終わりに向かう者の、最期の吐息を思わせる風。か細く、幽かな流れが、無秩序に、茫々と伸びた草を撫でていく。
空はどこまでも暗く、陰った星々がウルペクラを睥睨している。
――なぜ
このようなことになったのか。
気づけばどこともしれない場所にいた。見知らぬ墓地。
眠りの神の、真綿のごとき呪縛が少し解けたようであった。不可視の、すんなりとした手が遠ざかる……去っていく。けれど、ウルペクラは動けずにいた。闇の印の灼熱が、彼を逃すまいとして。
それに、彼は戒められていた。四肢を広げ、鉄輪をはめられ、伸びる鎖は地に打ち込まれた杭に繋がっている。監獄の闇に沈んだ者より、なお厳重に。丁重に、荒ぶる獣を留めるかのように。
さく、さく、と音がする。草を踏み分け、時に払いながら影がやってくる。穢れた場にいるとは思えぬほど、悠揚として迫らざる、その足運び。
夜闇の黒髪、鮮烈な青の眸。雪を欺く白い肌、珊瑚色の唇。片手に美しい剣を持った魔女が、ウルペクラを見下ろす。
「……かかりが悪かったのかしら」
ジュニアってば、と魔女が嘆息する。知っている女だった。あまり関わりはなかった。むしろ深い仲だったのはセドリックのはず。
彼女はセドリックの恋人なのだから。
「あいつは……セドリックは」
掠れた声を絞り出す。ウルペクラはおぼろげながら、状況を把握していた。墓標に縛り付けられ、眼を見開いているポッター。
きっと迷路の中で拉致された。転がる、鈍い金色から察するに、ポッターは優勝杯を掴み、転移させられたのだろう。迷路で一人になる瞬間を狙われたのだ。
そのためには、他の代表選手を排除する必要があった。ポッター以外の者が優勝杯を掴まないよう。
もう一人の隠れ、ステラ・ブランシュは、セドリックを排除するために近づいたのだろう。となれば、彼がどうなっているか……。
隠れに、ウルペクラを拘束したであろう女に訊いてどうすると思うも、訊かずにはいられない。
どうしようもない己の現状を直視するよりはいい。ダフネのことも気がかりだけれども、女に問うたところで答えは得られるまい。
ウルペクラをどうするつもりだ、と訊いたところで無駄なように。
わざわざ、己を送り込んだ理由など知らない。もしかしてシリウス・ブラックを救ったことが、叛意ありとみなされたのか。クラウチ・ジュニアがウルペクラを同志と言った事実と符合しないものの、些事であろう。片や気まぐれな闇の帝王。戯れに使用人を始末する男。片やそんな男に心酔している狂人なのだから。
「――無事なんだろうな」
きっと殺されるであろう者が、死にゆく者が最期に訊くべきことだろうかと思うも、口を衝いてしまった。放たれた言の葉を受け、ブランシュは肩をすくめた。
「自分の心配でもしたら? お兄様」
――なにを
呼びかけは、明らかに自分に向けられたもの。お兄様、と。彼女は呼んだ。
ウルペクラはきつく眼を瞑り、開いた。印の痛みが、声を戦慄かせる。
「僕にきょうだいはいない」
そのはずだ、と呻く。ブランシュは怪しく眼を光らせた。
「いいえ。私はデルフィーニ。デルフィーニ・レストレンジ」
大陸のレストレンジの娘。ボーバトンの生徒。といっても、本当はフラーより下の、五年生。この間、お誕生日だったから、十六歳になったのよ。
歌うように、デルフィーニが言う。いるか座の名を冠した者が言う。
「フラーとお友達なのは本当よ? 姉妹の契りを結んだの。でもねえこの名前のまま、ホグワーツに潜り込むわけにはいかないでしょう? 目立つものね」
だから、ステラ・ブランシュと名乗って、皆の記憶をちょっといじったの。
楽しげに、誇らしげに、デルフィーニは囁く。
年齢も書き換えて――マダム・マクシームに会いたい人がいるんですと言って、代表選手候補の枠に入れてもらったと。マダムはデルフィーニを気に入っていて、だから、記憶を書き換え易かったと。
「私、お兄様に会いたかったのよ。だって我が家には、もう妖精しかいなくて」
ねえ、ちょっとは感動してくれない? 私たち、きょうだいなのに。
