魔法界において、腕や足、眼の欠損はさして重傷とは見なされない。適切な処置がなされなければ失血死の危険はあるものの、まだ取り返しがつくことはマッド・アイが証明している。
中途半端に骨なしになっても再生できるのだ。患者は一晩苦痛に耐えなければならないが。どこかの無能ロックハートと、哀れなポッターが好例であろう。それでも、腕を切り落とされる苦痛に比べればマシであろう。
重傷とされるのは、たとえば呪いの傷。人狼による咬傷が代表例だ。磔刑の呪文によって致命的な損傷を与えられた場合も該当するか。どちらも今のところ、完治の見込みがないという点では重傷であろう。『脱狼薬』の世界は日進月歩だが、完全治療薬ができるまで少なくともあと十年はかかるだろう。後者――拷問による致命的な損傷、廃人からの回復は絶望的だ。
――だから
腕が一本なくなったくらいで、気鬱になるのはおかしいのだ。せめて消失呪文でどこかに失せたのならば、再び出現させる目はあったと考えるのもおかしな話である。ウルペクラの腕は切られた挙げ句に捧げられ、取り返しようがない。
背には火傷の痕が残ったものの、ウルペクラは癒者に言わせれば健康だそうだ。ただ傷を負い、痩せているだけ。
「いっしょにねるんだもん!」
「ずるい!」
「ウルはぼくのだからな!」
ただ、銀狐の姿から戻れなくなって。
子どもたちにもみくちゃにされているだけ。
ぎゅうっとだきしめられ、ウルペクラは耐えた。聖マンゴ、小児科――ちいさな入院患者たちが集まる遊び部屋で、こぎつねは人気だった。それはもう、大人気であった。
毎日のようにこぎつねの奪い合い。無理矢理ひきずって攫われそうになるこぎつね。年長の子たち――だいたい九歳とか十歳――が制してくれて、命拾いしている。
今日も今日とてウルペクラは、するりと男の子の魔手を逃れ、年長者たちの下へ走った。三本足で、よろよろと。
「だめでしょ、ウルはみんなものなんだよ」
「ほら、しっぽを掴もうとしちゃいけないよ」
年長者の背に隠れ、ウルペクラはほっと息を吐いた。ぐるりと丸まって、しっぽで顔を隠し、ひたすらに気配を消す。こどもたちは寂しいのだ。この遊び部屋にいる子たちは、長期入院患者だ。生まれたときからなんらかの疾患があった……魔力を暴走させるとか、虚弱だとか、呪いだとか、人狼に咬まれて不幸にも生き残り、不幸にも親に聖マンゴに放り込まれたとか。
現に、年長者の一人は人狼に咬まれ、もう一人は魔力を暴走させる「出来損ない」らしい。おまけに魔力の暴走のせいで虚弱なのだ。二人とも、何年も何年も親が面会に来ないようだった。
そこまで酷くなくとも、親の面会が間遠な子が多い。下の子ができてかかりきり、仕事で忙しいだとか、理由は色々だ。聖マンゴの癒者は心を砕き、絵本や小説、あらゆる玩具を用意しているけれども、彼らは親ではない。
いくら遊び部屋が整えられようが、子どもたちがほしいものは与えられない。明るい色の壁紙や、鮮やかな玩具の彩りが、却って子どもたちの痛ましさを増すのだ。
だから、ウルペクラはなるべく子どもたちの好きにさせている。しっぽを掴まれようが怒らないし、耳を引っ張られても我慢する。子どもたちの玩具になってやろうではないか。
「ごめんね、ウル」
騒ぎが止み、年長者のひとり――十歳の男の子で人狼――が、そうっとウルペクラを撫でた。耳のあたりをくすぐるようにされ、薄目を開ける。構わないという代わりに、しっぽをゆらりと振った。
「あのね、あのね……今日、満月で」
一緒にいてくれる? と泣きそうな顔で囁かれる。いいよ、ともう一度尾を振った。
なんだか、まんまと癒者の手のひらの上で転がされている気がする、と思ったが仕方がない。動物もどきのままで子ども部屋の監視員をしてくださいませんか、と求められ、応じたのはウルペクラだ。
いわゆる精神的な疵により、変身術が巧く使えなくなった。具体的に言えば、銀狐に変身したまま、戻れなくなったのも、自業自得。
