月が死に、理がゆがみ、浮かれゆく霊が差し招かれた夜。
枷を打ち砕き、立ち上がった。むせかえりそうなほど濃い鉄錆の香にすべてを塗りつぶされながら。墓標にすがるようにして。
ぼた、ぼた、と落ちる紅をぼうと見て、満ち満ちる殺気を感じ取り、ふっと視線を滑らせる。
追え、という声。叫び。呪文の気配。
跳ねるように駆ける影。閃く光が、その姿をくっきりと浮かび上がらせる。
――ポッターが
狩られようとしている。幼い鹿が、狩人たちの手に落ちようとしている……。
あれでは追いつかれる、と思うや否や、彼は得物を振るった。
ぐっと地を踏みしめ、墓標から手を離し――。
虚空を駆け上がり、落ちていくのは紅の色。
肉の焦げる臭気が、墓場の風に食われていく。狩人たちが一人、二人……幾人も倒れ、ポッターが残りの距離を跳躍する。器用にも優勝杯を呼び寄せて、着地。
「帰ろう!」
震え、怯える声が言い切った。
断固として、彼の手を掴み――。
ふっと眼を開けた。
薬のつんとするにおいを知覚する間もなく、千の牙に貫かれるがごとき痛みが襲い来る。指の一本も動かせず、声すら上げることもかなわない。
特に酷いのは背中だ。焼き鏝を丹念に丹念に、執拗に当てられ、撫でられ、押しつけられているかのような。
歯を食いしばり、息を漏らす。どうやら医務室の寝台の上にいて、うつ伏せで寝かされている。ウルペクラはひとまず、生き延びたらしい。
周りで蜂でも飛び交っているのか、妙に煩わしい。傷を負っているせいで、幻聴が聞こえているのか、否か。思ったとたん――。
「だから私は言ったんだ! そんな忌まわしい男に構うことはないと!」
突き刺さるような声が、鼓膜を震わせる。男の、怒気に満ちた声。
ウルペクラは、眼を動かした。ぼやけた視界に、細い背が見える。誰かを庇うように両腕を広げて――。
「レストレンジに慈悲をくれてやるのはよいわ。だけれども、ダフネ」
今度は、ねっとりとした声。二つの影が、ウルペクラを見下ろしている――いいや、貫こうとしている。その視線で。そんな気配がする。
ぼうやりとした視界と、軋む思考でウルペクラは悟った。
――自分は庇われているのだと
ダフネによって、その細い背によって、守られているのだと。
誰から守られているのか?
「狂人から生まれた、ろくでなしですよ。少々踊るくらいなら、眼を瞑ってあげましたよ。仕方なく、寛容に。だけれど結果はどう?」
はっ、と女があざ笑う。怒りと侮蔑を込めて吐き捨てる。
「ダンスパーティのパートナーですって? 穢らわしいレストレンジが! あなたはそれを隠していた! ありえない、その様子じゃただのパートナーじゃないのでしょう。言わないことはない! こんな……こんな、男のせいで、あなたは酷い目に」
「やめて、お母様。ウルは悪くないもの」
か細い、震える声。ウルペクラは唇を動かし……音にもならない残骸すらも、押し出せなかった。もういい、と言いたいのに、止めたいのに、なにもできない――。
「ダフネ。聞き分けなさい。レストレンジに関わってはいけない」
今度は、男の――高い声が。いまにも爆発しそうななにかを、無理に押さえ込んでいるような、ゆがんだ響きがウルペクラの耳朶を打った。
「わかるだろう? この男は、生まれてきてはいけなかっ――」
「――やめて!」
傷つききった声が、ウルペクラを貫いた。ダフネの両親の言葉よりも鋭く、激しい痛みをウルペクラにもたらした。
鮮やかな、未知の痛み。
ウルペクラが己の生まれを承知していた。死喰い人の子だという汚名を着て、ずっとずっと生きてきた。
恐れと侮蔑、怪物の子、ろくでもない、骨の髄まで腐っている人間を見る眼を、向けられてきた。
ダフネの両親とて、例外ではない。昔からウルペクラに当たりが強かった。怪物の子め、呪われた子め、と言われた覚えがある。
純血のレストレンジ。聖二十八族に数えられる、由緒正しき血統。北の都の主。そう敬われる一方で、忌まれるのがレストレンジであった。狂った血筋、死喰い人と死喰い人の子。怪物の子。呪われた子。
