流れゆく雲は朱く、水面は金色に輝いている。
船縁が身を乗り出し、見るともなしに海を眺める。某家主催の冬の、その会場はなんと船上なのである。豪華客船で優雅なお遊びである。
船の出自は不明とされている。が、十中八九、北アイルランドのベルファストにある某造船所から「借りた」ものであろう。その昔、氷山に衝突し真っ二つになって北大西洋に沈んでいるとされる豪華客船の、幻の姉妹船……というのは、知らぬふりをするのが礼儀だ。
マグルは沈没してしまった哀れな船と併せて姉妹船が四隻だなんて、覚えていないわけだし。まさしく夢幻。知らぬことは、存在しないのと同じことだ。
某家は派手好きで、マグルからちょこちょこと物をくすね……いや、借りるのがお好きなのだ。
そも、某家のみならず、魔法族はマグルから色々とかすめ取るものである。領地を、財を奪い取るのはマルフォイ家の十八番だったか。貪欲なる『竜』を紋とするマルフォイが目立つだけで、純血とされる家はマグルと繋がり、マルフォイと似たような真似をしてきた。
奪い取る、という言い方は悪意があるかもしれない。単なる政略婚。結びつきの場合もあれば、乗っ取り、吸収した場合もあるだろう。
昔々は、マグル――上流との婚姻など珍しくもなかったのだとか。マルフォイなんてマグルの女王陛下にちょっかいをかけてふられたのだ、というのは公然の秘密である。
今はマグルとなんて結びついていません、純血ですという面をしている者どもは、そんな穢れたマグルから奪い取ったお船で遊んでいる、というわけだ。
派手好きな某家こと、主催者の家はけして奪ったとは言わないが。正当な取引のもと、手に入れたのだと主張する。そしてこう付け加える。「ホグワーツ特急だって、正当な取引のもと借りていますしね。百年以上」と。
けして感心はするまい。よくもまあ巧く借りたなと思うまい。一応、正当な取引で借りたのだろう。さすがに補填はしたはず。
――この家の祖が
船をほしがるのもわかる、とウルペクラは苦笑した。
冬で、風は冷たいが景色がよい。大広間に閉じこめられるよりは、よほどいい。
マグルから借りてきて、少し手を加えただけ。派手好き一族のお邸よりは趣味がよいのだ。
ぼんやりと風景を眺める。船上――甲板は広く、ウルペクラの邪魔をする者はいない。
舞踏場にて行われた、ダンスパーティはお開きになった。
ウルペクラは義務を果たした。つつがなく、舞踏会を終えることができた。今日、お披露目を済ませたばかりの、小さな淑女たちの相手をするはめになったけれど。
理由は知らない。社交界に誘われた……当人たちにとっては放り込まれたに等しい状況で、心細かったようだ。
いかにも面倒そうに踊っているノットや、船の揺れのせいで青白い顔をしているドラコ、年上のお姉さま方とはしゃいでいるザビニに比べれば「落ち着いているお兄様」が魅力的に映ったらしい。どうせ手持ち無沙汰であったからよいのだが。それでも、手を抜いて転ばせるようなことは言語道断であった。やたらと気を遣った。
なにせ、彼女たちは幼い。早ければ九歳、だいたい十歳で社交界――宴にてお披露目される。これがうちの子ですよ、よろしくお願いします、と。
あくまで慣例であり、原則であるが。お披露目しなければならないわけでもない。厳格な決まりはないし、別に六歳の子をよその宴に放り込んでも罰が下るわけでもない。ただ、眉をひそめられる。七歳までは身内の小さな宴や、極親しい友人の、内輪の集まり、ご近所付き合いに絞るものなのだ。
七歳が一つの区切りであるから。この年齢までに魔法力を顕さなければスクイブである、とされている。晴れて魔法力を発揮すれば、出来損ないではない、れっきとした魔法族であると親は胸をなで下ろす。
子が出来損ないではなかった、と確定すると、親たちはせっせと踊りやら作法やらを本格的に躾る。少しずつ、内々の世界から外の世界に慣れさせ、どこかの「純血」の、規模の大きめな社交でお披露目、という流れだ。
