冬の社交を無事にこなし、縁談の一つも舞い込まないまま学校に戻った。特段残念ではない。むしろ、弱小貴族からすり寄られるほうが面倒である。ウルペクラは十五にもなっていない。縁談――婚約など早い。上流、いわゆる純血と呼ばれる面々の男女比の問題もある。年が近い面々を数えてみれば、単純に男が余っている。
――純血といっても一枚岩ではなく
不忠者どもをウルペクラは好かない、と再確認した。真冬のホグワーツ、階段で。
ちらほらと生徒がいる中で、兎が一匹跳ねている。いいや、蛙のほうがいいだろうか。ネビル・ロングボトムは今時珍しいことに、蛙を持ち込んでいるらしい。ドラコ情報である。聞きたくもないのに、どうでもいい情報ばかり増えていく。
ドラコはこう言っていた。
あの愚図なロングボトムは、哀れにもまともなペットをくれる親がいないらしい……と。
眼を細める。階段の端を選び、上っていく。泣いている兎――どうやら足縛りをかけられているようだ――を追い抜きざまに、ローブのポケットに手を突っ込む。強力な闇の魔術すら、軽々と使えることでしょうとオリバンダーに言われた杖に手を触れる。イチィとセストラルのたてがみ。優雅にしなる。
死の呪文や服従の呪文に比べれば、ささやかな魔法を行使する。指一本動かす程度の手間。
声なき命は呪いを解除する。懸命に跳んでいた兎が、急に軛から解放され、均衡を崩す。痛そうな音がしたが、ウルペクラは振り返らない。
「……なんで?」
か細く、震える声。さあどうしようか。兎――ロングボトムとは数歩しか離れていない。まさかスリザリン生が解除したとは思わないだろうが……と頭を回転させる。ロングボトムと関わる気など、さらさらないのだ。押しつけ先が必要である、と思ったときちょうどいい男を見つけた。
眉をひそめ、階段を下りてくるセドリックを。やあ、さすが善人。一年生が困っていると見て、どうにかしてやろうとお思いらしい。
ウルペクラは歩を速める。もう一度魔法を行使する。軽い暗示をロングボトムにかけてやった。
足縛りを解いたのは、親切なハッフルパフ生だと。
「ウル」
セドリックとすれ違う。彼の肩を軽く叩き、無言のままその場を去った。
なにやら「大丈夫? 転んだみたいだけど」「あなたが呪いを解いてくれたんですね!」「えっ!」というやりとりが発生していたが、知ったことではない。セドリックだって呪いの解除くらいできるだろう。どうせウルペクラが解かなくとも、彼が解いていたのだ。結果は変わらない。
――本当に
不忠者どもは好かない。
ウルペクラは眉間に皺を立てたまま、図書館で用事を済ませ寮に戻った。
「ああ、ウル」
新しい呪文を使えるようになったんだ! と報告してくる頭の足りない従弟に、無言で全身金縛りをかけてやった。眼を見開いたまま倒れた愚か者に、ウルペクラは言い放った。
「一年生でこれくらいできるようになったら誉めてやろう」
内心で嘆息する。やっぱりお前かドラコ。ロングボトムの頭を少し覗いたからほぼ確定だったが……。
これだから。悪戯半分で呪いをかける相手にロングボトムを選ぶ愚よ。
死喰い人の子がどれほどの恨みを買っているか、想像できない思考力の欠如よ。
仕方があるまいと思っても、時折驟雨のような怒りに駆られる。
真綿にくるまれるように守られてきたドラコと、己の立場を自覚せざるを得なかったウルペクラ。
どちらも死喰い人の子だというのに。
凍り付いたような談話室を後にして、男子寮に。夕食をとる気にもならず、寝台に潜り込む。
全身が泥になったかのようだ。胸に手を当てれば、印が熱を帯びている。仄か、かすかにと言いたいところだが、はっきりと熱い。
