キリが悪いな、と急遽更新。次は金曜日くらいの予定。
眼を刺すような緑が、暗い暗いそこ――洞窟を照らしている。光源は黒い鏡のような湖、中央の浮島――壇上の水盆であった。
満ち満ちた緑に、そっと杯が差し入れられる。おやめください、と傍らの妖精に請われても、止める気はなかった。
水盆の底にあるものを、彼は盗むつもりであった。そのためには仕掛けを突破せねばならない。
妖精に聞いて、薬液が毒なのだと承知もしていた。
――だが
かつて我が君と仰ぎ見ていた闇の帝王、いいやヴォルデモートが毒の効き目を試したのは妖精を使ってのこと。
「我が君は甘いところがおありだ」
呟き、杯を揺らす。かすかな、ちゃぷんという音。ヴォルデモートは妖精の死亡を確かめてから去るべきであった。弱らせて、湖に引き込んでしまえば用は足りると考えた。それか、水盆の毒を致死のものにしてしまえばよかった。どうせ『分霊箱』をわざわざ取り出して、状態を確認する必要になど迫られまい。仮に『分霊箱』をどこかに移すことがあっても、水盆ごと運べばよいだけ。
だから、妖精の口から『分霊箱』の場所や仕掛けが漏れるなどと考えていないし、彼に不用意にスリザリンのロケットを見せる。これはゴーントの指輪なのだ、と誇らしげにはめて、彼に語る……。
なぜならば、妖精を侮り、その主たる彼のことも見くびっているから。
彼は寵愛されていた。が、それは脅威にはなりえない、お飾り、話し相手としてだ。
過去の己の愚かさを省み、現在の己の甘さを噛みしめる。憧れはただの虚構、寵愛とは名ばかりだったことに気づけなかった。『分霊箱』を奪うだけなら手段は他にあるのに、自ら乗り込んだ。「ともだち」を贄にすれば済むというのに……。それか穢れた血でも調達すればよいのに、ヴォルデモートと同じところに堕ちたくはない、と子どものような頑迷さでここまで来てしまった。
――備えはしたが
どこまで通じるか。退屈している子どものように、一度、二度、と杯を揺らす。躊躇いがある。致死毒ではないにしろ、あまりに分が悪い。本当は乗り込むべきではなかった。まったく愚かである。合理的ではなく、正解でもないだろう。ないよりマシか、とお守りまで口にした時点で、彼は勝率を低く見積もっている。そのことに、今更気づいた。
――水盆を空にしたとして
待つのは暗い湖。死者の手だ。
「……おやめを、」
震える声に、首を振る。怯えきった妖精の、まるい眼に背を押されるようにして、杯を傾けた――。
ぱらり、と頁をめくるように場面が切り替わる。
ぜ、と喘鳴。だらだらと、緑色の混じった唾液が、浮島にこぼれる。壇にすがるようにして立ち上がり、彼はにぃっと笑った。
「おど、ろいたな……」
誰ともなしに言う。もはや聞き手は夥しい数の亡者のみ。完全に囲まれた。姿くらましも不可能であろう。ここは鎖された獄と化した。妖精は先に帰した。最も優先すべきは『分霊箱』の奪取であったので。
――そう
考える余裕がある。ともだちの妖精によれば、ろくに身動きできぬほどの苦痛があるらしいのに。喘ぐことしかできず、ただ彼の命を果たすためだけに、力を振り絞り、ようよう帰還したのだと。
だが、彼の思考は霞んでいても、闇に塗りつぶされてはいない。杖を握りしめている。じりじりとやってくる亡者を前にして――猶予は少ないにしろ――次の手を考える時間が残されている。
亡者を蹴散らす? 否。数が多すぎる。道を切り開いたとして、先にあるのは湖だ。箒はなく、杖なしで飛行する手段はない。そして、湖を泳いで渡ることはできず……飛び込んだところで亡者に引きずり込まれる。
自裁? これも否。残った身体を亡者として利用されるだけ。それだけは御免だ。
――では
どうするか、と考える。逃れる見込みはない。ヴォルデモートに与するつもりもない。空っぽの身体をいいように使われるわけにはいかない。せめてもの抵抗――。
ふと閃いたのは、かつて我が君と奉じた男の、他愛もない話。
『蛇の王も使いようでな。その視線を直接浴びれば死に至るが……場合によっては石化するのだ』