ウルペクラの場合、お披露目なんてものは、なし崩しでなあなあだったが。生まれたときには魔法力を顕していて、近い血縁はマルフォイ家。マルフォイ家は純血主義ではあるもの、寛容な一面を見せたいらしく、宴の規模は大きく、純血――上流から、一応純血、末端、泡沫……であるが、魔法省勤めとか、クィディッチ選手であるとか、色々な人物を招いていた。
それに、マルフォイ家当主ルシウス、ウルペクラの叔父は面の皮が大変ぶ厚いので、前の魔法大臣――ミリセント・バグノールド主催の宴に出席したり、招待状を出したりしていたそうだ。
魔法大臣が交代してから、コーネリウス・ファッジとルシウスは「仲良く」しているようである。
社交、宴といっても様々なのだ。ウルペクラが知るのは、貴族社会、上流のそれである。純血のなかでも「上」しか招かないようなものから、あちこちから招くものまで幅広いものなのだ。
マルフォイ家も、豪華客船の主に負けず劣らず派手好みである。財力を誇示したくて仕方がなく「純血」の筆頭だという顔をしたくて仕方がない。
ブラック家という重石がいなくなってから、顕著になった……と言っていたのは、シシー叔母だったか。
我が一族とて、泡沫を寛大にも招くことはあったけれど。そんなに目立ちたいなら、どこかの島でも買って夜通し宴をすればよいのだわ、と。ウル、あなたはお庭で孔雀を買うような浪費をしてはいけませんよ、と。
なんだかんだいって、シシー叔母は孔雀――特に白い孔雀を気に入っているくせに。
孔雀はいいのだ、と頭を振る。とにかく、小さな淑女たちの相手をして疲れた。彼女たちが悪いのではない。親たちの、青ざめた顔――なぜよりにもよって「レストレンジ」と! という叫びが聞こえるようなそれ――に、あれこれ削られた。
眼が合えば石になるわけでもないし、呪われるわけでもないのに失礼な連中である。そんなに嫌なら「ウルペクラ・レストレンジ」の顔を可愛い可愛い娘に覚え込ませろ。
鼻を鳴らしたとき。背後から、軽い靴音が近づいてきた。
「お疲れのようだね」
「酒盛りをしなくてよいので?」
振り向きもせずに返す。訪ね人など知れている。ノットの父だ。てっきり、退屈な舞踏会はお開きになったし、どこかの階で歓談なりなんなりしているだろうと思っていたが。豪華客船だけあって、客室階があれば、喫茶もあり、酒場もある。もちろん舞踏会場に使える広間もあるのだ。
「君だって、大人の社交をしなくていいのかな?」
「……どうせシリウス・ブラックはどこに行ったとか、まあ別にブラックがどうなろうととか、どうせなにもできまいとか、可愛いうちの子がいるのに吸魂鬼なんてとか、ポッターめ、早くくたばらないかな……とか、あの方情報をやりとりするんでしょう?」
立て板に水とばかりに口にした。ノットの父は、ウルペクラの隣にやってきて、ウルペクラと同じく船縁から身を乗り出す。
「ああ……くだらないやりとりだったよ。空気が籠もっていてねえ……風が気持ちよいことだ。豪華客船なんて馬鹿じゃないかと思っていたが、悪くない」
ドラコとセオは仲良く吐いているよ、とノットの父が言う。ウルペクラは眼を瞑った。夕陽が眼に染みる。
「あなたの賢いご子息はともかく、ドラコは謎だ……箒に乗れるんだから、船酔いなんてしないだろうに……で?」
ウルペクラは、瞼を上げた。すぅ、と視線を滑らせる。朱に染まった細面を見やった。
「僕ら、くだらないおしゃべりをする仲でしたっけ?」
「いつも息子によくしてくれてありがとう、ウルペクラ。ついでに私にも親切を恵んでほしいな」
「お年を召した方には、僕は優しい」
「酷いなあ……」
くっと、ノットの父が笑う。細めた眼が鋭く光った。
「君は『秘密の部屋』を開けた犯人。闇の品の暴走に巻き込まれた被害者、とされている。ルシウスが馬鹿をしたせいでね」
