燃えるような熱に突き動かされ、やせ衰えた身に鞭打った。
冷たい海に飛び込み、ひたすらに前へ進んだ。
心にあったのは、北へという思いだ。
北へ。
ハリーのいるホグワーツへ。
――刺激臭に、鉄錆の香
道の中央は深く抉れ、裂かれた配管から、おびただしい水が噴き出している。
耳をつんざくような叫び。
玩具のように転がる、首、腕、足……半分にちぎれたなにか。
あいつの姿はどこにもない。
逃げられた、と呟く。
勝てないと悟り、あいつは逃げた。
真の秘密の守り人は、すべての真実を呑み込んだまま死ぬことで。
裁きの手を逃れ。
彼を陥れた。
――もはや
誰にも証明できない。
彼が――シリウス・ブラックが無実なのだと。
「――拾ったものはしょうがなし。僕は嫌だぞ。また運んで、どこかの邸の前に捨ててくるなんて。ロクサーヌが喜んでいるんだから、飲み込むんだなディラン」
誰かの、尖った声が、悪夢を祓う。重い瞼を開け身じろげば、灰色の眼が、彼を捉えた。
「ほら、弱っているが死にはしない。こいつは強いよ」
どこか得意げに、少年は言った。金色の髪。眼は灰色……いや、光の加減で、銀色に、はたまた青を帯びる――星の色。
そろり、と様子を窺えば、どうやらどこかの室らしい。彼は暖炉の側に寝かされている。何枚か毛布を敷いた、その上で。
室は、緑と銀を基調に整えられている。
敷物は深い緑。草花の紋があしらわれている。
壁紙は白。かかっているのは
――ものすごく
嫌な予感がする、と彼は息を殺した。
北へ向かって旅をしていて、食べ残しが出そうな場所をうろついていた。知らぬ間に邸宅街に足を踏み入れ、力尽きた。それは仕方がない。なにせホグワーツは遠いのだ。名付け子の様子を見て、元気を得たとはいえ……それでも遠い。
よりにもよって、スリザリン系の家門の前で倒れるとは。緑と銀はスリザリンの色。生家とて、この二色を取り入れていた。もっとも、夜の黒と星々の金と銀が主ではあったが。
「……どうした? まだ寒いか? 我慢しろ。これ以上暑くしたら、僕がのぼせる」
少年――青年と言ってもいいかもしれない――が優しく言う。そっと頭を撫でられて、ぱたぱたと尾を振ってしまった。内心ではさっさとこの邸を逃げ出したかったのだが、身体が言うことを聞かない。
別の邸の前で倒れればよかった。『蠍』と『双狼』の織物なんて、つまり答えは出ているではないか。一族の本邸があるのは北の都だということを、すっかり忘れていた。
いやいや、本邸――敷地は広く、塀が連なっているが――ではなく、分家の邸と誰か言ってくれ。
彼、シリウス・ブラックの儚い願いは打ち砕かれた。
少年は、ふいっと彼から視線を外し、後ろを見やった。
「ディラン、なにかあたたかいものでも用意してやれ。たぶん、ロクサーヌが……レストレンジの主は僕だぞ? 犬一匹くらい、いいだろう。ブラック家に預けろって? 今いるのは代理人だろうどうなんだ。というか、嫌だ」
このご時世、ブラック家に関わろうとする者がどこにいる、と少年はきつく言う。
ああ、とシリウスは息を吐いた。それは、ぷすんという頼りない音にしかならなかった。
シリウスだって関わり合いたくなかったとも。
レストレンジなんて。あの従姉の嫁ぎ先なんて!