次々、獲物を石にして遊んだものよ。穢れた血は怯えきり、ホグワーツは混乱に満ちた。最後の一人は仕上げに殺したが。石になった者どもは解呪され……学校を去った。
歌うように男は語った。結果として穢れた血どもを少々掃除してやった。賢明なことだ。呪われた学校になどいたくもなかろう。
――死ねば
「終わり、だから……」
ぱちり、と瞬いた。死んで蘇るなど神の御業。だが、死を回避することは可能である。
ただの足掻き、かすかな抵抗。だが、可能性があるならば賭けるべきだ。
「最悪でも――」
彼はよろめくようにして駆ける。亡者の手を振り払い、杖を振る。
古い古い、おとぎ話が脳裏を過ぎる。
西の善き魔女は、呪いにかかった王子様を眠らせました。その呪いをほどく術を編めるまで、眠らせました……。
「朽ち果てるまで」
眠るだけ。
どろりとした、穢れた地を踏む。ぱしゃん、と闇色の雫が散った。
ぱきん、と音がする。強力な魔法。本来ならば敵を石にして、打ち砕く闇の魔法を応用した呪いが、彼の身に降りかかる。
ぱきん、ぱきん、ぱきん。かすかな音とともに、彼は石となっていく。
意志が鎖される間際、泡沫のように浮かんだのは、鮮やかな紅。
『ただの試作品だ。毒を無効とまではいかずとも、緩和するだろう』
そう言って差し出された、美しい宝石。
魔除けの、お守り。
――ぱしゃん、と飛沫を上げ
ゆうらりと湖底に沈み。
長い長い旅を終え、
つまり、
生き延びた要因は「鮮やかな紅」の宝石で。
それを贈ったのが――。
「君の父上、かなり気まぐれなところがあって。息子の血からつくった試作品だよ、と僕にくださったわけだ」
灰色の眼が、昏い色を帯びる。レギュラスはウルペクラの耳にそっと触れ、ため息を吐いた。
「レストレンジの稀な血なんてまさかと思っていたけれど。君に何度か毒を飲ませて実験したとロドルファスが言った日には……」
ウルペクラは身を伏せた。幼い、切れ切れの記憶のなかに、なにやら飲まされた覚えはかすかにある。が、それは暗殺されかけた時の、五歳頃のものだと思っていたのだけど。
――ろくでなしだ
我が肉の父、息子のことを実験動物とでもお思いである。毒が効かぬとわかり、興味津々でつくったんだ。へえ。息子の血で。お守りというか中和薬というか。
で、別に息子の血でなくとも中和薬自体はあるし、調合もできるから必須ではないな、と飽きたのだろう。ちょうどよいから妻の従弟に与えたと。
「ほぼ正解じゃないかな」
レギュラスは言う。ウルペクラは顔も上げなかった。動物もどきから戻れなくなって、閉心術が甘くなっているようだ。レギュラスに内心が漏れているのだろうし、これまでの諸々を考えると、閉心術に割く余裕などない。
「経緯が気まぐれだろうとなんだろうと、そのお陰で僕は生き延びた。それは事実だ」
優しい手が、ウルペクラの背を撫でる。
「だから、申し訳なく思うよ」
重い響きに、疑問が頭をもたげる。ふてくされるのはやめて、そろりと様子を窺えば、レギュラスは顔をしかめていた。そうして、いつの間にかセドリックは姿を消していた。気の回る男のことだ、席を外したのだろう。
「レストレンジ家の嫡子殿。君の腕を落とした『星屑の剣』はブラック家の宝」
彼の手が、ウルペクラ――銀狐を抱き上げる。拍子に、袖が捲れた。左腕、闇の印があるはずの場所は、火傷の痕があるのみ。
「ベラの娘――デルフィーニが、持ち出したんだ」
レギュラスは軽やかに階段を上っていく。耳を、吐息がくすぐった。
「僕らは話し合わないといけないようだ。ベラの娘のこと。そして――残る『分霊箱』のことを」
扉が開き、レギュラスが中に滑り込む。シリウスが席に着いていて、ウルペクラに向かって片手を上げる。
が、ウルペクラは応じる暇などなかった。耳をぴくんと動かすことも、しっぽを振ることもなかった。
卓の上に眼を奪われていたから。
シャンデリアの輝きに照らされていたのは。
濃厚な、闇の香がたゆたっていた。