続きを、と無言で促す。ノットの父はさらさらと言った。
「共犯だった? いや、君の様子を見る限り、そうではない。どちらかというと巻き込まれたのだろうし、主犯はルシウスだ。『秘密の部屋』を開けられるのはあのお方のみ。闇の品に仕掛けがあったのだろうと思う」
ノットの父は言を切る。ゆっくりと、考えをまとめるように呟いた。
「『秘密の部屋』を開ける鍵とでも言われて、ルシウスがあの方に託されたのだろう。だが、単なる鍵ではないし、ただの闇の品ではなかったのではないかな?」
「闇の品がどんなものだったか、と素直に訊いてくださいよ」
ウルペクラは嘆息する。ノットの父は好奇心旺盛なのだ。なぜこの人がレイブンクローにならなかったのか。それとも「穢れた血は魔法族より劣る」と思っているからスリザリンに組分けされたのか。
「憑依されたんですよ」
「……ほう?」
ノットの父が、声を上げる。高い、細い声……奇妙な震えを帯びる声であった。なにをそんなに驚き、興奮しているのだろうか。
ウルペクラは首を傾げ――ノットの父の言葉に固まった。
「君、わかっているのかい? 憑依というのは乗っ取りだ。乗り移りといってもいいな……」
ぎくりとする。記憶を手繰るまでもない。およそ一年数ヶ月前、今と同じように、ノットの父と話していた。あの方について。クィレルについて。死んだ、とだけしか公表されなかったクィレル。きっとあの方――闇の帝王に乗り移られていたのだろう、と。そんな話をした。
憑依とは、乗っ取り、乗り移り。
ウルペクラは、憑依された。トム・マールヴォロ・リドルに。『名前を言ってはいけない例のあの人』と呼ばれる前の彼に。
「……記憶を封じたのでは?」
ぞっとしながら反論する。憑依という言葉は理解できるのに、呑み込めない。呑み込みたくない。
年若い青年の抵抗を、ノットの父はせせら笑った。
「ただの記憶ならせいぜい読みとりくらいしかできない。『憂いの篩』がいい例だ。いいかね、闇の品は君に憑依し……うん、その顔だと操ったわけか……つまるところ、ある程度好きに動かした。干渉した」
「――クィレルのように? あの方は、アルバニアにいるのに」
「偉大なあの方。肉体を失っても生きておられるあの方。死を免れたあの方」
ノットの父が囁く。
「回避の方法は色々ある。おとぎ話にも謳われているね」
ウルペクラはそっと頷いた。頭の中を、ぐるぐると巡るのは魔法族ならば聞かされる、子ども向けのおはなし。
悪い魔法使いは、人形を身代わりにしました。東の国の悪い魔女は、美しいお姫様の身体を奪いました。王様をたぶらかしました……。
西の善き魔女は、呪いにかかった王子様を眠らせました。その呪いをほどく術を編めるまで、眠らせました……。
悪い魔法使いは、心臓を盗みました。八つ、盗みました。九つの命を得ました。
悪い魔法使いは、自分の魂を分けました……。空っぽになった、双子の弟の中に入れて、大事に大事に祀りました。
たくさんのおとぎ話。永遠を望む悪い魔法使い、誰かの身体を奪う悪い魔女。呪いを解こうとする西の善き魔女。
ひゅう、と息が漏れる。
闇の帝王は死ななかった。肉体を失ったのに、魂だけで存在している。そしてクィレルに憑依した。使い潰した。
トム・マールヴォロ・リドルは闇の品に宿るなにか。ウルペクラ・レストレンジに憑依して、操った……。
「――分けて、いる?」
「やあ、本当に偉大なお方だ。おとぎ話を現実にしてしまったらしい」
はは、とノットの父が笑う。難しいパズルを完成させてすっきりした、とばかりの爽やかな笑顔である。
「普通、身代わり人形くらいで済ませるでしょう。それか、器に乗り移るとか」
「だって我が君、普通じゃないから。とことんやるから。だからこその闇の帝王」
「お願いですから仮説と言ってください」
「ごめん、組み立てたらこういう結論が出た」
