「……始末すれば目立つ、と」
暖炉の火がゆうらりと躍る中、椅子に腰掛けた影は呟く。英国はとある村、打ち捨てられた館の一室で。厚く積もっていた埃は跡形もなく、壁の染みも綺麗に拭われ、非常に居心地のよい空間となっていた。
永の年月でこびりついた、饐えた臭いと……
「そう言うのか? 杖の一振りで片付くというのに」
冷えた声に、館のすべてを整えた者――恭しく跪いた影が、なにごとか返す。薄暗い室、不規則に揺れる火は、その姿を明らかにしない。すっぽりと闇の衣に覆われたかのように。秘密という紗の向こうにいるかのように。
「よかろう。確かに、お前の言うとおりかもしれぬ。好きにするがいい」
お前はよくやってくれている、と影は言う。白い指が――真っ白いそれが、壁際を示す。
ずらり、と立てかけられているのは柩。そして、影の指は……骨であった。半ばまでは白。付け根にかけて、ところどころ赤いものがついている。
明らかに死んでいる。そして崩壊に向かっている身体が、話していた。かた、かたと顎を鳴らして。
「これだけの身体を調達してくれたのだから」
少し、甘いと思うがな……と影は嘆息する。ひょう、と掠れた、笛のような音が響く。同時に、つんとした……強烈な臭気の波が、ひたひたと室に満ちる。
「お前が巧くできるのはわかっている。あの女の時にそれを証明した」
あれの処理も任せたぞ、と影は囁く。一拍の後、しゅっと笑った。
「これしきのことで手間取っていれば、到底たどり着けぬからな」
骸は――その内に入った者は、歌う。
「血と骨と肉が必要だ。道筋は描いた……なにより、手に入れるべきは」
ハリー・ポッターだ。
そうして、一部始終を覗き見ていた老人は、速やかに処理された。
そうして、ハリー・ポッターは悪夢と、傷跡の疼きに飛び起き、
そうして、ウルペクラ・レストレンジは闇の印がちりちりと痛み、ゆっくりと覚醒した。
「……気のせいと思いたい」
夏のとある日。深夜、ウルペクラは渋面になった。ブラック家の血を色濃く宿す眼が捉えるのは、闇の印。寝間着を脱ぎ、肌着も脱ぎして、確認してみれば。
「――嘘だろ」
闇の印は濃い灰色であったはず。賢者の石騒動の後、静かになっていた。仄かに熱を帯びていたくらいで、次第に慣れていった。
慣れすぎていたのかもしれない。毎日のように確かめていても、なおざりになっていたのは否定できない。もはや惰性であった。よって、七月に入ってから濃い灰色が、かすかに色を変じた――ように思っても、そんなものだで済ませていたし、誤差の範囲だと思っていた。
誤差と言い逃れできなくなった。
ウルペクラは闇の印――心臓の真上にあるそれを、そっと撫でた。どくりと、脈打つ「名誉の証」は濃い藍色になっていたのだ。
あの方が、我が君が、生後数ヶ月の子どもに闇の印を下賜した外道がお戻りになっているのか。なっているのだろう、とウルペクラは結論づけた。
自分はただの人間で、生まれが厄介なだけの魔法使い。闇の帝王相手にどうこうできるわけもなく、ダンブルドアの下に駆け込むとしても時期尚早。保留。先送りである。
考えたって仕方がない。寝るに限る、と衣服を整え、再び寝台に潜り込む。
棚に置いた黄金のカップと白銀の冠を眺めながら、死喰い人と死喰い人の間に生まれた我が不幸、我が人生……と少々嘆いた。
万が一のためにせっせと手札を揃える人生なんて嫌なものだ。命懸けである。生きるとはそういうものかもしれない。
黄金のカップはグリンゴッツから回収し、複製呪文で写しをつくった。触れれば増殖するように仕掛けてある。
白銀の冠――謎めいた場所で手に入れた「トム・マールヴォロ・リドル」からの預かり物――も複製呪文で写し、あの場所に放り込んでおく予定である。
もし我が君こと闇の帝王が戻ってきたら安全のために手元に、と申し開きをするつもりである。死喰い人と死喰い人の子、しかも一の忠臣の子である。折檻される可能性はあっても、殺されはすまい。たぶん。
ご不満そうならトム・マールヴォロ・リドルのせいにすればよい。彼に指示されたのですと。半分は嘘だが、半分は本当だ。銀の冠は彼から預かったのだから。
