シリウス・ブラックはまんまと逃げおおせ、ホグワーツは少々騒がしくなった。恐怖に震えてどうしよう、というわけではない。どいつもこいつも探偵気取りの迷探偵になっていた。
やれ、透明になったに違いないとか、変身して逃げたに違いないとか、くだらない推理が花盛りであった。
シリウス・ブラック侵入事件から約二十四時間経った現在――夜のスリザリン寮ですら、雑談混じりに推理が披露される有様。ウルペクラは談話室で耳を傾けるのみ。余計なことは口にしなかった。
吸魂鬼相手に小細工が通用するものか。お前たちときたら、幼少期からなにを聞いていたんだ。アズカバンと吸魂鬼について親から嫌というほど叩き込まれているだろうに……等々、いくらでも言えたのだけども。
嘆かわしいことだ。
吸魂鬼には独特の感覚がある、と言われている。穢れ者たちは、感情を――魂を感知する。吸魂鬼という名の通り、魂を喰らうのである。
罪人を一カ所に固めておけば、あとは吸魂鬼が勝手に仕事をしてくれる。希望や喜びを喰らい、最悪の記憶しか持たなければ、罪人は狂い、やがて壊れる。アズカバンに入れられるということは、緩慢な死刑に他ならない。
最下層に入れられたならば、緩慢どころか速やかに、壊れて死ぬ。どうやらウルペクラの両親……と叔父は耐えているようだが。とんだ化け物である。そんな化け物ですら脱獄を果たせず、闇に沈んでいる。
しかし、シリウス・ブラックはやり遂げた。脱獄――してのけた。
「……杖は持っていない」
談話室の隅、座り心地のよいソファに身を沈め、ウルペクラは独りごちた。ソファの傍らにおすわりしているパッドフットを撫で、考えをまとめる。
夜中に巡回したせいで、あまり頭が回らないのだ。大広間――寝袋ではとても眠れたものではなく、寮に戻ってから仮眠したものの、足りない。錆び付いた思考を無理矢理に動かす。
「仮死になって脱出……はありえなくないが、吸魂鬼が同意するとは思えない。最下層の囚人は極上の餌だろう。彼らは今のアズカバンに満足している」
パッドフットの耳をかいてやる。灰色の眼を見下ろせば、彼はゆるゆると瞼を閉じた。
「ありえるとすれば、闇の帝王が復活し……吸魂鬼を段階的に掌握したときか、それか囚人の母数が減ったときに取引を持ちかけるか」
前者は魔法省がアズカバンを――吸魂鬼を制御できなくなった場合。後者は、闇の時代が完全に終わり、犯罪率が下がり、極上の餌どもが減り、吸魂鬼が飢えた場合。
どちらもありえる、と思う。闇の帝王はなにがなんでも復活しそうである。肉体を失ったらしい我が君は、賢者の石を求めたくらいだ。肉体もとい器がないということは、現世に己を留める、確かな楔がないということ。器と魂は本来不可分。闇の帝王の状態は異常である。魂を切り離す術はあるようだが――土御門の得意分野とされる――器ありきの術である。
闇の帝王は土御門ではない。ましてやその出自は孤児である。名門が積み上げてきた知識や技術を持ち合わせていない。
――孤児である、ということを
あの男は――トム・マールヴォロ・リドルは認めたがらなかった、とウルペクラは吐息を落とす。
哀れな孤児は、怒りと呪いに満ちていた。リドルという男にたぶらかされた愚かな母親。産み捨てられた。特別な存在なはずなのに、なぜ穢らわしい姓を名乗らねばならぬのか……。
スリザリンの末裔。だが、それを証すものはなにもない。トム・マールヴォロ・リドルは自称末裔なのである。蛇語の異能と、後年色を変じた紅の眼だけが末裔「であろう」と主張するのみ。
話を戻そう。
ただの孤児は恵まれた環境にはいなかった。よって、土御門のように魂を切り離した上で術を行使する、などという技を学ぶ機会などなかったはずだ。ましてや、器なしで存在――魂を維持する術など、だ。
闇の帝王が死を回避する術を編んでいたとして、器という楔もなしに現世をさまよっている状態だ。極めて不安定で、ふとした拍子に消滅してもおかしくはない。
むしろ、消滅していないのがおかしい。賢者の石を奪取しようと考え、クィレルに憑依しようと考えるだけの思考力を残しているのが異常なのだ。
闇の帝王は、意志の力のみで、強固な自己を保っているのだ。
死から逃れる術は、おとぎ話に数多謳われている。だが、たいてい「悪い魔法使い」は怪物になって、獣より劣る存在となり、討たれるものだ。
「主が規格外ならば、
ウルペクラは吐き捨てる。
アルバニアの森に潜んでいるらしい「ご主人様」が、形はどうあれ生きているのは確実だ。シリウス・ブラックの脱獄など、もはや些事にしか思えなくなってきた。
「箒なしで空を飛べるらしいからな、あの方」
ぽつ、と呟く。パッドフットが軽く唸った。犬ですら驚く偉業よ。それにしてもこの犬は賢い。魔法界産の生き物はたいていそうであるが。
レストレンジの山羊だって、しばしば脱走をくわだてているらしいし。日々管理人――領民と山羊の攻防が繰り広げられているようだ。
