Black Heart Vulpecula   作:扇架

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三十二話

 

 何度も瞬いて、膨らみのない袖を見つめる。

「――そうか」

 ウルペクラは、ぽつんと呟いた。ほかになんと言ったらいいかわからない。あるはずのものが、不意に奪われたのだ。理不尽に、唐突に。

 まざまざと蘇った記憶、酔いそうなほど濃い鉄錆の香と、己から溢れるもので半身を濡らし、悲鳴を上げた。ちゃりちゃりという鎖の音。飛び散る血……顔にまで降りかかった……。

「そうか」

 もう一度、呟いて膨らみのない袖を見るに堪えず、上掛けを戻す。

 目眩をこらえ、どうにか上半身を起こす。ダフネに、問いかけた。

「君の怪我は」

「ほんの擦り傷よ」

 酷い顔だ、とウルペクラは思う。ダフネはいまにも倒れそうなほど、青ざめている。彼女の、鮮やかな緑の眼が、ウルペクラに――上掛けに投げ出された、左腕に注がれる。

「僕は生まれが生まれだ。こうなるのはまあ、運命だったんだろう」

 心にもないことを言う。白々しく、羽根より軽い、上辺だけの言葉を。ここでダフネに怒りを向けてなんになろう。運命など嫌いだと言ったところで、なにも変わらない。

 掠れた声で、小さな声で、茶化してみせる。己の無様さを。たいしたことではないという風に。

 が、ダフネは笑うどころか、表情を消した。膝の上に置いた拳が、ぐっと握られる。

「大嫌いよ。運命や、神様や、星の巡りなんてものは」

 内に秘めた熱いなにかを、ダフネは吐き出す。たおやかな令嬢、周りの気配に聡く、上手に立ち回る魔女は――赫怒に声を震わせていた。

「死喰い人の子だとか、怪物の子だとか、呪われた血だなんて……大嫌い。誰が決めたのそんなこと。もし神様がお決めになったのなら、そんな神様なんていらない。ウルがこんな目に遭うことないのに」

「遭っても仕方がないと思うのが世間というものだ。僕が死ねば喜ぶ――」

 者も、と言おうとして、睨まれた。まるで、世界で一番ウルペクラのことを案じているし、その権利があるとでもいうように。

 そんな馬鹿な。ウルペクラとダフネは恋人同士ではあるが、ただの他人。しかもグリーングラス夫妻こと、ダフネの両親は……。

「酷い、ことを」

 私の両親が、惨いことを……と、ダフネは嘆いた。肩を震わせる彼女を見るうちに、曖昧で、色のない記憶が質感を得て立ち上がった。

 向けられた侮蔑。グリーングラス夫妻の怒り。当然の、あるべき感情。彼らは娘を傷つけられた。忌まわしい「レストレンジ」、怪物の子に巻き込まれる形で。

「ご両親は正しい」

 ウルペクラは静かに言った。言おうとした。彼らを責めるような響きを帯びないように。ほんの少しの暗く、やるせない感情すら見せないように。

 だというのに、ダフネは眼を見開いた。眦に険しいものを滲ませ、頬を紅潮させて、

「レストレンジを、あなたを呪われた忌まわしいものだと言うのなら、」

 と、呻く。強烈な言葉を――侮蔑を口にした痛みを噛みしめるように。何度か息を吸って、吐いて。

「レストレンジを呪われた血と呼ぶのなら、グリーングラスだって一緒。私たちは、グリーングラスの血は呪われている……」

 途切れ途切れに、花唇から押し出された言の葉。ふっと過ぎった記憶。

 

 嘆く女の子の姿。記憶にある限り、初めての出会い。どうやら自分は靴を探してやったらしいが。ただ、悲しげな眼と、小さな手の感触……誰かに――おそらくダフネの両親に詰られたのだろうことは、ぼうやりと思い出したのだけど。ダフネが靴を隠されたきっかけも聞いていない。分家だからと馬鹿にされたのだ、と聞いていた。

――なるほど

 過去の一片が降ってくる。呪われた血のくせにと言われた……と。

 細く息を吐く。幼いダフネにとって、酷だったことだろう。純血、古い家にはなにかしらの伝説、おとぎ話が付き物だ。呪われた血なんてものも、一種の箔付けにはなったろう。たとえばそれが、古の悪を討っただとか、土地を清める代償にだとかそういった類であれば。あるいは高貴なるブラック家、王族を自称するスリザリン系筆頭の話であれば。

