Black Heart Vulpecula   作:扇架

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二十話

 

――正直

 舌を巻いた。まさか、ここまでたどり着くとは思っていなかったし、期待もしていなかった。

 シリウスは「飼い主」を見上げ、ただ沈黙する。金の髪に灰色の眼の少年。もう青年といってもいい年頃。忌々しい従姉の子。死喰い人と死喰い人の子を。

 物腰柔らかく、しかし軟弱ではなく。頭の回転は速く、しかしそれをひけらかすことはしない。純血貴族レストレンジ家の嫡子。跡継ぎ。実質的に――家令たちの補佐を受けているとはいえ――家門を取り仕切っている男。

 まさしく優等生である。我が母上がほしがりそうな息子。つまるところ、弟に似ているのだ、とシリウスは思い至った。模範的な貴族。弟のレギュラスはまさしくそういう男であった。鋳型に押し込まれ、何の疑問も持たず、ただ両親の言うことを聞いていた「よい子」。

 行方知れずになった弟と違い――ヴォルデモートなんぞに傾倒した愚か者め――ウルペクラ・レストレンジは己の頭で考え、慎重に綱渡りをしているようだが。ただの純血の御曹司ではない。かといって、シリウスのように家を棄てるほどの烈しさはないようだ。

 責められるまい。十数年ほど前ならば、家を棄てず、純血に迎合している時点で同罪だくらいは思ったろう。だが、シリウスが勝手をできたのは、弟がいたから。ブラック家という腐った果実を押しつける先があったからだ。そして、ウルペクラの状況は、若い――学生の頃のシリウスより、数段悪い。

 シリウスはグリフィンドールに組分けされ、箱庭から飛び出した。自称王族、純血主義のブラック家。その出自を笑い飛ばしてくれた友がいた。それに、両親が死喰い人などという汚名を着せられていない。

 ウルペクラは生まれた時から縛られているようなものだ。ただの死喰い人の子ならばよかったのに、よりにもよってレストレンジ。ヴォルデモートの寵愛深き、最も忠実な臣。闇の陣営に背こうにも――元騎士団の連中のどれほどが「レストレンジ」を信用するであろうか?

 せめてレストレンジ夫妻こと、ロドルファスとベラトリックスが監獄にて息絶えればよいのだが……壊れもせずに元気なのだ、やつら。忌々しいことだ。

 やつらがまかり間違って監獄から出てきたら――そしてヴォルデモートが舞い戻ってきたら、十中八九、ウルペクラは闇の印を刻まれるだろう。

――既に刻まれているのかもしれないが

 その可能性に思い至り、シリウスはげんなりした。犬の姿でなかったら、頭を抱えていることだろう。

 あのレストレンジ、あのベラトリックスだ。幼児に闇の印を「賜う」くらいはする。己が産んだのだから己のもの、という理屈だ。息子の人生を丸ごと使い潰すであろう。それが息子の幸福だ……とまで思っているかはわからないけれど。

 シリウスの憂いなど知らず、ウルペクラは再び椅子に腰掛けて、何事か考え込んでいる。家令たちに育てられ、妖精たちをまともに扱う貴族。それゆえに、家を棄てることができず、また棄てる気もない男。行き倒れの犬を見捨てなかった男。

 打算があろうがなんだろうが、シリウスの正体を看破しておきながら、突き出すことをしなかった。狂人の、意味のない行動だと切り捨てず、ひたすらに考えた。

――誰もが

 かつての恩師たちも、友も、誰も彼もがシリウスを狂っていると断じていたのに。裏切り者の烙印を捺したというのに。内心でどのように思っていようが――疑問があろうが、シリウスが監獄に放り込まれたその後に、声を上げなかったのは事実。裁判なしでの「裁き」を是としたのだ。

 恨むまいと思っていた。シリウスがすべて悪いのだと。小細工をしたから。信じるべき者を間違えたから。ジェームズたちは死んでしまった。当然の報いだと受け入れようと……していた。

 呑み込もうとした。諦念と、執着が身の内にあった。どうせ終わりだ。いや、自分は無実だ。誰も信じてくれなくとも。生きていればいつか、と。

 脱獄した。冷たい海を泳ぎ、さまよった。とにかく、最悪でもワームテールをハリーから引き剥がせればよいと思った。両親を殺したと詰られても、死喰い人だと恐れられても、それだけはせめて、と思っていた。

――いつか、と思っていたその日が

 やってきた。シリウスを無実だと、泥の中から真実を掬い上げてくれた。

 信じられない思いである。それくらい、シリウスにとっては救いとなった。もたらされるはずがないものが、降ってきたようなものだから。

 これ以上は望むまい。ウルペクラはこれからもシリウスを見逃し続けるだろう。最悪の場合は突き出すだろう。独力で、ワームテールをどうにかしなければ――。

 

「……鼠ねえ」

 ぽつ、とウルペクラが呟いた。長めの髪を――緩く結んでいるそれを、細い指で、もてあそびながら。

「どうやって捕まえようかな」

――は?

