ろしいこと
――『秘密の部屋』を……
――いえ、ホグワーツの管理体制の問題では?
――操られたとか……かわいそうに
ひそひそと交わされる囁き。当人たちは聞こえていないと思っているようだが、ウルペクラの耳は気取った雀どものさえずりを拾っていた。
もう、うんざりだ……と眼を瞑る。杯を握りしめ、深い葡萄色を飲み干した。
わかっていたではないか。
甘い雫とともに、喉を滑り落ちたのは諦念と、少々の怒り。夏の社交――各家の宴に招かれ、あちこち渡り歩けど、レストレンジ家のウルペクラは遠巻きにされ、好奇の眼にさらされるばかり。
招待をすべて蹴るわけにもいかないので、義理でいくつか出席し、そのどれもが『秘密の部屋』事件の噂話でもちきり。
――ついでに
シリウス・ブラックの脱獄についてもちらほら。
ウルペクラは、壁の花を決め込んでなるべく気配を消していた。時に化けることすらした。得意科目の一つが変身術なのである。
「――ごきげんいかがかな」
令嬢、と呼びかけられる。見上げれば淡青の眼があった。
「マルフォイ家の当主様」
にっこりしてみせれば、叔父たるルシウスは小さく呻いた。
「やめんかウルペクラ」
「よくおわかりで」
こつ、と鳴るのは女物の靴である。すらりとした肢体、髪は白金。眼は緑。纏う衣は深い藍色。どこからどうみても貴族の令嬢であるのに。
「――わかるに決まっている。ナルシッサを彷彿とさせるからな」
変身を解きたまえ、と言われ「あらひどい」と返す。眼を潤ませれば、ルシウスは眉間に皺を立てた。
「私のなけなしの良心が疼くからやめなさい」
あなたの良心とやら、小指の爪未満ではありませんか。言い掛けて、こらえる。渋々変身を解いた。いったい誰に似たのやら、七変化とは便利なものである。衣は別でいじらないといけないが。
元の「ウルペクラ・レストレンジ」が現れて、ルシウスが吐息をこぼす。そうして、こう宣った。
「踊らないのか?」
「相手がおりませんので。なにせ僕は『秘密の部屋』を開けた愉快犯だ」
言葉に棘が混じるのは、仕方がないだろう。ウルペクラの立場は以前から微妙なものであったが、先学期の事件――『秘密の部屋』が開かれ、生徒たちが石化したそれ――で、さらに微妙なものとなったのだ。
「君は悪くないとも」
闇の品の暴走によるものだろう? と白々しく言ったルシウス。
ウルペクラはただじっと、叔父を見た。父母どちらに似たのか知らないが、十五歳数ヶ月のウルペクラは、叔父と並ぶ背丈であった。
「闇の品、ね。いったい誰が持ち込んだやら?」
「ホグワーツは古よりある城。闇の品のひとつやふたつ、あろうとも」
「そういえば、アーサー・ウィーズリーによる家宅捜索があったとか? 理事たちを脅した……やら、物騒な噂も、僕の耳にも届いています」
ちくりと刺してやる。ルシウスは苦い顔になった。
彼の社会的信用にひっかき傷がついてしまった。ダンブルドアを停職にするために、理事たちを脅した件が明るみになった。加えて、どこからか情報を入手したアーサー・ウィーズリーが、マルフォイ家に踏み込んで、闇の品を押収した……とか。『日刊予言者新聞』の隅に、小さく載った程度の扱いだが、失点は失点だ。ルシウスはホグワーツの理事を解任されたのだ。
「ものの道理のわかっていない連中だ。証拠はない。私は陥れられたのだ」
大げさに嘆くルシウスを、ウルペクラは冷ややかに見た。本当に、神経の太い人である。そうでなければ死喰い人なんてやっていないわけだが。
「かわいそうな叔父上。道理のわかっていない者たちに、はめられたとは」
口調こそ労るように。しかし痛烈な皮肉をこめて、言ってやる。侮っていた輩に蹴り落とされただけだろう、という意はきちんと伝わったようである。
ひく、とルシウスの口端がひきつる。
「我が甥は反抗期というやつだろうか」
「あの方のものを玩具にして遊ぶ、少年の心を忘れない叔父上よりは」
可愛らしい反抗期ですとも、と結ぶ。
「あれは事故だ」
「そうですか。叔母上に叱られても事故とおっしゃる」
「あれは叱られるなんてものでは、」