闇の帝王はホグワーツにいる。どこかに潜んでいる。きっと傷つき弱っていたのだろうに、わざわざやってきた。
「我が君」がどうなったのか、闇の陣営でも意見が分かれたという。死んだか死んでいないか。ルシウスは「死んでいる」派である。が、ノット――セオドール・ノットの父、ルシウスの「友人」は楽観的な死亡説に懐疑的であった、と記憶している。ウルペクラは大人たちの集まりに呼ばれることがあったのだ。それはウルペクラが闇の印を刻まれた者であるから。ルシウスの配慮である。なるべく、大人たちの考えを知っておいたほうがよいと。印がある以上、ただの子どもではいられないのだと。
不忠者たちは生後数ヶ月――一年も経たないうちに、印を刻まれたウルペクラに同情的だった。彼らは闇の帝王に我が子を差し出すほど人でなしではないのである。
そんな不忠者どもに、火種を投げ込んだらどうなるかな、と想像する。印が濃くなっているだろうに、どいつもこいつも知らぬふりだ。ルシウスとてそうだ。彼は息子の身に危険が及ばなければそれでよしと考えるだろう。印が濃くなっている「気がする」だけと思いこむだろう。ウルペクラがいくら言っても無駄だ。
ウルペクラと同じ条件――長くホグワーツにいる――とすると、セブルス・スネイプが挙げられるが、彼に相談する気にはなれなかった。ルシウス曰くあれは「潜伏者」である。ダンブルドアの懐に潜り込んでいるのだ……とのことだ。間諜というやつである。印について明かすのは危うい。
ウルペクラの印について知っているのは、「我が君」と両親、家令夫妻と妖精たちを除けば、母の妹であるナルシッサ――シシー叔母、その夫のルシウス、ルシウスの「友人」数名らしい。スネイプはその中に含まれていないのだ。
――ホグワーツに何があるにしろ
闇の帝王の目的が何にしろ、ウルペクラにしたらたまらない。印の痛みだけでたくさんである。まかり間違って力を取り戻し、再び立ち上がってみろ。ウルペクラは闇の陣営に付かざるを得ない。両親が死喰い人なのだ。世間からみればウルペクラは悪である。しかも印を刻まれている。赤ん坊の頃、物心付かぬ時にと言ったところで無意味だ。
子どもに恨みをぶつけるのは間違っている、と言う人間なんて少数なのだと知っている。そんな正しさを持った人間は貴重だ。
ウルペクラは両親によって闇の帝王に差し出された。彼らにとってウルペクラは可愛い我が子ではなく、ただの駒だった。
――駒
ずるずると眠りの中に沈みながら、考える。闇の帝王。弱っているとされている。行方不明。生きているとしてどうなっているか。ルシウスたちは議論していた。死んでいるに違いない。だけれど生きていれば?
『現場で生きていたのはハリー・ポッターだけだと言う』
闇の帝王は姿を消していた。あのお方のことだ。赤ん坊をしとめるのに、死の呪文をお使いになったはず。だが……。
ハリー・ポッターに死の呪文は効かなかった。ただ傷跡だけを残した。いや、効かなかっただけではない。跳ね返したのではないか。ただ無効となっただけならば、あのお方は別の手段をとったはず。できなかった。
『手傷を負った、というだけなら』
その場を離脱すればよい。できないほどの傷を負った。印は今にも消えそうなほどに淡い……。
すらすらと語ったのはノットの父であった。彼は大変賢い男で、限られた情報を巧くつなぎ合わせる才能があった。
『死の呪文をお受けになった』
だから離脱もなにもない、とすれば。杖さえ握ることができれば、あのお方は我々に伝達するはず。杖を握るべき器が、失われているとすれば?