 ぱちり、とシリウスは瞬く。犬の聴覚、優れたそれが聞き間違えたか。ウルペクラがワームテール捕縛に手を出すはずがない。益があるまい。あれは裏切り者で、死喰い人。一応、ヴォルデモートの駒。闇の陣営だ。シリウスを突き出さなかったのも「死喰い人とされる」男を魔法省に売り渡せば、ヴォルデモートに叛意ありとみなされる恐れがあったから。

 ワームテールを捕縛し、突き出しても同じことが――。

「飼い主のことをちっともわかっていないな、わんちゃん」

 ウルペクラは、からかうように言う。

 こぎつね座の名を冠する男は、シリウスに告げた。

「不忠者を監獄の闇に沈めれば、真に忠実なる者たちは喜ぶだろう。それこそ、お前の汚名が(そそ)がれ、解放されても釣り合う。僕はどちらにもいい顔ができるだろうね」

 そうですか、闇の陣営にも魔法省にも「いい顔」がしたいと。ああ、ベラトリックスにはない柔軟さ、臨機応変さである。たぶん、ロドルファスの血が濃いのだな……と、シリウスは遠い眼をした。

 が、どこかに意識をやりそうになっていたシリウスを、怜悧な声が引き戻す。

「――気に食わないだけだが」

 はた、とウルペクラを見やる。彼の灰色――星の眼は、青を帯びていた。澄んでいて、燃えるような彩。

 ゆうらりと、彼の周りが揺らぐ。こぼれ落ちる魔力が、陽炎となって顕れる。

「不忠者に報いを。鼠でも、見せしめにはなるだろう?」

 つっ、とウルペクラは笑った。

 陽の下で生きている者どもも、震え上がることだろうよ、と。

 シリウスは、理解せざるを得なかった。

 この男は、紛れもなくロドルファスとベラトリックスの子なのだと。

 

――勇ましく

 不忠者に報いを、と言ったところで。そうそう巧く事が運ぶわけがない。

「……せめて猫ならよかったのに」

 冬が終わり、春となり、イースター休暇が明け、進路相談も終わり、クィディッチ決勝戦も片づいて――幸いなことに、グリフィンドールの勝利であった――五月某日。

 ウルペクラは、ぱっとしない気分で紅茶を飲んでいた。例年、この時期になると妖精たちはレモンアイスティーを出してくれるのだけど、吸魂鬼のせいで未だに冬の気候。よって、ミルクティーである。

「悪い鼠は、たいていフィルチ様の猫が狩りますが……」

 妖精の一人が、クッキーを卓に置く。菓子づくりが得意な者である。ちょうど、時刻はおやつの三時。夕食の準備にかかるには早く、厨房はのんびりしていた。

 どこかたるんだ空気が流れていていいはずなのだが、妖精はきゅっと唇を引き結んだ。

「本当に、ずる賢いようで。ちょろちょろと食糧が減っています」

「悪いな、余計な仕事を増やして」

 ウルペクラが言えば、妖精は首を振る。

「坊ちゃまがどうやって我々の困りごとを察知したのか……しかも、定期的に見回りに……罠まで提案してくださって」

「僕は監督生だからね」

 なるべく、爽やかに返す。どこかのハッフルパフ生の真似である。実は城を、禁断の森を探し回っていたとか、もしかしたら森番の小屋か? と、こっそり侵入して調べたりだとか、無駄に時間を食ったなんて言えない。

 

 結果だけ言うと、鼠は森番の小屋に潜んだり、森に移動したりであった。ウルペクラはこっそりと、小屋の雑然とした棚に林檎をひとつ、置いてみたのだ。後日確認してみれば、半分ほどかじられていた。無闇に動物もどき形態を解くわけにもいかず、ちまちまと食べたのだろう。