まるで他人事のように――ノットの父にとったら、他人事で、興味深い話なのだろうが――言われ、ウルペクラは肩を落とした。
そして、叔父の罪深さを噛みしめた。
よりにもよってあの人、あのお方の魂入りと思しき闇の品を、そうと知らずに破壊されたわけか。
絶対に漏らすまい。ノットの父にも誰にも言うまい。あの方に知れればどうなるか。ルシウスは下手をすれば処分される。シシー叔母を悲しませたくはない。
闇の品を壊したのはウルペクラなのだが。
情報過多で、頭を抱える。ノットの父はくつくつ笑うばかり。
「あとちょっとしたらチェス大会が始まるから、おいでよ」
気分転換になるよと言いおいて、ノットの父は去っていった。
ウルペクラは恨めしい気分でその背を見送ろうとし――自棄になってついていった。
なんでもいいから手を動かしたい気分である。
血の色に染まった甲板に、影がのびる。優雅に、しかしかすかに歩調を乱すウルペクラは知らなかった。ノットの父も「まさか」と思い、その可能性を除外していた。
おとぎ話を現実にした……という疑いが濃厚なあの方が、我が君が伝説の霧の中に踏み入っていたことを。伝説を、おとぎ話をも飛び越えていたことを。
魂を何度も何度も裂いていたことを。
そのことを知っていれば、ウルペクラはかろうじて保っていた平常心を、冷静沈着な仮面を崩壊させていただろうし。
チェス大会で優勝し
「ありがとう。助かった」
冬期休暇が明ける数日前、ホグワーツ城の玄関ホール。ウルペクラは紙袋をセドリックに押しつけた。
「いいのに。クリスマスプレゼントもくれたろう?」
セドリックはきょとんとする。ウルペクラは首を振り、ぐいっとリードを引いた。闇色の毛を艶々と輝かせたパッドフットが、渋々といった様子でおすわりする。
「……これの面倒をみてくれて、報告の手紙も寄越してくれたわけだから」
「この子の様子が知りたいかと思って」
セドリックは笑顔である。ウルペクラの少々沈んだ声にも、かすかに固い表情にも気づいていない。実に機嫌よく「散歩に行ったし、皆で雪合戦したし、アーニーたちもよく構っていたよ」とのことだ。まさに「僕らの楽しい冬休み」だったようだ。
彼がくれた手紙には「パッドフットは穏和しくしているよ。とても賢いね。僕の室に泊めてるんだ。ところでね……」と概要だけが書いていて、詳細は知らなかった。
――問題は
ところでね……の続きだったのだけど。
セドリックが何気なく書いた、冬期休暇中のとある出来事が、ウルペクラを北の都からホグズミード、ひいてはホグワーツへと走らせたわけである。
「お前が楽しかったならいいが」
過ぎった諸々を胸の内に押し込む。もう一度礼を言い、ウルペクラはパッドフットを連れて、玄関ホールを後にした。情け容赦なく彼を連行し、スリザリン寮――自室に到着する。
扉を閉め、盗聴防止その他を仕掛ける。リードを離せば、パッドフットは堂々と、姿勢よくおすわりした。
「……わかっているようでなによりだ」
大きな黒犬の、灰色の眼を――己と同じ色を見下ろす。見た目は賢い犬。どこか気品ある顔立ちの、闇毛の犬。セドリックに赤い首輪を付けてもらい――くそ、この代金も後で払わないといけないか――リードを引かれて――これの代金も以下略――連れられてくる様は、飼い犬そのものであった。
セドリックは大型犬、それも愛想がよくて懐っこいゴールデンレトリーバーじみているのでお似合いの組み合わせかもしれない。犬っぽい人間と、実は動物もどきと。
頭のよいセドリックが気づかなかったということは、パッドフットの正体は割れないだろう。それはいいのだ。
問題は、いかに優れていようと当の動物もどき、脱獄犯が馬鹿をやらかしていればどうしようもないということだ。
「――そんなに名付け子が可愛いか?」
ひく、と口端がひきつる。セドリックから手紙をもらった時の衝撃が鮮やかに蘇る。