「まあ……杖なしでできる魔法もあるが」
眠気が忍び寄る。やっと、まともに眠れそうだ。
つらつらと、考える。
魔法族は、杖がなければ魔法が使えない、というわけではない。杖はただの道具、効率的に魔法を使うためのものだ。その証に、歌が残っている。
まどろみながら、ウルペクラは囁く。魔法族が聞かされる子守歌を。
かつて、怪物を封じたという七聖賢の歌を。
深い深い地の底に、嘆きの声が響いています
よい子も悪い子もいらっしゃい……
ここは寂しいばかりだから
みんなみんないらっしゃい
英国魔法族に生まれたならば、聞かされるおとぎ話。伝説だ。
とある場所に潜む怪物。寂しい怪物は、その地の民を呼び、招く。何人も何人も、何人も、帰ってこない。
困り果てた彼らは、わんわんと泣き……優れた力を持つ七人が、やってきた。
囁くように続ける。
騎士様が、ならば助けようと言いました
なぜならば、占者様、先視の
寂しい怪物を眠らせる方法があるのだと
神女様は言いました
七つの力で眠らせましょう
銀と金と鉛、ナナカマドとトネリコとオーク……
そして骨で、祀りましょう
裁縫師様がみんなのために、衣をあつらえました
神女様のものは、とびきり綺麗なものをあつらえました
歌い手様と舞い手様が力を合わせれば、怪物はうっとりしました
綴る御方は魔法の環を描き、怪物を縛りました
どうして、と怪物は泣きました
どうして、どうして
お腹が減って、さびしかっただけなのに
わんわんと泣く怪物を、騎士様の剣が貫きました
苦しいよぉと泣く怪物を、竜の優しい炎が灼いてしまいました
魔法の環が輝きます
銀と金、鉛、ナナカマドとトネリコとオークが怪物を封じていきます
そして、炎の中に
朧な門に
神女様が飛び込みました
さあ寂しくはありません
わたしをあげましょう
この骨をあげましょう
この魂をあげましょう
なぜならば、わたしは
いやはてを知っていたのです
己の終わりを知っていたのです
そうして、七つの力で怪物は祀られました
真っ白い、不思議な真珠色に輝く、口の向こうに追いやられました
七聖賢の歌……おとぎ話は、杖なし魔法を――その例を語り聞かせるものだという見方もある。
それか、先視が時に
または、自己犠牲の美しさを説いているとか。様々な論がある。
七聖賢の役柄も地方によっては変化しているようだ。たとえば舞い手の代わりに癒し手が入っていたり、獣使いがいたり。はたまた、皮を羽織る者――現代語では動物もどき――がいたりだとか。
夢うつつの中、子守歌が響く。
まどろみは現世の枷をゆるめ、直感を冴え渡らせる。
杖なし魔法。吸魂鬼は魂を喰らう。感知する。しかし――。
人でなければどうか。
器の変化は内面に影響をもたらす。ならば……。
動物もどきならば、吸魂鬼の魔手から逃れられるのでは。
ありえる、と呟いて、こぎつねは瞼を閉じる。
寄り添う黒い犬をそっと撫でた。
とある可能性が過ぎったが、即座に打ち消した。
もしそうであったとしても、ウルペクラには関係ない話だ。暴き立て、突き出したところで益はない。
が、それはそれとして余計な仕事が増えて腹が立っていたので、黒犬の耳を探り、ぎゅっとつねってやった。
レストレンジの飼い犬こと、パッドフット、シリウス・ブラック――アズカバンの囚人、実は冤罪――は、飼い主にきゅっと耳をつねられても、穏和しくしていた。ウルペクラがお怒りなのはわかっていたからだ。
ソファで眠ってしまった彼を、どうしようか。くんくんと鼻を鳴らしてみせる。あの邪悪な従姉の子とは思えないほど、ウルペクラはまともであった。風邪を引かせては大変である。
――ただのまともな、よい子ではなさそうだが
どうも「パッドフット」の正体を勘付いている……ように思う。おそらく、黙認、知らぬふりであろう。スリザリンらしいことだ。下手に事を荒立てず、自身が不利益を被りそうになれば、即座にシリウスを突き出すか、放り出すだろう。
ウルペクラの立場は微妙なのだ。両親は闇の帝王の忠臣。一応、純血派。だけれども彼自身はさして純血思想に傾いていないように見える。
死喰い人とされる男を突き出せば、晴れて「反純血派」の仲間入りであろう。堂々とヴォルデモートに反旗を翻すことになる。それは避けたいはずで、かといってシリウスに協力もしたくないだろう。どっちつかず、中立の立場でいるはずだ。ぎりぎりまで事態を静観するのが吉、と判じたのだろう。
シリウスの勝手な推測でしかないが、今は信じるしかない。
幸運にも拾われて、ホグワーツにやって来られた。
幸運にもねぐらがある。
シリウスは祈りを捧げる。
気まぐれな女神よ、悪戯なお方よ。
どうか、闇に沈んだ十余年を対価に。
あの裏切り者の首を、与えたまえ。
名付け子を、守らせたまえ、と。
きちんとおすわりした、黒い犬が一心に祈っている最中。
金色の髪に、緑の眼の女の子がそっとやってきて、眠るこぎつねに毛布をかけ……そうっとそうっと去っていった。