 そうして、鼠は移動した。どうやら彼はロックケーキやら固すぎるビスケットやらに飽きたらしい。芳醇な香りに食欲を刺激され、なおかつ森での不毛な食べ物探しも苦痛となったようだ。

 林檎には追尾の魔法を仕掛けてあった。ウルペクラは簡易の地図、そこに浮かぶ足跡が、森番の小屋から校庭を突っ切り、厨房に入り込むのを確かめた。

 そうして、暇を見つけて厨房に入り浸っている。妖精たちに「最近――ここ数日、食糧が減っていないか?」と訊いてみれば大当たり。確かに、少しずつ減っているのでございます、と回答があった。

 見張りを置くほどではないが、盗み食いは困る。朝、昼、晩、不規則に食糧が減るとのことで、ウルペクラは罠を仕掛けた。

 籠に山盛りになった林檎に、誘引と酩酊の魔法をかけたのである。

 引っかかるかは不明。ひとまず、パッドフットには外で待ってもらっている。昼寝でもしておけ、と命じてあった。

 鼠はすっかり逃げ切ったと油断しているし、間抜けな犬を尻目に厨房に侵入すれば、調子に乗って、大胆な気持ちになるだろう。そして林檎の誘惑に絡め取られる……かもしれないと。

 確実な策ではないが、闇雲に探すよりはマシであろう。まさか獣使い――ハーメルンの笛吹きを呼び寄せて、ホグワーツの領地内の鼠をかき集めるわけにもいかない。どんな阿鼻叫喚になることやら。ウルペクラは一匹一匹鼠の指を確認するなんて非効率な真似はしたくない。

 よりにもよって鼠なんて小さくて小回りが利いて、どこにでもいるものに変身しやがって。

 

 ウルペクラは内心で毒を吐きながら、ミルクティーを口にした。

 妖精の「鼠捕りの魔法」もまんまとすり抜けているようで、実に面倒である。

 およそ十二年も鼠となって潜伏しているからには、だいぶ鼠に「寄っている」はずなのだけど、まだ理性を残しているようだ。死んだふりをしてホグワーツから出て行かないのがその証。ほとぼりが冷めたら、また「飼い主」の下に戻るつもりなのだろう。ポッターの首を刈るために。

 まったく諦めていないのだ。なにかが起これば、大手を振ってご主人様の下へ帰還するつもりなのは明らか。闇の陣営でよい立場を得たいのであろう。

「……小賢しいが、愚か」

 ウルペクラは鼻を鳴らす。己の存在を消したのも、長い長い年月、潜伏していたのも見事であるが。詰めが甘いのである。闇の帝王が賢者の石を狙ったときに、僕らしくせっせと働きでもすれば「我が君」の覚えがめでたくなったろうに。鼠は沈黙していた。肉体を失った幽霊未満のために働きたくない、と雄弁に語っているではないか。

 闇の帝王が復活した暁には、鼠が仕置きされるのは必至。潜伏しておいてご主人様の手助けもせぬとは、と。

「復活、するはずだ」

 小さく小さく囁く。ウルペクラはなぜか確信している。闇の帝王が再び立ち上がると。

 ノットの父によれば、彼は魂を分けているのだから。

 どうやって分けたのかは、調べないといけないのか……と顔をしかめる。つきり、と頭が痛む。

 酷く、おぞましい真似をあの方は……とまで考え、視界の隅に赤い色が過ぎった。

 ころり、と転がった林檎の色。そしてぽてり、と仰向けになった灰色。

 ウルペクラは先までの考え事を脇へ押しやり、そろりと立ち上がった。妖精たちは心得たもので、めいめいに働いているふりをしている。が、何対もの眼が、鼠を注視していた。

 そろり、そろりとウルペクラは歩を進める。むんず、と汚らしいそれを掴んだ。

「みぃつけた」

 かくれんぼはおしまいさ、と勝利を確信したのだけど。

 ウルペクラは侮っていた。不忠者の執念、生き汚さを。

 異常を察知し、酩酊を振り払い、鼠が逃げた。追った。ひぃいという鼠の叫びを、ウルペクラ――銀狐は聞き取った。小さな小さな獲物を、ひたすらに追いかける。ぴんと尖った耳は、かすかな音も聞き漏らさない。その鼻は、臭いを嗅ぎ取り、星の眼はその姿をしっかと捉える。

 