心の叫びを聞く者は、誰もいない。
どんよりとした気分のシリウスに、追い打ちがかかった。
「ウル様、わんちゃ……お客様がお目覚めになったとか」
落ち着こうとして失敗している、どこか弾んだ声。衣擦れの音とともに、金色の髪の女が、シリウスを覗き込む。
さあ、ミルクよと歌うように言う女を、シリウスは知っていた。
ロクサーヌ・レストレンジ。シリウスより、二つほど下の魔女。ロドルファス・レストレンジの乳兄妹。つまり幼馴染。
一応、知己にあたる女にこんな姿を見られるとは。
いっそのこと、気を失いたい、とシリウスは強く思った。
都合よく失神できるわけもなく、機嫌のよさそうな知己と、興味深そうな様子の従姉の息子に見守られる中、彼は大変惨めな気分であたたかいミルクを飲んだ。
「……犬の持ち込みってできるんだ?」
時は流れ、九月一日、ホグワーツ特急。某コンパートメントにて、ザビニが言った。きちんとおすわりしている犬をよしよしと撫で……呆れたようにウルペクラを見やる。
「迷い犬を拾ったので、連れて行っていいか、とダンブルドアにお伺いした」
「うっわ、直接手紙を? それで許可が出たんだ」
「通さざるを得ないというか……」
言を切る。
「補填の意味合いが強い」
犬――家令の片割れロクサーヌがパッドフットと命名した――が穏和しく伏せる。ずっと鞄に入れて運ぶつもりが、結局出すことになった。ダフネがかわいそうがって「出してあげて、ウル」と言ったからだった。お陰でパッドフットは伸び伸びとホグワーツ特急の旅を楽しんでいる。
「事件に巻き込まれたから?」
ダフネが言い、ウルペクラは頷いた。
「特別功労賞の代わりになにか、と言われていたから権利を行使した。むしろ、僕は退学を覚悟していたのだけど」
「暴走した闇の品に操られただけだろう?」
ザビニがさらりと言い、ダフネがつっと眼を逸らした。ウルペクラは言い足した。
「奇跡的に死人が出なかっただけで――君たちも散々聞いただろうに。ウルペクラ・レストレンジはサラザール・スリザリンの末裔じゃないか、とか」
もっと言えば――闇の帝王がスリザリンの直系という「噂」もあるのだが、あえて触れない。『名前を言ってはいけない例のあの人』の影は、この十数年で薄れてしまっている。
家令夫妻は闇の帝王の恐ろしさを滾々と言って聞かせたが、容姿その他、詳細については語らなかった。語れなかったと言ったほうが正しいだろう。噂をすれば影という。彼らは、語ることで影を呼び寄せることを嫌ったのだ。
そういう事情もあり、ノットの父に教えてもらうまで闇の帝王=スリザリンの末裔……について、知らなかったくらいなのだ。先学期「トム・マールヴォロ・リドル」に憑依されたことで、もっと深い事情が知れた。彼は混血だ。おそらく、一部の死喰い人しか知らないだろう。
――スリザリンの末裔になら、喜んで従うだろうが
それにしたって。父母の節操のなさよ。純血主義を謳いながら、混血に膝を突き、生後数ヶ月の息子に闇の印を「賜う」ほどの忠を示すとは。一途? 健気? 忠臣? 半分がスリザリン――ゴーントならそれでよいと。
いくらなんでも酷すぎないか。純血過激派を謳うのならば、もっと一貫してほしかった。
「本当に末裔だったりする?」
ザビニの声に、我に返った。監獄にいる父母のことを溝に放り投げる。軽く眼を瞑り、苛立ちをどうにか鎮めた。
「誰が末裔でもおかしくない。ポッターが蛇語を話すくらいだ。翻せば末裔ではない、と証明するほうが難しいかも」
淡々と述べる。たぶん、末裔――濃い血の持ち主ではないと思うのだが。きっと、傷跡が関係しているのだろう。「トム・マールヴォロ・リドル」はそのようなことを言っていたような、なかったような。赤ん坊だったハリー・ポッターを殺すはずの呪文が跳ね返って……?
どうだったか。つきり、と頭が痛む。その痛みから逃れるように、考える。
ウルペクラの場合は、憑依されていたからこそ蛇語を解したのだ。ポッターは、謎めいた呪いの繋がりというべきものがあるのだろう。
傷跡とは徴である。英雄譚には付き物だ。生まれたときから不思議な徴がありました、とか。
「――とにかく」
話を戻す。ウルペクラは両隣のザビニとダフネを交互に見た。
「お人好しのダンブルドアは、僕を裁かなかった。闇の品のせいにして『秘密の部屋』事件を封印したんだ」
もはや『秘密の部屋』はないも同然。怪物たる蛇の王は死に、刻々と朽ちているだろう。
後に残ったのは、ハリー・ポッターの英雄譚と、ウルペクラ・レストレンジの汚名だけだ。
少し話し込み、ウルペクラは一旦コンパートメントを離れた。五年生になり、予想通り監督生になったからだ。ダンブルドアは『秘密の部屋』を開けた者にも慈悲をくださるらしい。