ありえない、とルシウスが叫んだ。ノット、お前の妄想は興味深い。けれどあまりに荒唐無稽だ。ウルペクラ、感心するんじゃない。この男は少し深遠な物の考え方をするのだ。何度も議論したろう、あのお方はお亡くなりになったのだ。
ノットの父が喉を鳴らした。ウルペクラを見下ろして、こう語りかけてきた。
『君の叔父上はこう言っているがね』
なあウルペクラ。少なくとも君の両親はあのお方の生存を信じている。諦めていない。なぜならば、印が消えていないから。儚くとも残っているから。
それに、とノットの父は鼻を鳴らした。
『赤ん坊が闇の帝王を退けた』
そのことが既に、荒唐無稽なのだよ。だが、赤ん坊が生き残り、我が君は敗れた。いかに奇妙だろうとそれが現実なのだ。
――ありえないことはない
その一、前提条件として闇の帝王は生きているとする。ノットの父の推測が正しければ、杖を握れる状態ではない。
その二、ホグワーツに潜んでいる。
その三、印が色づき、痛み始めたのは今学期から。もっと言えば九月一日から。
その四。今学期の変化点は何か。
ハリー・ポッターが入学したこと。次の闇の帝王かと噂される者。生き残った男の子。マグル育ち。魔法界から切り離されてきた。
直接の関係はない、としておく。ハリー・ポッターの入学は前々から決まっていたことだ。十一歳になり、入学しただけのこと。
「……他に」
なにか、なかったか。じりじりとした痛みが、ウルペクラの眠りを覚ます。思考を研ぎ澄ませていく。変化……といえば。
「クィレルか?」
昨年旅に出て、今年戻ってきた。マグル学を教えていたのに闇の魔術に対する防衛術教授になった。
セドリックが話していた。僕は今年マグル学をとるつもりで、クィレル先生は優秀だと聞いていたんだけど。寮の上級生が言うには、理路整然と話して、吃音もなかったんだって。
ちょっとした会話だ。図書館で、魔法薬学の課題をしようと思って本を探していたらばったりと会った。なんとなしに選択科目の話になった。セドリック・ディゴリーはウルペクラを「レストレンジ」だからといって色眼鏡で見ない男なのである。
ターバンがにんにく臭いのは参るよね、と彼は言い、ウルペクラは肩をすくめた。にんにくというよりもあれは……と言いかけて、別のことを口にした。
魔除けじゃないのか。旅行先でなにか嫌な目に遭ったとかそうでないとか。だって前までは臭くなかったんだろ? 上級生曰く。
先生もお気の毒だね、とセドリックは実に優等生らしい答えを返した。
「……いや、まさか」
いくらなんでも飛躍している。単なる偶然ではあるまいか。たまたま旅に出て、戻ってきたら少々おかしくなっていた。ターバンが臭いのはなにか理由があるんだろう。おどおどとして、ハロウィンの日も倒れて――。
瞼を上げる。闇を見透かす。
ハロウィンの日、トロール発見の一報をもたらしたのはクィレルだった。地下にトロールが、と叫んだのは彼だ。
ノットの父に答案を出したらどう言うだろうか。
アルバニアの森に潜んでいるという噂の、親愛なる我が君にクィレルが接触した。一年間の旅で魔が差したのか否かはわからないが、とにかく接触したとする。
杖を握るべき器が失われている。霊魂、ゴーストのようなものだとする。そこに器が現れる。ホグワーツの教師だという男が。
乗り移ればよい。そうすれば杖を握れる。力を振るえる。
ホグワーツに潜り込める。
目的は四階の廊下にある何か、あるいは誰か。トロールは陽動。闇の印が痛んだのはやはり、闇の帝王がいらっしゃるから。
いかに奇妙だろうと、それが現実だ。
ノットの父ならばそう言うことだろう。
答えらしきものにたどり着いたものの、ウルペクラの生活は変わらなかった。相変わらず闇の印はじりじりと痛み、気のせいだと思いたいが色が濃くなっているように思われた。