 厨房を抜け、玄関ホールへ。行き交う生徒が驚いたようになにごとか言う。構わず、大扉を抜け階段を跳ねるように下り、校庭――禁断の森の端で、鼠に前足を叩きつけた。

 ぎゅうっと鼠を押さえつけていると、くったりと獲物から力が抜けた。追いついてきたパッドフットが「代われ」と鳴いたので言うとおりにした。

 ウルペクラは獣の衣を脱ぎ捨て、息を吐く。大きな前足で鼠を押さえているパッドフットに小さく頷き、的を外さないように――しゃがみこんで、失神光線を鼠にお見舞いする。心得たようにパッドフットが足を退けたので、全身金縛り。変身術の強制解除。皮を剥ぐ(フィニートアニメーガス)

 現れた小男を縄で雁字搦めにした。

「――確保」

 晴れ晴れとした気持ちで宣言し、パッドフットが嬉しげに吼えたとき。

――はら、と

 白いものが落ちてきた。

 ぱきり、ぱきり、と草地が凍っていく。一人と一匹は、天を見上げた。

 そこにあるのは闇色の渦――吸魂鬼。

「しまった」

 とっさに『赤雷』を顕現させ、振るう。稲妻が光る。吸魂鬼の渦が少し崩れたが、焼け石に水である。

 ひょう、と風が吹き、雪が舞う。吸魂鬼は飢えている。ずうっとずうっと飢えている。

 そこに獲物が――シリウス・ブラックと、もうひとつのかわいそうな魂が現れたのだから、止まるはずがない。

 ウルペクラは身を転じる。輝ける闇の毛皮を身に纏い、吸魂鬼の影響を逃れようとする。パッドフットともに疾走し、けれど包囲される。

 動物もどきだろうがおかまいなしに、吸魂鬼たちが歓喜の歌を奏で、ウルペクラたちは絶叫した。

 偽りの皮を維持できず、たまらずに地に転がる。

 頭を抱え、震えていると、幼い、力強い詠唱が闇を切り裂いた。

「守護霊よ――」

 来たれ!

 

 冷気が、闇が祓われる。そろそろと身を起こし、視界に広がるのは清冽な白であった。

 牡鹿の守護霊が疾駆する、その美しい軌跡を眼に焼き付け、こぎつねの意識は断裂した。

 

 

 

 

 どうしようもなく恐ろしくて、けれども動くことができなくて。

 紅い眼が、彼を見下ろしている。椅子に腰掛け、蕩けるような眼で彼を見つめている。

『ウルペクラ・レストレンジ。俺様が名を付け、俺様が印したもの』

 歌うような声。優しげにさえ聞こえるそれ。

 彼は、ただ震えるばかり。その眼から逃れたくて、さまよわせた視線の先に、誰かが眠っている――ぴくりとも、動かない。

 嫌な臭いがする。それが「死んでしまった」誰かなのだと彼は悟った。

 怖い怖いこの人が、邸から一人、二人と使用人たちを消しているのだと知っていた。死ぬ、ということがどういうことか、彼は知ってしまっていた。この人が――お母様とお父様が「我が君」と呼ぶ人が、杖を振ってしまえば死ぬのだ。緑の光が突き刺さって、ころんと転がるのだ。そしたらおしまいなのだ……。

 また一人、使用人が死んだ。

 じわりと涙が浮かぶ。ひく、と喉が鳴る。

 ここにいてはいけない、と本能が叫んでいる。けれど、どこに逃げればいいのかわからなかった。足がびくとも動かなかった。

 粘るような何かを踏んでいるせいか。それは、奇妙に赤黒い……彼を囲むようにして、描かれている……。

『名誉と思え』

 怪物が、にぃっと笑う。唇が弧を描く。

――黒き心臓ウルペクラ(Black Heart Vulpecula)

 美しく、だというのに冷たい声とともに、杖が振られる。

 煌めく闇が、奔る。

 蛇に似たそれが、ゆうらりと、優雅に宙を泳ぎ。ちろりと舌を出す。

 するり、と彼に巻き付いて、紅い眼をちかりと光らせ、その牙を彼の柔らかい首筋に突き立てて。

――彼は叫んだ

 幼い彼にできる精一杯で。燃えるような痛みと、恐怖に耐えかねて。

 助けはもたらされなかった。

 手は差し伸べられなかった。

 絶望のままに、彼は闇に包まれ――。

 

 ぱちり、と眼を開けた。

 爽やかな風が吹いている。そよそよと揺れるのは、淡い色のカーテンだ。

「……ああ、起きたかい」

 大きな手が、彼を撫でる。傷だらけの手が――そうっと、優しく彼の耳を……。

――耳を?