 呪われしグリーングラスの話は知っている。先祖が受けた、古の呪い。名もなき誰かにかけられた呪い。現れれば死ぬのだとか。

 何代も何代も、呪いは息を潜めていて、もう消えたのではないかと言われている。それともその古さを誇示するための、嘘なのでは……と囁かれる。

 『双狼』のブラック家ならば古く純粋な血の、積み重ねてきた歴史を証すものとなろうおとぎ話。『隼』のグリーングラス家が受けたのならば、それは嘲笑と蔑みの対象となる。

 なぜならば、グリーングラスは中立、穏健派。本家の人間が一人しかいないブラックより、滅んだゴーントより揺るぎなく、巧みに世を渡り、血を繋いできた。妬まれ、時に幼稚な言いがかりをつけられる……。

 それでも、とウルペクラは思う。グリーングラスの呪いはいわば過去のもの。時の彼方の誰かの話。何代も前のレストレンジは、呪われた『隼』を救うことができなかったそうだが。苦痛を取り除くことしかできなかったそうだ。その代のレストレンジは、稀なる異能を発現させていなかった。無力だった。

 レストレンジは知っている。グリーングラスの血の呪いが、箔付けのための偽りではないことを。毒蠍のレストレンジは、その手を血で汚す一方で、癒しの技も心得ていた。

 昔々、レストレンジとグリーングラスの距離は近かったのだ。今や、レストレンジの息子はグリーングラスの夫妻に蛇蝎のように嫌われているが。

「まともに考えて、死喰い人の子と可愛い娘が付き合っていて喜ぶ親はいない。死喰い人の中でもとびきりの怪物の血を引いている男になんて……嫌だろう」

 淡々と言う。レストレンジはグリーングラスのように呪われていないが、ある意味では怪物の影に付きまとわれた家系である。その怪物が、実の両親なのだから笑えない。

「死ねと言われても仕方がなく、確かに……生まれてくるべきじゃなかったんだろう」

「そん、」

「グリーングラスに益はない。それなら、マグル生まれと添わせるがマシだと言うだろう」

「ウル……」

 ひく、とダフネがしゃくりあげる。心を踏みつけられ、砕かれて、破片に切り裂かれたような、傷ついた眼。

「慣れてる。死ねと言われたこともある。だから、君が責任を感じることはない……報いなんだろう」

 ダフネを見て、そっと眼を逸らす。肩より長く伸ばしていた金糸は、顎のあたりで切り揃えられている。

 彼女がウルペクラに対する人質に――手札になったのも、傷だらけになったのも、こうして泣いているのも、全部。

「僕のせ――」

「違う!」

 

 悲鳴のような叫び。左手をきつく掴まれる。ダフネの頬を滑り落ちた涙が、はらはらと落ちて、二人の固く結びついた手を濡らした。

「なにもあなたのせいじゃない。私は、あなたがいいと思った。昔からずっとそうだった! いくらでも拗ねていいはずなのに、そうしなかった。あなたは正しく振る舞ってきた。下の子にも、混血にも優しかった。公平だった」

 ダフネの呼吸が荒い。この女は気を昂らせるということが、激情に身を任せるということが、苦手なのだとウルペクラは承知していた。きっとそのように育てられた。箱庭のなかで、大事に大事に。顔に傷がつくという理由で、乗馬を禁止されるほど。

 だから、ひょう、という喘鳴にどうしようもなく不安になる。背をさすってやりたくとも、もはや右腕はない。彼女を宥めてやれず、もどかしいと思い、一方で葛藤する。この令嬢に触れてもよいものか、と。

 なんの瑕疵もない娘に、自分のような穢らわしいものが……と。

「あなたを侮辱するなんて、あんな言葉を向けるなんて、たとえ親でも赦さない」

「気持ちだけ受け取っておく。悪いことは言わない。他の誰かを」

 探せ、と言おうとしたができなかった。

 唇に、柔らかいものが触れる。数秒の後、離れていった。

「これで後戻りできないわよ」

 勝ち誇ったように言われ、呆けたように、煌めく緑を見つめた。なんと言ったものか、一瞬の半分だけ考えて――今まで頬に接吻だけで済ませていた僕の努力は。君は唇へのそれがいわゆる一線とお考えで。これだから箱入りは困る――彼女の手から、己の左手を抜き取った。

