夜明けの光が射し込んで、大魔法使いと謳われる者の面を照らす。刻まれた皺のひとつひとつを、重ねた年月と――憂いに満ちた眼をくっきりと浮かび上がらせた。
眼を瞬いているウルペクラをよそに、ダンブルドアは椅子に腰掛けた。ライトブルーの双眸が、壁に刻まれた傷、獣の爪痕か、巨大な鎌を闇雲に振るったような深いそれに向けられる。
「のんびりお茶とはいかぬようだ」
杖が振られ、壁の傷が修復される。ウルペクラの病衣も綺麗に繕われた。
「先生、どうして」
混乱のままに問いかける。礼を言うことも、これはただの事故ですと言うことも忘れて。なんでもありません、と平静を装うことすらできずに。
まるで、子どものような拙い問いに、ダンブルドアは頷いた。ウルペクラに「お食べ」とレモンキャンデーなるものを差し出して。
咄嗟に右手で受け取ろうとして果たせずに、左手で棒つき飴を取ったウルペクラに、ダンブルドアは小さく首を振る。惨く傷つけられた誰かを、見るに堪えぬとでもいうように。
漂う哀れみの念に、ウルペクラは歯を食いしばった。無理矢理に、恐怖を押さえ込む。自分が劣った何かになった気がした。哀れまれるべき、かわいそうな何かに。
――かわいそうな怪物に
ぞっとする考えを、ウルペクラは飴の包みを破ることで散らそうとした。幸いといっていいのか、隻腕になった身だ。片手で棒つき飴を持ち、歯でどうにか破った。
かさ、と乾いた音の合間に、ダンブルドアが呟くように言った。
「君とお茶でもしようと思っておった。眠っていたならば、それもよし。届け物を置いて帰るつもりで……いたのだが」
ダンブルドアは再び、室を眺める。特に壁を長い間見つめていた。ウルペクラに視線を戻した彼は、問いを投げてきた。
「自らを傷つけようとして、果たせなかった?」
「手元が狂った……」
咄嗟に言い抜けようとするウルペクラを、ダンブルドアは軽く腕を振って遮った。その瞬間、強力な魔法がかかったのを、ウルペクラは感知した。盗聴防止などを何重にも、一瞬でかけたようだ。
「君があれほど取り乱すということは、なにかがあった。そして室が荒れ、衣が裂かれても、君自身は損なわれていない」
「答えをおっしゃってるではありませんか」
ぽつんと返せば、ダンブルドアは険しい顔をした。柔和な好々爺然とした大魔法使いにしては珍しい。が、ただの気のよい、変わり者の老爺に、ゲラート・グリンデルバルトが倒せるわけがない。ましてや、彼は闇の帝王が唯一恐れる人物と謳われている。
「ただの事故、偶然であればよかった。たまたま、弱った身体で放った呪いが、術者を傷つけなかっただけだと」
苦々しく、ダンブルドアは言う。怖いもの見たさに入ってはいけないところに踏み入って、後悔しているような。知りたくもない答えを知ってしまったかのような、重い声。
「――なにを」
知っているんですか、とウルペクラは囁いた。恐ろしいものがたんと入った
ダンブルドアがなにかを知っている。理解していると察していた。彼の様子は尋常ではなかった。答え合わせができると思った。
きっとウルペクラはなにやら身体をいじくられているのだろう……と思っていた。強靱な
「君がもっと回復してから、話し合うつもりじゃったが……」
きつく瞑られ、開かれるライトブルー。鋭い光を、強烈な嫌悪を滲ませて、大魔法使いは告げた。
「おそらく、君の中にヴォルデモートの魂が入っておる」
「おとぎ話じゃあるまいし」
ウルペクラは、呻くように言った。いくつものおとぎ話。
悪い魔法使いは、人形を身代わりにしました。東の国の悪い魔女は、美しいお姫様の身体を奪いました。王様をたぶらかしました……。
西の善き魔女は、呪いにかかった王子様を眠らせました。その呪いをほどく術を編めるまで、眠らせました……。
悪い魔法使いは、心臓を盗みました。八つ、盗みました。九つの命を得ました。
悪い魔法使いは、自分の魂を分けました……。空っぽになった、双子の弟の中に入れて、大事に大事に祀りました。
「おとぎ話、伝説は史実の下敷きにしたものも多い」
穏やかに、ダンブルドアは言う。強靱な意志で、強いて穏やかに、辛抱強くウルペクラに語りかけているのだと悟った。ダンブルドアの声はかすかに震えていた。
「ですが、おとぎ話は……」
自分の魂を分けました……。空っぽになった、双子の弟の中に入れて、大事に大事に祀りました。
忌まわしいおとぎ話が、脳裏を塗り潰していく。ノットの父と船上で話したのが百年も前のことに思えた。
答えはとっくに出ていた。闇の帝王が魂を分けているのだろう、という推測は俎上に載せられていた。