 何度か瞬く。彼の困惑を感じ取ったのか、その男は小さく笑った。

「ここは医務室で。君は倒れて……吸魂鬼への防衛本能かな? 今は狐くんになっているよ」

 なにが、と言おうとして小さな鳴き声しか出なかった。男――リーマス・ルーピンは肩をすくめる。

「しばらくすれば、調子も戻るだろう。幸い……といっていいか」

 言を切り、ルーピンはあらぬほうを見やる。

「聴取の場は離れている。移動しているうちに、戻れるようになるだろう」

 ルーピンは勝手に話を進めた。ひょいとウルペクラ――銀狐を抱き上げる。穏やかなだけの男ではなかったのだ。ルーピンはかなり強引である。

 ウルペクラは彼によって運ばれながら――その肩に頭をもたせかけ、しっぽをだらりと垂らし――事の経緯を聞いた。

 ピーター・ペティグリュー……ワームテールとも呼ばれていたらしい――の拘束は解かれていないこと。シリウス・ブラックはひとまず室に押し込められたこと。ウルペクラは危うく吸魂鬼の餌食になりかけた被害者であること。

「さては、君の邸の前であれが行き倒れてたから拾って、ちょうどいいから学校に連れてきた。ただの犬だと思っていたら、実は動物もどきだった……と気づいたが放置」

 無視した。正解だが無視である。なにも言うまい。犬に死なれては困るのと、ロクサーヌが喜びそうだから拾ったなんて言わない。絶対言わない。

「なぜ気づいたかって、君も動物もどきだから」

 これにはぱたりと尾を振った。隠すことではないのだ。ウルペクラは、就学前――ホグワーツ入学の一年ほど前に、動物もどきに変身できるようになっていた。きちんと登録もしてある、合法の動物もどきであった。

 逃亡、潜伏手段はあったほうがよろしいでしょう、という家令夫妻の計らいだった。銀狐になれば――当時は子狐であった――ロクサーヌはたいそう喜んで、ウルペクラを撫でまくった。彼女は動物が好きなのである。

「まあ君は、ほぼなにも知らなかった体で押し通すんだろう。構うまい」

 あれを拾ってくれて感謝する、とルーピンは囁く。ウルペクラは、ふん、と鼻を鳴らした。

 本当に、気づかなければよかったのだ。動物もどきだったものだから、シリウス・ブラックの不自然さを「そんなものか」で流せなくなった。

 人間にとって脅威でも、動物もどきにとってはそうでないもの、という事例は多数あることも知っていた。

 

 たとえば、三頭犬。懐かしき賢者の石騒動の際、こっそりと禁じられた廊下を偵察しても、凶暴な番犬は銀狐を排除すべき敵、と認識しなかった。

 禁断の森だって、銀狐にとっては庭のようなもの。クィレルに憑依した闇の帝王が現れたときは、ぎょっとしたが。動物もどきだったお陰で、見つからずに済んだ。ケンタウルスには看破されたが。

 動物もどきは、ものによっては便利なのだ。邪魔な鶏を獣の仕業にみせかけて始末できたし。あれはトム・マールヴォロ・リドルに操られた結果なのだけど。口の中に血の味がこびりついていたのは、そういうことである。

 ルーピンのおしゃべりに耳を傾けているうちに――森番の小屋で三時のお茶をしていたポッターが、異変に気づいて吸魂鬼を追い払ってくれた――教師たちが駆けつけた時には、森番がシリウスを縛り「死んだはずの」ペティグリューはもっときつく縛り、銀狐はポッターが抱えていた、とか。

「ワームテールは懲りずに逃げようとしたみたいで……君から杖を奪って、シリウスともども殺そうとしてたみたい」

 さらり、とルーピンが言う。ウルペクラは戦慄した。あれだけ念入りに拘束したのに、吸魂鬼の横槍でごたごたしている隙に、そこまで? 失神呪文なんて手緩かった。全身金縛りじゃなくて、両手両足をへし折っておくべきだった。

 小さく鳴く。尖った響きを聞き取ったのか、ルーピンは嘆息した。

「君たちが吸魂鬼から逃れようとしたとして、あの数だ。せいぜい数歩で限界だったろう。ワームテールの生き汚さは一級品だ。覚醒して、這って、どうにか君の杖を手に入れて……だろう」

