空は憎らしいほど高く澄み、キングズ・クロス――「裏」のホームには紅の特急が吐き出す白煙と、ひそひそとした囁きが満ちていた。
――迷ったのよ。あのダンブルドアだってお年を召して……つまり呆けていてもおかしくはないと……
――妙な噂もあるし
――吸魂鬼が現れたって
――けれどハリー・ポッターは無罪となった
――アズカバンの体制はどうなっているのか
どこか押し殺した声。魔法省を信じればいいのか、それとも「呆けている」ダンブルドアを信じればいいのか。誰もが不安なのだ。
眼を配り、耳を澄ませ、ウルペクラは確信する。少なくとも、闇の帝王が絶対に復活しない、していないと唱える者はいない、と。
杖を振り、二つのトランクを着いてこさせる。銀の右手――ドラゴン革の黒手袋をはめている――で小さな手を握る。
人波を縫うようにして、紅の特急にたどり着いた。出発まで余裕があり、通路は空いていた。そのまま奥へ向かい、コンパートメントの戸を滑らせた。
「どうぞお嬢様」
席を示せば、黒髪の令嬢が腰を落ち着かせる。深い緑の眼が、億劫そうに瞬いた。
「ありがとう、ウル」
ダフネの声は小さく、掠れていた。彼女が精彩を欠いて見えるのは、金から黒に髪色を変えたせいだけではあるまい。
ウルペクラは杖を振り、ダフネの変身を解いた。夜の黒が消え去り、月の金が舞い戻ってくる。そのことに奇妙な安堵を覚えつつ――髪色ひとつで大げさだが――彼女の隣に腰掛けた。拳二つ分の幅をおいた、適正な距離で。
「押し掛けて悪かった。せめて前日に手紙を出すべきだったんだが」
言いながら、声が尖る。今日――九月一日、ウルペクラは朝から忙しくしていた。グリーングラス本家に単身乗り込んだのである。押し掛けたと言ってもいい。
全部あのクソ野郎ことセドリックが悪いのだ。グリーングラス本家の血筋、すなわち本家当主こと女傑の孫が朝早くからこうおっしゃった。「ああウル、僕はハリーの護衛隊だから、手が離せなくてね」と。
余人には意味がわからなくとも、ウルペクラにはわかってしまった。グリーングラス本家当主の孫殿、ディゴリー家から出奔し、母方の実家――グリーングラス本家のことだ――に転がり込んでいる男は「ダフネを本家に迎えに行け」と言ったのである。
理由など明らかだ。ダフネもセドリックと同じく生家から出奔した身。単独でキングズ・クロスに行けば両親に連れ戻される可能性が高い。ホグワーツなんて親の眼の届かないところになんてやれない、と監禁されるであろう。だが、どうせセドリックも「出奔組」であるし、ダフネとは又いとこらしいし、でウルペクラは心配していなかったのだ。今朝までは。
かくして、ウルペクラはお嬢様をお迎えに上がった。こっそりと行こうとしたのに、ウィーズリー夫人ことモリーに「軽く食べて行きなさい」と言われ、トーストを提供され「駆け落ちみたいでいいわね」という意味のことを言われ、玄関ホールではレギュラスに「君は女傑の孫を味方につけているから問題ないだろう」と慰めだか励ましだかわからないことを言われた。
セドリックが話を通していたのか、グリーングラス本家を訪ねれば、あっさりと招かれた。ダフネは「え、ウル、なんで!?」と小さく叫び、大慌てでなにやら準備していた。その間、セドリックの祖母でありダフネの大伯母にあたる魔女――グリーングラス本家当主、女傑と呼ばれるその人とお茶をした。
――及第点らしいが
どころか「ダフネもいい男を捕まえた」と女傑には言われたけれど……とウルペクラは眼を細める。
グリーングラスの女傑とは挨拶を交わす程度の交流しかなかった。「レストレンジ」たるウルペクラのことをどうお思いなのか……と危惧していたのに、拍子抜けだ。
たとえ女傑がウルペクラを気に入ろうが、事前に約束も取り付けず、ダフネを迎えに行ったのは不味かったのかもしれない。ダフネだって慌てていたし。そう思っていたのだが。
「迷惑をかけているのは、私のほうだもの」