やっぱり叱られたのか。ルシウスの意図が「闇の品を使ってウィーズリー家を陥れること」だったとしても、結果はまるで違うものになってしまった。事故と言えるだろうが……そもそも、ルシウスが「トム・マールヴォロ・リドルの日記」を仕込まなければよかっただけの話だ。
目的は果たせず、姉の息子――甥たるウルペクラに波及したのだ。シシー叔母はもちろん怒る。
が、ルシウスに反省の色はない。あったとしても「もっと巧くやればよかった」という方向の反省である。
――そうか
なるほど、ウルペクラに謝るつもりはなし。なんらかの補填をするつもりもないと。わかっていたが、嘗められたものである。
叔父を見切り、ついでに侮蔑の眼を向ける。
「せいぜい、あの方には隠しておいたほうがよろしいでしょう」
預けた品の末路を知れば……と釘を刺す。ルシウスは、なにごとかを言おうとしたようだ。が、ウルペクラは踵を返し、その場を去った。
叔父と少々じゃれ合い、ウルペクラは宴を辞した。結局、誰とも踊らなかった。泡沫貴族すら寄りつかない有様。気を遣ってくれたのかダフネが「妹と踊ってくれないかしら」と言ってくれたくらいだ。スリザリン系でも穏健派のグリーングラスの令嬢は、なにかと目配り気配りをしすぎるきらいがあった。
今、僕と踊るのは得策じゃないぞ、と断った。君も、君の妹も、きちんとした令嬢なのだから、と言って聞かせれば、ダフネの緑の眼は、なんとも寂しげな影を帯びた。
「……仕方がないじゃないか」
馬車の中、ウルペクラは独りごちる。なんとも言えない罪悪感があった。しかし、どうしようもない。ウルペクラの立場は危ういのだ。暴走した闇の品に操られた少年。『秘密の部屋』を開いた者。
――本当にそうなのか
操られていたのではなく、積極的に事を成したのでは?
宴を渡り歩く中、そんな囁きが耳に付いた。レストレンジ家のウルペクラは、死喰い人の両親の間に生まれたのだ。その形質が継がれていないと誰が言えるだろう。そんな、含みがあった。
あるいは……と嘆息する。ウルペクラの叔父はルシウスだ。義理の叔父であるが、叔父には違いない。ブラック家を通じて姻戚である。
人々は囁く。
ダンブルドアを引きずり下ろすために、マルフォイとレストレンジが手を組んだのでは? マルフォイが絵を描き、レストレンジが実行したのでは。どちらも純血過激派。ダンブルドアのことは邪魔なのだろう、と。
「……叔父上のせいだ」
吐き捨てる。
はた迷惑な御仁である。ウルペクラの評判は最悪に近いものとなった。せめて「死喰い人の両親の間に生まれた不遇な少年」でいたかったのに。笑えることに「『秘密の部屋』を開けたということは、スリザリンの末裔なのでは」と言う馬鹿も現れる始末。
どうしてこうなったのだ、と一人、頭を抱える。馬車の中に余人はいない。御者席にいるのは家令――夫のほう。見られる心配はない。つまり、ウルペクラが愚痴ろうが、頭をかきむしろうが、問題ない。
「なに考えているんだあの人」
ぶつぶつと、ウルペクラは呟く。
闇の帝王から預かったらしき品を、羽虫一匹のために使って失脚するとは。ど阿呆である。これで、転んでもただでは起きぬとばかりに「ウルペクラ・レストレンジは闇の帝王の子である」として、担ぎ上げるような真似をしようとすれば、全力で潰してやる。それこそ、アズカバンから両親を脱獄させて、マルフォイ家にぶつけてやる。許せん。
両親に思うところは多々あるが――ルシウスはのうのうと表の世界で生き、あまつさえレストレンジ家に泥をかけたのだ。両親だって、マルフォイ家許すまじとなるだろうよ。
ウルペクラはごきげんななめであった。
馬車が
主が留守の間に、押し掛けてきた客人があったので。
「やあ、お邪魔しているよ」
「招いてません。お帰りください」
応接間で闇祓いが茶を嗜んでいるなんて、誰も思わない。
「シリウス・ブラックの影も形もありません」
つん、とウルペクラは言った。
「承知しているとも」
一応、念のための確認だ、とキングズリー・シャックルボルト……純血名門シャックルボルト家、実はスリザリン系の家門の男が笑む。堂々と仮想の敵、その陣地に踏み込んでおきながら、汗ひとつかいていない。
初めまして、と手を差し出されれば、素直に握手するしかなかった。分厚く、胼胝のある男の手であった。