不眠気味で、途切れ途切れの眠りから覚めてみれば、手のひらに粘つく感触を覚えることしばしば。ぎょっとして確認しても、なにも手のひらについていない。ひょっとしてお美しい母上から聞かされたのだろう、血みどろの物語を夢の中で再生しているのではあるまいか、とウルペクラは戦慄した。まざまざと脳裏を過ぎる母の姿。軽やかに、鮮やかに、生き生きと敵を屠るその姿。幼児に己の武勇伝を刷り込んだのだろう。戯れに敵の首を斬った……。したたる血で、その手を濡らした。
首を捧げるその姿。灰の眼は星のように輝いていた。
心を鎮め、きっちりと閉じることでかろうじて睡眠を確保した。それでも、ウルペクラが機嫌のよい時など皆無に等しかった。
「下手を打って罰則を食らったんだからしょうがないだろう」
その日のウルペクラもご機嫌麗しくなかった。青ざめる従弟をじろりと睨む。時は流れ、試験一週間前のとある夜のことである。談話室で泣きついてきた従弟に、優しくしてやるほどウルペクラは暇でなかった。
「どうせたいした罰則じゃ――」
「禁断の森に行くらしい」
たかが夜間外出……というより、寮の外に出ただけのこと。減点は食らったが、グリフィンドールの損害に比べれば小さい。一年生にたいした罰は与えないだろう、とウルペクラは高を括っていた。だからこそ震えるドラコをあしらったわけなのだが。
「……正気か?」
「父上から圧力を――」
「間に合わないだろう」
唇を舐める。罰則開始まで約一時間。ルシウスに手紙を送っても手遅れ。むしろ……。
「ドラゴン移送の現場を押さえようとして、スクイブに捕まったお前に失望なさるだろうよ」
「……だって」
「森番の小屋に近づいて、写真でも撮ってスネイプに言いつければよかっただろう?」
「昔買っていただいたカメラは子どもの玩具で、ぼけるんだよ。家にあるし」
役に立たない玩具。
「だいたいなんでお前が実行役なんだよ。おともだちがいるだろう」
「クラッブとゴイルに任せるのは不安で、単独行動のほうがマシだった」
こいつ本当にルシウスの息子か? たとえば頭の回転が速いノットとか、目端が利くザビニになんらかの交渉をして引き入れればよかっただろうに。
――ルシウスも
闇の帝王の配下となり、あれこれと実行していたのだろうが。使用人やら妖精やら使って、その成果を献上すればよかったものを。これはウルペクラの両親も、他の死喰い人も似たようなものだ。文字通り闇の帝王の手足となって働いたわけだ。それだけ恐ろしかったのか、絶対にしくじるわけにはいかないので自ら動いたのか、動けることが誉れで喜びだったのか。理由は様々だろう。両親は誉れで喜び……だったのだろうが。純血貴族がなんたるざまか。
額を手で押さえる。談話室の片隅に、ウルペクラのため息が落ちた。
「逃げられないんだから、腹を括って行ってこい」
他にはハリー・ポッターとグレンジャーとロングボトム? 不安しかないな。
「……なにをさせられるかは知らないが、喧嘩はしないように」
懇々と言い聞かせた。ドラコはふくれっ面になった。お前は子どもか。そうだ子どもなのだ。温室育ちの御曹司である。
嫌な予感しかしない。
――当たってほしくなかったな
嫌な予感。夜の森に潜んだウルペクラは、ドラコが悲鳴を上げて逃げていくのを見送った。逃げ足だけは速い。後を追いかけたかったが、そうするわけにはいかなかった。
ハリー・ポッターが取り残され、呻いている。額を押さえ、うずくまっているのだ。
――ウルペクラと
似たような痛みを、感じているのだろうか。
森の闇の中、うずくまる。息を殺す。極限まで、気配を消す。心を閉じる。荒波を鎮める。波紋ひとつ、残さぬように。
気づかれてはならない。
背の高い、ローブの影に。