「闇の帝王が戻ってきた場合」についてあれこれ考えている青年は知らない。
ハリー・ポッターが朧げな夢を見たことも。傷跡が少し痛んだことも。
闇の帝王が計画を練っていることも。
魔法省の魔女はただ旅行に行って帰り、マグルの老人は首を傾げながら館を後にしたことも。
二つの行方不明事件は発生せず。
密やかな闇の帝王の足音に、誰も気づくはずがなかったことも。
――クィディッチワールドカップの会場で、闇の印さえ上がらなければ
なお完璧だったろうことも
印が上がろうが、上がるまいが闇の帝王はわかっていた。忠実なる者が生きていることを。
不忠者たちが、のうのうと生きていることを。彼が下賜した闇の印が、その幽かな響きを伝える。
死喰い人の――陣営の全容を知るのは、闇の帝王のみ。
配下のすべては、彼の掌上に。
彼は闇を印す者。
ゲラート・グリンデルバルドの次の大悪、最も深い
八月某日、某所――クィディッチワールドカップ会場……付近のキャンプ場、とある天幕。
「――お遊びは」
楽しかったようで。
すっくと立つのは輝く金の髪に、星の眼を持つ青年だ。片手に鞭を持ち、びしり、びしりと床――『竜』紋が描かれた敷物に打ち付けている。そのたびに、哀れな竜は切り裂かれ、焦げている。勢い余って、天幕の壁にも傷が刻まれる。レストレンジ家の宝『赤雷』は主と同じく猛っているのだ。
「酔っただけだ、ウルペクラ」
小さな、呟くような反論に、ウルペクラは鼻を鳴らす。ちんまりと床に座っている者どもを――そのうち一人を睨めつけた。
「マルフォイ家の当主たる者の言とは思えませんね。へえー……酔っていたから無罪?」
びし、と鞭が鳴る。天幕の照明が砕け散る。隅に控えた男……ノット家の当主が、退屈そうに杖を振った。ぼうやりとした明かりが天幕を照らす。彼はウルペクラを止めることも「酔った末のお遊び」に興じた馬鹿どもになにかを言うこともしなかった。ただ、ほどほどにとウルペクラに眼をやるばかり。
ああ、死喰い人がノット家の主のように理性的であればよかったのに。
ウルペクラは疎ましさと侮蔑と怒りとその他諸々で、身を震わせた。どいつもこいつも馬鹿か。祭りで浮かれて騒ぎを起こし――暴れ回ったのだ。そこらの、けちなチンピラのように。
「浮かれて、ちょっとマグルの下着を見たかった? それともまぐわいたかった? とんだ変態だ」
「待て。吊り下げただけで――」
マグル殺しだの、闇の徒だの、純血主義だの言われても涼しい顔をするだろうルシウスが、聞き捨てならぬとばかりにウルペクラに噛みついた。どうやら変態野郎呼ばわりはお嫌らしい。
ウルペクラは、変態で愚かな叔父をあざ笑った。
「あのお方の方針は乱暴法度だと聞いていますが。そも、浮かれて騒いで、闇の印が打ち上がったら」
肩をすくめ、言葉という毒針を、ルシウスに――騒ぎに参加したお仲間に打ち込んだ。
「怖いよママ、といわんばかりに解散、と」
座した不忠者どもから、殺気が立ち上る。ウルペクラは柳に風とばかりに受け流し、ひょいと手首を返した。棚が、卓が、壁にかけられた絵が、木っ端となって砕け散る。
硬音が響き、天幕の空気が凍り付く。ひく、とルシウスの頬がひきつった。ウルペクラは片方の眉を上げた。浮かれ者どもがなにを考えているかなどお見通しだ。どうせこう思っている。彼らの双眸に過ぎった光はこう語っていた。
ああ、やはりこの青年は苛烈だ。死喰い人と死喰い人の子だと。ルシウスなど真っ青である。どうせウルペクラに母の――ベラトリックスの影を見ているのだ。
「とんだ迷惑だ」
ウルペクラは吐き捨てる。じろりと不忠者どもを見やる。ただ一人、ノット家の主――セオドール・ノットの父だけは、平気な顔をしていたが。なにせ彼は祭りに参加しなかった。マルフォイ家の天幕に集まったのは、闇の印が打ち上がったから。情報共有のためである。彼も、ウルペクラと同じく迷惑をかけられた側と言える。そもそも、ワールドカップを観戦したのは社交の一環。あまり乗り気でなかったろうから、二重に気の毒なことである。
「君が打ち上げたんじゃないのか?」