 この瞬間だけ、ウルペクラはすべてがどうでもよくなった。ダフネがたかだか子どもの接吻で後戻りどうこう、と言うのがよくないのだ。

 そっと嘆息する。

「そう言うのなら」

 完璧な輪郭を描く頬へ、手を添えた。

「もっと深みにはまればいいさ。お嬢様」

 そうして、ウルペクラは。

 彼女の吐息を奪った。

 

 眼を潤ませ、なにやら言いたそうにして、だけれどもできなくて。少々足下がおぼつかないダフネが、病室を出ていった。

 ひらひらと残った手を振りながら、ウルペクラは満足を覚えた。

 子どもの、お友達の接吻から一段階進んだ余波でダフネも余計なことを考えるまい。彼女がいちいち傷つく必要はない。本当なら、己の父母からウルペクラを庇う必要だってなかった。こうして様子を見に来る必要だって。

「……一人で来たのか?」

 はた、と思い至った。彼女の両親は反対したはず。ダフネが抜け出して、単独で来たのなら、随分と危うい真似をしたものだ。しかも、夜も明けていないのに。

 つい触れて、つい唇を奪ったが、間違えたのではないか。致命的に、どうしようもなく。

 ほんの少しの明るい兆しは、すぐさま昏い感情に取って代わった。後悔とは後から悔いると書いて後悔なのである。

「怪物の子、呪われた子。穢らわしい子」

 歌うように呟く。背が熱を持ち――じっとりと湿る。額も熱を帯びているようだ。

 枕に上体を預けたまま、ウルペクラはぼうやりと考える。

 片腕を切り落とされた。背にはきっと火傷がある。

 大量の血を失ったはず。追い打ちのように背を灼かれた。

 個室――それも厳重に魔法がかけられた場所――に、入れられるほどに重傷だった。

 だが、本当ならば……。

「死んでいないと、おかしい」

 魔法族とて血を失えば死ぬ。魔法の加護はある。高所から落ちても無事だとか、なにかから逃れようとしたら空間を跳躍していたとか。それでも、気休め程度だ。

 血を失うし、骨も折る。マンドレイクの叫びで死ぬ。ヒッポグリフの爪にひっかかれれば深い傷だって負う。魔法族は不死ではない。マグルより少し耐性があるくらい。

 ウルペクラが生きている道理などない、むせかえるような鉄錆の香を覚えている。本能が危機を訴えていた。耐えきれず、悲鳴を上げた。

 立ち上がり、胤違いの妹を迎え撃った。血がさらに流れたはず。傷口を縛ることすらしなかった。そんな余裕はなかった。

「ありえない」

 脇机に置かれた、杖を手に取る。ありえない、ありえてはならない。そんなことはあるまい、と祈るように思いながら、呪文を口にした。

忌まわしき大鎌よ(セクタムセンプラ)

 魔力は枯れていなかった。不可視の刃は衣を切り裂き、壁に傷を刻み。

 ウルペクラの身には、なんの痕跡も残さなかった。

――なにが

 どうなっている。レストレンジの稀なる血は、毒を退けると謳われる。呪い――攻撃を退けることはないはず。毒と呪いがきょうだいのようなものだとしても、解釈によっては、悪意を含むものと定義できるとしても。

 セクタムセンプラを受けて、傷ひとつないなどありえない。

 歯の根が合わない。脳裏を駆けめぐるのは、紅い眼。死んだ誰か。絡みつくなにか。恐怖。

 悲鳴がこぼれ落ちる。

 自分は怪物で、呪われた身だったのだと理解せざるを得なかった。

 頭を抱え、ひたすらに叫んでいるウルペクラの耳に、穏やかな声が忍び入った。

「レモンキャンデーと、お茶でもどうかと思ったんじゃが」

 そろそろと、顔を上げる。

 すべてを見透すような、ライトブルーの双眸。

 大魔法使いが、静かに佇んでいた。

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