彼はこう書いていたのだ。
『ところでね……ハリーに炎の雷が贈られたって噂で。噂というか確定だね。あんまりにも不審だから、マクゴナガル先生が預かったそうだ』
と。
「ポッターのニンバスが木っ端みじんになった件を知っている。つまり、まだ周囲に潜んでいる。もしかしたら城の中に、なんてなりかねないだろうが。馬鹿か」
ウルペクラは吼えた。苛立ちを持て余し『赤雷』を顕現させる。雷を纏う鞭で、床を叩く。鋭い音とともに、敷物が焦げた。
「お陰で強行軍だったんだぞ」
ちょこちょこと社交を片づけた後は、休暇明けまで北の都でのんびりするつもりだったのに、全部ひっくり返った。セドリックからの手紙を握りつぶし、即座に荷をまとめ「まあ、坊ちゃま……でしたらお友達にこれを」とロクサーヌが焼いたマドレーヌを持たされて、邸を出発したのである。いちいちキングズ・クロスに行っていられるか、と白馬に飛び乗った。
両親が結婚した際の祝いの品である。母ベラトリックスはブラック家の出身。彼の家は天馬や犬、大狼などを所有している。
美しい白馬は
闇毛の
ブラック本家は気前よく、二人の姪――分家の姫である、ベラトリックスとナルシッサに光り輝く白馬を贈ったのだ。
速度を優先し、一頭を荷運び用に、一頭を騎乗用に連れ出し、ウルペクラは飛ばしに飛ばした。炎の雷を使ってもよかったのだが、一度も乗っていない関係上、慣れと安定性を重視した。キングズ・クロス――ロンドンから北方ならば、休憩を挟むところだが、レストレンジ邸から北部ならば一気に駆け抜けられる。
ホグワーツに到着し、談話室で水を飲み――冬とはいえ、馬に乗っていれば身体は火照るし汗だって流す――気分を落ち着かせ、厨房に行き、妖精を捕まえてセドリックに伝言を頼んだのだ。戻ったから、パッドフットを引き取る。手が空いていたら、玄関ホールまで来てほしいと。
「お前はホグワーツになにをしに来たんだ」
唸り、敷物の上に座り込む。ああ、頭が痛い。『赤雷』の顕現を解除する。左手中指をさすり、ウルペクラはパッドフットを睨む。彼はふい、と眼を逸らした。犬のくせに。脱獄犯のくせに。ウルペクラに生殺与奪の権を握られているようなものなのに。
――生意気な
ウルペクラに疵がなければ、簡単に事は済むのだ。代々グリフィンドールの名門、たとえばロングボトム、ウィーズリー家の出であれば「死喰い人」を突き出したところで障りなどない。レストレンジなばっかりに、こんなはめになっている。
相手が自分の親くらいの年齢だろうが……いや、少し若い父親くらいか? つまり、年が離れていようが、生意気だと思ってなにが悪い。
「お前が我が家の前で行き倒れたから悪いんだ。ブラック家の領地に送ればよかった。
一度、口を閉じる。何度か深呼吸して、息を整えた。
ウルペクラは、己のことを穏やかで理性的な性格だとは思っていない。そんなものはハッフルパフの十八番、気質であろう。どちらかというと気性が烈しいと考えているし、そう外れてもいないだろう。なにせ両親ともに死喰い人。その中でも飛び抜けて惨い真似をしでかしたのだから。
貴族たるもの、みだりに心を乱すべからず。隙をみせてはならじ、となるべく抑えているだけだ。幸い、閉心術は得意であるし、感情の起伏をどうにか制御できる。それだけのことだ。
が、己を律することができない時はある。たとえば、馬鹿犬が名付け子に炎の雷を贈るなんていう暴挙に出た時とか。
「お望みなら、お前をポッターの側に放り込んでやろうか?」
強いて穏やかに言う。おすわりをしたパッドフットが、俯いた。ウルペクラはその様を凝視する。落ち込んでいるというよりも、合わせる顔がない……といった風に見えてしまう。
「シリウス・ブラックのことを色々と聞いた」
天井を見上げ、呟く。誰に聞かせることもない、独り言のように。
「皮肉なことに。闇の陣営のほうが、お前を無実だと判じている」