ぶつぶつと言って、デルフィーニは手に持った剣の、黄金の柄を撫でる。青玉が主に同意するように煌めいた。
「僕にきょうだいがいたなら、こっちで養育されていたはずだろう」
ウルペクラは、熱い吐息とともに返す。全身が燃えるようだ。印を中心に、灼熱に侵されているかのよう。
大陸のレストレンジ。闇の帝王凋落後、連絡が絶えていたと聞いている。子女がいるとも聞いている。それが、男か女か、どんな人物かを知るほどの興味を持たなかった。必要もなかった。大陸は大陸、英国は英国。干渉も、交流も意味を成さないのだから。
お兄様とウルペクラを呼ぶのなら、デルフィーニは英国のレストレンジであろう。叔父のラバスタンが大陸のレストレンジと交わった、その結果生まれたいとこという線もあるが、デルフィーニの口振りはあくまでも親しい兄に対するそれだ。いとこではありえまい。
――なによりも
「デルフィーニ。星の名……ブラックの血筋……」
一語、一語、押し出すように口にする。極度の緊張と痛みが、舌の動きすら阻害する。
「ええ、私の母は
初めて呼んでくれた、とデルフィーニは声を弾ませる。無邪気で、どこか寂しくて、恋しい響き。
「お兄様と同じ、星の名前」
「大陸に、養女にでも出されたか」
まだありえそうな推測を口にする。心の半分で否定しながら。子は多いほうがいい。英国のレストレンジが――父が、後継者候補を無闇に外に出すものか。
「正解。英国にいたら危なかったらしいから。と、いうよりもマルフォイ夫妻が私を手元に置きたがらなくて」
「……マルフォイ?」
呆けたように呟く。なぜここでマルフォイが出てくるのか。繋がりがわからない。まさか父とシシー叔母が、と青ざめる。ウルペクラの狼狽を読みとったのか、そんな必要もないほど酷い顔をしていたのか、デルフィーニが答えを投げた。
「生まれたのはレストレンジ邸。育ったのはマルフォイの別邸。不忠者のマルフォイは、私のことが邪魔だったのでしょうね」
退屈そうに、デルフィーニは言う。拗ねたようにウルペクラを見た。
「ベラトリックスの娘。父親はロドルファスじゃないし、ルシウスでもない」
ゆっくりと、噛んで含むように告げられる。ウルペクラの頭に、染み込んでいく。氷のような、冷たさとともに。
星の名。ブラックの血筋。父は邸での出産を許容し、マルフォイは手元に置きたがらなかった。それはなぜか。
レストレンジは忠臣。マルフォイは不忠者。闇の帝王が凋落し、罪を逃れることに必死だった。
ただの死喰い人の子ならば、ベラトリックスの子ならば、手元で育てていただろう。ロドルファスとの子ならば、レストレンジ邸に返しただろう。追いやるように、大陸にやったその理由。
いかなる火の粉も、寄せ付けたくなかったから。
――ベラトリックスが
母が、夫たるロドルファス以外と情を交わすのならばそれは誰か。
明白な答えに、ウルペクラは喘いだ。ありえると思った。何度も考えて、打ち消した。いるとは聞いていなかったから。
「……闇の帝王と、ベラトリックスの娘」
ウルペクラは答えを告げる。デルフィーニは満面の笑みを浮かべ、するり、と偽りの羽衣を脱ぎ捨てた。滑らかに、遅滞なく本来の姿に戻っていく。
陰る星々の儚い輝きに、浮かぶ魔法灯に煌めくのは白銀。
双眸は、美しくも禍々しい、紅い星の彩。
「それだけじゃないでしょう、お兄様?」
彼女はそっと首を傾げる。
「私はあなたの異父妹。お父様から印を賜った者。名付けられた者」
お揃いね、とどこか幼い笑みを浮かべ。
彼女は剣を振り上げた。
蒼い炎が剣身を這う。
「そして」
闇の帝王に血肉を捧げる者。
音もなく、淀みなく。
邪を滅するとされる剣が、振り下ろされた。
谺する叫びを聞く者は、星々と、こぎつねを哀れむ、隠された月乙女。異父妹によって片腕を落とされ、苦しむその様を見るに耐えぬと眼を閉じる。
血の滴る兄の腕を持って、歩を踏む白いるかと。闇の祝祭に心を躍らせ、大鍋の前に立つ彼女を、見ることしかできない稲妻を印された者。
闇の帝王の娘は歌う。
天に言挙げする。
「父親の骨、娘の血、しもべの肉、敵の血を」