寝てばかりいてはいけません、と散歩をすすめられ、院内を放浪していたら、永久呪文性損傷の患者の一人と出会い、とっさに変身し――以来そのままだ。
ウルペクラの変身事故のきっかけとなった患者の名を、フランク・ロングボトムという。
日没が迫り、ウルペクラは人狼の子とともに、病室に引っ込んだ。明るい満月が、残酷なまでにくっきりと、子狼の姿を照らす。くんくんと鳴く子狼を慰めながら、こんな善行、肉の父母たるベラトリックスとロドルファスが犯した罪の何百分の一しか清算できまい、と皮肉な思いを噛みしめる。
フランク・ロングボトムはやつれ果て、心は現世になかった。往事の高名な闇祓いの姿などどこにもなく、魂は踏みにじられ、砕かれていた。
ウルペクラが忌まわしい怪物たちの子だと、それこそ死んでも知られたくなかった。曲がり角でばったりと出会い、瞬時に変身した自分の判断は正しかった。
かつての闇祓いは、不思議そうに瞬いて、そうっとウルペクラを撫でた……丁寧で、優しい手つき。どこからきたの? と大人の男の声で、しかし口調は幼くて。
どうやら病室を抜け出したらしい彼に付き添って、ウルペクラはよろよろと歩いた。別になにができるわけではなかったが、放っておくわけにもいかなかった。
短い、あまりに短い散歩は癒者の叫びで終わりを告げた。抜け出したフランク・ロングボトムは癒者に手をとられ、きつねさん、と鼻歌を歌いながら去っていった。
ウルペクラは、あれほどに惨いものを見たことがなかった。フランク・ロングボトムはなるほど穏やかに生きている。その眼は澄んでいて、なにも見ていない。彼とその妻は、夢の世界でただ生きている。虚ろな心を抱えたまま、緩慢な終わりに向かう……。
子狼の高い、切なげな声を聞きながら、ウルペクラは静かに夜を過ごす。壁にも床にも天井にも、びっしりと古代語が刻まれた、監獄のような室で。
長い長い夜で、辛い辛い夜だった。考えずにはいられない夜だった。
己が怪物たちの子であるということを。己も怪物に変身させられていたのだという事実を。
己が、いつかは死ななければならない呪われしものだという真実を。
けれど、己が死んだところで、闇の帝王の魂の、七つの欠片の一つが砕けるだけだということを、ウルペクラは知っている。なんの違和感もなく呑み込んでいる。
――それは
闇の帝王の魂、その欠片を宿しているがゆえ。
気づきたくなかっただけかもしれない。
首を捧げる魔女の、美しい姿。
歩んでくるこぎつね。
溶けていくギャラドック・ディアボーン。
あれはおそらく、闇の帝王の記憶。彼の視点から見た光景。けして母によって刷り込まれたものではない。ウルペクラは、あるはずのない記憶を、違和感を無意識に取り繕っていただけだ。人は時に、自分すらも騙すものだから。
頭の中で、声が響く。
日記、ロケット、指輪、カップ、髪飾り、こぎつね。
『分霊箱』とするのは六つ。そして本体を合わせて七つ。魔法数字の七は、最も強い力を秘める……。
まだ死ぬときではない、とウルペクラは眼を細めた。子狼を舐めてやりながら、思案を巡らせる。
ウルペクラは最後の『分霊箱』。闇の帝王の最高傑作。毒も呪いも効かぬ身だ。自裁の手段は限られるだろう。だからこそ、闇の帝王はウルペクラが生きている限り安心し、油断する。己は不死だと驕るであろう。
望まれて生まれ、望まずに贄とされたこぎつねが死ぬときは。
闇の帝王が討たれる直前が望ましい。
死ぬべき運命は変わらずとも、死に方くらいは選びたい。
「また会わないことを願っています。子どもたちの面倒をみていただいて、助かりました」
丁寧に癒者に言われ、ウルペクラは退院と相成った。未だに人の姿に戻れずに、銀狐のまま。リュックに詰め込まれ、頭だけを出している状態で。
「ウルがお役に立ったならなによりです」
さらりと言ったのは「友人」のセドリック。なにぶん背負われている状態で、様子がわからないものの、病室には和やかな空気が流れていた。