船上の宴、チェス大会の後、ぽつぽつと雑談したのである。不忠者どもと。彼らの一部――というか、ノットの父は、ウルペクラを誉めそやした。
やあ、これほど有能ならば、ブラック家の当主を兼任しても問題ないだろうね。本家の兄弟も、それはもう頭がよかった。
君は苦労しているからねえ。いいんじゃないか、どこかの御曹司より。未来のブラック家当主に乾杯、と。
端的に言うと、ルシウスをからかっていた。貪欲な竜ことルシウスが、星の王冠がマルフォイ家に転がりこんできやしないか……と期待しているのは明らかであった。
ノットの父は「残念ながらレストレンジが星の王冠を手にすることだろう。マルフォイ家の御曹司よりふさわしかろう」とルシウスに告げていたのだ。
親愛なる叔父は、己がスリザリン筆頭だという面をして他者を見下す傾向にある。おそらくだが、闇の陣営時代も偉そうにしていたのだろう。当時は義姉夫妻ことレストレンジ夫妻が筆頭であったので、そう大きな顔をしていられなかったろうが。それでも、ルシウス・マルフォイという男が調子に乗る性格なのは変わらない。
死喰い人――不忠者たちとて一枚岩ではない。ノットの父は、ささやかな仕返し、少々の嫌味を口にしたのだ。宴の席で、この舌が悪さをした、と言い繕えると計算した上で。
それからは大人たちによる、嫌味や当てこすりの応酬であった。ふん、シリウス・ブラックなどあのお方に反旗を翻した馬鹿でしかない。挙げ句にはめられて、監獄の中。なにを今更出てきたのだか。
あれは敗北したというのに。穏和しく朽ちるしかなかったというのに。
裏切り者とされ、名誉は地に堕ちた。
「お前はポッター夫妻の友人、ジェームズ・ポッターの無二の友。ハリー・ポッターの名付け親――後見人になるほどの信を寄せられていた」
ここまでは、知っている話だった。だが、宴で大人たちが口にしたのは、おそらく世間には知られていないであろう話だ。
「闇の帝王にポッター家は狙われた。逃亡しても見つかるに決まっている。相手は『名前を言ってはいけない例のあの人』。地の果てまでも追いかけて、ポッター家を破滅させる……」
大人たちの会話を思い出す。彼らは言った。逃げられるわけがない。身を隠すのが最善であろう。わざわざ大陸に逃げたとて、土地勘も地盤もない。忌々しい騎士団の援護も期待できない。ならば英国にとどまるのがよい。
「ルシウス叔父は言っていた。破れぬ誓いにすれば助かったかもしれないな、いやどうだろう……と」
きゅぅ、と声がする。ウルペクラはそちらを見なかった。考えをまとめるように、ひたすら口を動かす。
「記録上、破れぬ誓いは驚くほど破られ、忠誠の術は堅固だ。別に不思議なことはない」
破れぬ誓い。一種の呪縛、服従である。破れば死ぬ呪い。死を覚悟さえすれば、破ることができる。
忠誠の術。秘密の守り人を立て、その中に秘密を封じ込める。脆いように見えるが、守り人が自発的に秘密を明かさない限り安全だ。拷問や服従の呪文、真実薬では忠誠の術は破られないのである。
シリウス・ブラックは秘密の守り人であったらしい。彼が裏切ったから、ポッター夫妻は死んだ……とされる。
「お前が裏切ったのなら――闇の帝王の忠実なる僕なら、凋落の夜に行動したはずだ。闇の印は褪せていった。ご主人様からなんの音沙汰もない。ポッター家に向かい、赤ん坊を始末しただろうよ」
お前が秘密の守り人だとすれば、裏切ったその後の顛末を確認したいと思ったろう。そもそも闇の帝王から決行日くらい聞いていたはずだと言い、パッドフットを見やった。彼は硬直している。まるで、百年前から彫像であるかのように。
「叔父上たちが言うように、お前ははめられたんだろう。忌々しい騎士団……ダンブルドアの組織だな……? に隠れ死喰い人が潜り込んでいた。ポッター夫妻の近くにいた」
そうか、と瞬く。