 ウルペクラはすんとも鼻を鳴らさなかった。気を失い、防衛本能で銀狐の姿になったとしたら、持ち物――杖まで変身の範囲に入らなかったのだろう。

 動物もどきは身の回りのものごと変身できたり、わざとその場に物品を残して、敵の眼をくらませるものなのだ。

 ルーピンは、軽やかに階段を上っていく。やがて、怪物像の前にやってきた。

 ん、とウルペクラは眼を見開く。聴取の場とは、校長室か。

 慌てて鳴いた。ルーピンの肩に置いた前足に、力を込める。

「大丈夫かな?」

 ひょい、と床に下ろされる。ウルペクラは、どうにか――目眩をこらえながら、変身を解いた。

「……お手数をおかけしました」

「いやいや。見事な変身だ。すまないね、聴取が終わったら、医務室に帰してあげるから」

 ルーピンはローブのポケットからウルペクラの杖を取り出し、渡してくれた。「スリザリンに十点」と囁いて、合言葉を口にした。

「砂糖羽根ペン」

 

 

「――それで、君は善意で行き倒れの犬を拾って、学校に連れてきたと。お茶をしているときに、偶然鼠が現れて、追いかけたと」

 円形の室、出された椅子に腰かけるや否や、質問が飛んできた。どこからともなくやってきた紅茶に口をつけ、ウルペクラは返した。

「監督生ですので。困り事を持ち込まれたら対処するしかないでしょう? どの家でも害虫や鼠は問題ですし」

 さらっと答える。黄褐色の眼が、ぴかりと光った。

「君の「犬」までもが――」

 ルーファス・スクリムジョールが、室の隅に眼をやった。そこにいるのはシリウス・ブラック。魔法の環の中で、椅子に優雅に腰掛けている。余裕綽々である。なにせ鎖で戒められてもいない。魔法の環といっても、誰かがひょいと杖を振れば破れる程度のものだ。

「鼠を追った……と」

「言い含めておきましたから。鼠を追え、と。僕のわんちゃんに」

 誰かが、小さく噴き出す。壁際――扉近くに待機した、ルーピンであった。シリウスが「黙れよムーニー」と言い「静かにしたまえよ」と闇祓い――キングズリー・シャックルボルトがたしなめた。

 聴取というにはいささかぬるい光景に、仲良く並んで椅子に座っている、ポッター、グレンジャー、ウィーズリーが瞬いていた。彼らの近くにはダンブルドアとマクゴナガルが立っている。何事か起こってもいいように臨戦態勢であった。

「鼠の変身を解除したのは?」

 スクリムジョールが唸る。

「あまりに反抗的だったのと、パッドフット――親愛なる僕のわんちゃんがうるさかったので、なにかあるな? と」

「そうか。犬を信じたわけだな」

「鼠より信用がおけましょう」

 ウルペクラはにやりとする。室の隅――書棚のあたりから、なにやら抗議の声がしたが黙殺した。

「死んだふりをして? 十二年も潜伏して? そのためにマグルを吹き飛ばして、ご丁寧に自分は指一本残して消えた。逃げるだけなら、そこの犬と対峙したときに、鼠に変身して去ればよかっただけなのに」

 ひとつ、ひとつウルペクラは逃げ道を塞いでいく。

「仮にも闇の陣営に対抗する者が、反純血主義、マグル擁護派ならば、穏便な手段を使ったでしょう。マグルなんてどうでもいい。せいぜい肉片をまき散らして、目くらましになってくれればいいと言わんばかりだ」

「無実であるというならば、死を偽装する必要はなかった。闇の帝王はお隠れになったのだから、なおさら」

 