だが、ウルペクラたちは答えを得たと思い、知った気になり、深く考えることをしなかった。それ以上、直視する気になれなかったと言ってもいい。
「双子の兄を謳ったそれは。空の器を使ったはず」
「さすが闇の魔術に対する防衛術一位じゃの。君の書いた課題を読んだことがあるが、美しい出来であった」
「どの?」
「自由課題。ゲラートが及ぼした影響。卓越した詐欺師、扇動者とあれを評しておったの」
最悪だ、とウルペクラは臍を噛む。レストレンジは闇の家系。闇の魔術に関する本を大量に有している。無難に防衛術理論をまとめてもよいが、と書庫を漁っているとゲラート・グリンデルバルドに関する書き付けを見つけた。どうやら父が研究していたらしい。闇の帝王の華やかな所業について書くよりは、それか血を使った魔法、毒薬などについて書くよりは、グリンデルバルドでよいだろう、とさらりと課題を片づけた覚えがある。
グリンデルバルドはダンブルドアと一時友誼を結んでいた。同志とも言えるものだったと推察される……と父は書いていた。
ウルペクラはダンブルドアの眼に課題が触れるなど、夢にも思っていなかったのだ。なにがどうしてこじれたか、かつての「同志」についての課題を読むダンブルドアもどうかしている。
「ウルペクラ」
ダンブルドアは、柔らかく言った。
「あれでさえ行使しなかった魔法の名を、君は知っているじゃろう」
出来のよい課題を書けるのだから、答えられるだろうと大魔法使いは仰せだ。
「くだらない、おとぎ話。いと深き闇の、おぞましき罪……としか伝わっていませんね」
レストレンジ家に伝わるのは、その名のみ。祖の一人がさらりと触れていたのみ。魂を裂く術は存在する。いと深き闇の、おぞましき罪としか言えぬ、と。
「誰が言ったか、魂を裂く術は『分霊箱』と呼ばれる」
「それが僕だと?」
乾いた笑いが漏れる。ありえない話だ、と誰かに笑い飛ばしてほしかった。ただ、身体をいじられた「くらい」だと。
「闇の帝王の魂があると?」
ふつ、と言葉を切る。深い深いどこか、ウルペクラの奥底から悪寒が這い上がる。ばらばらの破片が繋ぎ合わさって、どす黒い絵図を描く。
必死になって眼を逸らす。真実に向き合う痛みは、時に死の痛みをも凌駕する。
「『分霊箱』は魂の器。理屈の上では、生きたものにも入れられる。そして、あらゆる守りを施され……並大抵の魔法では、傷つけることができぬ」
容赦なく突きつけられた不可視の刃は、的確にウルペクラを抉った。
並大抵の魔法では、傷つけることができぬ。
ウルペクラは、怪我ひとつ負ったことがなかった。馬に蹴られても、鍋が爆発して破片が飛んできても。
記憶を手繰る。手繰って、どす黒い絵図を、つぶさに見つめるはめになる。
決闘クラブ。セドリックと戦って、失神呪文が当たったはずだと言われたこと。数年後も同じだ。火炎が当たったはずだと言われた。
そのときはくだらないと流した。無意識のうちに回避した、あるいは魔法を知らずに行使して相殺したのだと。
そうでなければ? 回避でも相殺でもなければ? セドリックが嘘を言うか。言いがかりをつけるか?
馬に蹴られて幼児が無事でいられるか? 鍋の破片はなぜ突き刺さらなかった。
自傷しようとして果たせなかったのはなぜか?
身体をいじくられた。ある意味、正解だ。だが、真実はもっと深く、もっと悪かった。
「両親は、僕を捧げたんだ……。印を賜るよりもなお、名誉」
闇の印について隠さなければという意識はもはやない。衝動のままに、口にする。
「実の子を、我が君に……
「ハリーの証言と符合するの」
あの下衆め、とダンブルドアが言う。ウルペクラが片腕を切り落とされた痛みのあまり、のたうち回り、悲鳴を上げていたその時のことを語る。
ヴォルデモートはこう言ったのだと。
お前は最高の名誉を与えられし者。この上、肉まで捧げたとなれば、比肩しうる者などおるまい。我が娘と並び立て。
お前は、俺様のために生まれてきたのだ。
「嫌だ、」
ウルペクラは絶叫する。溢れる魔力が、カーテンを裂き、壁を傷つけ、床にひびを入れる。
天井の一部が砕け、ぱらぱらと破片が降ってきた。
窓が砕け、澄んだ刃が、ウルペクラに殺到し。
その身を損なうことはなく、ただ駆け抜けて。大魔法使いによって砂となった。
「なぜ僕なんですか……!」
答えなど期待していない、八つ当たりに近い問い。ウルペクラはあの両親の子。闇の帝王に仕える臣下の子。
彼らにとって、子を捧げることは名誉である。だからこそ彼らは一の忠臣となった。