ルシウスたちは誰がポッター夫妻を裏切ったか言わなかった。ただ、シリウス・ブラックではあるまいと言った。うかつに口にできなかったのだろう。誰が死喰い人か、その全容を知るのは闇の帝王のみなので。
――ルシウスたちにさえ
闇の帝王は「隠れ」を引き合わせなかった。大事な伏せ札だった。あるいは捨て駒のつもりだったから。
ルシウスたちは当たりを付けることしかできなかった。なにせご主人様に訊くわけにはいかない。器を失い、霊未満の存在になり果て、アルバニアの森で息を潜めているから。
それに、とっくのとうに終わった話で、どうでもよい話だったのだ。輝ける星の名を冠した男は好都合にも監獄に放り込まれた。ダンブルドア側の戦力が欠けた。シリウス・ブラックをわざわざ救う益などない。
また、シリウス・ブラックの無実を証明する必要もなく、手段もない。
「お前ははめられた。敗北した。それはなぜか? お前が秘密の守り人だったから。そうだと、されていたから」
はあ、と息を吐く。難しく考える必要などない。
「はめられたというからには、お前をはめた者がいる。隠れがいた。ポッター夫妻の友人は……」
ウルペクラは指を折る。ロクサーヌとディランに訊いてみれば、あっさりと教えてくれた。坊ちゃま、彼らは有名だったのですよ。
ジェームズ・ポッター、その無二の親友、シリウス・ブラック。スリザリンの私たちと立場は異なりましたが、シリウスは確かに正義の人ではあったでしょうね。グリフィンドールに組分けされたのですから。
シリウスは私のことを助けてくれたこともありましたわ……そう、ラバスタン様に私は……絡まれてというか。ロドルファス様は卒業なさっていて、代わりに守ってやろうとかなんとか。そのときシリウスが――。
ロクサーヌにウルペクラの叔父が手を出そうとして、シリウス・ブラックに床に沈められ、後にレストレンジ邸に戻った時に兄――ウルペクラの父に厳しく躾られた話はよいのだ、と頭を振った。蛇足である。
「お前と、リーマス・ルーピンとピーター・ペティグリューがジェームズ・ポッターの友だった。この中で誰を守り人にする、と訊かれたら僕でもお前を選ぶだろう。ルーピンは人狼で不安定。ペティグリューは劣っている」
目立たない、ぱっとしない存在、と歌う。
ふふ、と笑声がこぼれた。
「ブラック家のシリウス。お前は極めて優秀で、とにかく目立つ。誰もが認める実力者。守り人に最もふさわしい……それを逆手にとった」
お前は伏せ札を手に入れたつもりで、してやられた。その札は既に闇の帝王の手に陥ちていた。
さらりと告げても、パッドフット――哀れな脱獄犯は、瞬くのみ。
「真犯人はピーター・ペティグリュー」
指一本だけ残して死んだ、汚らしい裏切り者だ。
どうだ、と問いかければパッドフットは唸った。
それを肯定と受け取って、ウルペクラは大変満足した。謎がひとつ解けたのだから。
そして、はたと思い出す。
「待て。ペティグリューは死んだはず。お前が動く道理は――」
激しく唸るパッドフット。たいそう不機嫌でいらっしゃる。
「……いやいや、そんな、どこかのあの方のように生きているわけが?」
パッドフットが遠吠えした。鬱憤を晴らすように。
――ああ、これは
ウルペクラは眼を細めた。当時の状況……伝聞、新聞記事を思い返す。
「昼日中、追いつめられたのはペティグリュー。追いつめたのがお前。爆発は目くらまし。これみよがしに指を切って死を装った」
合っているか? イエスなら一度、ノーなら二度鳴け。
果たして、パッドフットは一度鳴いた。
純血貴族、ウルペクラ・レストレンジは珍しくも大笑いした。
仲間を裏切り、主君を裏切り、のうのうと生きている不忠者がここにもいたとは。
ピーター・ペティグリューはわかっていない。
印がある限り、闇の帝王からは逃げられはしないのだ。
そうとも、というように。
ウルペクラが賜った闇の印が、熱を帯びた。