 立て板に水とばかりに言って、ちらと書棚――転がるワームテールに視線を投げた。

「シリウス・ブラックがいつの日か脱獄して、あるいは闇の帝王がポッターを狙うかも知れないから健気にも守ってやろうとした……はなしだぞ」

 じたばた、とワームテールが暴れる。ウルペクラは杖を振り、沈黙呪文を解いてやった。

 どうやら、うるさいので後でじっくり話を聞くつもりだったらしい。がっちりと鎖で戒め、逃げられないようにした上で。

 優雅に、魔法の環の中にいるシリウスと、鎖を幾重にも巻かれているワームテール。後者の心証がいかに悪いか、いかに怪しいかは明らかである。

 誰も、自分の無実を信じてはいない。そう悟ったのか、ペティグリューは見苦しくも、言い訳を口にした。

「怖かったんだ。仕方がなかったんだ……」

「だから、マグルを肉片に変えてもいいと? ご立派だね」

 ウルペクラは立ち上がる。こつ、と靴音を響かせ、汚らしい鼠のもとへ向かう。

 小男の、小さな眼がウルペクラを――星の輝きを見上げた。紛れもない恐怖が浮かんだ顔。誰かを重ねている顔。

「どうした? 我が父母がしでかしたことに比べれば、積み上げた屍に比べれば、己の所業は、まだ可愛い「悪戯」だとでも?」

 ひ、とワームテールが悲鳴を漏らす。そして、けたけたと笑い始めた。

「誰も証明できないじゃないか! だが、私が守り人だとして、責められるか? 私を選んだのはシリウスだった。危険を押しつけたのはシリウスだった。シリウスを信じていたのはジェームズだった。私は母を人質にとられ――」

「忠誠の術はな」

 戯言を切って捨てる。ウルペクラは、優しく優しく教えてやった。

「積極的に、自ら明かさないと崩壊しないんだ。かわいそうな、無教養な鼠よ?」

 ワームテールは凍り付いた。小さな小さな眼を見開く。きょろきょろと、あちらこちらを見やる。まるで逃げ道を探すように。が、扉近くにはルーピンが、そして室にはダンブルドアをはじめとする実力者たちが揃っている。

 逃げ道などないのだ。どこにもないのだ。

 

「はっ」

 ワームテールが笑う。笑って、無様に転がったまま、ハリー・ポッターに視線を投げた。

「誰がジェームズたちを殺したか? 私じゃない。私のせいじゃない。ジェームズのせいだ。信じる者を間違えたのだ。なによりも……ハリーが生まれてこなければ、」

 殺されることはなかった。ハリーは生まれてこなければよかった。どのように言おうとしたのか、その続きを聞くことは叶わない。

 薄汚い裏切り者、付く側を間違え、忠誠を尽くすこともなく、逃げて逃げて、逃げた不忠者を、鞭が打ち据えた。

 ばちり、と音が弾け、悲鳴が響く。なにかが焦げる臭いがたちこめた。

「――見苦しい。愚かな不忠者」

 ウルペクラは、死喰い人と死喰い人の子は冷ややかに告げた。燃えるような――尋常ではない怒りに身を焦がして。

 赦せない、とどこかが囁く。衝動のままに、穢らわしい者に最後通牒を突きつける。

「お前に相応しいのはアズカバン。不忠者にお似合いの報いが待っている」

 顔に鞭の痕をつけ、敗北者――どちらの陣営にも属せなかった、半端者がすすり泣く。違う、私のせいじゃないとわめく。聞き分けのない赤ん坊のように。

 彼に、救いの手を差し伸べる――お前のせいじゃないと言う者など、どこにもいないのだ。

 なぜならば、彼は友を裏切った者だから。

 

 

 

「お手柄じゃないの」

 ホグワーツ特別功労賞をもらえるんじゃないの、それともマーリン勲章?

 澄んだ声が、空に吸い込まれる。どこまでも明るく、雲一つない空に。

 ウルペクラは隣を見やった。白馬の手綱をぎゅっと握っているダフネを。

「偶然、隠れ死喰い人を捕まえただけだし。ポッターのほうがすごかったよ。吸魂鬼の群れを蹴散らしたんだから」

 ゆっくりゆっくりと、白馬を進ませながら返す。なぜか、湖の周りを散歩している。なぜか、というか。昨日吸魂鬼が引き上げて、ホグワーツの気候が元に戻って、週末なので、生徒たちは校庭に繰り出した。

 ウルペクラは馬の様子を見に行って、ダフネに会ったのだ。綺麗な馬ね、と言うものだから「乗ってみるか?」と言ったらこうなった。

 グリーングラスのお嬢様は、乗馬をする機会がなかったらしい。顔に傷がついたらいけないという理由で。

「そんなに?」

 ダフネが瞬く。その上体が、危なっかしく揺れている。

 軽く口笛を吹く。一旦、二頭ともとめて、ウルペクラは隣に乗り移る。ん、とダフネがなにやら言ったが構わずに、両腕を前に回し、彼女の手から手綱をとった。

「初心者だってことを考えるべきだった。今日は慣らしだな」

「ええ」

 声が固いな、と思いつつ。軽く、慎重に手綱を打つ。ゆったりと、馬が歩を進めた。

「落ちそうになっても支えるから。力を抜いて」

「……ええ」

「ダフネ?」

「視界が高くなって、ちょっと怖いのよ」

 嘘だな、と思ったがウルペクラは指摘しなかった。飛行術の成績は悪くないと聞いている。つまり、視界が高くなろうが問題なし。

 問題があるとしたら別のことなのだろうが、女の子というのはわからないものだ。考えるだけ無駄だ。多少密着しているが、許容範囲だろう。こうでもしないと、ダフネが落ちそうであるし。