ここに。
大鍋が輝きを帯びる。
墓土と骨で形作り。女の涙――迂闊な旅人、バーサからとったそれを練り込んでつくった魔法具。隙間なく刻まれているのは古代語だ。我再び生まれ出ん、と。
ぱしゃん、と水音。捧げられた供物を赤黒い糸となし、縒り合わせるのは邪な神の、
手遊びでもするように、骨と肉と血で紡がれたそれを織っていく。
ふう、と神が吐息を吹き込む。寵愛する者の、魂を入れてやる。
にぃっと、三日月の形に唇を歪ませ、不可視の神が去ったとき。
輝ける闇が現出した。
再び立ち上がった者は言う。最も深い闇へ踏み入った者は言う。
ああよくやった。デルフィーニ。我が娘よ。
そしてウルペクラよ。
お前は最高の名誉を与えられし者。この上、肉まで捧げたとなれば、比肩しうる者などおるまい。我が娘と並び立て。
お前は、俺様のために生まれてきたのだ。
同時刻、とある海の彼方にて、男が顔を上げた。
「戻られたか」
深い深い闇の底。人としての生の果て、希望なき地に、響く声。
彼は、左腕を、闇を印された腕を掴んだ。灼けるような痛みがなにほどのものであろう。これは、喜ばしい兆し。新たなる闇の時代の産声だ。
「ジュニアがやったか、それともご息女か。両方、というのもありえそうだ」
闇の帝王の伏せ札は二人。一人はジュニア。父を母を欺いた男。生まれながらの詐欺師。一人はデルフィーニ。闇の帝王の娘。ロドルファスの息子の異父妹。健やかにお育ちになっているはず。
妻はロドルファスの望みを叶えた。子を授けてくれた。ロドルファスが本当に想っている女の存在に眼を瞑った。ゆえに、主君との交わりを不貞とは思わず、許容した。
主君の子、そして妻の子の存在を隠さねばならなかった。
そのために、ロドルファスは幼馴染たちの記憶を書き換えた。毒を退ける血を持っていない、脆い身のご息女が、万が一にでも害されてはならないから。
秘密を知る者は少ないほうがいい。
息子のことは、心配していなかった。闇の帝王より印を賜ったウルペクラ。闇を印された者は、蛇の王の毒をも退ける。
毒と呪いはきょうだいのようなもの。毒を潜ませる悪意と人を呪う心は似たようなもの。
ウルペクラは、呪いへの耐性も有している。
その上で。我が君の魂を下賜された。
その手で、魔法をかけられた。
「毒は効かず、呪いも効かない。心配するだけ無駄だ」
ロドルファス・レストレンジの子、こぎつね座のウルペクラは。
夜闇の血を継ぎし、最後の『分霊箱』。
闇の帝王によって寵愛されし、闇の帝王を守る者。
そのすべては我が君の御為に。
ひっそりと彼が歌い上げた時。
遠い墓場で、稲妻を印されし者は、闇を印されし者の手をとって、優勝杯を掴んだ。
転移する刹那、輝ける剣の、蒼い炎が牙を剥き――。
「ウルペクラ!」
ホグワーツに帰還し、迷路の入口に放り出され、稲妻を印されし者、ハリー・ポッターは叫びをほとばしらせた。
必死に呼びかける彼は、気づかなかった。
ウルペクラ・レストレンジの断たれたはずの腕、その傷口から溢れていた夥しい血が止まっていることに。
失血死していてもおかしくないことに。
蒼い炎がわずかに触れた背が、ゆっくりと修復を始めていることに。
彼が闇の品、呪われしものだということに。
炎から、己を庇ってくれたひとの惨状に混乱するばかり。気づけるはずがなかった。
ハリー・ポッターは知らない。
己の中に小さな小さな魂の欠片があることを、ウルペクラ・レストレンジが最後にして最高の『分霊箱』であることを。
こぎつねは、両親によって贄とされたことを。
その生は、愛ゆえではないのだということを。
両親に愛され、守られた少年は知らない。
見えざる
望まれて生まれてくることは、幸福を約束しないということを。
闇の印によって幕を開けた一年が終わる。
帝王は帰還し、娘は父とともにあり。
セドリック・ディゴリーは生存し。
バーテミウス・クラウチ・ジュニアは虚ろとなり。
ハリー・ポッターは生き延びて。
ウルペクラ・レストレンジは血に濡れて。
よけいものを生み出さず、幕を閉じる。
四章終了