仄かな銀色を唇から滴らせ、手のひらを銀に染めた「それ」に。
倒れる一角獣から血を飲んだ、呪われた者に。
気づかれてはならないのだと、本能が叫んでいる。
あれはおぞましい怪物だ。
身を縮める。一秒、二秒……息の詰まるような、永遠にも似た時間が過ぎる。粘るような停滞を、輝ける者が打ち破った。森の賢者、月毛のケンタウルスが影を追い払う。ハリー・ポッターをその背に乗せた。
灼熱の痛みが引いていく。ふっと息を吐き、そろそろとその場を後にしようとする。そのとき、ケンタウルスの青い青い眼が、闇を、樹々を、草むらを見透かした。
生き残った男の子を乗せ、軽やかに駆けながら、彼の完璧な形の唇が、動く。
お前も早くお行きなさい。危機は遠ざかれど、まだ去ってはいないのだから。
声なき警告を放ち、馬蹄音がウルペクラから離れていく。ケンタウルスの視力と直観はどうなっているのだ、と震えながらウルペクラもその場を去った。
彼らは星を読む者で、ヒトよりもよほど優れているのだと気づいたのは、寮に戻ってから。平静を装いながら紅茶を淹れ、青ざめたドラコを出迎えた。まさか森に行っていたとは言えず「罰則が終わってなにより」とだけ口にした。
ほんとに怖かったんだぞ、一角獣が死んでいて、変な影が……と吠える従弟を、強制的に眠らせ、記憶の改竄も施した。
一角獣が死んでいて、怖くなって逃げ出した。影なんていなかった、と。
余計なことは知らないに限る。闇の帝王はハリー・ポッターにご執心で、ドラコのことなんて眼中にないにしろ。
不忠者の息子が、臆病者の息子が、闇の帝王のお気に召すわけがない。森で背の高い誰かが、一角獣の血を飲んでいたなんて、ドラコが「内緒」の話をしてみろ。もしかして、噂になるかもしれない。おしゃべりな口め、と闇の帝王が――クィレルが口封じする可能性がなくもないのだ。
不忠者の罪は重いのだから。闇の帝王は報いを受けさせたくて仕方がないだろう。
みすみす殺させるわけにはいかない。どうせシシー叔母から責められるのは、ウルペクラなのだ。
「……あなたがたが甘やかすからこうなるんだ」
それでも、闇の印を子どもに刻ませる親よりは、マシかもしれない。
それに、いくら腹立たしいとはいえ、ウルペクラの近しい血縁はマルフォイ一家。特に、シシー叔母の悲しげな顔は見たくないものだ。
理不尽に叱責されることが多いとはいえ、ウルペクラがスリザリンに組分けされて喜び、成績優秀だと聞けば「誇らしいことです。それでこそブラック家の子」とにっこりしてくれる叔母を、嫌い切れないのだ。
悶々と悩みながら――その実、ドラコを注意深く観察しながら、ウルペクラは長い長い試験を終えた。ほっと安堵し、寝台に潜り込んだ。ドラコの記憶の改竄は巧くいった。クィレルもとい闇の帝王とダンブルドアの攻防の行く末はわからないが……もう勝手にやってくれ。
闇の帝王が憑依しているとすれば、クィレルの肉体は保たないだろう。そろそろ崩壊するのではないか。
皆、にんにく臭さに誤魔化されているが、クィレルから漂っているのは甘い腐臭だ。
――おそらく、勝負はダンブルドアの勝ちであろう
なにを巡る争いかは知らないが。一角獣の血を飲んで力を付けなければならないほど、闇の帝王は弱っていた。仮に器がウルペクラの麗しき母ならば風向きが変わっていただろうが。
「……手遅れだ」
クィレルはマグル学の教授であった。座学が中心で、腕に覚えがあるとはいえない。闇の魔術に対する防衛術も、実践などなかった。
トロールを入れても、四階の廊下を突破できなかった。闇の帝王は人選を誤ったのだ。他に選択肢がなかったことが、彼の不幸であろう。
とろとろと眠りに沈み――痛みに貫かれ、ウルペクラは絶叫した。
「すまないが」
校長室はどこかな?