ウルペクラはただの駒だった。想像よりもおぞましい形で、使われた。それだけに過ぎない。
「『秘密の部屋』を覚えているかの。君は血を流したはずじゃ。ハリーとミス・ウィーズリーが床に落ちた血痕を見ておる。だが医務室に運ばれた君は、衰弱しておったが、怪我をしておらんかった」
「それが、なにか」
掠れた声を上げる。遙か遠くの昔を思い出す。
「怪我はしました……もみあって、剣で切った。いつの間にか治っていた」
寸の間、沈黙が落ちた。ダンブルドアは皺だらけの手で、長い髭をしごいた。
「グリフィンドールの剣は吸収特性を付与されておっての。自らを強化するものを喰らい、力を付ける」
ウルペクラは、首を傾げる。なにかがひっかかるがはっきりとしない。ただ静かに続きを待った。
トム・マールヴォロ・リドル。『分霊箱』の内に宿るものと、魂の欠片と対決した。剣はウルペクラを裂いた。だが、ひっかき傷程度。たいしたことはない。ウルペクラは『分霊箱』。我が君の手であらゆる魔法をかけられたはずだと、酔い、痺れたような頭で考える。
悪い夢を見ているかのようだ。己が『分霊箱』だなんて。
「剣は、蛇の王を貫いた。毒を吸収し……君が、日記を破壊したのじゃろう? もうしらばっくれなくてもよい」
たしか、ポッターが日記を破壊したことにしたのだっけな、とウルペクラは思い出した。確かに日記は壊された。ウルペクラが切り裂いた。グリフィンドールの剣で。
――『分霊箱』を壊した
単純な事実の羅列。目的の品を、どうやって壊したのか。得物はなにか。
『分霊箱』を剣で切り裂いた。グリフィンドールの剣は蛇の王を貫き、毒を我がものとした。
「グリフィンドールの剣は『分霊箱』を破壊しうる」
ぱちり、と欠片がはまった。
「僕は血を流した。剣で切った。傷こそ負ったがすぐに治った。痕一つない。片や日記、トム・マールヴォロ・リドルは破壊されたというのに」
「レストレンジはそういう体質の者が出る、と聞いた」
痛みの滲む声に、ウルペクラは喘いだ。残った片手を震わせて、顔を覆う。すべての汚濁から眼を背け、身を守りたいといわんばかりに。
「伝説、おとぎ話です。毒蠍のレストレンジ。あらゆる毒を退ける。あらゆるものを癒す……。毒の使い手にして薬師。蛇の王の毒ですら効かない化け物なんだ」
ああ、と我知らず、声を上げる。
ウルペクラに毒は効かぬ。毒と呪いはきょうだいのようなもの。呪いへの耐性もあったのだろう。毒蠍のレストレンジと自らを言うくらいだ。主たる特性は毒の無効。呪いへの耐性は副次的なものであろう。
少なくとも、蛇の王の呪いを解くくらいの力は有していた。
レストレンジの史書の少ない記述は、こう謳っていた。
その血はどうか呪いを、痛みをと願えば毒に、癒しを、調和をと祈れば薬になると。
「闇の帝王は、僕がほしかった。毒を退けるから。『分霊箱』を守るために魔法をかけた。いくつもいくつもかけた……呪いへの耐性を、底上げし――」
毒も呪いも退ける『分霊箱』となさしめたんだ!
喘鳴とともに漏らし、あまりの苦痛に身悶えする。
こんなことがあってたまるか。ウルペクラは、望まれて生まれてきた。
闇の帝王の心臓に『分霊箱』になるために生まれてきた。そのような意図があった。いいや、稀なる血を発現せずとも、運命は決まっていた。
生まれて数ヶ月で、闇の印を刻まれた。それは所有の証。隷属の灼き印。すべては闇の帝王のために。
「人間ですらないじゃないか。僕は……まともに死ねもしない……片腕も我が君に捧げるはめに……」
嘆きが止まらない。取り乱しても仕方がなく、なんの生産性もない、と常ならば感情を切り捨てるだろうに。
堪えきれない。あまりの痛苦に身を折った。自分が世界で一番穢れている気さえした。
実の親から捨てられるのならばまだしも、捧げもの――贄とされる者など。
実の親に殺されるならばまだしも、ここまで使い潰される者など。
名前すら親から贈られず、与えられたのは命と器だけ。その手は虚空を掴むのみ。
そんな者に、なんの存在価値があるだろう?
ぜ、と喘鳴を漏らす。猛烈な吐き気がこみ上げる。己の中の汚濁をすべて
「君は人間で、心ある者じゃよ。そして、君を案じ、贈り物を遺した者もおる」
哀れな怪物に、大魔法使いの声が降ってきた。
「嘘だ」
灼熱の怒り、真実の痛みに悲嘆する者に。
「フラメルが、君のためにつくったものじゃよ」
銀色の腕が差し出された。
曙光を浴びて輝くそれには繊細で、美しい細工が施されていた。
火蜥蜴、獅子、竜、蛇。
そして、不死鳥が煌めいた。