慣れていて、今更で。ダフネがウルペクラを庇うことなんてないのに。
どうしてそんなにも、壊れそうな、脆くて熱い声を出す。
ダフネ、と呼ぼうとしたそのとき。
「――それじゃあ、私も、生まれてきてはいけなかったのかしらね」
幽かな靴音。外套が翻る音。言の葉が、陰々と木霊する。
「私も穢らわしい血を継いでいるとおっしゃる? グリーングラスご夫妻?」
明らかな威嚇の響き。なにやら夫妻が言う声がして、やがて去っていった。盗み聞きが露見してはならじ、と眼を瞑ろうとしたが遅かった。
緑の眼が、ウルペクラを見た。頬にはガーゼが貼られていて、長かった髪は切れていて。
「ウル……。ウル、聞いて――」
泣き出しそうな声。ダフネの眼は潤み、ぽろぽろと涙が零れた。
「ダ、フ……ネ」
せめて、ハンカチかなにかを、と手を動かそうとして首を傾げる。奇妙な違和感を咀嚼する前に、誰かが割り込んできた。
「まずは眠ることだよ」
ダフネの背をさすり、ウルペクラをのぞき込むようにするのは星の眼だ。では、夫妻を追い払ってくれたのは彼女か。ニンファドーラ・トンクス。穢れたマグル生まれと結婚した、穢らわしいブラック家の女の、子。
「ト……」
ンクス、と言おうとして、彼女が首を振る。ひょいと杖を振れば、ウルペクラの身体が軽く浮き、もう一度振れば、仰向けになった。三度振れば、上半身を起こしていた。
「今は眠ることだよ。従弟くん」
よく頑張ったね、と彼女は囁く。気づけば、ウルペクラの口元に杯があてがわれていた。
ゆらめくその色に、ウルペクラはもがく。
――これは
偽マッド・アイが飲ませようとしたものではないか?
疑念が渦巻くも、トンクスは待ってくれなかった。見えざる手がウルペクラの鼻を摘む。たまらず口を開けば、ほのかに甘い薬液が侵入し、喉を滑り落ちて……。
「おやすみ、ウル」
墜落するように、眠りの神の手に陥ちた。
腐れた風と、赤い稲妻、蒼い炎。悲鳴。帰るよ、という声。
伸ばされた手。転移。
迫る炎。咄嗟に庇って。
脈絡のない、切れ切れの夢。
一片の情もない声が、反響する。
跳ねるように起き――ようとして、低く呻いた。
蒼い薄闇。ゆらめくカーテン。ウルペクラは、またも寝台の上にいた。今度は仰向けだ。
天井をぼうやりと見つめ……今いる場所が、医務室ではないと知った。
清らかに輝くのは、強力な癒しの紋。この屋根の下にある者は、聖マンゴの御名において秘密を守られるであろう、という力ある言葉。
聖マンゴの個室、その中でも守り堅き場所なのだろう。
は、と息を吐く。倦怠が身に張り付くようだった。
ウルペクラは生き延びた。いや、逃げた。問題を先送りにした。
「……どうすれば」
なぜ、ポッターの手をとってしまったのか。闇の陣営にいたほうが楽だったろうに。
なぜ、ポッターをその身で庇うようにしたのか。ただ、そうしてしまったのだ。
――ただ
心のままに、動いてしまったのだ。最善を蹴り飛ばして。ウルペクラは死喰い人の子だというのに。闇の帝王に仕えたほうが、なにも考えなくてよく、なにも感じなくてよかったろうに。
闇の陣営にいたならば、ウルペクラは蔑まれることなど……。
かた、と音がして。向けた視線の先には、細く開かれた扉。そして金糸と深い緑の眼があった。
「ウル!」
「ダフネ……」
足早にやってくる彼女に、手を伸ばそうとする。
ただ触れたかったのか。それとも傷がないか確かめたかったのか。
すべては自分のせいだ、と謝りたかったのか。
その感情はウルペクラにもわからない。
どのみち、夜明けの前、蒼い蒼い闇の中。
答えがもたらされることはなかった。
伸ばそうとした右腕は、動かなかった。
「な……」
喘ぎ、左手で上掛けをそっと剥いでみれば。
片袖は虚しく伏せたまま。あるべきはずの、右腕がなかった。
そうしてウルペクラは思い出した。
彼の右腕は、胤違いの妹によって切り落とされたことを。
永遠に、喪われたことを。