からかうように、ノットの父が言う。ウルペクラは彼に対する同情が吹き飛ぶのを感じた。それがたとえ事実関係を明らかにするための、わかりきった問いだとしても。
「僕は呪文を知らない。そもそも、あなたのご子息やルシウス叔父の可愛い坊やとともに森に潜んでいた」
「坊や」と嫌味ったらしく言う。ルシウスがきりきりと歯を食いしばった。いい気味である。ノットはともかく、ドラコのお守りは面倒だった。不幸にもマルフォイ家とレストレンジ家の天幕は隣り合っていた。嫌なお隣さんもあったものだ……なにやらきな臭くなったので、離脱したほうがよいだろうと考えた。ついでにドラコも回収したほうがよいか、といつもの癖で考えた。二つ下の従弟の監督は、昔からウルペクラの役目であったのだ。
隣を訪ねてみれば、シシー叔母は不在。どうやら夫人たちのお茶会に出席。ドラコは「父上はどこかに出かけていった。ウルに任せたって」と宣った。クソ野郎な叔父を、心の中で何度か始末しながらも、生意気な従弟をひきずって、森の中に。親代わりである家令たちに「助太刀に行け」と命じるのも忘れなかった。
立ち回りというものを知らぬ馬鹿者ことドラコが「は? 魔法省にいい顔をすることないのに。穢れた血なんてどうでもいいだろ」と言うので殴って黙らせた。森の中で、ポッター一行に絡みに行った時は、足払いをかけて転がして、ごめんなさいと言うまで地面に押しつけてやった。ポッター一行を「さっさと行け。こじれる」と言って、追い払った。
この時点でかなり疲れていた。ドラコは拗ねて三角座りをし、ウルペクラがせっせと魔法の環を描いても、ぶつぶつ言っていた。環が完成する頃になり、ノットがやってきた。父親に――彼も魔法省にいい顔をすべく助っ人組だ――森の中に行けば、ウルペクラに会うだろうから保護してもらえ、と言われたらしい。かくして、三人仲良く魔法の環で待機し、騒ぎが収束したので、ノットを天幕に送り届け。マルフォイ家の天幕へ移動。
同じ事を考えたのか、続々と死喰い人が集合。ドラコとシシー叔母は別室にいる。叔母は「ウル、思い切りおやりなさい」とウルペクラに許可を出した……。
「ああ、さすがの父君母君も、教えてなかったか。闇来たれと言うんだ」
ウルペクラの苛立ちを知ってか知らずが、ノットの父は杖を振り、小さな闇の印を生み出した。
「……僕、生後数ヶ月の時に、印を刻まれただけなので」
怒りが減じていく。なんでこいつらと同じ印を刻まれたお仲間なのだ、ウルペクラは。あと、闇の印のつくり方なんて知りたくなかった。
「隠れがいる、ということか」
ルシウスが言う。彼は杖を振り、木っ端となった諸々を直していく。もう一度振れば、卓の上に茶器が並び、豊かな香りが広がった。
「ひとまず、お茶にしよう」
いつの間にやら、主導権がルシウスに移っていた。ウルペクラが怒らなければ、話し合いがされるはずだったのである。誰もが――印された者どもが天幕に集まったのは、そのためだ。
「いてもおかしくないし、祭りで浮かれて下着を見るような、あの方の配下に相応しくない者どもに怒るのも、ありえる話だ」
席に着き、茶を飲みながらルシウスを刺す。ぐう……と叔父が呻いたので、その隙に、話を進めた。
「この醜態をあの方が聞けばどう思うことやら?」
「印も濃くなっているしね」
ウルペクラの言わんとすることを、ノットの父が口にした。謝意を込めた一瞥を彼に投げ、ウルペクラは息を吐く。
「……濃くなっているでしょう?」
問いに、ルシウスと始めとする「友人」たちが、顔を見合わせる。互いを探るようにして、左腕――袖を捲った。
「君も似たようなものだろう?」
片腕を振るようにしながら、ノットの父が言う。ウルペクラは頷くに留めた。
言えないではないか。彼らの印は淡い灰色。ウルペクラの濃い藍色に比べたら薄すぎるほどだ、と。
そうして、思い出した。二年ほど前フローリシュ・アンド・ブロッツで、ノットの父が言っていたことを。
儚いままの印、と。
あの時のウルペクラは、気にとめなかった。だが、考えるべきだったのだ。
闇の帝王は賢者の石を奪取せんと、英国に戻った。であれば、僕たちは皆、印を濃くしていたはずだ。
消えそうに淡く、儚いものから――濃い灰色に灼けていたはずだ、と。