ダフネが可愛がっているのでパッドフットは置いていこうと思ったのだけれど、忠実な黒犬はついてきた。どうやら自分の任務が護衛だと承知しているようである。
家令夫妻にすすめられたのだ。何事かあるかわかりませんから、是非お連れください。仮に――万が一、シリウス・ブラックが接触してきても、時間を稼ぐくらいはできましょう。それに、先学期の事件で坊ちゃまの評判はいささか傷ついております。用心するに越したことはない、と。
「……いい加減、坊ちゃまはやめてほしいんだが」
ぼそりと呟く。隣を歩くパッドフットがウルペクラを見上げた。その灰色の眼には同情めいたものが浮かんでいる――ような気がした。
ただの犬である。家令夫妻の妻こと、ロクサーヌによって名付けられた、真っ黒な犬。ちなみにパッドフットの由来は「どこかで聞いたことがあって」らしい。星の名からアルカイドやらセイリオスやら付けるよりはいいだろう。仰々しすぎる。
見回りは、退屈な上につまらなかった。昼にコンパートメントに戻り、また見回り。ドラコがどこかのマグル生まれにちょっかいをかけていたので、締めておいた。腹の立つことに、なにやら反駁する素振りがあったので「マルフォイ家がどういう状況かわかっているのか」と切って捨てた。
「……なんであれが従弟」
眉間に皺を立てる。鬱陶しいけれど縁を切るわけにはいかず、さらにそれが鬱陶しさを増すものである。
「血の繋がりなんて、呪いと一緒だ」
同意を示すように、パッドフットが尾を振った。数少ない理解者である。純血、同族主義、仲良し倶楽部では、なかなか受け入れられない感覚であろう。ウルペクラとて、特急の通路でぼそりと言うくらいが関の山である。
「よりにもよって、母上の従弟がシリウス・ブラック」
パッドフットの尾が、しゅんと下がった。いったいなんなのだろうと思ったが、構わず続ける。
「おまけに吸魂鬼配備の噂」
本当かね。呟き、ポケットに手を入れる。かさりとした感触は、家令夫妻が無理矢理押しつけてきた、チョコレートだ。彼らは大変心配性なのである。
いつものことだ、どうせ杞憂だ、とウルペクラは甘くみていた。が、今回ばかりは育ての親が正しかったのだと、彼は十数分後に思い知ることになる。
特急の速度が落ち……首を捻り……たまたま行き合った「友人」ことセドリックと立ち話をしているうちに、停電。猛烈な寒気襲来。
そして、吸魂鬼がやってきて。
ウルペクラに灼きついた、魂の疵を、深く抉った。
灼熱の痛みが襲う。つんざくような悲鳴がほとばしる。
それが、己の喉から絞り出されたものなのだと、こぎつねはわかっていた。
痛い、やめてと叫んだ。
『わかったのなら、穏和しくするんだよ』
名誉なことなのだから。
優しく、甘い囁き。
だというのに、彼を見下ろす眼は冷たい。
お母様、と呼んでも、にっこりするばかり。
手を掴まれる。よろよろと歩く。坊ちゃま、と掠れた声。
涙に滲んだ眼に、震える「おねえさま」がいた……。おねえさまと、おにいさま。彼に必死に手を伸ばす、お父様の幼なじみ。
『奥様!』
坊ちゃまになにを……どうか。
『やめるんだロクサーヌ、ディラン』
お父様が静かに言う。杖を構え、お母様に頷く。
『後は任せても?』
『ああ』
お母様が、彼の手をぎゅっと握る。強く、強く。
そして、扉が開いて、閉じた。
これほどの名誉がありましょうか。
これほどの幸福がありましょうか。
熱を孕み、艶を帯びた声が歌う。
ああ、我が君。
この子は我が君、あなたのもの。印されし者。
喜んで、捧げましょう。
お母様が歌う。とても、とっても嬉しそうに。
ふらり、と彼はよろめく。お母様が彼を支え、こう言った。
『おいき』
栄光への道を。
これは、誉れなのだよ。
ひょうひょう、と息を漏らす。ぽろぽろと涙がこぼれる。座っている男の人は――お母様たちの「主」なのだと知っていた。
とても、とても怖い人。紅い眼で彼を見下ろしている。
彼はその人が好きではなかった。恐ろしかった。泣きたかった。逃げたかった。
だって……だって、彼に苦いものを飲ませて、笑っていた。甲高い声で、怪物のように。
『ああこれが、レストレンジの粋か』
よくやった、ベラ! ロドルファス! よく生した!
なにを言っているのかわからなくても、その不気味さだけは……なぜだかわかった。
その怖い人が、また邸に来て、彼をじいっと見つめている。
すくむ。
『ウルペクラ・レストレンジ。俺様が名を付け、俺様が印したもの』
名誉と思え。
――
美しく、だというのに冷たい声とともに、杖が振られる。
そうして――彼は。
捧げられたこぎつねは。
魂が壊れんばかりの悲鳴を上げた。