柔らかな、震える声にウルペクラは振り向いた。なあウル、医務室に行ったほうがいいだとか、レストレンジ様、ご自愛くださいだとかいう戯言ならば無視してやるつもりだった。
昨夜――というより深夜、胸を押さえてうずくまるウルペクラに、同室の者たちが口々に言ったのだ。たいしたことない、夢見が悪かっただけだ。退学になる悪夢を見たもので、とどうにか静かにさせたものだ。
朝になってもちらちらと見てくるから鬱陶しいものだった。ダンブルドアによる「賢者の石を狙う者が入り込んでいた」「ヴォルデモートの魔手が伸びていたのだ」「ハリー・ポッターがそれを退けた」「クィレル先生はお亡くなりになった」という「公然の秘密」に驚く余裕もなかった。
授業も試験も終わり、学校中がハリー・ポッターについての噂をしている中――彼は医務室で療養中だ――ウルペクラはあてどなく歩いていた。無性に苛立ち、誰かに八つ当たりする前に、外に出ようかと思ったら玄関ホールで声をかけられたのだ。
「――僕、でしょうか」
「他に誰がいるかね?」
声をかけてきた魔法使いは、淡い色の眼を細めた。髪は白く、眼は淡く、肌は乾いていて、小さく、痩せている。纏うローブも白。首から下げているのは金属盤だ。火蜥蜴、不死鳥、獅子、竜、蛇。
どこかで読んだ覚えがある。最高位の錬金術師の証。数百年、その位が――最高位の証が――譲られたことはない。規格外。一流と呼ばれる錬金術師といえど、金属盤に息づくのは四種の生き物のみ。不死鳥だけは欠けている。そのようにするのが慣例、と言われる。五種は神の領域だから。
なぜならば、賢者の石を創り出した魔法使いに、敬意と畏怖を抱いているから。
最高の錬金術師、ニコラス・フラメルこそ、最も高みに至った者である。
瞬く。彼の淡い色の眼を見る。おとぎ話の存在が実在していたのだ。驚きもする。しかも自分に案内を頼んでいる?
「――こちらに」
そっと囁く。息を吐き、とっさに心を閉じた。錬金術師の眼はすべてを見透かすようであったから。驚きすぎて、神経過敏になっているのだろうか。
錬金術師が一歩踏み出す。その足取りは見た目に反してしっかりしていたが、どうにも不安であった。彼に近づき、断って腕を取る。細い細い腕に、ますます恐怖を覚えた。まかり間違って伝説の錬金術師の腕を折ったらどうしようか。ウルペクラは老人に慣れていないのだ。
なるべくゆっくり歩く。なんでこういう時に、老若男女に好かれる男がいないのだ。セドリックはどこだ。あいつが適任だろう。僕じゃなく。
大いに焦りながらも、ウルペクラは意地でも案内を放り出す気になれなかった。「私はホグワーツの出身で。いやあ、訪ねるのは久々だ」「おや? ではどうやって賢者の石を預けたのかと思っているね」「元々七一三金庫に預けていて、必要なときにグリンゴッツに行って、せっせと水をつくっていたのだよ。大体数十年単位かな」「ああ、うん。君の閉心術は見事だ。相手が悪かったね」等々の会話――いや、錬金術師とのおしゃべりに付き合わされた。伝説の魔法使いは、易々とウスペクラの心を撫でたようである。
やがて校長室――怪物像の前に到着した。
「ありがとう、こぎつねくん」
にこにこしながら礼を言われる。ウルペクラは眼を眇め、錬金術師を見下ろした。名前くらいわかっているくせに。
「ウルペクラくん」
ウルペクラ・レストレンジ。歌うように錬金術師が口にする。枯れ枝のような手を差し出してくる。
「――折れないから。大丈夫だ」
私が命の水を飲んだのは、こんな爺さんになってからだった。それだけのことだよ。
そろそろと、手を伸ばした。錬金術師の手は、仄かにあたたかい。片手だけの握手のはずが、両手で包み込まれてしまった。
「……レストレンジか」
君に幸あれ。
静かに静かに、彼は呟いた。
「長生きするんだよ」
少年を見送って――とあるレストレンジの娘とは、あまり似ていない――錬金術師は息を吐いた。それもそうだ。少年は英国のレストレンジで、あの娘は大陸のレストレンジなのだ。血の繋がりは薄いだろう。