――さすが
高位の闇祓い、とウルペクラは舌を巻く。適度に人懐っこい風を演じ、するりと懐に入り込む。スリザリン系から闇祓いになった変わり種の名は聞いたことがあったけれど、こんな男だとは思わなかった。
実にやりにくい。
礼儀を知らぬ者ならば、門前払いできよう。しかし、シャックルボルト家の男は、立ち居振る舞いは完璧で、その声は深く優しい響きがある。しかも奇妙な愛嬌まである。
これでは、追い返すことはできない。
レストレンジ家は、闇祓い局――ひいては魔法省に思うところがあるのか、と痛くもない腹を探られたくはないのだ。
「……ただ、君は時の人だ。シリウス・ブラックがあてにする可能性も――なくはない」
「僕は被害者です。闇の品が転がっていたんです信じてください。死喰い人の子なのは僕のせいじゃない。シリウス・ブラックなんて会ったこともない」
立て板に水で言い切った。シャックルボルトの気遣いを無にした。
「わかっている」
さらり、とシャックルボルトは流した。深い色の眼が、ウルペクラをじっと見る。
「『秘密の部屋』事件はただの事故で片が付いた……ということになっている。ダンブルドアはその筋で通した。ファッジは同意し、我々の出る幕はなかった」
シャックルボルトは言葉を切る。ゆっくりと、紅茶を口にした。ウルペクラも、茶器を傾けた。やたらと渋い味がした。
数秒の間に『秘密の部屋』事件の「その後」が脳裏を過ぎる。
ハリー・ポッターとロン・ウィーズリーに特別功労賞が贈られた。ウルペクラは臥せった。トム・マールヴォロ・リドルのせいである。あの男、遠慮容赦なく魔力を吸ってくれたようだ。
朦朧としながらも、退学かもな……と覚悟していたら、だ。
『犯人は闇の品じゃ』
わざわざ、ダンブルドアが医務室にやってきて、おっしゃったわけである。結果だけ言うと、ウルペクラはお咎めなしになった。
『それ、服従の呪文にかかって殺人を犯した者にも適用されます?』
服従の呪文どうこうは不忠者どものお決まりの文句であった。
本意ではなかったのです、操られていたのです、と。堂々と服従の呪文が云々と主張し、罪を逃れた筆頭がルシウス・マルフォイである。
可愛くない、生意気な発言を装い、『秘密の部屋』事件の発端を匂わせたのだが……。
わかっている、という風にダンブルドアは片眼を瞑った。
『ミス・ウィーズリーの証言もあるしの。ウルペクラ、君は被害者じゃよ』
このボケ爺が、と言わなかっただけウルペクラは偉いと思う。ダンブルドアのきらきらした眼ときたら。ウルペクラのことを、どこかの正義感溢れるグリフィンドール生か、穏和で忍耐強く、いついつまでも「借りを返す」という姿勢で、しつこく友人だなんだと言ってくるハッフルパフ生とでもお思いなのか。
ウルペクラ・レストレンジは狡猾なスリザリン生でしかない。
『真に受けませんように。小さいのは混乱しておりました。あれが感謝すべきは、英雄ハリー・ポッターにでしょう』
僕は、闇の品と知らずに強奪しただけです。小さいウィーズリーの勘違いです。愚かな。
ビシバシと言っても、暖簾に腕押し。
お人好しのダンブルドアはおっしゃった。
『ウルペクラ、特別功労賞は贈れないが、なにかほしいものはあるかの?』
人の話を聞け、と返す代わりにウルペクラは言った。
『後々にほしいものができたら、そのときにいただきます』
――ダンブルドアを召喚して
シャックルボルトを追い返してもらおうかな。
くだらない考えが閃くも、すぐさま打ち消した。たかが闇祓いと楽しく「おしゃべり」できず、なんとする。ダンブルドアにお出まし願うまでもない。
「……ブラックの、近い血縁を訪問する必要があったのだよ」
シャックルボルトは辛抱強く言う。ウルペクラは鼻を鳴らした。
「わざわざ? ブラック分家の三姉妹、どの筋も、シリウス・ブラックと関わりたがるとは思えませんね。あなた方が言いがかりをつけて、聴取目的という建前で捕縛できるとしたら」
この僕、ウルペクラ・レストレンジでしょうが。
低い、低い声が漏れ出る。
捕縛の可能性は半分考えていた。