小さな小さな声。ダフネは俯き、その様はしおれた花のようであった。いったい今朝の一幕のどこに、ダフネが迷惑をかけた場面があったというのか。
首を傾げ、あれこれと考えを巡らせるウルペクラは、次の一言に瞬いた。
「私が勝手に家を出て。でも、一人じゃキングズ・クロスにも行けない「お嬢様」なのだもの」
「……君の素敵な大伯母様に、誰か付けてもらえばよかったろうに」
「居候しておいて、図々しいと思わない? でも、大伯母様ってば笑顔で「付き人のあてはある」なんて言うから……それがあなたなんて……」
ダフネは膝の上で拳を握る。
「親戚のセドリックがよかっただろう。悪いな」
「そうじゃなくて」
鋭く言って、ダフネが顔を上げる。その眼は潤んでいた。
「余裕があると思って、ゆっくり朝食をたべていたらあなたが来て。心臓が止まりそうだったわよ。ちゃんと身支度してなかったもの私」
ウルペクラはダフネが寝間着だろうがなんだろうが、寝起きだろうがどうでもよいのだが、ダフネにとっては重要らしい。もっとも、ウルペクラはダフネの影しか見ていない。文字通り、脱兎のごとく彼女が逃げ出したので。
「仮にも同じ寮だし、風呂上がりの寝間着姿だって――」
今更だろう。気にすることはないと伝えようとした。が、ダフネは眼を光らせた。
「それは私が一年生の時でしょう」
まるで百年前の大昔のことです、と言わんばかりであった。たしかに、彼女にとっては大昔のことかもしれない。背も伸び、我も通すようになり、身体の線だって変わった……と、ウルペクラは眼を逸らす。大人の接吻ごときで後戻りできない云々と勝ち誇るお嬢様であるが。
「……君は立派な淑女だとも。大事に育てた娘に、僕のような者を近づけたくないご両親の気持ちは分かるよ」
なるべく、柔らかく言う。ダフネの顔が強ばった。
「聞こえてたの」
「一生懸命、ノグテイル狩りの話をして僕の気を逸らそうと頑張ってくれていたみたいだが」
キングズ・クロス、「裏」のホームに着いた時からおかしいと思っていたのだ。あのね、セドリックがルーファス・スクリムジョールのノグテイル狩りに招待されてね……とかなんとか。最初駆け落ち――じゃない、お忍びに興奮しているのかと思った。二人は髪と眼の色を変え、衣も少し格を落としたものを纏っていた。いかにも古典的恋愛小説――魔法騎士とご息女もの――らしかった。小説と違い、ウルペクラは悪役扱いを受けているのだけども。
悪い魔法使いは、ご息女がとある方向に眼を向けないことに気づいていた。早く行きましょうとばかりに手を引っ張るのにも気づいていた。
そこにご息女の両親がいて、悪い魔法使いを罵っているのも気づいていたのだ。
「だからといって気に病む必要はない。ご両親には好きに言わせておけばいい」
仲良しこよしとはいかない。グリーングラス夫妻はウルペクラのことを好いていないどころか憎んでいる。きっと早く死んでくれと思っている。そうすれば、娘が帰ってくると考えているのだろう。
ウルペクラとて、グリーングラス夫妻と握手するつもりはない。どうせ距離を縮めたところでろくなことにならないし、ダフネが悲しむだけである。
「ただ、」
言葉を切る。宙を見やり……唇を舐めた。
「僕に捨てられたとか、たぶらかされたとか言えば、後戻りはでき――」
「嫌よ」
ぎゅっと右手を握られた。強く、強く握っておきながら、ダフネは震えた。
「誰かのせいにはしないし、私の両親は思いやりがなさすぎる。あなたは片腕を切り落とされたのに……死にかけたのに……」
唇を噛み、ダフネは呻いた。
「ダフネ」
ウルペクラは囁き、左手を伸ばす。
指先で、紅い唇に触れた。
そっと。静かに、というように。
「いいんだ」
初めて、喪ったものに思いを馳せた。胤違いの妹によって落とされ、捧げられた右腕。
ただ、肉体を欠けさせた以上のものをウルペクラは奪われたのだ。
美しい、銀の右腕では。
触れあったとて、ぬくもりを感じられない。