 のんびりと揺れる馬の上で、適当に話を振る。否、戻した。

「さすが生き残った男の子。守護霊なんて僕も出せないんだが……」

 マグルのところで虐げられ、虐げられして育った割に、実にまっすぐに育っている。ドラコなんてぬくぬくと育ってあれだ。いったいどういうことなのか。

 ポッターは逃げればいいものを駆けつけて、誰かが襲われている、と見て取って、とっさに守護霊の呪文を行使したらしい。誰であろうと、公平に助けようとしたわけだ。

 

 蓋を開けてみれば銀狐とシリウス・ブラックと謎の汚い小男が転がっていて、仰天したようだけど。

 聴取が終わったあと、ウルペクラが礼を言えば「あんな状況、誰だって守護霊の呪文を使っていたと思うよ」と英雄ポッターは宣った。そして、彼はウルペクラに「お願い」をした。

 あのね、お礼なんていらないんだけど……狐を撫でさせてほしいなあ……と。

 命の恩が返せるなら安いものだ、とウルペクラは渋々、銀狐に変じた。ポッターとグレンジャーは大喜びだった、と言っておこう。ウィーズリーの末息子は顔をひきつらせていたが。

 ふわふわを堪能させてやったといえど、命の恩には足りないか、とウルペクラがグリフィンドールに三十点与えたことは内緒である。今年も、グリフィンドールが寮杯を獲得することであろう。

「動物もどきもすごいじゃない?」

 ねえ、後で撫でさせて、とお嬢様に請われたら、イエス以外の答えなどなかった。

 暖かい陽射しが降り注ぐ湖畔で、ウルペクラこと銀狐はされるがままになった。

 うとうとし、欠伸をひとつ。

 ブラック家に主が戻り、マルフォイ家と無駄な争いをする必要がなくなった。シリウスを助けたのは、厄介なお家騒動を避けるため……というのも理由のひとつだ。

 知らぬ間に、ポッターとの距離が縮んだが、考えるまい。考えない。あちらは生き残った男の子。こちらは死喰い人と死喰い人の子。適度な距離を心がけよう。

 ホグズミードで見逃してくれたし、ワームテールの暴言を止めてくれたし、とポッターはウルペクラのことを善人とお思いのようだけれど。

 困ったことである。単に気に食わなかっただけだ。ポッターが生まれてこなければ……なんて、どういうことだろうか。

 

 疑問が頭をもたげる。ポッターはまっとうな両親のもとに生まれた、ただの子どもだ。きっと望まれて生まれてきたのだろうし、彼の誕生が両親の死の遠因というのは不自然だ。次代の闇の帝王だから。そう囁かれているものの……。死の呪文を跳ね返したとされる子ども。そうして、我が君はお隠れになった。

――不愉快だ

 頭の中で、ワームテールを鞭で打ち据える。とことん、あれは不愉快だ。余計なことを思い出してしまったではないか。

 ウルペクラとて望まれて生まれてきたであろう事実。けれど、駒としての価値を見込まれてのことだ。

 吸魂鬼が見せた夢を思い出す。なにか、とてつもなく恐ろしいことがあった。

 転がる亡骸の、虚ろな眼を遮断する。

 ふつふつと、どこか奥底から、怒りが噴き上がる。触れたくもない記憶、本人ですら、しかとわからぬ疵を無遠慮にえぐられた痛み。そして、その原因への怒りが。

 ちり、と闇の印が熱を帯びる。ぐっと手綱を握ったそのとき、小さな手が、重ねられた。

「……私、邪魔になっていないかしら」

「そう思っていたら、最初から乗せていない」

 静かに言い――己の馬に戻った。見ていてあげるから、一人で歩かせてごらん、と言えば、ダフネは緑の眼を細める。

 ほっとしたような、どこか寂しそうなまなざし。

 あの亡骸とは違う、生きた眼。

 ウルペクラは思い出す。

 いかに恩を売ろうが、善くあれと振る舞おうが。

 レストレンジ家のウルペクラは怪物の子。

 闇を印されし者なのだと。




アズカバン編、終了
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