なにせ、シリウス・ブラックが脱獄して日が経っている。八月に入ってもなお、足取りが不明。このあたりで一つ……と囮、あるいは人質を確保して、ブラックの前にちらつかせよう、と誰かが考えてもおかしくはない。
ウルペクラの母、ベラトリックスとシリウス・ブラックはいとこ同士なのだから。なおかつ、腕に蛇を飼う「同志」。ウルペクラを捕まえて、処刑をちらつかせれば……。
「どこの暴君だ」
シャックルボルトは素早く否定した。そんな非道をするわけがないだろう、とその眼は言っている。なんとまあ人道的なことであろうか。
死喰い人なんて、子どもを人質にして敵対者を釣り出して皆殺しにしたらしいのに。
多少純血主義に傾いていようが、正義の御旗を掲げる者。魔法省は簡単で楽な手段はとらない、と仰せである。
「暴君ではない、臆病などこかの誰かのために、動いていらっしゃる?」
ひょいと問いを投げた。シャックルボルトは「我々は皆が安心して眠れるように、日夜働いている」とだけ言った。
別に嘘ではないだろう。闇祓いは激務と聞く。「皆」のなかに、臆病な誰かこと、魔法大臣も含まれているだけの話。どうせブラックが脱獄した、どうしようの大騒ぎをしているのであろう。形式的だろうがなんだろうが、闇祓い局はブラックの血縁の下に人をやって、様子を見るしかなかったのだ。
「あなたがたも大変ですね。どうせ無駄足なのに。レストレンジ家は穏和しくしていた」
重々、ご存じかと思いますが。
にっこりしてみせれば、シャックルボルトは黙って紅茶をすすった。
かた、と茶器が置かれる。
「……だからこそ、ルーファスは私を遣わせたのだ」
「そりゃあ、プルウェットやロングボトムの血縁は無理でしょう」
「君に罪はない。横丁で襲われかけたのも、なにもかも君のせいではない」
「記事にもならなかったのに、よくご存じだ」
どうせ監視していたんだろう、と含みを持たせる。もちろん、シャックルボルトは肯定も否定もしなかった。
「騒ぎにはなったからね。闇祓い局の耳にも届いたのだ。そして――」
もう何年も前に、耳を澄ませることもなくなった。
シャックルボルトは囁く。
ウルペクラは、そっと息を吐いた。
レストレンジ家は死喰い人を輩出した。殊に惨い真似をしでかした。その息子が悪に染まらない保証などない。闇祓いはもちろん、レストレンジ家を――ウルペクラを監視していただろう。死喰い人を恨む者は数多いる。同じく、魔法省を逆恨む者だって出てくる。死喰い人の血縁なんて、その筆頭である。
シャックルボルトはこう言ったのだ。
レストレンジ家の監視は、何年も前に解いた、と。
「……再び眼を見開き、耳を澄ませることは?」
「我々が見るべきは北。耳を傾けるべきも、北だろう」
監視は付くか? 否、闇祓い局はホグワーツ近辺を集中的に見張る。
潜ませた問いと答え。ウルペクラは眉をひそめた。
「――北?」
北の都の以北で、見張るべきと言うならば、それはあの場所しかありえない。ホグワーツである。
「大魔法使いを暗殺する、それか闇深い森に行くのではなく?」
「そろそろ腹を割って話そう。私に害意はない。君も同じだろう」
貴族の「おしゃべり」は疲れるものだ。
ふう、とシャックルボルトは吐息をつく。つられるように――それか、伝染したように、ウルペクラもどっと疲れてしまった。
回りくどいやりとりなど、時間の無駄である。
「ダンブルドアでも……アルバニアの森にいるというヴォルデモートでもない。シリウス・ブラックの目的は」
生き残った男の子、ハリー・ポッターだ。
「……闇祓いの次は」
行き倒れか?
ウルペクラは呟き、門を開ける。レストレンジ邸前に、真っ黒い塊が、伏せていた。
昨日はキングズリー・シャックルボルト、今日――嵐の夜は、大きな犬がやってきた。
「出なきゃよかったな」
ウルペクラは、果樹園と薬草園の様子を見たかっただけだ。犬が行き倒れているなんて、想定外だ。
膝を突く。闇色の犬は、ぴくりとも動かない。死んでいたら困る。墓場を守るのは黒犬と相場が決まっているものだ。邸の前でくたばられるなんて、縁起でもない。
仕方がないな、と呟いて、ウルペクラは杖を振った。ふわり、と黒犬が浮き上がる。
そうして、かわいそうな黒犬は、レストレンジ邸に招き入れられた。