「こんないいお友達までいて。どうかしら、二人で子ども教室の先生なんて?」
「考えておきますね。でも、僕よりウルのほうが人気かな?」
ウルペクラが聞いているとわかっているだろうに、いやだからこそ話が勝手に進んでいく。彼らはわざとウルペクラに聞かせているのだろうし、このままでは「子ども教室」とやらに放り込まれる未来が待っていそうだ。
――勘弁してくれ
は、とウルペクラは息を吐いた。退院できるのはまあいい。だが、迎えが自称友人なのは解せない。家令夫妻の代理だそうだ。セドリックの仕事は本当に迎えだけ。強いて言えばグリンゴッツの金庫の鍵を持ってきて、入院費用の精算をウルペクラの前でするだけだ。諸々の書類への署名は、銀狐のウルペクラでもどうにかこなせた。羽根ペンを動かすくらいは、動物もどき形態でも可能なのだ。
まさか銀狐のままよろよろとさまようわけにもいかないので、迎えは必須とはいえ、セドリックの面の皮の厚さは一級品だ。まるでウルペクラのいとこか、義兄弟のような振る舞い。ウルペクラを迎えに来るのは当然と言わんばかり。しかも、癒者の懐にもするりと入り込むのだから、侮れない。会って数分で先生役を打診されるとはいかに。
こいつだけ子ども教室の先生をやればいいのだ。ウルペクラはどうせ銀狐の姿を所望され、子どもたちにぎゅうぎゅうにされるであろう。
ウルペクラが退院する旨が通達され、子どもたちに散々泣かれたので、後味が悪い。これで舞い戻ってみろ、子どもたちははしゃいで手がつけられなくなるに決まっている。
行くぞ、とウルペクラが鳴けば、セドリックは「わがままなこぎつねだな」と言って、ウルペクラの頭を撫でた。屈辱である。
セドリックに背負われて、患者やその家族、癒者に「かわいい」と言われ、羞恥心で死にそうになりながら聖マンゴを脱出した。
地面を見つめるようにしながら、されるがまま、なすがままに運ばれる。
「これから本部に向かうよ」
セドリックは路地に入り、人気のないほうを選びながら、つらつらと語る。
ダンブルドアが組織した騎士団について。今のところ、情報収集が主。巨人へ使者を送ったようだ。騎士団員を増やすことも任務の一つ、等々。
「もちろん僕も団員なわけだけど」
家を出たんだ、とセドリックは言う。父さんが反対するものだから。とりあえずグリーングラス本家に駆け込んだとかなんとか。
ふんふんと聞いていたウルペクラだったが、次の一言に凍り付いた。
「そうそう、ダフネも本家に駆け込んだ。と、いうか二人で駆け込んだのさ。彼女、君との仲を裂かれそうになって怒ってね……」
――なんだって?
あれこれが右から左に抜けていく。実はダフネはセドリックと一緒に何度かウルペクラの様子を見に来ていたこと。ウルペクラが眼を覚ましたあの日は、ダンブルドアがダフネを連れてきたこと。
グリーングラス分家、つまりダフネの生家が娘がレストレンジにとられた、と怒り狂っていること。
しかし、ダフネの妹アストリアがどうにか宥めていること。お姉様も見た目だけの男にそのうち飽きるでしょうとかなんとか。
ダフネの家出を助けたのは彼女だそうだ。セドリックのことを思い出し――三校対抗試合の代表選手にして又いとこ、なおかつ陰謀に巻き込まれた――連絡を付けたのもアストリア。それなら、とこっそりとダフネを迎えに行ったセドリックは、さっさと祖母たる女傑の下へ駆け込んだのである、とか。
てっきり彼女は生家で安全に過ごしていると思っていたのに。いいや、グリーングラス本家のほうが安全か? と混乱しきりのウルペクラの頭を、セドリックがリュックに押し込んだ。
薄闇のなかに閉じこめられ、子どもたちの手紙の感触に囲まれたウルペクラは、セドリックの鋭い声を聞いた。
「僕もダフネと似たようなものだけど。出自もわからない、フランス女なんてやめろと言われてね」
ねえ、ステラ?