大陸のレストレンジ、あの娘の家筋は絶えた。散らばる他のレストレンジも、ひとつ、ふたつ、と息絶えている。余波でもあり、時代の流れでもある。あの娘の父親がしでかしたことが――他家から女を奪い取ったことが――ひそやかな噂として流れた。レストレンジは避けられた。名誉は地に堕ちた。それは、元凶たる「レストレンジ」が絶えても収まらなかった。
もはや大陸のレストレンジ――散らばり、分かれた家筋は、片手の指で足りるほどしか残っていないだろう。
挙げ句に英国のレストレンジは悪名高いときた。かわいそうなことである。
「……いい子なのに」
かわいそうで、いい子だ。あの娘と同じように。親のせいで辛い目に遭っている。
フラメル、と呼ばれ振り向いた。年若い旧友が――老いた彼が怪物像の傍らにいた。
「到着を知らせてくれればよかったものを」
よくここまで来れましたね、と言う友人を見上げた。
「不老不死なのでな」
記憶力も健在よ、と笑ってみせる。螺旋階段を上り、校長室へ。
机に鎮座した賢者の石を見やる。
「……もう長い長い余生は終わらせる」
壊してしまおう、と囁いた。
単純明快な答えだ。厄介なものはこの世から消してしまえばいい。大悪の手に渡るなど、言語道断である。
「あれは退いた」
性懲りもなくまた狙うとは思えない。その証拠に。
「儂の手の者の、印は淡いまま」
今にも消えそうなほどに。
錬金術師は鼻を鳴らす。
「賢明なダンブルドア。大魔法使い。私の友人よ」
私は賢者の石をつくったことを、後悔している。こんなもの、ないほうがいいのだ。
「君とおしゃべりするくらいの、命の水の備蓄はある」
赤い赤い、美しい石を睨みつける。己の力の証明。伝説の石を。
杖を振る。友人が眼を見開いた。ああ、石が破壊されてしまう――と息を飲み、脱力する。
「フラメル」
「なにかな」
「儂をからかって遊んでおられる?」
錬金術師は口笛を吹いた。ローブから小瓶を取り出す。賢者の石から染み出す、命の水を受け止めて、蓋を閉じた。
ほい、と友人に渡す。ん? と彼が瞬くのと同時に、賢者の石を木っ端みじんにした。
「せめていちにの、さんとか!」
言ってくれんかの! 友人が抗議する。錬金術師は肩をすくめた。
「こういうことはさっさとしたほうがいいのだよ」
ああ、その命の水はしばらくとっておきなさい。
「何かを視ましたね?」
「そのうち分かるよ」
いつか、どこかで。
これ以上は言えないのだ。錬金術師の眼は霞み、未来の霧をあまり見通せなくなった。過ぎった断片はあまりに小さかった。友人の手に託したほうがいいとしかわからなかった。
――すべてを見通せたのならば
あの娘が死ぬことはなかった。
――すべてを識れたなら
グリンデルバルドは、ダンブルドアに敗北しなかった。
錬金術師とて万能ではない。長い時を生きすぎた、ただの人間。
「賢者の石などつくらなくてよかったのかもしれないな」
不老不死。尽きることのない富。己の力を証すためのもの。幸福のひとつの形。
「……誰かの幸いを願うことも」
幸せの形であろう。
呟いて、錬金術師は眼を瞑った。
案内を頼んだ少年。戸惑って、緊張していたあの子。そうっと彼の腕を取った。
心に浮かんでいた痛みの記憶。闇の印。心臓の真上に刻まれた証。
あの少年は、呪われている。怪物の呪いである。
友人に言う必要はあるまい。まだ早い。彼は疑り深い。死喰い人の子を信用すまい。選ぶのは友人であり少年だ。未来をつくるのは今を生きる者たちだ。仮に最善がわかったとて、正解を書いて渡してやっても意味はない。
だから彼は、こぎつねの幸せを願い。
物語から退場し。
旅を終える。
賢者の石が破壊されたその日の夜。
ウルペクラは己に刻まれた、闇の印に手を触れた。灼熱の痛みはもはやない。じりじりとした痛みもない。だが、仄かに熱を帯びている。
どくり、と脈打つ心臓の真上で。
色を淡くすることもなく。濃い灰色で身を飾り、蛇の舌持つ髑髏は嗤っている。
「……我が君は」
諦めるおつもりはないようだ。
賢者の石を奪い取れなかった。ただそれだけ。
――なにも
なにひとつとして終わっていない。
深く息を吐いたそのとき、深い深い記憶の海、光射さぬ奥底から――
――誰かの声が泡沫のように浮かび上がった。
優しげな声。しかし、芯から震えるような、怪物の声。
名誉と思え。
一章終了。