ばちり、と呪文が弾ける音がする。冷ややかな「妹」の笑声が響いた。
「失礼ね、私は英国人なのだけど」
「君が何人でもいいけどね!」
「それ、私が誰の娘か知っていて言ってる?」
と、とと、と足音。リュックがぐらぐらと揺れ、ウルペクラは眼を回した。なにがなにやら、である。
「僕は君の口から名前を聞きたいし、本当の姿を知りたい」
「偉大なるお方の子。それとも怪物の子。それでいいでしょう? 私、あなたを振ったんだけども。でも、こちらが側に来るのなら――お兄様ともども、お誘いに来たの」
「君がこっちに来るんだステラ。あと、ウルに謝るんだ」
「冗談を。もう手遅れよ。お兄様には悪いと思っているのよ。ちょっとだけ」
「で、君が一方的に振っただけだし、僕は認めないし、そっちにいてもろくなことにならないだろうから、おいでよステラ」
「うるさいわね! 正気なのあなた! 私はあの方の娘――」
激しい揺れがウルペクラを襲う。次の瞬間、腹の底から衝撃が突き上げた。
「関係ないね!」
「馬鹿な人」
一度、二度、三度と何かが弾けるような音。リュックを通して光が炸裂し、あたりが静まった。ウルペクラはそっと頭を出す。薄汚れた路地は、あちこちが壊れていて、建物には幾条ものひびが入っていた。そして、ステラ――デルフィーニの姿はない。
深い深いため息が聞こえた。
「ごめん、ウル。たぶん、ステラを殺すほうがいいんだろうけど」
逃げられたし、そもそも僕にはできる気がしない、とセドリックは言う。ウルペクラは小さく鳴いた。
物好きな馬鹿だとは思うが、セドリックの好きにすればよい。どうせデルフィーニを始末できやしない。その役目はウルペクラが負うべきだろう。
きっとセドリックに恨まれるであろうが、やるしかあるまい。
『待って、お兄様!』
悲鳴のような叫びが脳裏を過ぎり、ウルペクラは眼を瞑った。
不義の子、私生児。ベラトリックスの名誉の証。あるいは愛の結晶。
闇の帝王の命により、ベラトリックスは息子を産み落とした。そして息子は稀なる血を発現させ……帝王はお喜びになった。彼女に褥をともにするという、胤を下賜するという誉れを与えたのだ。
いつだったかに視た薄闇と、母のしっとりと濡れた声はそういうことなのだろう。よりにもよって混血のろくでなしを選ぶか、あの女は。産み落とした娘とやらは、胤違いの兄の腕を切り落としてのけた。
きっと、父親に褒められたくて。
そのためにはなんだってして、けれど胤違いの兄を「お兄様」を呼んだ。
――考えるべきではない
大陸のレストレンジで、どのような扱いを受けていたのか、とか。闇の陣営にいたところで、あのろくでなしに利用されるだけだとか。
蒼い炎はポッターへ向けたもので、ウルペクラを灼くつもりはなかったのだろうとか、驚きに見開かれた眼だとか。
考えるべきではないのだ。決意が鈍る。
デルフィーニ・レストレンジ。当代のレストレンジ家の血を引かぬ娘。だが、レストレンジを名乗るならば、ウルペクラが処断するしかないのだ。
貴族家の姓を名乗るとは、そういうことだ。
悶々と考え込んでいるうちに、付き添い姿くらましで運ばれた。不死鳥の騎士団本部、ブラック別邸に連れられれば、夜闇の黒髪に、星の眼をした魔法使いが出迎えてくれた。
「やあ、君が赤ん坊の頃に会ったのだけど。覚えていないだろうね」
穏やかで、柔らかな口調。年の頃はウルペクラより少し上か。
銀狐の前に膝を突き、よしよしと頭を撫でるそのひとを、ぼうと見上げた。
見たことのある顔だ。ブラック家の家族写真――父母の結婚式の写真に写っていた。それでなくともシリウスとよく似ているから、間違えようがない。
――そんな馬鹿な
消息不明、生きている見込みなどないはずだ。
小さく鳴く。困惑の響きを聞き取ってか、その人は薄く笑んだ。
「礼を言うべきだろうね。僕は、君のお陰で生き延びたのさ」
そうして、レギュラス・ブラックはウルペクラと額を触れ合わせた。
開心術をと囁かれたとたん、戸惑うウルペクラの鼻腔を、淀み湿った風が満たし、目交を毒々しい緑が埋め尽くした。